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2015年5月

学校が抱える新たな「不登校」問題

 次の「事例」は,坂井博通著『大学教授コテンパン・ジョーク集』(中公新書ラクレ)に紹介されているものです。

>ある早朝のこと,母親が息子を起こすために部屋に入って言った。

>「起きなさい。学校へ行く時間ですよ!」

>「なんで,お母さん。学校なんか行きたくないよ」

>「なぜ行きたくないの?理由を言いなさい!」

>「生徒たちは僕のことを嫌ってるし,それに先生たちまで僕のことを嫌ってるんだよ」

>「そんなの理由になってないわよ。さあ,早く起きて支度しなさい」

>「それじゃあ,僕が学校に行かなきゃならない理由を言ってよ」

>「まず,あなたは47歳でしょう。それに,校長先生でしょう!」

 47歳の校長はまだまだ少数派だとしても,実際に管理職の「登校しぶり」はどのくらいの割合で出現しているのでしょう。

 教員の場合はどうでしょう。

 月曜日だけ休んでしまうような教員でも,年休がたくさんとれるなら,クビになることはありません。
 
 また,うつ病などの診断結果が出る場合は,「不登校」とは呼べないかもしれませんから,

 「病休者」も含めての割合はどんなものでしょう。

 
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佐藤学に見えていないもの

 ミニスカ公然わいせつの男性小学校教師は,教職歴何年なのだろう。

 佐藤学は著書『専門家としての教師を育てる』の「プロローグ」の中で,次のようなことを書いている。

>教師の危機に関しても,マスメディアは実態を取り違えてきた。この一○年間をふりかえると,教師に関するメディアの報道は「不適格教師」と「民間校長」の二つに集中していた。確かに「不適格教師」の存在は由々しきことだが,「不祥事」で処分を受け「不適格教師」として退職した教師は毎年一○○名程度であり,約一○○万人の教師の一万人に一人,○.○一%である。その例外中の例外の現象がテレビや新聞や週刊誌の格好のネタにされて,教師に対する評価と統制の根拠となり,教員免許更新制が導入された。

 大学の先生や教育委員会の指導主事の中に,「私はこれだけたくさんの学校を訪問し,授業を見てきた」などと「自慢」する人間がときどきいる(現場感覚を持っている人は,反発しか生まないことがわかるので,決して口にしない言葉である)。

 しかし,絶対に見えていなかったものがあるはずだ。

 1万人の授業を見ても,99万人の授業は見ていない。

 「参観者のいない授業」は一度も見たことがないはずである。

 見ていないものの中に,問題のほとんどは隠されているという自覚をもつべきである。

 また,「不適格教師」になった人間は「割合では」わずかだとしても,「たった一○○人」と捉えるような感覚を現場の人間としては理解できない。

 「不適格教師」は退職するまで,のべ何人の児童生徒に対して,のべ何百時間の授業をしてきたのか。

 退職するきっかけの事件は一瞬でも,たった一回だとしても,

 それまでにいったいどれだけの「問題」があったかを,教師教育の研究者で明らかにしようとした人間はどのくらいいるのだろうか。

 たった一人の教師でも,毎年担任をつとめれば,30年で1000人ほどの子どもとかかわる。

 中学校教師なら,教科にもよるがこの何倍かになる。

 たった一○○人などと切り捨てるわけにはいかない。

 分かっていないわけはないが,「不適格教師」として退職させるには,犯罪行為など,よほどのことがないと難しい。

 「授業ができない」「学級を成立させることができない」程度の教師は「不適格教師」でも「指導力不足教師」でもなく,

 「悩める教師」として現場に居続けられる仕組みである。

 もちろんメディアは恣意的に公開するニュースを選別している。

 「教員の国家資格化」が検討されている現在では,

 教員による「わいせつ行為」などは(今まで報道されなかったレベルの事件も含めて)報道されやすくなるだろう。

 心を痛めるのは,その教員に現在教わっている子どもたちだけではない。

 担任教師の名前を覚えているすべての卒業生たちが,

 「こんな人だったのか」「こんな人になってしまったのか」とがっかりしたり,心を痛めたりしているのである。

 「もっといい先生に教えてもらっていたら・・・」「もっといい先生に出会えていたら・・・」

 と過去をふり返る人が増えるかもしれない。

 もちろん,「そもそも学校の先生に何かを期待する時代ではない」と言ってしまえばそれまでだが。

 「不適格教師」は「例外中の例外」という言葉は,

 おそらく佐藤学の「顧客」となる現職の教師に向けて語られているものだろう。

 私たち国民に向けての言葉ではないと解釈したい。

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日本に150年ぶりの遷都はあり得るか?

 870㎞という深いところを震源とした珍しい地震=深発地震が発生し,日本列島全体が揺れた。

 特に,関東地方の震度が大きかった。

 これは,関東地方の地盤が他と比べて軟らかいことの証明になったようだ。

 もっと沿岸に近いところで発生する地震では,関東地方の中でも震度が大きい場所が見つかる。

 「関東地方全体の地盤が軟らかい」ことに気づかされたことは,新鮮な驚きであった。

 日本は,最も地盤が軟らかい地域に,最も人口が集中している国である,ということである。

 台風や集中豪雨などによって,山崩れや土石流が発生し,住宅が押しつぶされる様子を見ると,

 「ここではないほかの場所に住宅があったら」とつい思ってしまうが,

 地震の場合は,いずれ「関東地方でなければ」と思ってしまう日が来るのだろうか。

 首都機能の移転は,地震災害対策としても,重要な国家政策の一つだろう。

 あるいは,文化的外交の拠点を東京から京都に「戻す」・・・・

 つまり皇居の移転によって,皇室の安全を守ることを主張する人も増えてくるかもしれない。

 もちろん地震災害が京都では起こらないというわけではない。

 しかし今回の地震による揺れの大きさの状況を見ると,関東地方はずば抜けて危ない場所である。

 一方で,この地震によって楽観的な見方も生まれている可能性がある。

 「震度5といっても,この程度なら・・・・」

 油断

 警戒

 楽観

 悲観

 不安
 
 用心
 
 ・・・

 気象にしろ,地震にしろ,

 今生きている一人の人間が「経験したことがない」程度のことは,

 地球の歴史から見れば全く「珍しい現象」とは言えないことだけは自覚しておくべきだろう。

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「正しいことをしている」という信念は危ういもの

 私も何度かボランティア活動に参加してきたが,自分で数十人,数百人を募ってボランティア活動を企画・運営したことはない。

 担当している部活動の生徒に校舎の周りの雪かきを手伝わせたのは,「指導」というより「命令」である。

 生徒は楽しそうに取り組んでいたが。

 教師である私は,基本的に「正しいと思うこと」に舵をきって判断・行動し,指導する。

 しかし,「自分が正しい」とは思わないように心がけている。

 「正しいと思ったことが本当に正しいかどうか」の判断は,自分ではできない。

 周囲の反応を見て,予想するくらいのことである。


 教師の多くは,「自信満々」に自説を口にする。

 子どもを前にする場合はもちろん,同僚や研修しにきた教師に対しても。

 その「自信」によって,安心して話を聞くことができている,

 というメリットは大切だろうが,私は多くの場合,「懐疑的」な立場をくずさない。

 記事によってはそのように受け止められることがあるかもしれないが,

 「自信満々」な人間には必ず落とし穴がある。

 死角ができる。

 盲点がある。

 
 できたらその盲点を発見して,視野に入っていながらも見えていないものを明らかにしてあげることで,話を聞かせていただいた御礼としたい。

 
 「評価は難しい」「評価の研究は底なし沼のようなもの」という一般常識があるから,

 そこに挑戦しようとしている人がいるのはよい。

 しかし,「確実な評価ができるものだけでよい」なんてことを言ってしまうと,

 今までの教師などは必要なくなってしまう。

 
 観点別学習状況の評価への批判を堂々としない大学教授を,まずは「人文系規模縮小」の対象にしてもらいたい。

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子どものアクティブ・ラーニングに対応した教員のアクティブ・リサーチで学習の質を変える

 一つ前の記事の結びで,

>生徒のアクティブ・ラーニングと同時並行で,

>教師によるアクティブ・リサーチ及びディスクロージャーを行うことで,

>「もれのない」学力向上とその把握が可能になるでしょう。

 と書いた。


 観点別学習状況の評価が入試の合否判定に使われているのに,その信頼性を保障するものがない教師たちにとって,アクティブラーニングを行う動機は何になるのか。

 それは「少しでも適正な評価を行うこと」にある。

 「適正な評価」を行うためには,生徒による「学習活動とその結果」が必要である。

 
 以前に紹介したある中学校の授業では,生徒たちの「学習活動とその結果」がほぼ同じ内容のものになった。

 「最も重要な部分を(生徒を含めて教師も)スルーする」という重大な結果を招いた原因にふれたが,

 こんな授業では「適正な評価」は絶対にできない。


 「適正な評価」ができているかどうかは,

 教師がどれくらい苦しんでいるかで判断できよう。

 
 「これで本当にこの生徒は理解していると言えるのだろうか」

 「思考過程は誤っているが,単なる知識としては定着しているようだ。だが,理解しているとは言えない。」

 教師がアクティブ・リサーチをかけることによって,

 子どもたちの本当の「学力」の把握に少しだけでも近づくことができる。

 
 役立つかもしれないのが,リサーチ結果を公開することである。

 
 それに対する反応,コメント,批判等が,学習を重層的なものにしていく。

 
 もしこのような教育に転換するとしたら,1回の学習ごとに,

 授業の準備に6時間,実施に1時間(50分),評価に5時間程度かかることになるだろう。

 
 8時から15時までのうち,実施のために5時間とられている状況では,なかなか苦しい。


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板書は写させずに,ノートには自分の考えを書かせる

 「板書を写すことは時間の無駄である」ということを証明できる人はどのくらいいるでしょうか。

 聞いたり見たりしたことで記憶に残る割合はせいぜい10%と言われています。

 「書く」ことによってもっと記憶に残せるはずだ,という考え方もあるでしょうが,

 6時間授業が終わったときに,自分がノートに何を書いたかをしっかり思い出せる人はどのくらいいるでしょう。

 それが,1週間後ならどうでしょう。ノートはどんどん増えていっています。

 そんなにたくさん記憶できるのでしょうか。

 「話し合ったとき」に,記憶に残る割合は50%になるといいます。

 それでも「約半分」の定着率です。

 「自分が何をどれだけ話したか」によって,割合はかなり上下するでしょう。

 「体験したとき」が75%,「教えたとき」が90%。

 教師が「教えたこと」をそれなりの割合で覚えている,ということは実感がわくことでしょうね。

 ただ,研修会で「教えてもらったこと」を,そのままだれかに90%以上「教える」ことは可能でしょうか。

 

 中学校でも高校でも,「板書をノートに写す」ことに,それなりに生徒は労力を使っていることでしょう。

 私の場合は,特に生徒が黒板に記入しに来て,そこが議論の対象になっていく場合に行うことがあるのが,

 「板書はあとで写真でとって,プリントして配る」ので,

 「ノートの下半分に,自分の意見を書く」ことを指示します。

 
 40人いて,5時間授業があると,200人分のノートを点検するのに4時間くらいかかりますが,

 それによって「新たな発見」が起こることが多いのです。

 この生徒は,こんなことも考えていたのか。

 こんな視点があったのか。

 などなど。

 
 優れた考え方は,また別にプリントをして配ります。

 
 生徒のアクティブ・ラーニングと同時並行で,

 教師によるアクティブ・リサーチ及びディスクロージャーを行うことで,

 「もれのない」学力向上とその把握が可能になるでしょう。


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なぜ授業中に生徒が寝てしまうのか?

 教育実習生だけとは限らないでしょうが,実習期間によく話題になります。
 
 どうして寝てしまうのだろう?

 授業がわからないから?

 説明ばかりだから?

 わかりきったことだけ話しているから?

 つまらないから?

 なかなか「本題」にたどりつけないことが多いのですが,

 これって,自分がかつてそうだったことをふり返っているだけにすぎないのでしょう。

 寝ていて支障があったという経験をどのくらいしてきたのでしょうか。

 もしたいした影響がないのであれば,

 「生徒が寝てしまう授業」の存在自体に支障がないことになってしまいます。

 そして,実際に多くの学生は,支障がなかったことを知っています。

 授業中に寝ていることで,何か重大なものを失ったことに気づけないのが不思議です。

 何を失ったのでしょうか。

 小学校の先生にとっては,なかなかわかりにくいことかもしれませんが,

 職員会議や研修で講師の話を聞いているときの自分を思い浮かべてみてください。

 高校生や大学生のころの自分をふり返ってみてください。

 寝ていて重大な支障になったことはありますか?

 何か重大なものを失った実感はありますか?

 スイッチをオフにしているのは,先生の「どのような指導方針」なのでしょうか。

 
  
 一つだけ付け加えておきます。

 グループでいろいろ話し合っている場面を見て,

 「寝ている子どもが多いな」と思う人はほとんどいないでしょう。

 でも私はよく,「眠っている子どもが多いな」と思います。


 『学び合い』は,能力を眠らせておくシステムだということに,

 気づいている人がどのくらいいるでしょう。


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部活動における柔道の指導指針が絶対に必要~中1女子の死を無駄にせぬよう

 言葉を失うほどの重大事故が,再び起こった。

 関係者はどれだけ心を痛めているだろう。

 このような事故が起こることを,だれがどの程度,予想していたことだろう。

 私は武道の指導経験はないが,中学校1年生はまだ「見学」に毛が生えた程度のことしかできないのが中学校の部活動だろうという「常識」をもっている。

 私のそんな「常識」は,通用しなかったのか。

 怪我のリスク,いや,死のリスクを入学して2ヶ月もたっていない子どもに負わせる必要がどこにあるのか。

 中学生に,「人を死なせてしまう」リスクを負わせることの意味がわかっていたのだろうか。

 柔道の指導にあたっていたのは,教員ではないようだ。

 ボランティアの方かどうかはわからないが,あまりにも大きな責任を背負うことになってしまった。

 武道の必修化にともなって,授業における怪我や死のリスクも高まっている。

 命を奪わない教育の指針を1日も早くつくらなければならない。

 生徒を死なせた校長の責任も,教育委員会の責任も,果てしなく重い。

 全力で取り組むべき課題が何かを,校長自ら語るべきである。

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理想の教師像を描ききれない教職課程の問題

 学力面でのコンピテンシーが話題になる以前より,このブログでは教師のコンピテンシーに関する考えを述べてきました。

 多くは教員採用試験のときに,必ず面接で聞かれる

>教師になった動機

>理想の教師像とは何か

 に対する「正解」を求めてのご訪問かもしれません。

 ご期待に添う記事はあるのでしょうか。

 このブログの記事も3500を超えているために,いつ何を書いたかをすべて記憶できているわけではなく,訪問者の検索語を調べることで,こんなことも書いていたのだなとふり返らせてもらうきっかけになっています。

 次の記事は,2012年のものですが,書いている内容は30年前でも,おそらくは30年後になっても,変わっていないのが教育現場というところかもしれません。

 若い教師を育てるのは,教師集団であり,子どもであり,保護者であります。

 どうしたら一人前の教師になれるか。

 一人前の教師になるための障害になっているものは何か。

 その答にあたる記事を引用しておきます。

***************************

 どうしたら「一人前」の教師になれるか?
 
 優秀な教師の養成は,国家的な課題である。

 しかし,日本は横並び意識が非常に強い国で,一般社会も学校も,「優秀な教師を育てる」という意識は皆無に等しかった。

 だから,「優秀な教師は昇給を早める」なんて言われたら,優秀な教師も含めて反発するようになる。

 教師たちはお互いの顔色を気にしながら,できるだけ「優秀」にならないように,

 人から見えないところで「全力」を尽くすようになった。

 部活動(だけ)に命をかけているというか,他より明らかに「本気さ」が際立っている教員がいる。

 日本は,「全力は尽くしている」が,「実力のない人」にとても甘いというか,やさしい国である。

 自分より少しでも「優秀なにおい」がする教員に対して,露骨に「嫌な目」をしたり,投げやりな言動をする教員がいる。

 教師教育の「高度化」を大学院に担わせようとする人間には,こういう小中学校現場の教員の「習性」が理解できていない。

 だからほとんど「逆効果」に近い現状が生まれている。

 自分を「優秀」だと勘違いしている教師でも,自校ではおとなしくしている。

 しかし,一歩,学校から足を踏み出すと,急に「元気」になる。

 「よそもの」になると,学校内のヘンな「習性」が消える。

 これが際立っているのが「小学校」である。

 小学校教師は,「すべて」を求められるために,どうしたって学校内では「ボロ」がでる。

 しかし「外」に出て,自分の得意なこと,成功したことだけを語っているうちは,そんな「ボロ」には気づかれないですむ。

 お互いにその「ボロ」を知らずにすむ間柄では,非常にスムーズにコミュニケーションが進む。

 「優秀」になりたい小学校教師が「外に出たがる」理由がここにある。

 そして最後に行きつく先は,大学の教員。行き止まりである。

 どうしたら一人前の教師になれるか?

 そのためには,「優秀な教師をつくろう」という,「優秀でない自覚がある経験豊富な教師たち」の強い信念が必要なのである。

 「一人前の教師になったな」

 という声をかけてくれる教師集団,その瞬間の言葉に本当の意味を感じられる教師集団が,真に「一人前の教師」をつくるのである。

 「優秀な教師」になる道は,容易ではない。

 特に,安易に「優秀な教師」の真似をしようとする人間,させようとする人間が,そういう教師が生まれる道を閉ざしてしまっている。

 小学校では特に,「こういう方法でうまくいく」ということが語りやすい。

 実際に,「こういう方法でうまくいった」という実践もあるだろう。

 しかし,そこには教師が「一人前」になれない重大な問題が隠れている。

 ここを教師教育の場面でしっかり理解させることができれば,大学や大学院は使命を果たしたことになる。

 私が教えた大学院生は,最低の指導案で最低の授業をしたおかげで,最高の教訓を得た。

 実践紹介をしてくれる人間=餌をくれる人間には,本当に近づきたくなるだろう。

 しかし,それが実力のつかない最大の原因なのである。

**********************

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教員の意識改革~「伝える」ではなく,「伝わる」生徒指導にするために

 子どもがうんざりする教師の「お説教」・・・・お坊さんには失礼ながら,生徒指導のことをこう呼んで忌み嫌う経験は,教員でも子ども時代にしているのでは・・・・を例に,

 教師はどうしたら子どもに「言いたいこと」「伝えたいこと」を「伝えること」ができるのか,を考えます。

 「お説教」の場合は,子どもはすでに教師の「言いたいこと」「伝えること」がわかっていることが多い。

 子どもからしてみれば,そのわかっていることができないことを責めるのが「お説教」であって,

 教師から「伝わってくる」のは,「~することが悪い」という内容ではなく,

 「お前が悪い」「お前が嫌いだ」という感情にすぎないことが多い。

 では,「挨拶をすることは大切なことだ」という内容を「伝える」には,どうしたらよいのか。

 「挨拶をすることは大切だ」と直接言葉にしてみたところで,

 「挨拶の大切さ」は伝わらない。

 教師は,何かの大切さを伝えようとするとき,

 子どもには「押しつけがましさ」「ダメだ子どもたちだ」という感情的なものしか伝わっていかないことが多いようです。

 どうしたらよいのか。

 『研究を深める5つの問い』(宮野公樹著)では,伝達やプレゼンの技術の極意として,

 「伝わってしまう」ような伝達をめざすべき,と指摘しています。

>相手を操作するのではなく相手の立場に立ち,共感による伝達をめざすこと

 という伝達の大前提を理解し,たとえば

 挨拶では「相手の望み」を出発点として指導方法を考える。

 子どもが「先生に認めてもらいたい」という「望み」をもっているのならば,

 「挨拶をする」場面で,教師は「子どもを認める」発言をする。

 その繰り返しによって,廊下ではただの「挨拶」がかわされるだけの日常が自然に生まれてくるわけです。

 ただの「挨拶」が,実は「お互いを認め合っている」というサインの交換になっていることに,子どもが気づく。

 こうして,「子どもの立場」になってみて,指導方法を改善していくことは,

 大げさに言えば教員の意識改革につながります。

 子どもの立場になってみて,「なぜ先生方はお互いに挨拶をしないの?」という疑問が浮かぶことが想像できれば,教員がお互いに子どもの前で自然に挨拶ができ,ときには簡単な子どもの情報交換をしたり,お互いの部の成績を確かめ合ったりするようになるでしょう。

 もちろん職員室でやってもよいのですが,「子どもの前で」教師どうしが仲良く言葉を交わし合うというのは,絶大な影響力がある,というのが私自身が実感していることです。

 「伝えようとする」態度はもちろん大事ですが,

 「伝わってしまう」ような「伝え方」ができるようになるために,「子どもの立場で」考える,という習慣を身につけておきたいものです。

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子ども時代に「教師絶対主義」が教師を志す問題点

 毎年教育実習生を受け入れている立場の人間として,教員を志す人たちの傾向を見ていると,

 子ども時代に,教育への疑問なり教員への疑念なりを一切もたずに過ごしてきた学生が多くなっているように思います。

 能力の低い教員の立場から見れば,いわゆる「優等生」という子どもです。

 学習能力に秀でた子どもの中には,教員の授業に対する不満なり問題点なりを指摘できる・・・実際に指摘しまう者もいますが,こういう子どもは,能力の低い教員からしてみれば,「問題児」です。一定の能力をもっている教員からすると,自分を「改善させてくれる」貴重な意見を述べてくれる大事な子どもという位置付けになるはずです。

 本物の優等生ではなく,能力の低い教員にとって都合のよい子どもを「優等生」と括弧つきで示します。

 「優等生」がもっている教育や教員への無批判的信頼感は,親に対するそれにやや近い気もします(実際の親も教員であることが多い点も指摘できます)。

 これを「教師絶対主義」と名付けることにします。

 「教師」とは「聖職」であり,そもそも批判できる相手ではない,という強い意味があるわけではありません。

 初めて受ける授業がその教師のものであると,比較対象がない小学生にとっては,

 「授業とはそういうもの」であると考えるようになります。

 すべての教師が『学び合い』をさせるなら問題はない(それはあり得ませんが)かもしれませんが,

 そうではない以上,小学生は困惑(混乱)します。だから,『学び合い』をやりたい教師は,他の教師だけでなく,子どもたちや保護者たちも「説得」する必要があります(それも不可能でしょうが)。

 小学校が教科担任制に踏み切れない最大の理由が,ここにあることは教員ではなくてもわかることでしょう。

 教師の力の「格差」が子どもにわかってしまうのは,子どもにとっても教員にとっても残酷な話です。

 しかし,「指導力を比べる」という発想がない子どもは,中学校になっても,高校になっても,大学に行っても,

 「その先生から高い評価をもらえること」だけに関心をもち,そしてそれが受験に直結するようなものであれば,

 「そういう先生がしてくれた授業がよい授業だ」と考えてしまいます。


 教師を志す人は,けっこう「いい人」が多く,「自分の成功体験を伝えたい」という意識をもっている場合が多いのです。

 しかし,落ち着いて考えればわかること。そうやって「成功」したのは,クラスに何人いたのか。

 たったそれだけのことを想像するだけで,授業とはどうあるべきか,という教師にとって最も重要な問題に向き合える位置に立てるのです。

 教育実習は,たった3週間ですから,「立ち位置を自覚すること」だけで終わる場合もあります。

 「ああいう先生になりたい」の「ああいう先生」が,どのような先生なのか,

 箇条書きで100くらい挙げていく中で,教育とはどのような営みなのかを考えさせることにもなるでしょう。

 「教師絶対主義」の「優等生」の問題は,
 
 「問題」を「問題」として見る習慣がないこと,と言えます。


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教育の研究者が語る言葉

 教育の質の向上,たとえば教員の能力を高めることは,教育現場にとって喫緊の課題です。

 決して,短期間に成果が出せるような仕事ではありませんから,現場も研究の立場の人も,粘り強い努力が必要です。

 しかし,一部の研究者の中には,自分たちの理念なり信念なりを同僚たちに理解してもらおうとする努力を「するな」という無責任な「お触れ」を出している人がいます。

 最近,久しぶりにブルーバックスの1冊を手にとりました。

 『研究を深める5つの問い』(宮野公樹著)という本です。

 帯には,著者による次のような問いかけが示されています。

>自分の分野以外の人にも響くテーマで研究している?

>なぜ研究者の道を歩んでいる?

>論文の緒言に心底思っていることを書いている?

>「科学」がどのような状態にあるか考えている?

>日頃から研究者としての自分を鍛えている?

 膨大な量の実験やそれをまとめる論文を出し続けなければならない科学分野の研究者が陥っている問題点が,そのまま指摘されていると考えられます。

 教育の分野の研究者にとってはどうでしょうか。

 ある研究者が発している「同志」への言葉は,

 「負けるのが嫌い」だから負けない戦いをしろ

 「分からない人を説得してはならない」

 反対する人間が「つぶしにくる」のを避けろ

 「本を出せ」ただし,売れなかったら自分で買い取れ(次の本に影響がでないように)

 などという「処世術」に過ぎません。

 この研究者だけとは限りません。

 教育の研究者が語っている言葉が,単なる「処世術」にすぎないような状況が,全国に広がっているように思われます。

 その背景には,「成果を出すこと」を求められているという一面があります。

 しかし,「成果を出すこと」が非常に難しい小学校では,

 子どもが「楽しそうに学習している」ことだけが教育の質を語る唯一の尺度になってしまう。

 気の毒なのは,教師を批判したい側の子どもで,

 「どうしてこんなことをやらされているのか」という疑念を抱いた時点で,

 子どもは教師から「見捨てられる」ことになり,泣く泣く「楽しく学習している」ふりをせざるを得なくなる。

 
 教育研究者自身,そして教師自身が,自分に何を問いかけ続けていかなければならないのか。

 「研究者的思考」ではない言葉に出会うたびに,大事な問いを思い出すことができます。

 
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小学校英語とエビデンス(Yahoo!ニュース)

 Yahoo!ニュースに公開されている応用言語学者の寺沢さんという方の記事には,教育政策にかかわる人間にとって非常に重要な情報が含まれているので,同じタイトルにして紹介させていただきました。

 その最も中核的な内容は,小学校教育を覆いつつも拭いがたい「幻想」と「自己満足」を否定するものです。

 小学校教育にしか関わった経験がない方には,ご自身の「幻想」や「自己満足」には気づかれにくいことでしょう。

 気の毒な現状が続いている背景には,「教育のすばらしさ」を大事にしようとする,教員にとってはとても大事な価値観をもたれていることがあり,ただ責め立ててしまうわけにもいかないもどかしさがあるのです。

 「子どもがキラキラ輝いていた」とか,「みんな,見捨てない」という言葉が,いかに空虚なものであるかは,その子どもなり教員としての自分が成長していけば気づけるものであり,目を覚ます人もたくさんいると思います。

 しかし,麻薬的な「言葉」に浸ってしまった人たちは,「エビデンス」などという横文字の言葉とはほとんど無縁なおとぎ話の世界の外は見えないか見えないふりをしているので,手のほどこしようがないのです。

 寺沢さんは,小学校現場の問題をよくご存じだと思います。

 そして,その問題をご存じであるがために,小学校英語には賛成の立場にも,反対の立場にもなれる方だと想像します。

 小学校は,「幻想の教育」の場であり,英語を学ぶということ自体がファンタジーの世界で,親和性が高いということ。発音だの文法などにはおかまいなしに,ただ挨拶や自己紹介ができ,楽しめればとよいという程度の発想を,中学校や高校の教員はすることができません。賛成の立場になる根拠になります。

 一方,「幻想の教育」をもし立て直す気があるとしたら,反対の立場になれます。

 「エビデンスがない」という批判は,『学び合い』に対して芦田さんという方が繰り返しされていたように記憶しています。

 寺沢さんの批判の中心は,「決定の手続き」に関するものであり,実際には賛成・反対の立場を明らかにはされていません。

 議論がされておらず,エビデンスが不足している現状では,ゴーサインを出すべきではない,というのが英語を実際に使っている国の基本的な考え方です。

 日本はまだまだ「まともな国」になっていない証拠であるように思われます。

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尾木ママの利用価値

 尾木ママが雑誌の編集方針に憤りをおぼえているようだが,

 新聞の取材も,基本的には記者の都合で行われ,記事は記者が書きたいことを書くものであることを,多くの関係者はよく知っているはずである。

 だから自分の言いたいことは,ブログ等で自分が言うしかない。

 教育に関する真面目なネタを,真剣に読む読者など,ごくごくわずかであろう。

 今回のニュースで,そのことがより鮮明になった。

 マスコミはなぜ尾木ママを利用しているのか。

 尾木ママを利用すると,どのような利益があるのか。

 想像するだけで,「教育のネタ」がいかにちっぽけなものであるかがわかる。

 これから,高齢化が進むにつれ,真面目に選挙に行く人たちにとって

 ますます関係がない話が教育問題である。

 「ゆとり世代」バッシングなどは愉快かもしれないが,

 「教育にお金をかけて,社会保障は削減し,自己責任型の国にしよう」

 なんてことを訴える候補者に票を入れる高齢者はいないだろう。

 大阪市内の地域格差も投票結果によってより鮮明になった。

 借金まみれの自治体や国を,本当に滅ぼしてしまうのはだれか。

 人口が少ない将来世代の声は,国政には届きようがない。

*******************

 私の3年前の記事に,こんなものがありました。

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  尾木ママがかつてマスコミに「利用された」のを,ネットの検索から知ることができました。

 『情報ライブ ミヤネ屋』(読売テレビ)で,橋下知事(当時)が「入学式や卒業式での君が代斉唱時に起立しない教職員に対する、免職処分の基準を定めた条例案」の議会への提出を表明したことについて,尾木ママの電話取材での応答の一部が放送で流され,

 橋下知事のやり方全般を批判した言葉が,

 「式で起立しないのはおかしい」という出演者のコメントの後に流され,

 尾木ママも「君が代反対人間」であるような印象の報道になってしまった,というものです。

 尾木ママが抗議し,その後,テレビ局からお詫びの言葉が出されたとのことですが,情報は一度流れてしまうと,回収できないものです。

 学校のメディアリテラシーに関する学習では,マスコミのこうした傾向・・・本人の意図とは異なるかたちでコメントが利用され,情報が流される可能性がある・・・を学び,友達関係でも「伝言ゲーム」のようなかたちでゆがんだ情報が流れてくる場合があるので,本人への確認なしに,情報をうのみにしてはならない,という教訓とするのです。

 新聞記事も同じです。

 かつて,こういうねらいで取材に来た記者がいた。

 もう,記者の頭の中では,記事はでき上がっていた。

 取材の中で,「こういうことですよね」と自分で勝手に話して,こちらが同意したことが,そのまま記事になっていた。

 ・・・こうやって,友達関係でも,勝手に「イメージ」を作り上げ,事実でないことが情報として流れることがある。そういう情報に振り回されないように,本人の言葉を大切にすること・・・・

 そういう指導をしている教師自身は,どういう仕事をしているのか。

 「正解」に誘導するような言葉を次々に投げかけ,子どもが「理解できたことにする」ような授業はないか

 教師が用意していた路線に合うように,子どもの発言内容を「変質」させるような指導はないか。

 自分にとって都合のよいように,相手の「言葉」を利用する,そういう習慣を子どもに習得させてはいないか。

 教師の仕事の信頼性は,「教育の目標」「指導のねらい」によって保障されるものです。それに沿った指導がなされ,成果が出せれば,信頼される結果になるのです。

 こういうことを意識した仕事をしなければなりません。

 この対極にあるのが,「話し合い」という手段を目的にしてしまった「学び合い」の授業です。

 教師はほとんど何も話さないので,子どもは「何が本質か」を学ばないまま・・・つまり,「活用できる知識」を得ることなしに,時間だけが過ぎていく。

 「学び合い学習」などという言葉自体が誤解のもとなのかもしれません。

 学習環境が「学び合う」ものであることが当然であるところでは,そんな言葉は必要ないのです。

 繰り返し私の主張をすると,

 教科学習には教科の目標があるわけで,「学び合い」をするとしたら,それは教師と子どもとの関係で大事なのです。

 教科の目標に照らして「子ども」と「子ども」で「学び合えた」具体的な成果を公表することで,手段と目的を混同するためにおこる学力低下はある程度防ぐことができるでしょう。

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なぜ「注目される記事」になるのか?

 ぶろぐ村の「注目記事」にランクインされる仕組みはよくわからない。

 私のブログのアクセス総数はだいたい1日400件くらいで,ぶろぐ村からではなく,ネット上の検索で訪問される方も多い。

 だから昨日の記事なども,ランクインしているものの,あまり「注目されている」という実感はない。

 ただ,ココログにはどこからアクセスされているかがわかる仕組みがあるから,

 ああ,今日はこんな企業の人が読んでくれたか,今日はこの大学の関係者か,などと検索語を見ながら関心の方向性に気づいたりはしている。

 ちなみに,今日は目立っていたのが

 「小学校 担任 かえる」

 「小学校担任 はずれ」

 などといった検索語からの訪問であった。

 新学期が始まって,いよいよ担任教師の「ダメさ」加減に親が黙っていられなくなる時期であるということでもある。

 他人に読んでもらうつもりのない文章を書く人は,自分の家の日記に書き入れておけばよいわけで,わざわざ公開する必要はない。

 なぜ私は1日16時間以上働いているのに,ブログを書く時間をとれるのかと言われれば,それは書きたいからだとしか答えようがない。

 書かずにはいられないことが,多数あるという理由に尽きる。

 かつて,学級だよりや学年だよりを毎日のように出していた理由は,それを書くのが楽しかったからと,子どもや保護者にメッセージが直接届いていることがよくわかる出来事が起こるのがうれしかったからである。

 それと比べると,コメントが入らないこのようなブログは,どうしても「言いっぱなし」という空しさが抜けないが,書かないですましていたら,あるいはストレスがたまる原因になってしまうかもしれない。


 行政に私がもう少し長くいたら,それこそストレスでどうしようもなくなっていたかもしれない。

 ただ部署的に言いたいことが言えたところだったので,被害は最小限に食い止められた。

 しかし,私以外の教師が苦しんでいることもよくわかる。

 学校には,言いたいことの1%も口にできない人がたくさんいると思われる。

 「和を乱すこと」の「悪さ」の方が,「正しいことを言うこと」の「正しさ」よりも優るから避けたいと考えてしまうのが,日本人の悪い癖である。

 「正しいと思うこと」が,どの程度の正しさを持っているかが,口に出さないことによってわからないままで放置される状態が続いている人も多いだろう。

 「正しいと思うこと」は,はっきりと言うべきである。

 たとえば・・・・・なんて勢いで生々しい現場の話を書けば,「注目」はより高まるだろうが,このブログのスタンスは「教育論・教育問題」について語ることである。

 「忙しい教師がブログなど書けるはずがない」=「ブログを書くような教師は暇なやつだ」というニュアンスを臭わせている真性に暇な人にあきれてしまったので,こんな記事になってしまった。

 ネタが尽きると登場するどうでもいい道楽の話が教育論・教育問題にアップされた場合,自動的に削除される機能をぶろぐ村には充実させてほしい。


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「低所得層の子ども=低学力」データの矛盾

 いくつかの雑誌や新聞で,ときどき思い出したかのように,

 子どもの低学力の背景には,家庭が経済的に困難であるという問題がある・・・

 という趣旨の記事が登場する。

 AERAで紹介されていた記事では,無料塾で九九を学習する中学校3年生が紹介されている。

 ほとんど個人が特定されてしまいそうな書き方だったことも問題だが,「家庭環境が影響している」と結論づけたあと,こんなデータが示されている。

>秋田県の14年度の全国学力テストでは,小学生が47都道府県で1位,中学生も2位。

>それなのに,同じ年の大学進学率は36位。なぜか。秋田県の世帯年収は,全国43位。

 世帯年収は43位なのに,中学生の学力テストが2位なのはなぜか。

 また,中学生の学力テストの結果と,大学受験のための学力の相関はどれだけあるのか。

 この手の「データ分析」など,曖昧すぎて意味をなさない。

 親の育児や家庭教育のあり方が,子どもに及ぼす影響はもちろん小さいものではないはずである。

 ただ,小中学生の学力を語るときには,必ずその子どもが小中学校でどのような教師に教育を受けたのかをおさえなければ,話にならない。

 教師によっては学力下位層を放り出して授業を進める者もいるだろうし,逆にそちらに気を配りすぎて,学級を崩壊させている者もいる。

 もっとマスコミは学校内で行われている授業の実態をしっかりと取材すべきである。

 先日,ある小学校での授業の様子が報道され,そこの卒業生がたまたま視聴していた。

 「先生,あれ,本当はやってませんよ」と教えてくれた。

 こういう「報道向け」の仮面がかぶれる小学校など取材しても,何の意味もない(その小学校の実態を暴くのであれば,意味はある)。


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AO入試枠の拡大によって,チャンスを失う高校生たち

 ヤフーニュースの検索で,AO入試の拡大がもたらしている弊害になるほどと感じた。

 国は,「補助金」という武器を使って,各大学にAO入試の拡大を押しつけている。

 多様な個性のある学生を集めるという趣旨は間違っていないが,

 新たな入試制度をつくると,すぐにその「対応策」が研究され,

 その研究の恩恵にあずかれる学生が非常に有利になる。

 つまり「AO入試対策の塾に通えば合格しやすくなる」という事態である。

 私は塾に通わせてもらう余裕のない側の人間だったから,

 さらに,学校の教師をして給料をもらっている立場から,

 余計に「学校よりも塾をたよりにしている人間」たちを見ると,哀れに思える。

 受験学力を伸ばすことは短期間では無理だが,面接や小論文となると,慣れるのはそれほど難しくない。

 面接官経験者,小論文の作問経験者,採点経験者を塾が雇い入れることで,

 さらに試験対策は盤石のものになる。

 教員採用試験の予備校になっている大学と同じである。

 地道にこつこつと学校の授業で力をつけてきた高校生たちが,

 学力的には不十分でも塾に通って面接や小論文が得意になった友達に負けていく実態に,

 相当の危機感をもっているのは実は大学の側であろう。

 追跡調査を行うことで,すぐにその「成果」というか「問題」は明らかとなる。

 和田秀樹氏は雑誌の中で,

>AOはやめて,初等・中等教育の充実で学力を取り戻し,大学教育の改革に専念すべき

 と主張しているが,全く同感である。

 しかし残念ながら,新たな利権というかビジネスチャンスが生まれたところには,

 改革は及びにくい。

 こうして「改革」が現状をどんどん悪化させていく姿は,江戸時代の幕府政治のようである。


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受験で小学生にかかる負担の重さは中高生の何倍?

 私自身も経験した小学生の中学受験というものは,ほとんどが親の意向によって決められます。

 私の時代は日曜日のテストだけ,本人に任せっきりというパターンも多かったと思いますが,

 今はテストのための塾に通うのが当然となり,多量のプリントや問題集をどんどんわたされ,塾の宿題を家でやらなければついていけない仕組みになっています。 

 習い事をさせられる家庭の子どもでも,自由な時間がほしいはずですが,そんな時間はなくなります。

 親に対してはもちろん,「自分の考え」の構築が未熟な子どもたちは,大人の意向に左右される人生のスタートを送り始めるわけです。

 東京都立川市で「いじめ聴取」のために指紋を採取されたのは小学校6年生ですか。

 詳細は報じられていませんが,採取に際してどれほどの抵抗があったのでしょう。

 

 今回の記事の話題は「中学受験」です。

 子どもにとって,「中学受験」のための負担はどれほどのものでしょうか。

 親にとっての経済的負担の話は別の機会にまわします。

   生々しい競争原理のもとで「進学実績」を競い合う業者やそこで働く従業員たちにとって,

  「成果」が残れば残るほど,費用はいくらでも親から吸い上げられます。

  その費用を使って,無料の学力テストまで実施できるほどに。

  私立学校などは,「進学実績」づくりのために,経済的に困難な家庭の「優秀な子ども」を受け入れることもある。

  「ただにしても儲かる仕組み」ができる業者というのは,おいしい業種と言えます。

 さて,子どもの立場で「中学受験」を考えたとき,これを「高校受験」や「大学受験」と比べると,その負担はどの程度のものになるでしょうか。

 そして,その負担は,当人にとって本当の意味での「ため」になっているものなのでしょうか。

 中学受験のハードさ,ハードルの高さは,入試問題を見るだけでわかります。

 小学校の授業を受けているだけでは,全く対応できません。

 公立高校の入試問題よりも難しい問題に,小学生は取り組んでいます。

 過去の多くの学校の問題分析によって,解法はパターン化され,

 算数などは非常に「きれい」に整理されています。

 これを小学校3年生くらいから,「系統的」に学ぶわけです。

 学校では,「割り算の正しい概念を習得する」などといって,ブロックを作って並べてみたり,紙を切ってみたりと,時間をかけて「アクティブ」に学んでいる。

 学校でそれをやっているときには,すでに頭の中で立方体の切り口とか展開図が思い浮かべられるようになっている小学生がいるのです。

 具体物など使わなくても,すらすら数量や図形の問題の解法イメージができてしまう子どもたち。

 楽しい活動を小学校で行うことが,本当に子どものためになると考えている小学校の教師も,一部にはいることでしょう。勉強ができない子どもでも,自分の考えが発表できる。何とすばらしいことでしょう。

 ただ,中学校1年生くらいまでは,「自分の考えを堂々と述べられる」子どもが授業でそれなりに活躍できる場がありますが,中学受験を経験した子どもからは,みるみるうちに差が開いていきます。

 小学校教育を研究する人たちは,中学受験には興味はありません。

 そんな難しいものを教室で理解することが困難な子どももたくさんいるからです。

 「全員を見捨てない」などと言っているということは,実際にはかなりの子どもが見捨てられている状態になっていることを,外国人ならすぐに気づくでしょう。日本で「すずめの学校」に引きこもっている人間からは想像もつかないことでしょうね。

 今,自分が教えている子どもたちが,

 「本当は」どこまで理解が進んでいるのか,何ができるのかを知っておいてもらうことは決して無駄なことではないでしょう。

 外国では,「飛び級」させてもよい子どもがぞろぞろいる学校があるわけです。

 ただ同時に,その子どもたちがどれほどの苦労をしているかということにも,思いをはせてほしいというか,同情してほしいものです。

 こう言ってしまうと失礼かもしれませんが,中学受験を経験されたことがない先生には,理解できないことかもしれません。

 でも,小学生でそろばん何段,と言われて,その子の技能を一度見れば,似たような「すごさ」を実感してもらえるはずです。

 小学生にとって,学校の教師に白い目で見られるつらさが加わることだけは,なくなってほしいと思います。

 
 中高生の話がないから,結論が見えません。

 中高一貫校に中学受験で合格してしまう子どもには,高校受験がありません。

 ある高校の先生は,「中学校から入ってきた生徒の中だるみが気になる」といい,

 別の高校の先生は,「高校から入ってきた生徒が追いつけないで困る」と嘆く。


 公立の中高一貫校が増えていますが,「二極化」の進行は,日本の将来に何をもたらすのでしょうか。

 
 ほとんど試験の成績のみで決まる「中学受験」のあり方を根本から変えることが,

 まずは見直すべき課題でしょうか。

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日本の教師の学歴水準は途上国並み(世界で最低レベル)

 教員の国家資格化を進めていく上で,混乱が予想されるのが

 「専門家としての教師像」をめぐる問題です。

 佐藤学は『専門家として教師を育てる』(岩波書店)で

 現在の教職大学院について,専門家としての教師ではなく実務家としての教師を育てる

 「専門学校」だと批判していますが,

 教育現場が求めているのは大学の先生が持っているような知識をもっている人間ではなく,

 「現場で使える」教師,つまり実務家としての教師です。

 ですから別に「教職大学院」という名称である必要はなく,

 「教職専門学校」でもかまいません。ただそれでは税金を投入しにくくなるのと,

 さらに人が集まらなくなるのでつぶれてしまうことになるでしょうが。

 現場では,教員採用試験に合格できない人が,「浪人先」として選択するのが

 予備校ではなく大学院である,という認識でいます。

 2年とか4年とか大学で勉強を続けたり,教育自習の期間を長くとることで,

 「よりよい教師の資質を身につけること」が可能であるほど,

 公立学校の教員の仕事は「努力で何とかなる」という性格のものではなく,

 高校までに培われたコミュニケーション能力,

 もちまえの明るさ,適応力,忍耐力,協調性,そして何よりも健康であることが,

 教師に求められる資質です。

 さすがに中学校では早すぎるかもしれませんが,高校段階では
 
 「教師に向いている生徒」かどうかはわかってしまうと思われます。

 さて,教員に求められる能力として,

 「知識をたくさんもっていること」も大切ですが,現場では

 「子どもが集中できる」

 「活動に意欲的に取り組める」

 「学習指導要領が示す内容程度の能力を身につけられる」

 授業ができる人が,年数を経るにしたがって

 「周辺技能」を身につけていきます。

 授業ができない人が身につけられる能力は,管理職になるためのものくらいしかありません。

 管理職の実務は大学を卒業できるくらいの学力があれば,だれでもできます。

 ただ管理職には教員以上の「人間力」が求められるのは言うまでもありません。

 「管理職にするにはもったいない」教員より,

 「事務仕事の方が向いている」教員が,管理職になってくれた方が現場としてはお得です。

 佐藤学が「専門家」と呼びたい教員になるには,次のような要件を満たす必要があるとのことです。

>1 私的利益の目的ではなく,公共的な利益,すなわち人々の幸福を目的とする仕事である

>2 大衆が保有していない高度の知識と技術によって遂行されていること 

>3 専門家協会を組織して,自律的に免許と資格を認定し,高度の専門性を維持し更新する研修の制度を確立していること

>4 政策や行政から独立した自律性を与えられていること

>5 倫理綱領を有していること

 実態として,教員は最初の項目以外の要件を満たしていない・・・・2番目については,タイトルに示したような惨状を示している,ということです。

 政府の国家資格化は,3番目の項目のためにできる組織を,新しい天下り先として創設するため,というわけではないでしょうが,教育委員会の仕事がなくなることも想定に入ります。

 現在でも教育委員会は4番目の項目の状態にはなっていません。

 教育委員会の機能をどうしたいのか,そういう方向性も教員免許国家資格化にはからんできそうです。

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教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方 その3

 教員免許の今後を考えると,今後,地方の極小規模校の統廃合を進めていくために,

 「小中学校の両方を教えられる教員」が必要になってくることから,

 「義務教育免許」の創設が考えられます。

 ところが,これが非常にくせものでありまして,そもそも小学校と中学校は学校文化が180度以上??異なっていて,異次元空間に近い風土が違いがあり,これは本人の環境適応力というか,よほどの対人感化力がなければ,小中を行ったり来たりするのはほとんど不可能に近いというのが私の実感です。

 管理職は子どもに直接接する機会が少ないので,どうにでもなります(実際にところは小学校は小学校,中学校は中学校で困ったことになっている実態もあるようです)が,教員となると,非常に難しい。

 たとえば英語教育を小学校でまともに始めようとしたら,少なくとも中学校や高校でそれなりに英語が得意だった人間でないと,授業などはできません。

 小学校で英語嫌いを大量生産されることの恐怖を今,中学校教師たちは全身で感じ始めています。

 「義務教育免許」の話はここまでにして,

 私が現段階で想像している「教員国家資格」は,

 3段階くらいのレベルを分けて想定しているのではないかと思われます。

 それこそ組合の人が聞いたら湯気を出しながら怒るような話ですが,

 教員の国家資格を1級,2級,3級に分けてしまいます。

 1級は,「修士」や「博士」を対象とした,最も「高級」な地位。

 2級は「学士」のうち,授業も学級担任も分掌もできる人。

 3級は,授業はできるが,学級担任や分掌は行えず,そのかわり部活動の指導ができる人。

 給与体系が異なっており,3級の比率を増やすことで,

 教員の総数は減らさずに,人件費を抑えることができる。

 もちろん,国家試験は何度でも受けられるので,3級から2級に「昇級」することもできる。

 国家が教員の動きをコントロールできれば,教育の質が向上する,と考える「4級」の人たちがつくりそうな政策です。

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学校に見捨てられた教師が語る「部活動論」

 少し前に,部活動関係の記事を書いたのだが,刺激が強すぎると思ってお蔵入りにした。

 中学校における部活動の指導者の問題については,

 私のような部活動の指導をしてきたことで「中学校教師をしている」と胸を張って言える人間から見れば,

 問題だと言っている暇な人間がいること自体が問題だというのが正直な話である。

 外国ではどうこうという話になるが,ここは外国ではない。

 自分たちが生徒のときはその恩恵を受けるだけ受けて,自分が教員になったときに

 「この仕組みはおかしい」という発言をよくも平気で言えるものである。

 若い教師が採用されなくなった20年以上前から,問題となっているのは,

 採用試験のときは「部活動の顧問をよろこんで引き受けます」といっていた

 人間が,現場に立ったとたんに「都合が悪くてできません」と拒否する事態である。

 PL学園のように,校長が顧問をつとめたりする学校もある。

 顧問の持ち手がいない部活動はつぶれ,学校選択が自由である地域なら生徒が集まらなくなり,

 極小規模化していく。こんな悪循環を経験している子どもも少なくないだろう。

 解決策は,学校規模を適正にするしかないのである。

 たとえ片道1時間歩く距離に学校があっても,やりたい部活動がある子どもは平気で歩いて通ってくれる。

 これが中学校風の「だれも見捨てない」教育である。

 「私は吹奏楽部の顧問しかできません」というわがままは許されない。


 部活動にはさまざまな問題があるが, 

 勉強ができない生徒が部活動の実績だけで進学できるような仕組みがあることについては,

 ごく一部の学校のごく一部の生徒が対象だから,「どうでもいい」というのが私の考えである。

 とうてい「すべての子ども」にあてはまる話ではない。

 また,「名前を売る道具に生徒を使う」のは私立高校の自由である。その片棒を担ぐのが良いか悪いかを判断する立場にはない。


 中学校という教育現場には,巨人に新加入したある外国人選手のような立場の教員がいる。

 「仕事は何もできないが,部活動の指導だけは一級品」という人である。

 こういう人が,仕事はおろか,部活動の指導に失敗するケースもある。

 教師だけでなく,生徒にも見放され,見捨てられる教員というのはさびしい存在である。

 教育現場でDH制をつくるとしたら,どんな仕事のことだろうか。

 守備をしないですむ仕事が教育にあるとは考えにくいのだが,

 こういう教員は「何もしないでくれること」でまわりの教師から感謝される存在となる。

 学校はこういう「守り」に入ったとたん,急激に荒れ始めるのは,言うまでもない。


 露骨に,「部活動の成績」より,「学力調査の成績」が大事だ,とふれまわっている教育委員会もあるようだ。

 部活動の指導よりも,補習の方が「やりがい」を感じる人が多くなっているのが,やるせないところである。


 やがて,「部活動論」など,だれも聞いてくれない時代がやって来るかもしれない。

 しかし,「外部指導員」に主導権を奪われるような事態を望んでいる人間が多くなるのは,やむを得ないことかもしれない。
 
 自分のような「生き残り」が減っていく様子を今後しばらく,眺めていくことになるのだろう。

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教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方 その2

 家内には,「国家試験で実技試験は難しいのでは」と批判されました。

 もっともなことですが,国家が日本の未来をつくるのは教育だ,と腹を決めて,

 根本から「教員」の質を上げようと考えているのであれば,ぜひとも実施してほしいのが

 「実技検査」です。

 都道府県の採用段階でやるのではなく,むしろそこでは国家試験の成績で振り分けるというので十分でしょう。

 ペーパーで資格を出してしまうのも悪くはないのですが,

 教員というのはたいした知識はなくてもつとまってしまうものであり,

 逆にコミュニケーション能力なり環境適応力がなければ本当に現場で使えないお荷物になってしまうので,

 「だれの目から見ても(できれば子どもの目から見ても)現場で通用する」と判断されて資格ありとしてほしいものです。

 
 安倍総理は,なぜ教員免許の国家資格化をかたちにしようとしているのでしょう。

 「教員の国家資格化」は,ある集団のスイッチを入れるきっかけになりうると考えているのは私だけでしょうか。

 「国家資格」という肩書きに憧れる人は,一定程度存在すると思われます。

 特に,ただ「偏差値が高い学校」に入ろうとして進学した人にとっては,

 「何となく頭がいい人しかなれそうもない」という匂いに誘われて,「国家資格取得」に向けて動くかもしれません。

 逆に,教育産業が明示してしまっている「偏差値」で劣等感を植え付けられてしまっている大学の学生たちにとっては,心理的なハードルがさらに上がってしまうかもしれません。

 今までは都道府県別のパターンが決まっている教員採用試験の対策をしておけば学生が集まっていた大学などは,淘汰されていく可能性があります。

 
 国家としては,大学の予備校化によって,だれでも教員になれてしまう現状を解消し,

 教員の「ハク」を向上させようとするねらいがあるはずです。

 医師や裁判官のように,それなりに偏差値が高い人間でないと,取得できない「資格」をもっているのが学校の先生である・・・・・教員の犯罪防止がこれでできるかどうかはわかりませんが,まず医師や弁護士,裁判官なら犯さないような犯罪を実際に犯している(・・・・最近,医師の犯罪が続けて報道されていますが・・・)ので,こういう教員を何とかなくしたいという思いもあるのでしょう。

 しかし,先に記したように,「コミュニケーション能力」なり「問題解決能力」の偏差値が高くないと,教員はつとまりません。

 ですから国家資格をもちながら,現場で役に立たないというタイプの人間は,今と変わらず消滅させることはできないでしょう。

 しかし,資格を取得する段階で判断できるなら・・・という願いは,ぜひともかなってほしいものです。

 
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教員免許の国家資格化と教員国家試験の行方

 教員採用試験の問題をつくっている人たちにとっては,たいへんな仕事がやがてなくなることに安堵の感覚を抱いているかもしれません。

 以前に採用試験問題の分析の仕事をしたことがありますが,基本的に公開が原則ではないためか,つくりが雑で,単なる知識の有無を問うようなものが多く,「いい授業ができる教員を求めている」とは思えない実態がありました。

 国家試験を作問するとなると,それはすなわち「国家は教師に対してどのような資質を求めているのか」を明示することになります。それが単なる知識では各都道府県が行っている採用試験と同じになってしまうので,大学入試の新テストと同様に,「今までになかったような,どんな力がついているのかが明確に試されている問題」であることがわかるような工夫が必要になります。

 ただ,そういう問題づくりは容易ではありません。

 ですから私の考えですが国家試験のペーパーテスト自体に求める期待は,それほど大きなものではありません。

 大切なのは,「国家資格」を得るための「最終実地試験」にあるというのが私の考えです。

 大学在学中に実施している3週間の教育実習で,「教師になるための十分な資質」を育てることは困難です。

 教育実習の指導にあたっている教員の質も様々であり,3週間が本当にためになる経験になっていない学生がいるのも事実でしょう。

 では「最終実地試験」はいつ,どこで,どのように実施すべきなのか。

 私の考えは,各公立学校での50分授業・2本勝負です。

 1本は教科。2本目は道徳。

 時期は,夏期休業期間中。児童生徒にとっては,実質的には「補習」のような形になります。

 授業の「採点」は,採点官はもちろん,児童生徒,また保護者や地域の方々にも参観してもらい,

 「こういう人に先生になってほしい」という受験生に点数が入れられるしくみとする。

 眠っている公共施設である公立学校の「教室」が有効活用できる。

 児童生徒は塾に行かなくても(質はともかくとして)ただで授業(補習)が受けられる。

 地域が先生を育てているような印象が強くなるような,

 公立学校らしい教員採用のかたちではないでしょうか。


 私はこれまでの教員経験で,大学を出て教員になっている人と,

 大学院を出て教員になっている人で,大きな違いを感じたことはありません。

 大学院に進んだ人は,実際の教員生活は短くなるわけで,気の毒に感じるくらいです。

 教員国家試験が,大学院に進まないと合格しにくくなるような仕組みだけはつくらないでほしいと思います。

 
 教員国家試験対策の予備校のようになる大学も増えるでしょうが,

 本当の「予備校」は,実地の授業ができるところであり,知識を詰め込まれるところではいけません。
 
 
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80歳の店主の仕事

 私の母はまもなく80歳になるが,現役の自営店経営者である。

 近所に比較的大きな病院があるため,その帰りの客が立ち寄ることも多い。

 母の愚痴は,ただしゃべるためだけに来店する客?が多いことで,

 3~4時間平気で居座ることもあるとのこと。

 「長生きしよう」と必死な高齢者は思いの他多く,病院の診察券も15枚以上も持っている人がいる,という漫談ネタも,母から耳にした。

 その大好きな病院?の先生から,「もう来なくてよい」と言われた,という愚痴をこぼしに来店する。

 こういう愚痴をこぼせる相手がいるというのが長生きの秘訣なんだろうと想像する。

 母の場合は,聞き側の人間だから,逆にストレスもたまるのではないかと心配になる。

 町の商店街に,このような「おしゃべり」のために入れる店が,今,どのくらい残っているだろう。

 買い物客ではないことは明らかでも,サービスでお茶などを出してくれる店が。

 私と母が住んでいる自治体では,まだ「商店街」が機能している。

 大型の商業施設も展開しているが,住宅密集地であり高齢化が進み,単独世帯も多い。

 だからコンビニもたくさんある。

 町の商業施設の未来は,どうなっていくのだろう。

 商店街の店の後継ぎはいなくなり,個人店舗が消えていく一方で,コンビニの機能がどんどん拡大していくことになるのだろうか。

 私も「お店番」ができた30年前と,今とでは,情報化の進展では社会の「便利さ」は飛躍的に向上した。

 しかし,それだけで「豊かになれた」と感じるのはただの幻想ではないかと思われる。

 店には,体が不自由な方も入られる。知的障害を抱える方も来店する。

 80歳の店主は入る人を拒まない。

 半世紀以上,同じ場所に店を構え,来る日も来る日も来店者を迎え続けている。

 そんな平穏な毎日が過ごせる地域の方々には感謝したい。

 しばらくぶりに,真面目に選挙演説を聞こうとする気になった。

 
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嫌いな人の真実よりも,好きな人の嘘がいい

 ハンナ・アーレントの名言とされている言葉である。

 学校の教師にとっては,何よりも子どもを好きになることが大切。

 問題行動を繰り返し,「言うことをきかない」子どもほど,

 教師は「好きになる努力」を怠ってはならない。

 教師に嫌われた子どもは救われない。

 教師が心しておくべきもう一つのことは何か。

 子どもに好かれようとしないことである。

 子どもに嫌われることを厭わないことである。

 子どもたちは,学校ではもちろん,家庭でも大人たちの

 「真実」と「嘘」,「本音」と「建前」のはざまで迷いながら成長している。

 人に好かれようと嘘をついたり,ごまかしたり,仮面をかぶったりする大人を見て育つと,

 いつか自分もそんな大人になってしまう。

 「好かれる」「嫌われる」ことに,関心をもたない大人に接することができる子どもは幸せである。

 「平凡な人間がおかす悪」へ鋭いまなざしを向けていたアーレント。

 「姑息な大人」の醜い姿を子どもに見せない強さがほしい。


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一塁手の守備に泣かされる巨人

 巨人ファンには胃が痛む連休最後の3日間になってしまった。

 うち2つは守備のミス,1つは初回からメッタ打ちを喰らっての敗戦であった。

 少し前は「阿部一塁手」の守備で試合の流れを失ったゲームもあり,

 あれは「阿部選手の捕手復帰」ではなく,「一塁手失格」の烙印が押されたと解釈している。

 そして5月には打てない,走れない,守れないの三拍子がそろった新一塁手の登場である。

 たった数試合で,「全く使えない」ことがわかる選手も珍しい。

 ホームラン競争といった,試合前の余興くらいしか役に立ちそうにない。

 130試合あるプロ野球では,「草野球のような守備」がたまに見られるが,

 連日にわたっていくつもやられると,「お金を払って見ていること」に気づかされてしまう。

 阿部捕手にしろ,新加入の選手にしろ,期待が大きい分,落胆も半端ではない。

 この記事がなぜ教育問題と関係があるかというと,

 公立学校の教員(子ども)も似たような思いをすることがあるからである。

 公立学校の管理職にとって,非常に重要になるのは,

 「正しい教員の評価を下せる教員」を知っているかどうかである。

 異動してくる教員に,学年主任を任せることができるかどうか。

 荒れた学年の担任をいきなり持たせることができるかどうか。

 問題行動がよく起こる部活動の顧問を持たせることができるかどうか。

 戦々恐々としているのは,新加入の教員ばかりではなく,受け入れる側の管理職も同じである。

 気の毒なのは,「期待倒れ」に終わる教員で,責任感が強かったり,打たれ弱い性格だったりすると,

 最悪の場合,病休に入ってしまう。

 病休なのに元気だった教員も知っているが,現場を離れられると,さすがに痛い。

 取り立てて巧さが求められない部署だったり学年だったりに配属された教員が,

 狭い範囲では手に負えない問題を抱えるようになる場合もある。

 巨人の一塁手に似ている。

 よい学校というのは,一塁を井端が守っているような学校である。

 野球は守備が第一という教訓を,今の巨人が教えてくれているような気がする。

 いくらでもお金が動かせるような球団でも,今のように結果が出せずに苦労している。

 教育現場にあまりつらく当たらないでほしいという泣き言も理解できないわけではない。

 しかし,最低でも内野フライや塁への送球が捕れる一塁手にいてほしい。


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赤ちゃんザルの命名問題~「シャーロット」は英国王室に失礼か?

 2つの新しい命の誕生を喜ぶ人たちに,思わぬ「待った」がかかった。

 猿に王女と同じ名前をつけるのは失礼だ,という抗議が多く寄せられたとのこと。

 ある人は,「赤ん坊の名前で賭け事をする国に・・・・」などと「失礼には当たらない」とのつぶやきを公開しているが,実際に王室に確かめてみたらどうだろう。

 日本の猿だから,カタカナ書きの「シャーロット」である。発音が違う,と開き直ることは無理か・・・。

 こういうとき,相手の国がイギリスでなかったら・・・などと想像してしまう。

 あるいは,オバマ大統領が飼っている犬の子どもが「シンゾウ」と命名されたら・・・。

 「ニュース」になってしまった動物園では,今年はこれから100匹生まれるらしい。

 命名も大変な仕事である。

 もし「シャーロット」という名になっていたら,いつも英国王室への敬愛とともに育てられていたのかもしれない。

 昔,話題になった「あくま」くん問題。

 現在,苦悩を抱える「キラキラネーム」の社会人たち。

 名付け親には,それなりの責任が生じるという理解だけは共有しておきたい。

 「名前負け」というプレッシャーも,当人にはけっこうキツイものである。

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情愛欠乏症は教育現場で治療可能か?

 授業参観をしていると,

 この人,どことなく生徒への・・・人への愛情に欠けているようだ・・・

 何気なくそう感じる場面がある。

 生徒の側は,それに慣れているというか,よく理解して接しているように見える。

 逆に,この人は,いい親や教師に育てられたのだなとうらやましくなる人もいる。

 「基本的信頼感」を適切な時期にしっかりと育まれて成長した人は,人への情愛を身にまとって生きている。

 
 ブッシュ大統領(父親の方)のアドバイザーだったエドワード・ルトワック氏から上念司氏が聞いた話では,

 オバマ大統領は,友達がいないのだとか。

 その原因をたどっていくと,ある世代で当時流行した「科学的育児法」の影響が考えられるとのこと。

 「あいさつができない子ども」ができた原因を育児の方法に見るのは,日本でも可能かもしれない。

 幼いときに,肉親の情愛に満たされずに育った子どもは,学校で,社会で,どのような大人になるのか。

 
 児童生徒への教師の情愛は,どのようなかたちで表現されているのだろう。

 私が注目しているのは「目」である。


 客観的な採点基準などつくりようもないが,生徒が活動している場面の動画を見ている様子で判断することはできないだろうか。

 「あたたかく見守る目」をした教師を多く見ている人間が面接官になるのは当然のこと。

 どうも児童生徒への対応が冷たくて・・・・教育現場では,こういうとき「事務的な対応」という事務方には失礼な言い方をすることがある・・・・という苦情というか,困惑を耳にした管理職はどうしたらよいのか。

 「お涙系」の映画鑑賞会を研修の時間に設けるのがよいのか?

 感動して泣いている教師の姿から何かを学ぶことはできるのか?

 
 教育現場で最も強力なクスリは,卒業式にある。

 卒業式で何も感じていない人がいたとしたら,これは重症だ。

 
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個を確立する真の学び合いの姿

 大人は,自分の最も「醜い姿」が子どもに受け継がれていくことを自覚しておくべきである。

 家庭なら「親」として,学校の教員なら,「教師」として。もちろん,「大人」として。

 小学校高学年になると,女子たちは幼い男子たちと歩調を合わせて学校生活を送らなくてはならなくなる。

 その女子たちの行動様式に直接的な影響を与えているのが担任教師であることが,長い付き合いを通してようやくわかってきた。

 男子はまだ幼いため,異年齢の人間との付き合い方がわかっていない。

 母親べったりの幼児のままの子どもが少なくない。

 男子も女子も,小学校7年生は「依存心」の塊である。

 「大人がなんとかしてくれる」「なんとかするのが大人の仕事だ」というのは,

 ある意味では信頼関係がつくりやすいとも言えるが,小学7年生が「何もしてくれない」と感じるとそれも一瞬でなくなる。

 全く同じ言葉を同時に関係する生徒に投げかけても,意味の取り方が180度違うこともあるのは逆に興味深い。

 教師はどのような目的で,その問題に対処しようとしているかを考えてくれると,ありがたいのだが。

 中学生になって,ようやく男子の体の成長が加速するが,女子に様々な面で「追いつける」のは高校2,3年生らしい。

 こうしたとてもちぐはぐで多様な人間関係のなかで育つことは,「個の確立」を促すという意味では価値がある。

 「個の確立」を促そうとするとき,教師が強い関心を向けるべきなのは,

 生徒と教師の多種多様な言葉のやりとりを,集団の中に埋没しがちな生徒たちにしっかりと聞かせることである。

 真の学び合いは,教師が「個」を観察できるメリットを採用するために生徒を集団に埋没させるのではなく,

 生徒の「個」を浮き彫りにさせ,他の生徒が観察できる環境をつくることが大切である。

 教師と生徒との対話が,対話している生徒を育てるのはもちろん,他の生徒たちの内面を変えていく姿をつづった実践は少なくない。

 アドラー心理学は,個を確立するために大切にすべき習慣をたくさん提供してくれる。

 「個人心理学」と言われるが,「個を確立させる」ことに強い関心を持っている教師ならば,

 「集団」などという漠然としたものではなく,まずは「他者」に向かって関心がもてる「個」を授業のなかで育てていかなければならない。

>他の人の目で見て,他の人の耳で聞き,他の人の心で感じる

 『学び合い』の指導をしている教師が,もしいつまでたっても「自分(過去)への執着」に凝り固まっている子どもたちに違和感を抱くことができるようになったなら,それこそが教師としての成長の第一歩である。

 ある外資系投資会社の面接試験のポイントを紹介してもらったことがある。

 自分の主張ばかりする人間,知ったかぶりをする人間は,必ずいるようである。

 まず採用されないようだ。こんな人間と仕事をするのはごめんだ,と面接官=社員が思うから。

 情報を発信している「御本尊」が,アドラー心理学について一面的で勝手な解釈を披露しているので,異議を申し立てるためにこの記事を残しておいた。
 

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教師が「評価」を伝えることができる生徒は1日何人までか?

 1人の教師で,生徒たちの日常的な行動の評価は何人くらいまでできるだろうか。

 5時間授業がある日は,授業だけでも200人の生徒と接する。

 部活動があれば,さらに人数が増す。

 委員会活動があれば,学年を超えて対象生徒が広がる。

 長い準備期間を要する委員会を指導している場合は,毎日,どこまで仕事が進んでいるか気になる。

 教師は無意識的に多くの生徒を「評価」している毎日であるが,

 その結果を本人に,あるいは担任や学年の教師に伝えることができるのは,1日何人までが可能だろうか。

 クラスの場合でも,1人に対して10分以上の話ができるのは,年間で1~2回しかない。

 前任校では学年主任として約100人の生活ノートに目を通していたが,全員にコメントを残す時間はなかった。

 評価したいことがらは,個人内評価的なものから,全体のどこかに基準があるタイプのものまで,様々である。

 教科から,生活指導から,部活動まで,様々である。

 苦手な分野での発言ができるようになるまでには,相当の決意が必要だったのだろうという思いを込めて,指名する。

 全体の生徒に向けて驚きを示してしまわないように気をつけるのも忘れてはならない。

 評価をすべきときとすべきではないときがある。

 授業でひらめきが多く見られるようになったことと,

 野球の試合で敵の作戦が見破れるようになったことが重なったりすると,

 学校生活全体を通して成長してくれているのだなという満足感を覚える。

 残念ながら,それらを「いちいち」言葉として伝えられないのは,少しもどかしい気もする。

 教師というのは,異常な「記憶力」をもっているものである。

 20年前の卒業生の顔と名前は一致するし,

 何回戦の何回の裏の攻撃でサインミスをした,なんてことまで覚えている。

 「声をかけた記憶」よりも,「声をかけ損ねた記憶」の方が鮮明に残っていたりもする。

 そういう未練がましい思いは,生徒の方に何となく伝わるようで,

 卒業して何年も経ってからでも,何かを感じて思い出したように近づいてきてくれる。

 今日は,どうしてそんなことを考えてしまったのかというと,

 野球の対戦相手の監督の話が長かったからである。

 ある回は,ミーティング中に3アウトチェンジになってしまった。

 人によって,いつ,何を,どのくらい話すのかはまちまちだが,

 長すぎるのは生徒にとってよいことなのか,どうなのか。

 教師による「評価」といっても,それが常に正しいとは限らない。

 経験上,多く語った記憶があり,それが大きくは謝っていないと自覚できているような言葉を発する。

 ある程度,いい加減な性格でないと,教師は務まらないような気もしてきた。

 今日は100回くらい声をかけたかった場面があったが,多くはそのタイミングを逸してしまった。

 半分くらいはかけてもかけなくてもよい内容だったが,かけてあげるだけで効果があったかもしれない場面もあった。

 内容にも正解はなく,かける・かけないにも正解はない。

 ただ心残りだけは年を重ねるにつれて増えていく。


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野球型からサッカー型の授業への転換

 これからの教育で,授業はどのように変わろうとしているのだろうか。

 スポーツにたとえると,

 「野球型」から「サッカー型」への転換といえるのかもしれない。

 野球型とは,監督が最初から最後まで,直接的にゲームを指揮し,選手にそれぞれの役割を果たさせていくような授業で,教科担任の教師=監督のイメージである。

 攻撃の場面では,どの選手にも同じ「場」が与えられている。

 サッカー型では,試合が始まると,基本的には選手の判断でゲームが展開される。将来的には監督の脳と選手の脳が「同期」し,監督の思った通りに動かすようになるかもしれないが,同時に何人もが動いているサッカーでは,すべてを把握するのが難しい。だから,任せておく。

 攻撃の場面では,コーナーキックで背の高いディフェンスが加わることはあるが,基本的には決められた人間がシュートを撃つことができる。

 一瞬で守備と攻撃が入れ替わるために,選手全員が平等に攻撃に加わることができない。

 「活動量」としては,圧倒的にサッカーの方が多い。

 しかし,長い時間はできない。

 野球の場合は,決められた時間内に攻撃したり守備をしたりするスポーツではないので,時間が長くなったり短くなったりする。

 「思考できる時間」,「思考量」では,野球の方が多い。

 今までの教育は,どちらかというと,「野球型」に近かったのではないか。

 「~できる」ようになる時間は,人によって異なるから,クラスによって,時間が伸びて足りなくなる場合が起こる。

 「間」のなかで生きてきた人間としては,ピッチャーがセットポジションに入ってからの1~5秒間の「集中力」が勝負を左右することを体で覚えている。

 常に走り回っているようなスポーツには,あまり魅力を感じない。

 教師と生徒との大切な「間」を失わせる方向に改革が進まないように,注意を払っておきたい。


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教師の仕事は「文化的雪かき」か「雪だるまづくり」か

 読書編で紹介した村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』に登場する「文化的雪かき仕事」とは,

 「自分以外の誰かがすべって怪我をしないように,人知れず,障害を取り除くようなもの」というイメージのようですが,学校の教師の仕事は,このたとえをもとに考えると,どうなるでしょうか。

 もし,教育現場でも,子どもにいっさいの失敗を経験させないようにするには,

 教師は徹底的に降雪の除去に徹しなければなりません。子どもに雪かきをさせることもできるでしょうが,ときに中学生ではどうにもならないほどの豪雪になることもあります。

 しかし一方で,雪崩に巻き込まれそうなときでもたくましく生きていけるようにする,

 「生きる力」を身につけさせるべきだという考え方もあります。

 歩行者にとっては,下手に雪かきをされているより,雪がある程度積もっていた方が,凍結による転倒事故を防げるという考え方もあります。

 もしも,「雪を除去することがどうしても必要だ」ということを訴えたければ,

 「教科書にある内容をそぎ落とすべきだ」・・・つまり「屋根に積もった雪をおろす」ことを主張するという方法もあります。

 しかし,これは15年前に失敗しました。

 「ゆとり教育」は「日本の衰退を助長した(これからもその影響が出続ける元凶」とまで思われています。

 「雪だるま式」に膨れあがる国の借金もそうですが,日本という国は

 「すべての人にとって滅亡が致し方ないものと思われる日」が来るまで何もできないところなのかもしれません。

 読書編では,「雪合戦」ができる歴史学習が理想だと述べましたが,

 教師一般の仕事のイメージを,「雪」をモチーフにつくるとどうなるでしょうか。

 雪には「とけてなくなる」というイメージがありますから,プラスの価値を見出すことが難しいかもしれませんが。

 「さっぽろ雪まつり」の芸術作品のようなものを提供する?

 「雪」には「六花」「天花」「風花」「青女」「白魔」といった異称があります。

 太宰治『津軽』では,7種類の雪の名称が紹介されています。

 世界には形態ごとの名称しかなく,「雪」全体を表す総称にあたる言葉がないところもある。

 雪の結晶も一種類ではありません。

 めったに雪にふれ合えない関東平野に暮らす私にとって,「雪」のイメージは乏しいものですが,

 「たかが雪」という感覚ではない何かを教えること,伝えることが,教師の役割ではないかと思えてきます。

 女性の職場進出をめざすという狭い意味の運動のためではない

 「ダイバーシティ」という言葉。

 「多様性」を大切にする教育。

 知識の雪だるまにならないようにするための教育。

 もう「初夏」を感じる季節になっていますが,

 「季節と教育」というテーマで考えていくのもよいかもしれません。

 「日本人としての誇り」などいった大げさで扱いが難しいテーマも,「自然」からスタートするだけで自然に実現されてしまうかもしれないですね。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より