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どのような人間かは,批判を受けた後の態度でわかる

 ブログの世界では,涙ぐましいまでの努力で「自分を良く見せよう」「自分を高く評価してもらおう」とする記事を書いている人が見かけられます。

 批判的な記事が書かれようものなら,とにかく少しでも早く,「名誉挽回」のための記事をUPしなければ気が済まない。

 実名を明かしているブログならともかく,匿名ブログでそれを行う意味があるのかと思ってしまいますが,当人にとっては死活問題のようで,見ていて気の毒になる。

 しかし,一度露呈した本性は取り返しようもなく,後は「信じてもらえること」を願うだけになる。

 なぜ人は他人の目をそこまで気にしなければならないのか?

 それは,「孤独だから」というのが最も的を射ている答なのでしょう。

 その人は,校長に対して執拗な恨みを抱えていたらしく,「校長のせいでいじめが起こった」という趣旨の記事を書いていましたが,その主張の中には

 「非行に走る子どもは必ず学校ではいじめを起こす」という教育者としてはあるまじき認識・・・というか,実態がわかっていないことがわかる内容が含まれていました。

 いじめの状況は,強い差別意識をもつ教員の影響によって悪化するのです。

 校長のように,直接的には生徒とふれ合わない人間の影響は少ないのです。

 もちろん,差別意識をもつ校長が教員に対して同じような意識を植え付けることは考えられますが。

 過去の記事をご紹介します。

**********************

 タイトル「教師の差別意識がいじめを生み,育てる」

 ***さんは,このブログにとって,本当に最高の題材を提供してくれますね。

 荒れた学校にいる教師の「子ども観」「人間観」「教育観」は,やはり一般の感覚とはかけ離れたものがある,という印象があります。

 ***さんという人は,教育,という仕事への情熱を,どこにあると考えているのか,よくわかりません。

 以下の話は,「作り話」ではないそうですが,「直接体験したこと」ではないと思われます。

 それなのに,いい加減な「因果関係」もふくんで記述をしています。

 長いですが,とても参考になるので,引用させていただきます。

*******************

>なんと、わざわざいじめの原因を作っている校長もいました。
>信じられないでしょうが、作り話ではありません。

>その中学校では数人、登校しない男子生徒がいました。
>不登校ではありません。
>非行を働く生徒たちです。

>始めは学校に来ていましたが、街で何かやっていた方がおもしろいと感じるようになったのか、学校に来なくなったのです。恐らく、家は出るもののゲームセンターへ行っていたと思われます。

>校長は、点数稼ぎのために、教育委員会に、ウチの学校は不登校の生徒はゼロという報告をしたかったわけです。

>そこで、あれこれ策を練って、悪たちを登校させるようにしたのです。

>ところが、登校するようになった悪たちは、校内で悪さをするようになったのです。

>つまり、いじめが起こるようになったわけです。

>それまで、いじめをする生徒がいなくて、学校は平和だったのに、いじめをする生徒が登校するようになって、いじめが起こるようになったのです。

>困った生徒たちは、校長にも、何とかしてくれるように頼みに行きましたが、校長はのらりくらりと交わすだけで何の対策も取りませんでした。

>人が死ぬほどのことはなかったせいか、表面には出ませんでした。
>そのうち、校長は栄転していきました。

*******************
 
 問題です。

 1.問題行動を起こす生徒たちが登校させることに成功した「策」とは何でしょうか。

 2.なぜ,どのような「いじめ」が起こったのでしょうか。

 3.なぜ,困った生徒たちが,「校長先生」にまで,相談しに来たのでしょうか。

*******************

 できれば***さんにお答えいただきたいのですが,

 答えたら,自分にとって「都合が悪いこと」を書かざるを得ないので,

 無理でしょうね。

 誤答例です。

 1.学校に来て,気に入らない生徒や教師をどんどんいじめていいよ。と校長先生が言ったから。

 2.校長先生がすすめたから。先生に注意されることはないから,ありとあらゆるいじめをした。

 3.生徒は,校長先生がすすめたからとは知らずに,先生方がいじめを見ても何も指導してくれないので,校長のところにやってきた。


 ***さんの論理?予想?がおかしいのは,いじめが起これば,それが原因で学校に来なくなる生徒が出てくる可能性がありますね。

 そうすれば,不登校の数が増えるおそれがあります。

 だから,「不登校の数をなくす」目的で,「いじめるのがわかっていて,登校させる」というのはおかしいのです。

 普通に考えれば,「登校させたら,いじめや暴力行為が起こらないように,目を光らせておく」のです。

 でも,そういう能力が教師にない,というのが前提の話なので,仕方がないですか。

 
 ***さんのような差別意識も,子どものいじめを助長する原因になることを,若い先生方はしっかりとむねにやきつけておいてほしいと思います。

************

 いじめの対策を考えるべき人間は,もちろん校長だけではありません。生徒も。教員も。地域の人々も。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第1巻より
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    「楽毅」第四巻より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より