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小学校7年生は,どうして教師の言うことを聞けないのか

 小学校では,学級担任が替わると,学級内でのルールが変更になる場合がある。

 前の担任のときは,ゲームを持ち込んでもかまわない,授業中にマンガを読んでもかまわない,そんなユルユルだったのに,突然,ゲームはおろか,マンガの持ち込みも禁止になる。

 そんなルールの変更は,おかしい,という小学生の意見は,いたって正しいものと思われる。

 ある教師は,百人一首ばかりをして,ある教師は,新聞作りばかりをする。

 私もそんな経験をしたら,すぐに教師を・・・大人を・・・学校という所を・・・社会というものを,信じたくなくなってしまっただろう。

 そういう意味では,教師に・・・学校に恵まれていたために,今の職場で働くことができているのだと思う。

 何をしなくても同一の業者テストで高得点がとれてしまうような小学校レベルの学習では,同じ教育課程,同じ年間指導計画のもとでも,担任が替われば,授業の方法がからっと変わってしまうことも起こり得る。教師の創意工夫が自由にできる,と言ってしまえばよく聞こえるが,大きな書店の教育書のコーナーには,小学校関係のマニュアル本であふれている。みんなモノ真似で忙しい。『学び合い』患者がよい例だが,信仰している宗教が異なる教師によって子どもが対応を変えなければならないというのは,グローバル社会を生きていく上では,よい経験だと思う人がいるかもしれない。

 しかし残念ながら,教師を・・・大人を信じることができなくなっている子どもたちを,私は中学校教育の現場にいて,本当にたくさん目にしてきた。

 早い時期に,その原因に気づいたことは,私にとっても,子どもたちにとっても幸せだったと言える。

 小学校7年生というのは,教師は人によって言うことが違う人間,時間がたつと前と逆のことを平気で言える人間,それを自分ではなく他人のせいにする人間だというように,教師不信,人間不信に陥ってしまっている子どものことである。

 ある教師の言うことを聞くと,他の教師から憎まれる,というおぞましい小学校社会で生きていくなかで,心を消耗した子どももたくさん見てきた。

 教師の言うことを聞いた方が,かえって嫌な思いをする,という経験の繰り返しが,どういう結果を招くのか。

 家庭でも全く同じような状況で生きている子どもほど,気の毒な存在はない。

 中学校では,そのような「人間を信じる意味がない」という悲観的な大人への見方を根本から覆すことが最も重視すべき場所である。

 教師集団は,よく「一枚岩」という表現が使われるが,はるか昔に力を持っていた労働者グループのようなまとまりのことではない。

 その学校の教育理念,教育課程の方針を理解し,組織として協力し合い,子どもを育てようとする強い連帯感ですべての教師たちが結びつくべき場が,中学校の教育現場である。

 「義務教育ではない」「ただの予備校だ」という意識のある高校も,小学校と同じように「一枚岩」になる必要性を感じにくい職場だろうが,「荒れる生徒」はいつでも追い出せるという非教育的感性は中学校教師には存在し得ない。

 中学校で最も大切なのは入学後の2週間であるが,その期間に,「教師たちは共通した教育理念をもち,共通した指導方針の下で,お互いに協力し合いながら,私たちの教育に正面から向き合っている」ということを子どもに実感させなければならない。

 すべての教師が,すべての子どものために働いているのである。

 私は今,2つの学年の400人を対象に授業をしているが,その生徒だけでなく,授業を担当していない生徒に対しても全く同じ態度で接する場面がいくらでもある。そういう教師は,私一人だけではない。

 教師の言うことを聞く,とは,「何でも教師の言いなりになる」ことではない。

 「自分の頭で考えて行動しなさい」と中学校では指導する。

 そうやって行動したのに,何でもかんでも貶されたら,今度は「言うとおりにした方が得だ」という元も子もない結果になる。

 積極的な行動が,たとえ失敗を招いても,「次は成功できる」という励ましを教師たちから受け取ったとき,ようやく小学校7年生は中学生になれる。

 「実験をさせることに意味はない」と語る理科教師がいるようだが,この教師のもとでは,子どもは「失敗」することができない。

 つくづく気の毒なものだとため息が出る。
 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
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  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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