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大学附属中の入学式での「君が代」斉唱なしがなぜ許されるのか

 それは,教育課程の管理をする専門的な人間がいないからである。

 教師たちにその気がないだけでなく,「君が代」斉唱なしに対して,生徒や保護者にも何の違和感もないのかもしれない。

 政府は「君が代」斉唱は「強制ではない」としているが,「斉唱することが望ましい」ことに変わりはない。

 「望ましいこと」をしないことが,国立大学が独立行政法人になったとはいえ,税金でまかなわれている学校で許されるのか。

 私の第一の危惧は,市区町村,都道府県の教育委員会にあたる組織を,国立大学内に強制的に設置させる措置がとられることにある。だから,感情的な批判を招くことを大学附属の学校にはしてほしくない。

 ある人がブログで,「特別活動」という学習指導要領に示された領域の目標を踏まえてこの件についてのコメントをしているが,

 入学式,卒業式は,

 特別活動の中の,学校行事の中の,「儀式的行事」にあたる。

 特別活動の目標は,

>望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団や社会の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,人間としての生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う。

 というもので,儀式的行事は,内容として,

>学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。

 とされている。何も,生徒の自主性を育てることに重点をおく必要はない

 こうした儀式的行事の運営を生徒に丸投げしているわけもなく,

 「厳粛で清新な気分」をどのように味わわせるかといったら,一般の人の理解では

 「国歌=君が代の斉唱」が最もふさわしいとなるだろう。

 ある中学校の卒業式で,生徒の自主性に任せ,希望をきいて実施したら大混乱になり,保護者や地域の人々からの大反発で次の年には「通常に戻った」らしいが,

 「折り目」の理解が乏しい教員が幅をきかせると,そもそも教育活動自体が成立しなくなるのである。

 長年にわたり「ノーマーク」であった大学附属に向けられる目は,

 今後も厳しいものになるだろう。

 管理が教育の質を高める結果に結びつけばよいが,実際には全く逆に作用することの方が大きいので,

 「余計な管理が介入しない」ように行動するのが最も賢い方法だった。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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