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小学校7年生は,なぜゲーム機を学校に持ち込むのか

 小学校6年間の習慣が抜けきらない小学校7年生は少なくない。

 学校という場が,教育のための場になっていない小学校では,トランプとかゲーム機,携帯電話(ゲーム機として使う)の持ち込みを許可している。
 
 「休み時間」=「遊び時間」であり,決して「休むことはない」のが小学生である。

 「休み時間を入れる必要がない」くらい,授業中にいくらでも「休める」のが小学校というところなのだろう。

 小学校の教師は,授業中に採点をすることがある。

 その間,子どもは「自習」である。

 中学校ではあり得ない。

 小学校教師の中には,子どもに自習をさせておいて,自分は管理職試験のための勉強をしているという「強者」もいる。「はやく管理職試験に受かってほしい」=「担任をさせないですむ」ので管理職も応援していた,というから目も当てられない。

 小学校というところのおもしろいのは,同じ6年生でも,あるクラスはよくて,別のクラスでは禁止されていたりする。

 また,少しはまともな小学校で,学年主任の判断で学年では統一されていても,学年が変わるとルールが異なるという場合もある。

 少し離れたところに似たようなものを売っている露店がある寺院の縁日のようなものである。

 「縄張り意識」の異常な強さは,外部の人間からは異様に見えるが,逆にそれがあることによって,内部の統制をきかせることができ,学級崩壊を起こさないようにする,という独特の感覚が小学校には蔓延している。

 全く逆の話である。

 そんな発想では,「荒れる学級」「荒れない学級」は当然の結果として発生してしまう。

 面白いことに,小学校で「荒れた学級」の生徒が,中学校では「すばらしい学級」を育てるメンバーになり,小学校では「荒れていなかった学級」の生徒が,中学校に入って問題を起こしまくるというパターンも多い。

 小学校教師の中には,ある一定のルールのもとで管理しようとしても,統制力の強弱の差が大きすぎて,逆に混乱してしまう,という意見があるかもしれない。

 それは私が指導主事のことに,複数の校長先生から言われたことでもある。

 唐突に歴史の話を挿入させてもらう。

 室町幕府の政治については,「室町王権」という考え方があるようだが,当時は,九州や関東,東北の統制は緩いものでよしとされていたらしい。つまり,南北朝が統一されても,日本全体は統一されておらず,むしろそれが当たり前のことで,群雄割拠時代の戦国大名も同じ発想だった。むしろ,織田信長や豊臣秀吉のように「天下統一」を目指すという発想の方が,非常にイレギュラーなものであった,という歴史認識が定着しつつあるようだ。

 小学校から中学校への移行が,室町王権や戦国の群雄割拠の時代から,織豊政権や徳川政権への移行に似ているという発想は,教育を考えるきっかけになるだろうか。

 小学校の崩壊学級のあおりを受けて,中学校まで戦国時代が続く地域もある。

 あるいは,小学校では古代の呪術政治みたいなレベルでとどまっていて,いきなり個人の実力を問われる時代に放り込まれるために,中学校で混乱してしまうというケースもあるだろう。

 あいさつの話と同じように,小学校には「まとまり」がない。

 学校としての方針が,統一されていない。クラスによって,教えられている内容がまちまちであることも,学力向上の面でもとても問題である。

 結論から言ってしまえば,小学校では教育課程の管理ができていないということだ。

 小学校の管理職が必要ないという発想なら,小学校・中学校という区分をやめて,義務教育学校へすべて移行してしまうというのも一つの手だろう。

 ある崩壊学級出身の子どもが,中学校に入って,初めて「なぜゲーム機を持ち込んではいけないのか,理由がわかった」と言う。

 学校というのは,勉強をしに来るところである。

 友達と,一緒に話し合ったり,体を動かしたりするところである。

 自宅の部屋で,一人だけではできないことをさせるために,税金が使われているのである。

 
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    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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