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教育が野球と似ているところ・サッカーと似ているところ

 プロ野球は試合数が多いこともあって,「捨て試合」というのができる。

 また,何試合も結果が出ていない選手でも,実績や期待があれば試合に出続けることができる。

 巨人の阿部選手は,今,一塁手の練習を試合でやっているようだが,

 送球は捕れない,バント処理はできないという素人からも「へたくそ」にしか見えないプレーをしているから,ファンは心配になってしまうだろう。

 しかし,これが4連覇を狙うチームの余裕なのだ。

 一試合の重みがサッカーJリーグよりも軽く,試合に出ながら調整することができるのが野球である。

 野球は走・攻・守と,練習メニューが多く,長時間の「教育」「練習」が必要である。

 このような点で,野球には教育とよく似ている面がある。

 教育に「捨て試合」はないはずだが,これは子どもの側から見てみれば,何を意味するかは想像できると思う。

 サッカーは,なかなか点数が入らない。「1点差」や「1点で決まる」ゲームが多く,どんなに優れた攻撃のプレーも,素晴らしい守備のプレーで「良さ」が消されてしまう。

 非常に結果が出にくい,という点では,サッカーは教育に似ている。

 得点のチャンスを目前に,一瞬して味方が失点の危機を迎える場合もある。

 野球ではピンチの後にチャンスあり,と言うが,サッカーでは時間的な差がほとんどなくピンチとチャンスが入れ替わる。やっとピンチをしのいだと思ったら,立て続けにピンチが襲ってくる。

 まさに公立中学校の生活指導の現場そのものである。

 野球とサッカーが異なるのは,サッカーは味方のアシストによって得点チャンスが生まれるということである。

 野球でも,犠打で送られたランナーをヒットでかえすという方法があるが,自分が相手投手のボールを打たなければ何も始まらない。

 野球は1番打者でも「打点王は不可能」ということはないが,サッカーで「得点王」がとれる選手はポジションで決まってしまっている。

 教師は学校現場で,野球とサッカーの二択だったら,どちらのスポーツのようなチームを目指すべきなのか。

 校長は,野球とサッカーのうち,どちらの監督のように振る舞うべきなのか。

 こういうことを考えるゆとりというものが,学校現場や教師には必要である。

 私がサッカーを見ていて一番「みっともない」と思うのは,敵に倒されて大げさに痛がるシーンである。

 「ファールをもらう」=「セットプレーができる」という,作戦上,重要なポイントであることはわかるが・・・。

 今,教育現場でも,「大げさに痛がる」のがはやりだしているために,教師の指導が「浅く」なっている。

 「審判」がいないことが,スポーツと教育現場との最も大きな違いである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より