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懲戒免職の校長はどのような謝罪をすべきか

 以前にも書いたことだが,管理職試験を受けさせられる前に,

 校長たちによる研修会に参加させられ,面接練習をさせてもらった。

 私の率直な感想は,「あなたたちの学校はどうなっているの?」というものだった。

 そういう話が聞ける会もあったのかもしれないが,

 「人に話す前にまずは自分がやらなければ」という思いの方が切実だった。

 私の父が教育長と仲が良く,校長たちの評判を聞いていたせいもあったが,

 各学校のすさんだ状況は,「火を見るよりも明らか」だった。

 さて,ブログどころではないのだが,年度が替わったばかりなのに

 校長が懲戒免職になったというニュースがあり,関心を引かれたので記事にしておいた。

 一体全体,何を考えているのか?というのはだれもが思うことだろうが,

 何か一定の線を踏み越えた感じでもあり,「公立学校の教育の終わり」がここまで如実になるニュースもないとあきれかえっている。

 真面目に頑張っている教師たちが,本当に浮かばれない。

 子どもたちも,懲戒免職をくらうような校長の学校にいたという嫌な思い出が残る・・・というより,

 入学式はいったいどうするのか?

 副校長や教頭の負担はどれほどなのか?

 新校長の立場はどうなるのか?

 私企業のように,「つぶれて,終わり」とはいかない公立学校における,こうした管理職の不祥事,いや,犯罪行為は,一体どうしたらなくせるのか?

 全く危機意識をもたない,あるいはもたないですむ自治体もあるかもしれないが,少なくない教育長の悩みの種が,教師による問題行動,非行,犯罪行為である。

 ニュースでは,よく「根は真面目な人でした」とか,「信じられない」とかいう言葉が登場するが,私はこういう人物評は報道には全く必要ないと考えている。

 学校の秩序を維持するために,教師たちの信用なり威信なりが失われるような報道を避けてほしいという気持ちもわからないではないが,徹底的に具体的な行動の内容をオープンにすることしか,抑止するすべはないと思われる。

 被害者に対して謝罪するのは当然だが,過去に勤務した学校もすべて公開し,最初に担任をもったり,学年に所属した子供たちすべてと,すべての同僚に対して謝罪してほしい。

 管理職を含め,公立学校の教員たちによる犯罪行為の抑止は,過去の犯罪の詳細を,各自治体ごとにしっかり公開することで行うしかないのではないか。

 被害者の方の人権を守るという名目で,たった一度の報道で忘れ去られていくことの繰り返しによって,犯罪行為自体も後を絶たない事態になっている。

 実名報道がされる場合とされない場合があることへの疑問もある。

 県や市の自治体には,どのくらいの苦情が寄せられているのだろう。

 その抗議の声を,しっかりと本人に届けられるしくみも整えるべきである。

 さすがに4月6日の発表というのは,頭が痛すぎる。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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