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2015年4月

日本の教育の「終わり」の「始まり」

 時代が大きく移り変わっていくなかで,公立も含めて学校現場では「変らぬ価値」を追求する一方で,新たな対応にせまられている。

 それが「外部評価の目」である。

 ただの「外部評価」ではない。

 どんなに教育のド素人にでも理解してもらえるような「何か」を示すことが,その「評価」につながる,という「外部評価」である。

 「東大合格者何人」という数字は,最もわかりやすく,評価されやすいものである。

 一部の公立高校でも,それに向かって突き進んでいる実態があり,実際に東大合格の力がつけられる生徒が集まっている。

 ただし,教育の専門家ではなくてもわかるような数字を評価することが,「外部評価」の役割なのだろうか。

 残念ながら,実態はそのような状況になっている。

 そうすると,このタイプの数字がない学校では,新たに「点数が稼げるもの」を作文しなければならなくなる。

 涙ぐましい努力をした結果,理解されないで終わり,ということも起こる。

 今,最もこの「外部評価」に悩まされているのが,国立大学だろう。

 せっかく能力の高い学生を集めているのに,その力を伸ばし切れてない,という「外部評価」を受ける大学が,淘汰されていく時代になっている。

 そもそも「国立大学自体の必要性がなくなった」ことを主張する国会議員もいる。

 どうせ国が出すカネが多い少ないの違いだけだから,国立と私立の2種類がある必要はないという話には,それなりの説得力もある。

 私立大学の側からは,「どうしてこっちにくる額が少ないのか」と文句を言える。

 文部科学省は国立大学の運営交付金をカットしていく一方,予算の重点配分を行うことで,私立大学の不満をそらしているようだが,今後,国立大学の教員の質が下がっていけば,ますます「国立はいらない」という声は高くなっていく一方だろう。

 国立大学への文部科学省の嫌がらせは,思い通りに進んでいる。

 そして,国立大学におりてきている文部科学省の役人たちが,大学で何かをいじってくることで,本省での「出世」の足がかりにしている。

 国立大学というよりも,すでに文部科学省という組織の段階で日本の教育は「終わり始めている」ことに,どれだけの人が気づいているだろう。

 自分の学校の宣伝が上手な教師が増えている。

 今や,都立高校の教師には,「セールスマン」の資質が求められているのである。

 これを「新しい教師の姿」と呼ぶべきか,「教育の終わり」と呼ぶべきか。

 日本には,優れた教育を「優れている」と語れる教育学者がいないことが,最も深刻な不幸の元凶なのだろう。

 
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どのような人間かは,批判を受けた後の態度でわかる

 ブログの世界では,涙ぐましいまでの努力で「自分を良く見せよう」「自分を高く評価してもらおう」とする記事を書いている人が見かけられます。

 批判的な記事が書かれようものなら,とにかく少しでも早く,「名誉挽回」のための記事をUPしなければ気が済まない。

 実名を明かしているブログならともかく,匿名ブログでそれを行う意味があるのかと思ってしまいますが,当人にとっては死活問題のようで,見ていて気の毒になる。

 しかし,一度露呈した本性は取り返しようもなく,後は「信じてもらえること」を願うだけになる。

 なぜ人は他人の目をそこまで気にしなければならないのか?

 それは,「孤独だから」というのが最も的を射ている答なのでしょう。

 その人は,校長に対して執拗な恨みを抱えていたらしく,「校長のせいでいじめが起こった」という趣旨の記事を書いていましたが,その主張の中には

 「非行に走る子どもは必ず学校ではいじめを起こす」という教育者としてはあるまじき認識・・・というか,実態がわかっていないことがわかる内容が含まれていました。

 いじめの状況は,強い差別意識をもつ教員の影響によって悪化するのです。

 校長のように,直接的には生徒とふれ合わない人間の影響は少ないのです。

 もちろん,差別意識をもつ校長が教員に対して同じような意識を植え付けることは考えられますが。

 過去の記事をご紹介します。

**********************

 タイトル「教師の差別意識がいじめを生み,育てる」

 ***さんは,このブログにとって,本当に最高の題材を提供してくれますね。

 荒れた学校にいる教師の「子ども観」「人間観」「教育観」は,やはり一般の感覚とはかけ離れたものがある,という印象があります。

 ***さんという人は,教育,という仕事への情熱を,どこにあると考えているのか,よくわかりません。

 以下の話は,「作り話」ではないそうですが,「直接体験したこと」ではないと思われます。

 それなのに,いい加減な「因果関係」もふくんで記述をしています。

 長いですが,とても参考になるので,引用させていただきます。

*******************

>なんと、わざわざいじめの原因を作っている校長もいました。
>信じられないでしょうが、作り話ではありません。

>その中学校では数人、登校しない男子生徒がいました。
>不登校ではありません。
>非行を働く生徒たちです。

>始めは学校に来ていましたが、街で何かやっていた方がおもしろいと感じるようになったのか、学校に来なくなったのです。恐らく、家は出るもののゲームセンターへ行っていたと思われます。

>校長は、点数稼ぎのために、教育委員会に、ウチの学校は不登校の生徒はゼロという報告をしたかったわけです。

>そこで、あれこれ策を練って、悪たちを登校させるようにしたのです。

>ところが、登校するようになった悪たちは、校内で悪さをするようになったのです。

>つまり、いじめが起こるようになったわけです。

>それまで、いじめをする生徒がいなくて、学校は平和だったのに、いじめをする生徒が登校するようになって、いじめが起こるようになったのです。

>困った生徒たちは、校長にも、何とかしてくれるように頼みに行きましたが、校長はのらりくらりと交わすだけで何の対策も取りませんでした。

>人が死ぬほどのことはなかったせいか、表面には出ませんでした。
>そのうち、校長は栄転していきました。

*******************
 
 問題です。

 1.問題行動を起こす生徒たちが登校させることに成功した「策」とは何でしょうか。

 2.なぜ,どのような「いじめ」が起こったのでしょうか。

 3.なぜ,困った生徒たちが,「校長先生」にまで,相談しに来たのでしょうか。

*******************

 できれば***さんにお答えいただきたいのですが,

 答えたら,自分にとって「都合が悪いこと」を書かざるを得ないので,

 無理でしょうね。

 誤答例です。

 1.学校に来て,気に入らない生徒や教師をどんどんいじめていいよ。と校長先生が言ったから。

 2.校長先生がすすめたから。先生に注意されることはないから,ありとあらゆるいじめをした。

 3.生徒は,校長先生がすすめたからとは知らずに,先生方がいじめを見ても何も指導してくれないので,校長のところにやってきた。


 ***さんの論理?予想?がおかしいのは,いじめが起これば,それが原因で学校に来なくなる生徒が出てくる可能性がありますね。

 そうすれば,不登校の数が増えるおそれがあります。

 だから,「不登校の数をなくす」目的で,「いじめるのがわかっていて,登校させる」というのはおかしいのです。

 普通に考えれば,「登校させたら,いじめや暴力行為が起こらないように,目を光らせておく」のです。

 でも,そういう能力が教師にない,というのが前提の話なので,仕方がないですか。

 
 ***さんのような差別意識も,子どものいじめを助長する原因になることを,若い先生方はしっかりとむねにやきつけておいてほしいと思います。

************

 いじめの対策を考えるべき人間は,もちろん校長だけではありません。生徒も。教員も。地域の人々も。

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大学に所属の皆さんは,どのような考えをお持ちでしょうか?

 履歴によれば,このブログに訪問されている大学関係者は,私立大の方が多いようです。

 4月に訪問していただいたのは,

 拓殖大学

 大阪学院大学

 明星大学

 鎌倉女子大学

 東洋大学

 青森大学

 の方々でした。

 教員養成関係の人とは限らないかもしれませんが,大学関係の方に関心を持っていただけるのはうれしいことです。

 最近は,校長と教育委員会経験を持つという強みのある方々が,教員養成系大学や教職大学院に増えているようですが,採用試験に合格させやすくするという意味でも,これから増えていくことでしょう。

 このブログでは,教員採用に直接携わった先生の愚痴についてもふれていますが,

 「受かってほしい人が受かる」教員採用を実現させていくためにも,ぜひ大学の先生方には頑張ってもらいたいところです。

 できたら,大学入試改革が行われる前に,行政には教員採用試験改革に取り組んでほしいものですが,行政の試験に受かって行政の現場にいる人の経験と発想では,それは実現不可能かもしれません。

 下手に改革されると,教育現場によって最悪の事態を招きかねません。

 まずは,大学での「教師教育」の充実を重ねて,

 大学の先生が「この学生は申し分ない」という太鼓判を押した人が,スムーズに採用試験に合格し,

 「この学生には無理だろう」と判断した人が,採用試験に決して合格しないですむような状況になってほしいと願います。

 この,「申し分ない」「無理だろう」という判断がどれだけ正しくできるかは,何によって決まるか。

 それは,実際に現場に立った「教え子」を見ていただくしかありません。

 大学の先生には,送り出した後も,責任を持てるような仕組みをつくってあげてほしいと思います。


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戦後70年~未来志向の情報発信

 未来志向の発想ができるようにするために,
 
 失敗の原因を探っていく思考と同時に,

 目的が何であったか,何であるべきかを探っていく思考が重要であることはよく知られている。

 「戦後70年」をどう位置付けるのか。

 週刊東洋経済の最新号の匿名記事では,お二人の天皇の言葉が紹介され,高い評価が述べられている。

 パラオを訪問された天皇のお言葉。

>この地域の人々が,厳しい戦禍を体験したにもかかわらず,戦後に慰霊碑や墓地の管理,清掃,遺骨の収集などに尽力されたことに対して心から謝意を表します。

 そして,昭和天皇のお言葉。米国訪問が叶ったら行いたいこととして,

>貴国がわが国の再建のために,温かい好意と援助の手を差し伸べられたことに対し,貴国民に直接感謝の言葉を申し述べることでありました

 そして,

>たとえ今後,時代は変ろうとも,この貴国民の寛容と善意とは,日本国民の間に永く語り継がれていくものと信じます

 と締めくくられている。

 外交の目的とは,他国との対立を深めるためのものではないはずである。

 自国の立場を明確にすることは大事だが,

 「あなたたちの国に対して,自国が恩恵をもたらした」ことを自分から言うことが友好を深める方法ではないだろう。

 それを他国に言ってもらえるような国になること,

 他国に言葉をかけてもらえるような国になるために,

 同じような言葉を他国にかけることが重要なのだろう。

 もし日本が,

>日本が列強の植民地支配を終わらせた

>日本がアジアにおけるインフラの基礎を作った

 ということを「自ら」宣伝する国になったら・・・。

 民主主義より,天皇親政にかえることを望む人が増えるとは思えないが・・・。

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「セールスマン」を見下す非常識人間はどこで生まれたか

 「セールスマン」という言葉は子どもの頃に聞いたことがあるが,

 「笑うセールスマン」(正しくは「笑ゥせぇるすまん」?)が放映された頃を境に,あまり聞かなくなった。

 「営業マン」の方が古い呼び方かもしれないが,今は性差別と誤解されないために,

 「ビジネスパーソン」という表現になっている。

 英会話を少しだけかじれば,カタカナ語を使うときに配慮すべきことが自然と身に付くはずである。

 それに,今時,営業の社員に「売ればよい」などという話をするための「講習」があるのだろうか。

 勝手に営業職の人向けの「講習」に低い価値付けをするような人間はどこで生まれたのか。

 単純に今のビジネス社会の知識に欠けているか,

 営業職の人々を見下している人間は,

 さらに教育の世界の人間まで見下そうとしている。

 そういう人間が「上から目線が気に入らない」という趣旨の話を公開している。

 開いた口がふさがらない。

 「自分はあんな講師とは違い,いい実践をしたのだ」と自慢したいだけなのだろう。

 このような非常識な人間を生んだのは,教育現場なのか。

 教育現場に入る前から非常識なのか。

 教育現場を離れても,常識は手に入らないのか。

 教育現場にいた人間は,「セールスマン」としては使い物にならない,という話は有名で,

 シルバー人材センターですら,もてあましている「人材」の筆頭が,「元教師」である。

 職業に貴賎はない。

 しかし相手を貶め,自らも同時に貶めているのが教育関係者であるのは悲しい現実である。

 
 ちなみに,営業の仕事を極めるための基本的な考え方を紹介しているサイトは多いが,

 どこをひっくり返しても「売れればよい」などという浅はかな発想はない。


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小学校7年生が中学校1年生に「変身」できる部活動

 今日も勝ってしまったために,明日の休日もつぶれることになった。

 こんな愚痴をこぼす中学校教師は増えているのだろう。

 私のように部活動の指導ができてナンボの世界で教員生活を送ってきた人間と,部活動に熱中する中学生にしてみれば,「嫌なら小学校の先生になれば」と言いたくなる教師たちである。

 「イヤイヤ顧問を持たされている」という中学校教師,

 「すごく熱心な顧問が異動した後に,その部をもたされている」という中学校教師たちには,

 心から同情する。

 教育に熱をあげているつもりだが,部活動なんかは別の話だ,という本音を,子どもの前で言える教師など存在しないだろう。

 即,来年度での異動を管理職に申し入れるべきである。

 そして,極小規模の中学校で,他の教師たちにたよりながらの生活を送り続けることをお薦めする。

 ただ,こんな教師もいたことを知ってほしい。

 私の祖母も教師だった。50代になって,卓球部の顧問をさせられた。

 それがきっかけで祖母自身も卓球をはじめ,99歳まで卓球をしていた。

 
 小学校7年生が,中学校1年生に見える時期が間もなくやってくる。

 部活動に入部し,上級生たちに鍛えられるからである。

 もちろん顧問が「鍛える」場合もあるが,顧問の「鍛え方」が足りないと,

 上級生たちが必ず手を入れる。

 それが中学校・高校というところである。

 
 小学校でも,縦割りのグループで交流をすることがあるだろうが,

 中学校の部活動とは比べものにならない。

 1週間の中で,教科担任の教師よりも多い回数,先輩たちや顧問たちと接するのである。

  
 中学校に入学後,その生活への抱負なり目標なりを書かせるところが多いと思うが,大多数の生徒が「部活動」を充実させることを目標にしている。

 小中連携ができていた私の勤務校では,保護者の協力も得て,夏休みの部活動に小学校6年生も参加して練習をしていた。その学年の子どもが中3になったときは,それなりに強く成長していた。

 小学校で4~5年,中学校で4~5年を過ごす,という義務教育学校の成立に向けては,部活動のあり方の検討も欠かせない。

 義務教育学校において,小学校の教師も部活動の顧問になれるようにすれば,中学校教師の負担も軽減できるかもしれない。

 小学校で担任としてはぱっとしない教師でも,中学生相手の部活の顧問としては花が開く,なんていう時代が来てもよいだろう。

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小学校7年生は,人によって態度を変える

 「人によって態度を変える」ような「カメレオン人間」にはなるな,というのが中学校入学当初にたたき込まれる「基本姿勢」である。

 小学校7年生たちは,むしろ「人によって態度を変える」ことが正しいものだということを,小学校で学んできているらしい。

 担任の先生と,同じような態度で他のクラスや他の学年の先生に接すること,

 担任の先生ではなく,他のクラスや他の学年の先生に質問することを禁止している小学校があるのだろうか。

 ある小学校7年生の話では,某クラスの担任は,となりのクラスの担任を子どもの見ている前で罵倒することがあるという。おそらく,その全く逆の態度で接する相手もいるのだろう。

 子どもはおそろしいほど,親の醜い部分を学んで育つという。

 小学生と担任教師の関係も全く同じなのだろう。 

 適正規模ではない,各学年1学級のようなクラスでは,そもそも「他の先生」と会ったり話をしたりする機会がないのかもしれないが,「公平・公正な態度」を学ぶ機会のない子どもたちは本当に気の毒である。

 とてもとても単純な,「気に入った先生」「厳しいから嫌いな先生」という理由で「線引き」をする中学生も,もちろんいる。ただ中学生の段階になれば,「好き嫌いで態度を変えることで,人間としての信用をなくす」ことに気づけなければならない。

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小学校7年生は,もっとも醜い部分が元担任教師にそっくり

 遅刻して登校しても,何の悪びれもなく教室に入る子どもがいるのが不思議だったのだが,

 「仕方ない」と思えてしまうような理由がつい先日わかった。

 担任の教師がよく寝坊して,2時間目から授業が始まった,ということらしい。

 「中学校の先生は,小学校とは違ってちゃんと仕事をしている」ことがわかり始めた4月,新入生がこのような情報をもらしてくれる。

 担任の教師が出勤していないことに気づけない小学校というのは,もちろん珍しい方だと思うが,学習指導面ではなく,生活面でのだらしなさに辟易とさせられる中学校1年生の担任は少なくないと思われる。

 あいさつはできない,くつははけない,せいふくがきられない,どうぐはしまえない,わすれものはする,すぐにものをなくす・・・・小学校7年生の相手をする4月はとても体力を消耗する。

 小学校7年生があいさつをしない理由は,その小学校の授業を何度も参観している大学の先生の情報でよくわかった。

 小学校の教師があいさつをしていないというわけである。

 大学の先生が参観に来てもふんぞり返っている教師の姿は,その教え子たちの中学校入学後の姿でストレートに想像できる。全く同じ態度なのだろう。

 罪を憎んで人を憎まず,ではない。

 小学校教師を憎んで小学校7年生を憎まず,である。


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小学校7年生は,なぜ確かな学力が定着していないのか

 友達と一緒に教科書や資料集を参考にしながら,教師の指導書に書いてあるような課題の答を探していく。

 「アクティブ・ラーニングを増やそう!」などという方針を学校としてとるようになると,目にすることが多くなる可能性のある風景だと考えられる。

 一方で,「確かな学力を定着させよう」という方針のもとで,小学校ではドリルや違法コピーのプリントによる単純な繰り返し学習の時間を増やしているところが多い。

 どちらかだけではダメなことは,優れた教師だけではなく,優れた教師に教育を受けてきた人間ならわかるのだが,学校が小規模化してきているため,「当たり前」のことが今では「ごく少数の優れた教師の実践」ということになってきている。

 指導案には,「理解させる」という言葉がよく登場するが,「本を読めば理解できる」程度のことを,わざわざ学校で行う必要はない。

 学校で5分間とって取り組ませればよい課題を,家庭でやらせている小学校の教師は,おそらく「家庭学習」の意味をわかっていない。

 「確かな学力」とは,「確かな学力」を身につけてきた経験のある人間にしかわからないことが,今の教育界にとっては最大のネックとなっている。

 小学校の免許を出している,ある大学院で教職教育に携わる教師が先日も嘆いていた。

 大学院生たちが,「言葉を知らない」のだそうだ。

 学力とは,時間をかければできる,繰り返しやればいい,という単純なものではない。

 指導力のない教師たちが行っているのは,

 牛の放牧か,機械化された工場での鶏の飼育に似ている。

 小学校の学習指導要領の解説の内容の薄さについては,今後も議論が出てくるだろう。

 あれでは「解説」になっていない。だから「解説」の「解説」という本が売れるのである。

 小学生たちに,「頭を使う」場面を増やしてあげてほしい。

 「頭を使う」教材にたくさん出会わせてほしい。

 先日,ある小学生のこんな「嘆き」を読んで,つくづく思った。

>受験で中学校に入った人がうらやましい。

 当然である。出会ってきた「教材」の量と質が決定的に違うのだから。

 使っている語彙の質,持っている知識の量がまるで異なっていることにすぐに気がついてしまう。

 一般的な小学校の調子では,12年生くらいになっても学習し終えることができないような内容を,中学受験を経験した子どもたちは3~4年で習得させられている。

 タイトルと少し趣旨の異なる内容になってしまった。

 小学校7年生とは,まだ「学習とは何か」「自ら学ぶとは何か」がわかっていない子どものことである。 

 4月に出している中学校1年生の「自由課題」の作品を,別のブログで公開しているが,このような「頭を使う」課題を出した子どもから順に,中学生になっていく。


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小学校7年生は,どうして教師の言うことを聞けないのか

 小学校では,学級担任が替わると,学級内でのルールが変更になる場合がある。

 前の担任のときは,ゲームを持ち込んでもかまわない,授業中にマンガを読んでもかまわない,そんなユルユルだったのに,突然,ゲームはおろか,マンガの持ち込みも禁止になる。

 そんなルールの変更は,おかしい,という小学生の意見は,いたって正しいものと思われる。

 ある教師は,百人一首ばかりをして,ある教師は,新聞作りばかりをする。

 私もそんな経験をしたら,すぐに教師を・・・大人を・・・学校という所を・・・社会というものを,信じたくなくなってしまっただろう。

 そういう意味では,教師に・・・学校に恵まれていたために,今の職場で働くことができているのだと思う。

 何をしなくても同一の業者テストで高得点がとれてしまうような小学校レベルの学習では,同じ教育課程,同じ年間指導計画のもとでも,担任が替われば,授業の方法がからっと変わってしまうことも起こり得る。教師の創意工夫が自由にできる,と言ってしまえばよく聞こえるが,大きな書店の教育書のコーナーには,小学校関係のマニュアル本であふれている。みんなモノ真似で忙しい。『学び合い』患者がよい例だが,信仰している宗教が異なる教師によって子どもが対応を変えなければならないというのは,グローバル社会を生きていく上では,よい経験だと思う人がいるかもしれない。

 しかし残念ながら,教師を・・・大人を信じることができなくなっている子どもたちを,私は中学校教育の現場にいて,本当にたくさん目にしてきた。

 早い時期に,その原因に気づいたことは,私にとっても,子どもたちにとっても幸せだったと言える。

 小学校7年生というのは,教師は人によって言うことが違う人間,時間がたつと前と逆のことを平気で言える人間,それを自分ではなく他人のせいにする人間だというように,教師不信,人間不信に陥ってしまっている子どものことである。

 ある教師の言うことを聞くと,他の教師から憎まれる,というおぞましい小学校社会で生きていくなかで,心を消耗した子どももたくさん見てきた。

 教師の言うことを聞いた方が,かえって嫌な思いをする,という経験の繰り返しが,どういう結果を招くのか。

 家庭でも全く同じような状況で生きている子どもほど,気の毒な存在はない。

 中学校では,そのような「人間を信じる意味がない」という悲観的な大人への見方を根本から覆すことが最も重視すべき場所である。

 教師集団は,よく「一枚岩」という表現が使われるが,はるか昔に力を持っていた労働者グループのようなまとまりのことではない。

 その学校の教育理念,教育課程の方針を理解し,組織として協力し合い,子どもを育てようとする強い連帯感ですべての教師たちが結びつくべき場が,中学校の教育現場である。

 「義務教育ではない」「ただの予備校だ」という意識のある高校も,小学校と同じように「一枚岩」になる必要性を感じにくい職場だろうが,「荒れる生徒」はいつでも追い出せるという非教育的感性は中学校教師には存在し得ない。

 中学校で最も大切なのは入学後の2週間であるが,その期間に,「教師たちは共通した教育理念をもち,共通した指導方針の下で,お互いに協力し合いながら,私たちの教育に正面から向き合っている」ということを子どもに実感させなければならない。

 すべての教師が,すべての子どものために働いているのである。

 私は今,2つの学年の400人を対象に授業をしているが,その生徒だけでなく,授業を担当していない生徒に対しても全く同じ態度で接する場面がいくらでもある。そういう教師は,私一人だけではない。

 教師の言うことを聞く,とは,「何でも教師の言いなりになる」ことではない。

 「自分の頭で考えて行動しなさい」と中学校では指導する。

 そうやって行動したのに,何でもかんでも貶されたら,今度は「言うとおりにした方が得だ」という元も子もない結果になる。

 積極的な行動が,たとえ失敗を招いても,「次は成功できる」という励ましを教師たちから受け取ったとき,ようやく小学校7年生は中学生になれる。

 「実験をさせることに意味はない」と語る理科教師がいるようだが,この教師のもとでは,子どもは「失敗」することができない。

 つくづく気の毒なものだとため息が出る。
 
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小学校7年生は,なぜゲーム機を学校に持ち込むのか

 小学校6年間の習慣が抜けきらない小学校7年生は少なくない。

 学校という場が,教育のための場になっていない小学校では,トランプとかゲーム機,携帯電話(ゲーム機として使う)の持ち込みを許可している。
 
 「休み時間」=「遊び時間」であり,決して「休むことはない」のが小学生である。

 「休み時間を入れる必要がない」くらい,授業中にいくらでも「休める」のが小学校というところなのだろう。

 小学校の教師は,授業中に採点をすることがある。

 その間,子どもは「自習」である。

 中学校ではあり得ない。

 小学校教師の中には,子どもに自習をさせておいて,自分は管理職試験のための勉強をしているという「強者」もいる。「はやく管理職試験に受かってほしい」=「担任をさせないですむ」ので管理職も応援していた,というから目も当てられない。

 小学校というところのおもしろいのは,同じ6年生でも,あるクラスはよくて,別のクラスでは禁止されていたりする。

 また,少しはまともな小学校で,学年主任の判断で学年では統一されていても,学年が変わるとルールが異なるという場合もある。

 少し離れたところに似たようなものを売っている露店がある寺院の縁日のようなものである。

 「縄張り意識」の異常な強さは,外部の人間からは異様に見えるが,逆にそれがあることによって,内部の統制をきかせることができ,学級崩壊を起こさないようにする,という独特の感覚が小学校には蔓延している。

 全く逆の話である。

 そんな発想では,「荒れる学級」「荒れない学級」は当然の結果として発生してしまう。

 面白いことに,小学校で「荒れた学級」の生徒が,中学校では「すばらしい学級」を育てるメンバーになり,小学校では「荒れていなかった学級」の生徒が,中学校に入って問題を起こしまくるというパターンも多い。

 小学校教師の中には,ある一定のルールのもとで管理しようとしても,統制力の強弱の差が大きすぎて,逆に混乱してしまう,という意見があるかもしれない。

 それは私が指導主事のことに,複数の校長先生から言われたことでもある。

 唐突に歴史の話を挿入させてもらう。

 室町幕府の政治については,「室町王権」という考え方があるようだが,当時は,九州や関東,東北の統制は緩いものでよしとされていたらしい。つまり,南北朝が統一されても,日本全体は統一されておらず,むしろそれが当たり前のことで,群雄割拠時代の戦国大名も同じ発想だった。むしろ,織田信長や豊臣秀吉のように「天下統一」を目指すという発想の方が,非常にイレギュラーなものであった,という歴史認識が定着しつつあるようだ。

 小学校から中学校への移行が,室町王権や戦国の群雄割拠の時代から,織豊政権や徳川政権への移行に似ているという発想は,教育を考えるきっかけになるだろうか。

 小学校の崩壊学級のあおりを受けて,中学校まで戦国時代が続く地域もある。

 あるいは,小学校では古代の呪術政治みたいなレベルでとどまっていて,いきなり個人の実力を問われる時代に放り込まれるために,中学校で混乱してしまうというケースもあるだろう。

 あいさつの話と同じように,小学校には「まとまり」がない。

 学校としての方針が,統一されていない。クラスによって,教えられている内容がまちまちであることも,学力向上の面でもとても問題である。

 結論から言ってしまえば,小学校では教育課程の管理ができていないということだ。

 小学校の管理職が必要ないという発想なら,小学校・中学校という区分をやめて,義務教育学校へすべて移行してしまうというのも一つの手だろう。

 ある崩壊学級出身の子どもが,中学校に入って,初めて「なぜゲーム機を持ち込んではいけないのか,理由がわかった」と言う。

 学校というのは,勉強をしに来るところである。

 友達と,一緒に話し合ったり,体を動かしたりするところである。

 自宅の部屋で,一人だけではできないことをさせるために,税金が使われているのである。

 
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小学生7年生は,なぜ「あいさつ」ができないか

 中学校入学時点で教師が全力を投入しなければならないことは,子どもたちの「主として他の人とのかかわりに関すること」に関する欠点を直すことにある。それに3年間かかることもある。

 その中心は,「あいさつ」である。

 小学校第1学年及び第2学年の「主として他の人とのかかわりに関する道徳の内容」の(1)は,

>気持ちのよいあいさつ,言葉遣い,動作などに心掛けて,明るく接する。

 第3学年及び第4学年では,

>礼儀の大切さを知り,だれに対しても真心をもって接する。

 第5学年及び第6学年では,

>時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する。

 
 新1年生を迎えると,これらの定着度が著しく低いという実感を中学校教師は抱くことになる。

 「小学校7年生」たちは,これらの何を小学校で学んできたのかと,毎年愕然とする。

 グローバル人材の育成などというが,「あいさつのできない子どもたち」を大量に迎え入れる中学校では,それ以前のことから・・・全くのゼロから,スタートしなければならないことを意味する。

 そして,これらの「補習」が中学校教育での最優先事項として必須になる。

 「あいさつ」ができるようになることに関しては,最初の2週間でしくじると,取り返しがつかない。

 
 老人たちは「教師から子どもに挨拶をしよう」とおっしゃるが,

 これからお世話になる社会の様々な大人たちに対して,

 「相手から先に挨拶してくれる」と誤解させてしまう教師たちがいるから,「勘違い小学校7年生」がうようよすることになるのである。

 ときどき,廊下等で目が合うが,「先生から声をかけられるのを待つ」という姿勢の小学校7年生に出会う。

 とても不思議な習慣が定着してしまっているものだとため息をつく。

 「あいさつ」が大切なのだということを,しっかり指導されて進学してくれた「中学校1年生」ももちろんいるが,その指導が「そろばん教室」のような,習い事の場での成果だったりすることもある。

 私は「あいさつ」がしっかりできている子どもを呼び止めて,「聞き取り調査」をたびたび行っているが,「小学校の担任の先生のおかげ」と答えた子どもは皆無で,習い事や家庭でのしつけのおかげであることがわかっている。

 老人は「あいさつ」は相手に対して本当に心が開かれた状態でなされるのがよい,とおっしゃるかもしれないが,学校や就職希望先で面接試験を行っている他人に対して,「自分は心を開いていないからあいさつはしない」とか,中学校で,学年の先生でもないし,授業も習っていない先生には,「どういう人かわからないからあいさつはしない」などというのはあり得ないことなのである。

 小学校ではどうして「あいさつができない子ども」たちがたくさん生まれるのか,その原因は単純なものだと考えられる。

 小学校の教師に「一体感」がないからである。

 存在としてもそうだし,意識としてもそうだし,協働的な指導体制についてもそうである。

 小学校という大きな建物に入っていながら,子どもたちが多くの教師たちと間近で接する機会が非常に少ないことが,小学校の特徴でもある。

 「マニュアル本」を読んで,自分の教室内でだけは,楽しげなあいさつができる子どもにしながら,教室から一歩外にでると,とたんにあいさつができなくなる子どもをつくっているという自覚のある小学校教師はいないだろうか。

 「学級王国」という言葉は,何だかよさそうな場所にも聞こえるから,使うことをやめにしたい。

 「イスラム国」と同じように,「この人の書いた本が気に入っている」などというレベルの担任教師が全身にまとっている独善性を,子どもに染みこませるという,社会から見れば最凶の場である。

 「小学校7年生」が中学校で見せる特徴の一つに,教師が他の生徒と話しているときに,勝手にわりこんで問いかけてきて,教師が答えないとむくれるという行動パターンがある。

 中学校では,最初の2週間で,こういう行動がなぜいけないのかを指導しなければならない。

 小学校5年生,6年生で,「時と場をわきまえて,礼儀正しく真心をもって接する」ことを経験したことがない子どもたちに,その意味を教えなければならない。

 では,どうしたら中学校に入って,気持ちのよい「あいさつ」ができる小学生を育てることができるのか。

 一番良いことは,小学校が「学校のすべての教師が学校のすべての子どもの教育に責任をもつ」という基本方針を絶対のものにすることである。

 道徳の時間の指導は,担任教師が基本的には直接的に指導にあたるものだが,道徳教育自体は,学校全体で取り組むものであるということは,教員採用試験に合格した人間なら知っているはずである。

 だから小学校でも,間接的な意味だけではなく,できるだけ多くの教師(大人)が直接的にすべての子どもに向き合えるような教育環境を整えるべきである。

 教科担任制もその一つの方法であろうが,方法などいくらでもある。

 担任教師が教室を離れても支障がない教育体制づくりができない小学校には,災害対策などできるはずがない。

 生活指導には,その分掌の教師の多くが立ち会って,上の学年,下の学年からの意見などを交えてもよい。

 学級はもちろん,学年の枠を超えて教師たちが動く機会が小学校という職場では非常に少ないことが,孤立して精神疾患に陥る教師をうむ原因にもなっていることはよく知られている。

 子どもと保護者の「荒れ」に対応できない教師を孤立させる環境は,中学校では全く考えられない(通常の教育活動では。部活動の指導に関しては,孤立するケースもあり得る)。

 子どもたちから見て,小学校にいる教師たちが「まとまり」として見えないことが,「主として大人を中心とした他の人とのかかわりに関すること」に大きな課題を抱えている「小学校7年生」が大量に生み出される原因なのだろう。

 家族の規模が大きく,学校外で「他の人とのかかわり」が多くもてた時代では,「他の人とのかかわり」がほとんどない小学校生活を送っていてもそれほど学校で課題が見えてこなかったことが,小学校教育の質の向上に結びつかなかった原因かもしれない。

 家族の規模が小さく,学校外で「他の人とのかかわり」が少なくなっている現代で,「他の人とのかかわり」がほとんどもてない小学校生活を送っていては,「あいさつ」の習慣がつかないまま,中学校に進学することになる。

 「あいさつ」ができる学校にする,という目標らしきものは教育課程届けでは散見されるが,その方法が書かれていない。

 「全教師による協働的な教育活動」という曖昧な言葉では,何も書かれいないのと同じである。

 小学校教師たちも,・・・たとえば『学び合い』を信仰している教師たちも,自分たちこそが『学び合う』べきだと強く実感しているのではないかと思う。

 しかし,たかが『学び合い』という安易な教育方法だけで孤立するという悲劇も起こっているらしい。

 そんなことをしている場合ではない。

 まず教師全体で「まとまる」ことから始めてほしい。

 中学校側からすると,小学校教育のおかげで全教師が「まとまる」ことの必然性を実感させてもらっているのでありがたいのかもしれないが。


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この2週間で悔いのない3年間が送れる

 商売で言えば,年に一度のかき入れ時のような怒濤の2週間を無事に終えることができた。

 「無事」というのは,「何も問題となる事が無かった」という意味ではなく,

 「出るべき問題が出た」「出すべき膿が出せた」という点も含んでいる。

 2週間の締めくくりは,春季大会の審判をしていて,3回裏にランナーをダッシュで追ったのをきっかけに左太ももの裏を痛め,5回くらいからは右膝を痛めるという自爆であった。

 50歳が近づいていることを体で思い知らされる日々でもある。

 中学校1年生の担任になり,「中学校生活」の基礎を教えることに学年のメンバー全員で全力を尽くした。

 この2週間をふり返って,あらためて中学校での教育の意義を考えてみたいと思う。


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反日教育が逆効果となる転換点

 前の記事を書いていて頭に浮かんできたのが,

 中国の人々の内面の変化である。

 中国国内では,「日本は嫌い」というのが「政治的に正しい答え」なのだろう。

 その正しい答を導くために中国人が受けているのが,日本で「反日教育」と呼ばれているものである,と言われている。

 私は「反日教育」を受けたことがないので,日本で活字になっているものから想像して書いている。

 私自身は,日本で出会う中国人から,「日本は嫌い」「日本人は嫌い」という感情を出されたことは一度もない。

 全く逆の経験はたくさんある。

 だから「中国人は本当に日本のことが嫌いなのだろうか」と疑問に思う。

 韓国についても同様であるが,韓国と日中の間については,日中間とは異なる歴史的経緯があるので,ここでは中国の「反日教育」だけを焦点にあてて書いている。

 中国では,国内で問題が起きると,国民の不満をそらすために,反日ネタが使われるようになる,というのは,歴史上,中国以外の国でも行う場合がある,中学生でも知っている「歴史的な法則」というか「経験則」であり,いわゆる「反日教育」の始まりは,それを長期的かつ持続的に行う国家戦略であると解釈されている。

 ところが,共産党が示す教育内容,内容に込められた意図が,グローバル化の進展によって,十分に機能しにくくなってくる・・・・あるいは,逆効果になってしまう,という懸念を政府自体も抱いているのではないだろうか。

 歴史的経緯とは別に,

 「日本は,本当に嫌うべき国だろうか」

 「嫌いな国に,観光や買い物に行くべきだろうか」

 という問いを無意識のうちに中国の人々がするようになってくると,

 日本に向けていた(向けさせられていた)目が,中国政府自体に向くようになっていく。

 経済格差が拡大し,収入の格差が大きい中国だが,相続税が存在しない。

 累進課税のような仕組みもない。

 高齢化に向けて,当然,政府がとる政策は富裕層への課税の強化であろうと想像する。

 来日して買い物をしてくれている中国人の多くは,富裕層なのかもしれないが,

 もし「中国ではなく,日本に住みたい」と願う富裕層が増えたらどうなるのだろうか。

 日本の土地も「爆買い」されているところがあると聞く。

 中国政府と中国人富裕層の戦いは,必ず始まるだろう。

 それがあることが,10億という規模の「一般市民」と中国政府が対立しないですむ方法だからである。

 富裕層と一般市民との対立を,政府がコントロールできないようになるのもまずい。

 つくづく,13~14億の人口を支える中国政府は,すごい組織だと思う。

 「強力な指導力」なくして,まとまる規模ではない。

 日本国内の政治に対する声の中には,「日本は本当の意味での民主主義国ではない」というものがある。

 そういう意図で安倍政権を批判する人もいる。

 何十年後かに,「民主主義」が本当の意味で「危機」を迎え,実は生き残っているのは「民主主義国」ではないのかもしれない・・・と思ってしまったりもする。

 国民一人一人に自分の国をどうしようか,どう支えようか,自分と他人の権利をどう守ろうか,という強い自覚がない国は,真の民主主義国ではないということは,日本国憲法を読んでもわかることである。

 最後はようやく日本人自身のあり方に目を向けることができた。

 前回の話とつなげて,公民的分野の50分の授業の展開がつくれそうだ。


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「爆買い」の語源と中国人観光客が増えた理由

 「ばくがい」は漢字に変換できない。

 「爆買い」という新語は,中国人観光客によって生まれたものだろうか。

 なぜ「爆」なのか。

 「バカ売れ」という言葉は以前からあった。

 「バク」は「バカ」とかけられている面があるのだろうか。

 「大人買い」というのとはちょっと違う。

 バブルのときに,ヨーロッパなどで買い物をしていた日本人のイメージに近いのだろうか。

 最近,雑誌にも目を通せていないので,「爆買い」という言葉を最初に使った人がだれかも知らない。

 炊飯器など,中国では日本の何倍かの価格だそうで,親戚などの分もまとめて買っていく人がいる,というのはニュースで見たことがある。

 「観光立国」というと,「自然や文化財に親しみに来てくれる」というイメージが強かったが,

 「買い物に来てくれる」ということを想定においたビジネスも次第に拡大しているようである。

 たとえば,学校や旅行業者にとって切実な問題になっているのは,

 遠足などでの「大型バス」(観光バス)の確保が難しくなっている面。

 学校にいて,世の中の動きがよくわかる珍しい事例の一つである。

 中国人観光客のためのツアーがたくさん組まれていて,バスが大量におさえられてしまっている。

 少し前に,旅行業者が高校の修学旅行か何かのバスのおさえを忘れ,謝ればいいものを,余計な騒ぎを起こして会社と高校に迷惑をかけてしまったという事件が起こったが,今は純粋にバスが足りないようだ。

 浅草は,平日でも外国人観光客でいっぱいである。

 秋葉原では,「爆買いツアー」の観光バスの列で道路がたいへんなことになっていると聞いた。

 国の政策の成果ということでもあろうが,ここ1,2年で,何かががらっと変わった気がする。

 それはどうして起こったのだろう。

 以下はただの想像である。

 日本人は,今まで,「自分の国はすごい」「日本はとてもよい国だ」「日本人はみんないい人だ」ということを,

 「自分から」は口にしてこなかった。

 日本では「自慢」と「高慢」の区別がはっきりしない。

 「俺はすごい」という記事をブログで書くと,「上から目線だ」とか,「いきがってんじゃねー」というヤジが飛んでくる国である。

 ところが最近,「日本礼讃」系のテレビ番組が増えており,

 外国人が日本を褒める,また,日本の生活の楽しさを本当に生き生きとして語るという特集が,

 よく放送されるようになった。

 それだけでなく,そういう番組のファンが外国人にも増えている。

 もちろん(?),中国人や韓国人ではなく,ほとんどが欧米人なのだが,アジアやアフリカ,南米の人もよく登場している。

 「日本はとてもいい国だ」ということを,日本人自身が言い出すようになったことが,

 もしかしたら大きな転換点になっているのではないだろうか。 

 日本が,グローバル化し始めている証拠ではないだろうか。

 グローバルスタンダードに染まり始めたしるしではないだろうか。

 中国や韓国に遠慮して,「日本はいい国」と声高に言わなくても,

 お金を持っている中国人はたくさん来日して,買い物をしてくれる。

 単純に,安くて品質のよい製品が多く,桜や紅葉の季節は景気もよく,富士山があって,温泉があって,海に囲まれていて,海産物をはじめとした食べ物もおいしく,人はみんなやさしい・・・・。

 イギリスと比べてしまうとイギリスが気の毒になってしまうほど,全部がそろっている国はあまりない。

 そういう当たり前のことすら,日本人は口にしなかった。

 今はSNSで情報は「信頼できる筋」から容易に手に入るようになっている。

 だから各国の訪日者たちが,日本のための広告塔になってくれているのが最大の理由かもしれない。

 日本が「自分の(国の)よさを自ら堂々と誇れる国」に変わったから,中国の人々は逆に中国という国を客観的に見えるようになり,日本への親近感を高めたことが,観光客の増加の背景である,というのは間違いかもしれない。

 この内容を書いてきて,中国人が受けてきた「反日教育」が,中国政府にとって逆効果になり始めているのではないか,という気がしてきた。

 次の記事で少しふれてみたい。

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拭い去りようのない恥部を抱えた横浜市の教育の今後

 目も当てられないとはこのことである。

 道徳もなにもあったものではない。

 横浜市の教育に与えられたダメージは,はかりようがない。

 役所というところは,条件反射的に・・・というか,そうとしか動きようがないのだが・・・・

 「腐敗防止策」を練り,発表しなければならない。それも早急に。

 今回の件は,あまりにも特異なケースで,

 「あくまでも本人の問題」として片付けられてしまいそうな臭いも漂ってくるが,

 私は決して「個人の問題」ですませてはならないことだと思っている。

 どこかが完全に腐っている。

 一番まずいのは,本人たちにその自覚がないことにある。

 実は,私は「腐った果実」をある中学校で摘み取って,直接先生方に訴えたことがある。

 どれだけ理解してもらえたかはわからないが,大学附属の中学校ならではの落とし穴にもはまっていた。

 横浜市にも,橋下市長のような人物が必要なのだろうか。

 決してそうではない。

 管理職にはなっていないが,教育者として本当に優れた先生はたくさんいるはずである。

 頼みの綱はそこにあるのだが,あとは教育委員会と学校とのパイプ役が優れているかどうかにもよる。

 あと2~3日のうちに,どういう動きがあるかに注意したい。

 緊急性,重要性,適時性の3要素のうち,どれを優先すべき問題であるかが判断できる人間が組織には必要である。

 何事も人材次第。横浜の未来がかかっている。

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「頼りない先生」とどう向き合うか?

 新年度が始まって,PTA役員を決めたりする最初の「保護者会」が行われている時期である。

 私は教師になりたての頃は,この日が嫌で嫌で仕方がなかった。

 いろんな種類の香水の「臭い」で満たされる教室も耐えられなかったし,学級の代表を決めるときの気まずい雰囲気もしんどかった。

 40代後半になって,保護者と年齢が同じか上になるようになってようやく,

 「ツボ」を心得て,「気持ちの良い1年のスタート」を切ることができるようになった。

 最初の「保護者会」は,保護者との協力関係・信頼関係が持てるかどうかが決まる,とても大事な機会である。

 担任教師の心構えとしては単純で,「どんな親からも教えてもらおう・学ばせてもらおう」という姿勢がすべてである。

 教師が良い話をすれば,「聞き方」がどうかと思われる親も,身を乗り出して聞こうと変わってくれる。

 言葉というよりも,気持ちが届くかどうかが最も大切な場が「保護者会」である。

 嘘やお世辞はすぐばれる。飾ろうとする行為そのものが信頼を失わせる原因であることを知っておくべきである。

 
 さて,保護者の立場として,子どもの担任から話を聞く最初の出会いで,担任の力量が「とても不安」になってしまった方へのご助言というか,おせっかいな話を書かせていただきたいと思う。

 「頼りない」というのは,あくまでもご自分の「印象」であり,「主観」である。

 そこに,その教師が過去に担任した学級のよくない状況などの情報が加わると,「頼りなさ」が増大する。

 「頼りなさ」が不安で仕方がないという場合,

 まず第一に,「自分は担任教師から見て,子どもから見て,頼れる親か」という自問自答をする。

 答えがNOなら,「どうやって担任教師と協力し合って,子どもを育てていくか」という作戦を練ってほしい。

 YESなら,「自分を頼ってもらう方法」を考えてほしい。

 第二に,「自分の子どもは,担任教師から見て,頼れる存在か」という自問自答をする。

 NOなら,「自分は何ができるか」,YESなら,「子どもは何ができるか」を考える。

 第三に,担任教師に直接的に疑問をぶつけてみる。

 「先生が本当に困ったとき,頼れる人はどなたですか?」

 ここで,管理職以外の教師の名前が挙げられる人は,見込みがあるというか,心配はいらないと思われる。

 管理職の名前を出してしまった人には,

 「どのくらいの頻度で管理職の方とお話しされますか?」

 とたずねる。

 「ほぼ毎日です」という答えなら心配はいらない。

 そうでない場合には,

 「ぜひ私たちを頼って下さい」と保護者の側が「協力者」であることを表明していただきたい。

 相手のプライドを傷つけず,人を頼りにさせることは難しい。

 しかし,「頼れない教師」と「それが不満な保護者」の対立関係が生まれてしまうと,事態は悪化するしかなくなってしまう。

 教師の側が「チーム」として動けるようにする工夫を,保護者の方でもとっていきたい。

 それには,保護者がいろいろな教師に相談するというのもよい手である。

 教師の側が様々な情報交換を必要とする状況を作り出すという方法を,究極の「教師操縦法」としてご紹介しておきたかった。

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「14万枚の男」の勤勉性

 「金めあて」の次は・・・

 今度は横浜市の元校長である。

 「14万枚の男」と呼ばせてもらおう。

 とても几帳面な人物であったことが報道からうかがわれる。

 教科は何だったのだろうか,というのが私の関心である。

 容疑者とほぼ同じ頃に,マニラの日本人学校に赴任していた教員と知り合いなのだが,

 勤務校のこの先生あてに,何度も国際電話がかかってきて,私がたどたどしい英語で「今はいません」と応対したのを覚えている。

 どういう「知り合い」だったのかは詮索しなかったが,「独身男性は日本人学校に派遣されにくい」と誰かが言っていた理由がわかった気がした。

 よく「学校の教師は忙しくて時間がない」などというが,

 勤勉な日本人にとっての「忙しさ」には,さまざまな質のものがあることは教師になってみればよくわかる。
 
 子どものことを心配している親に対して,電話して報告しなくてもよいことを,わざわざ伝える親切な先生もいる。

 「忙しい」のに,電話するのはなぜか。

 電話するから「忙しい」わけではない。

 
 
 さて,とどまるところを知らぬ教育界の問題に,指をくわえているだけでいるわけにはいかない人たちがいる。

 税金が適正に使われているかを調べるために,税金を使って調査するしくみがつくられる。

 今後,校長の「業務報告」を日課とする教育委員会も出てくるのではないか。

 LINEを使って,区市町村内のすべての校長が,お互いの業務報告を読み合う。

 

 監視社会を招き入れようとしている不適格教員たちの「暴れっぷり」を,現場の教師としてはどこで抑えられるのか。

 「危機管理」の「危機管理」が必要性が高い公立学校というのは,果たして「教育の場」としてふさわしいのだろうか。

 「子どもに注意できない」というより,「人間として注意する資格のない」人間が人間の管理をしている場で,いったい何が教えられるというのだろうか。


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金めあての日本人学校赴任

 一部の教員の不正行為によって,真面目な教員たちの純粋な動機すら,

 「ゼニのためだろう」と勘ぐられる結果となる。

 日本人学校の元校長らが,約760万円の住宅手当を過大受給していたというニュースが報じられた。

 「日本人学校に赴任できれば,家が買える」なんて大げさな冗談を言っている先輩教師がいたが,
 
 現地の豪華な生活ぶりを耳にすることはあっても,

 実際にどのような教育をしていたのかは聞いたことがない。

 以前,どこかで記事にした記憶があるが,

 私はこの「日本人学校行き」がほぼ確実視されていた。

 区の面接を通過し,都の面接を通過して,あとは当時の文部省の面接で決まるはずだった。

 結果は,不合格。

 面接を待っている間に,廊下で熟睡してしまい,順番になっても部屋に入らなかったことが原因の一つだろうと想像する。寝起きで面接が始まったから,質問ややりとりをはっきり記憶できないほど,頭がぼやけていた。

 たったの10分ほどだったかもしれないのだが,

 「何もしないで人がいない廊下で待っている」という経験を教員生活6年間で一度もしたことがなかったことに後で気づいた。

 面接を待っている間に,睡魔に襲われてしまい,教員生活始まって以後,初めて,昼寝をしてしまったのである。

 合格するわけがない。

 ただ,しつこいほど熱心に「日本人学校行き」を薦めてくれた管理職には申し訳ないことをしてしまった。

 自分としてはさほど行く気はなかったが,「確実に合格する」ための想定問答の準備はできていた。

 面接官の中に,本心が読める人がいて,不合格にしてくれたのであれば,それはそれでありがたかった。

 もし試験に合格し,日本人学校に行って,そこが教育困難地域であれば,給料も相当に高く,たった3年間でも,すごい額のお金がたまった可能性がある。

 そうならないでつくづく良かったと思えるのは,1年後に恐ろしく荒れた学校に転勤し,そこで多くのことを学んだお陰である。

 教育の失敗の「見本市」みたいなところにどっぷりと5年間つかったお陰で,今がある。

 教育困難地域の3年間を,「お金」以外のところで想像することは困難である。

 国内に,これだけ「教育困難」な場所があったのかと感慨にふけってしまうが,そこで健気に生きていた子どもたちとの再会の場で,改めて教師をやっていてよかったと思った。

 過大に受け取ったお金は返したらしいが,それで許されてしまうのなら,

 今後もいくらでもこんな問題は繰り返されるだろう。

 「ばれなければ,やっていい」という空気を子どもに教えているのが教師だったのだ。

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懲戒免職の校長はどのような謝罪をすべきか

 以前にも書いたことだが,管理職試験を受けさせられる前に,

 校長たちによる研修会に参加させられ,面接練習をさせてもらった。

 私の率直な感想は,「あなたたちの学校はどうなっているの?」というものだった。

 そういう話が聞ける会もあったのかもしれないが,

 「人に話す前にまずは自分がやらなければ」という思いの方が切実だった。

 私の父が教育長と仲が良く,校長たちの評判を聞いていたせいもあったが,

 各学校のすさんだ状況は,「火を見るよりも明らか」だった。

 さて,ブログどころではないのだが,年度が替わったばかりなのに

 校長が懲戒免職になったというニュースがあり,関心を引かれたので記事にしておいた。

 一体全体,何を考えているのか?というのはだれもが思うことだろうが,

 何か一定の線を踏み越えた感じでもあり,「公立学校の教育の終わり」がここまで如実になるニュースもないとあきれかえっている。

 真面目に頑張っている教師たちが,本当に浮かばれない。

 子どもたちも,懲戒免職をくらうような校長の学校にいたという嫌な思い出が残る・・・というより,

 入学式はいったいどうするのか?

 副校長や教頭の負担はどれほどなのか?

 新校長の立場はどうなるのか?

 私企業のように,「つぶれて,終わり」とはいかない公立学校における,こうした管理職の不祥事,いや,犯罪行為は,一体どうしたらなくせるのか?

 全く危機意識をもたない,あるいはもたないですむ自治体もあるかもしれないが,少なくない教育長の悩みの種が,教師による問題行動,非行,犯罪行為である。

 ニュースでは,よく「根は真面目な人でした」とか,「信じられない」とかいう言葉が登場するが,私はこういう人物評は報道には全く必要ないと考えている。

 学校の秩序を維持するために,教師たちの信用なり威信なりが失われるような報道を避けてほしいという気持ちもわからないではないが,徹底的に具体的な行動の内容をオープンにすることしか,抑止するすべはないと思われる。

 被害者に対して謝罪するのは当然だが,過去に勤務した学校もすべて公開し,最初に担任をもったり,学年に所属した子供たちすべてと,すべての同僚に対して謝罪してほしい。

 管理職を含め,公立学校の教員たちによる犯罪行為の抑止は,過去の犯罪の詳細を,各自治体ごとにしっかり公開することで行うしかないのではないか。

 被害者の方の人権を守るという名目で,たった一度の報道で忘れ去られていくことの繰り返しによって,犯罪行為自体も後を絶たない事態になっている。

 実名報道がされる場合とされない場合があることへの疑問もある。

 県や市の自治体には,どのくらいの苦情が寄せられているのだろう。

 その抗議の声を,しっかりと本人に届けられるしくみも整えるべきである。

 さすがに4月6日の発表というのは,頭が痛すぎる。

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大学附属中の入学式での「君が代」斉唱なしがなぜ許されるのか

 それは,教育課程の管理をする専門的な人間がいないからである。

 教師たちにその気がないだけでなく,「君が代」斉唱なしに対して,生徒や保護者にも何の違和感もないのかもしれない。

 政府は「君が代」斉唱は「強制ではない」としているが,「斉唱することが望ましい」ことに変わりはない。

 「望ましいこと」をしないことが,国立大学が独立行政法人になったとはいえ,税金でまかなわれている学校で許されるのか。

 私の第一の危惧は,市区町村,都道府県の教育委員会にあたる組織を,国立大学内に強制的に設置させる措置がとられることにある。だから,感情的な批判を招くことを大学附属の学校にはしてほしくない。

 ある人がブログで,「特別活動」という学習指導要領に示された領域の目標を踏まえてこの件についてのコメントをしているが,

 入学式,卒業式は,

 特別活動の中の,学校行事の中の,「儀式的行事」にあたる。

 特別活動の目標は,

>望ましい集団活動を通して,心身の調和のとれた発達と個性の伸長を図り,集団や社会の一員としてよりよい生活や人間関係を築こうとする自主的,実践的な態度を育てるとともに,人間としての生き方についての自覚を深め,自己を生かす能力を養う。

 というもので,儀式的行事は,内容として,

>学校生活に有意義な変化や折り目を付け,厳粛で清新な気分を味わい,新しい生活の展開への動機付けとなるような活動を行うこと。

 とされている。何も,生徒の自主性を育てることに重点をおく必要はない

 こうした儀式的行事の運営を生徒に丸投げしているわけもなく,

 「厳粛で清新な気分」をどのように味わわせるかといったら,一般の人の理解では

 「国歌=君が代の斉唱」が最もふさわしいとなるだろう。

 ある中学校の卒業式で,生徒の自主性に任せ,希望をきいて実施したら大混乱になり,保護者や地域の人々からの大反発で次の年には「通常に戻った」らしいが,

 「折り目」の理解が乏しい教員が幅をきかせると,そもそも教育活動自体が成立しなくなるのである。

 長年にわたり「ノーマーク」であった大学附属に向けられる目は,

 今後も厳しいものになるだろう。

 管理が教育の質を高める結果に結びつけばよいが,実際には全く逆に作用することの方が大きいので,

 「余計な管理が介入しない」ように行動するのが最も賢い方法だった。


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自分新聞紙面づくりで「ふり返り力」を高める

 子どもの自尊感情を高めるには,自分自身の行動に対して,他の人から見ても

 「よくやっている」「頑張った」「よい行いだ」と評価されるようなことを,自分自身で

 きっちり認め,励ます,という毎日の積み重ねが効果的です。

 実物をつくる必要はない(もちろんつくってもかまいません)のですが,

 「自分新聞づくり」のイメージでふり返ることができるとよいでしょう。

 1日でも,隔日でも,週2でも,週1でもかまいません。

 まず,トップニュースは何でしょう。

 コラムのテーマは何でしょう。

 「気になる人」の近況はどうでしょう。

 「特集」を組むとしたら,どのようなテーマにするといいでしょう。

 取材はどうしよう。

 だれにインタビューをしようか。

 「声」(投書)の欄はどうしよう。

 新聞作りには,いろいろと下準備が必要です。

 もちろん全体の構想からです。

 編集長は自分だし,記者も自分。読者も自分です。

 これを,「人に読んでもらうもの」にしてしまうと,

 どうしても「見栄」とかが芽生えてしまって,よい新聞にならなくなる可能性があります。

 新聞をつくることが目的ではなくて,

 自分をふり返り,よりよい行動,生活,新しい目標などを見つけていくことが目的です。

 人は,どうしても手段の方にふりまわされて,いつしかそれ自体が目的になってしまうことがあります。

 ですから,頭の中で紙面構成を考えるだけでもよいのです。

 想像力を豊かにすることも大切です。

 「声」の欄には,「20歳の自分より」「30歳の自分より」「40歳の自分より」「臨終間際の十分より」

 など,たくさんの登場人物が想定できるとよいでしょう。

 自分が,「たくさんの自分」に見守られている感覚,

 これを「自尊感情」としてイメージさせてみたいと思っています。

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自尊感情を高める教育

 何となく楽しそうに「学び」の時間を過ごさせることは,それほど難しくない。

 難しくないことには,何かとても大事なものが暗黙のうちに切り捨てられていることを知っておくべきである。

 難しくないと言われていることを実践したときにうまくいかなかったときは,とても大事なことに気づくチャンスとなる。

 今,最も難しいことは,子どもに本当の意味での自尊感情を持たせることだと考えられる。

 わざわざ「本当の意味での」と書いたのは,「自尊」と「過信」・「うぬぼれ」・「自己満足」を混同してもらっては困るからである。

 企業による顧客満足度を向上させることと,顧客個人の自尊感情が高まることはイコールではない。

 企業は,ただの「個人」にこちらを向かせて,「顧客」に変化させる必要がある。

 教師も,ただの「個人」を授業に参加させて,「学習者」に変化させる必要がある。

 「顧客」と「学習者」は,何が異なるかは言うまでもない。

 教師が自分の教育活動への「満足度」を得ようとしたときに,それがただの「人気取り」になっていないかどうか,真剣に吟味すべきである。

 本当の意味での自尊感情が高まるためには,「主体性」を自覚できる「個人」になる必要がある。

 「主体性」が自覚できる「個人」とは,「自分」を「他人」として見ることができ,「他人」としての「自分」に対して客観的な評価ができる人のことである。

 「いや,それではますます,自分のことを嫌いになったり,深く悩んでしまったりする子どもが増えてしまう」

 と考える教師も多いだろう。

 実際にそういう子どもたちに接している教師のなかには,

 「そういう子どもと接しないですむ」方法をいろいろ考えるようになる。

 そういうのを「逃げの生活指導」と呼ぶ。

 「逃げの姿勢の教師」の前では,子どもは安心して自暴自棄になれない。

 問題が先送りされるだけである。

 教師が対峙すべき人間とは,「悩める子ども」である。

 子どもに自分と向き合う姿勢をとらせると,教師の仕事は増える。

 しかしそれこそが教師の仕事である。

 教師が考えるべきことは,

 「自分に向き合って悩み苦しむ子ども」にどのような教育的手立てができるか,ということである。

 具体的には次の記事で方法の一つをご紹介したい。

 子ども同士でわいわいやらせておくだけの場は,保育所と同じである。

 保育所でも,「見捨てられる」子どもはいない。

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教育が野球と似ているところ・サッカーと似ているところ

 プロ野球は試合数が多いこともあって,「捨て試合」というのができる。

 また,何試合も結果が出ていない選手でも,実績や期待があれば試合に出続けることができる。

 巨人の阿部選手は,今,一塁手の練習を試合でやっているようだが,

 送球は捕れない,バント処理はできないという素人からも「へたくそ」にしか見えないプレーをしているから,ファンは心配になってしまうだろう。

 しかし,これが4連覇を狙うチームの余裕なのだ。

 一試合の重みがサッカーJリーグよりも軽く,試合に出ながら調整することができるのが野球である。

 野球は走・攻・守と,練習メニューが多く,長時間の「教育」「練習」が必要である。

 このような点で,野球には教育とよく似ている面がある。

 教育に「捨て試合」はないはずだが,これは子どもの側から見てみれば,何を意味するかは想像できると思う。

 サッカーは,なかなか点数が入らない。「1点差」や「1点で決まる」ゲームが多く,どんなに優れた攻撃のプレーも,素晴らしい守備のプレーで「良さ」が消されてしまう。

 非常に結果が出にくい,という点では,サッカーは教育に似ている。

 得点のチャンスを目前に,一瞬して味方が失点の危機を迎える場合もある。

 野球ではピンチの後にチャンスあり,と言うが,サッカーでは時間的な差がほとんどなくピンチとチャンスが入れ替わる。やっとピンチをしのいだと思ったら,立て続けにピンチが襲ってくる。

 まさに公立中学校の生活指導の現場そのものである。

 野球とサッカーが異なるのは,サッカーは味方のアシストによって得点チャンスが生まれるということである。

 野球でも,犠打で送られたランナーをヒットでかえすという方法があるが,自分が相手投手のボールを打たなければ何も始まらない。

 野球は1番打者でも「打点王は不可能」ということはないが,サッカーで「得点王」がとれる選手はポジションで決まってしまっている。

 教師は学校現場で,野球とサッカーの二択だったら,どちらのスポーツのようなチームを目指すべきなのか。

 校長は,野球とサッカーのうち,どちらの監督のように振る舞うべきなのか。

 こういうことを考えるゆとりというものが,学校現場や教師には必要である。

 私がサッカーを見ていて一番「みっともない」と思うのは,敵に倒されて大げさに痛がるシーンである。

 「ファールをもらう」=「セットプレーができる」という,作戦上,重要なポイントであることはわかるが・・・。

 今,教育現場でも,「大げさに痛がる」のがはやりだしているために,教師の指導が「浅く」なっている。

 「審判」がいないことが,スポーツと教育現場との最も大きな違いである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より