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教師は初任校のイメージを捨て去れない

 何%くらいの教師にあてはまるかわからないが,私などは教育実習と同じくらい,初任校での6年間の教育活動と研修が現在の教師としての自分に対し,いろいろな意味で大きな影響を与えていると感じている。

 初任校での教育活動は,多くの教師にとっては未熟なものであり,「教師として学んだことが多い」時期であるということは,そこで実現できなかったことが多く,それを悔いている人が少なくないと思われる。

 もう当時の生徒に当時の教育を繰り返すことはできないから,当時できなかったことはどうしようもなく,だから「悔い」に過ぎないわけだが,同じ「悔い」を抱かないようにする「働き」を教師はしていくはずである。

 ただ,その「悔い」を引きずりすぎると,対象となる子どもは変化しているのに,「昔こうだったらよかったはずだ」ということにこだわって,結局は同じ質の過ちを犯すことがあることを忘れてはならない。

 ある大学の教師は,その傾向が非常に強いというのが私の直観である。

 授業が成立しない。その「無力感」はすさまじいものだったはずである。

 だからこそ,他の教師の多くが肯定してきたことを,堂々と否定している。

 信念をもって教育を語る人間には,注意が必要である。

 自分ができなかったことを,次の世代の教師にたくそうとする気持ちはわからないでもないが,

 それは教育する相手がどういう状態にあるかによって変化する。

 一緒に教育する仲間がどういう状況にあるかによっても左右される。

 周囲に理解されない教育活動を展開して,「教祖」に泣きついている様子が堂々と公開されているが,

 その「教祖」の教師としての生い立ちも語られているから,冷静に自分を見つめて新たな一歩を踏み出すべきである。

 その「教祖」については,学校で学ぶ「知識」に対する浅い理解が最近の記事で露呈している。

 「調べればわかる」という程度のものを「知識」ととらえていられるのは,レベルの低い大学だけである。

 「知識」とは,それぞれがバラバラで孤立したものではそもそも役には立たない。

 自分の頭を使って考えて,「これは何かと似ている」「これはあれとはこういうところが違う」などと

 整理しながら,一定の理解の積み上げの上で「使える知識」になっていく。

 「知識軽視の教育」が,創造性すら奪っていくことを想像できない教師はいないはずである。


 アクティブラーニングを多く経験させれば,子どもが主体的に学べるようになる,というのは大きな間違いである。

 子どもが主体的に学ぶものがアクティブラーニングである。

 形式主義的な「こうすればこうなる」なんていう頭を使わない話ばかりをしても,現場には何の役にも立たない。

 まず教師自身が,「これがアクティブラーニングだ」と実感を持てる学びをしてみたらどうか。

 もう大学の先生になってしまっているが,ある番組で見た授業は,

 「アクティブラーニング」に見えるただの「詰め込み教育」だった。

 今後,子どもの主体性や学習意欲をますます失わせるアクティブラーニングが増えていくことを危惧している。

 「どうせこんな知識は子どもの役に立たない」という思いを初任者のときに抱いてしまった教師は,ボタンのかけ違いに気づかなければならない。
 
 過ちを繰り返すことを避けてもらいたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より