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「見える学力」という教育用語

 「見える学力」という言葉を初めて使った人物がだれかをどこかの本で読んだ記憶はあるが,その人物も本のタイトルも忘れてしまった。

 「見える」「見えない」という言葉を使うときは,

 視覚障害を持たない人にとって「見える」か「見えない」か,「判断できる」か「判断できない」かをさしていることが一般的だと考えられる。

 視覚に障害があり,「見る」ことができない人にとっては,

 「見える」はずの学力も「見えない」。

 しかし,「見えない」はずの学力は「見えている」のかもしれない。

 日本語は,体の機能を示す言葉で何かをたとえる慣用句が多い。

 こうした慣用句は,障害がある人にとっては,気にかかることもあるのだろう,と知りつつも,多くの場合は障害がない人といるわけだから,何気なく使ってしまう。

 障害がある人にとっては,どのような気持ちになることがあるのだろう。

 両手を切断してしまっている人がいるところで,

 「この子どもたちは本当に手がかからないですむ」

 「今日は手ぶらで帰る」という言葉は使いにくい。

 「言い換え」が必要である。

 こういう「配慮」をすることの意義について,道徳の時間に学ぶことはできても,

 実際に「配慮」すべき場面を体験しないと,なかなか「身に付かない」のが道徳的実践力である。

 道徳的実践力は,失敗体験によって生み出されることもある。

 どういうことを考えていたか,ということと,どういうことをしてしまったか,ということは,

 全く別次元のことである。BではなくAと考えていても,AではなくBにしてしまうようなことはよく起こる。

 本日,ある会議の場で印象に残ったことだが,

 だれかが話を始めると,そちらの方に注意をさっと向けられる人と,そうでない人がはっきりと区別できる。

 「話を聞く」ための集中力というか,切り換え力というものは,どのようにして育てることができるのだろうか。

 中には,おしゃべりをしているくせに,よく話も聞けている,という子どももいるが,少数派だろう。

 学力のある子どもの特性は,おしゃべりをしていても,大事な話が始まった瞬間に止められることにある。

 逆は言うまでもないし,なるほど,と思っていただけるだろう。

 「聞く力」は,基礎の中の基礎である。

 小学校では,「聞いて理解する力」に頼れないために,あるいは,記憶を補うために,板書を多用する。

 残念ながら,これは子どもたちに「聞かなくてもコトは足りる」ことを刷り込みされてしまう悪癖であると言ってよい。

 中学校では,「聞く力」がないと,求められていることと全く別の答え方をしてしまうことがある。

 「見える学力」をつける基本が,実際に見えることとは無関係のことにあるとは,なかなか気づかれにくい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より