ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 「他人を見下す人間」を教師にしてはならない | トップページ | 移行期間の中学校・道徳をどうするか?~「心情」「判断力」→「判断力」「心情」~ »

教育を変える真の反知性主義とは

 教育現場にも,「反知性主義」が台頭してくるかもしれない。

 そのために,まずは「知性とは何か」についての共通認識が形成されることを望む。

 内田樹による「知性」の仮の定義は,「知の自己刷新のこと」であるという。

 自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えるはたらきを,「知性」と考えている。

 とすると,「反知性主義」という言葉の意味はわかりやすい。

 反知性主義者たちは,無知であるよりも,むしろ知識をたくさん持っていることが多い。

 しかし,なぜ「反知性」と呼ばれるのか。

 それは「ことの理非の判断を他人に委ねる気がない」からである。
 
 だから,反知性主義者による政治はおそろしいものになる,というわかりやすい理屈である。

 反知性主義者は,民主主義の破壊者になるおそれがある。


 教育論・教育問題のカテゴリーに参加しているブログの記事内容についてはどうだろうか。

 いつもびくびく他人の目を気にしながら,

 無知な人の話題を好んで取り上げている人間がいるが,

 なぜこういう人間から知性が感じられないのか。

 「自らの知的な枠組みが変わる」プロセスが,「お勉強」のおかげという,

 何とも可愛らしい「学生風」の姿勢は憎めないのだが,

 知識が増せば知性が増す,というわけではないところがおさえどころである。


 さて,アメリカ生まれの「反知性主義」には,ネガティブではない意味での存在意義がある。

 キリスト教を背景としたラディカルな平等意識にも支えられる「反権力」的な動きである。

 
 こうした動きのあるアメリカに日本が従属せずにいられるためにも,

 これからの教育には,「議論の場」が欠かせない。

 民主主義を地でいくような活動の場が,日本の教育界には乏しかった。

 ディベートをやればいい,という単純な話ではない。

 議論はゲームのため,勝ち負けのために行うものではない。

 剣道がなぜオリンピック競技にならないかについての簡単な説明を読んだ。

 勝ち負けを競うものになってしまうことで,剣道本来の理念が失われることを危惧しての判断だという。


 知性と権力との固定的な結びつきに対する反感を,単なる反感で終わらせずに,

 相手に負けないだけの知性をもって堂々と対峙できる「真の反知性主義者」が日本で誕生できるかどうか。

 

 今後,「反知性主義」は,正しい意味・意義が理解されないままで耳に残っていくキーワードの一つになっていくかもしれないが,少なくとも「批判のための批判」に陥らないように,

 研ぎ澄ました目で「教育論・教育問題」を吟味したいものである。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 「他人を見下す人間」を教師にしてはならない | トップページ | 移行期間の中学校・道徳をどうするか?~「心情」「判断力」→「判断力」「心情」~ »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

ブログネタ」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

グローバル人材」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 教育を変える真の反知性主義とは:

« 「他人を見下す人間」を教師にしてはならない | トップページ | 移行期間の中学校・道徳をどうするか?~「心情」「判断力」→「判断力」「心情」~ »

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より