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日本語→ドイツ語→英語→日本語

 →(矢印)はさまざまな意味の記号として使えます。

 A→Bという書き方で,AとBはどのような関係にあることが想定できるか,中学生にたずねてみた結果だけで30通り以上ありました。

 では,タイトルの→は何を意味するものでしょう。

 こういう経験がある方は,想像できる話かもしれません。

 「こういう経験」というのは,「教養」にあたる事柄であると言えるかもしれない。

 最初の「日本語」とは何でしょう。

 実はこれが「教養」という言葉なのです。

 「教養」という日本語の意味に最も近い外国語は何か。

 「教養」を和英辞書で調べると,「culture」になってしまう。

 でも,何だかしっくりと来ない。

 ドイツ語ではどうか。Geogle翻訳だと「kultur」となってしまいますが,

 「Bildung」が最もよくあてはまると書いているのが村上陽一郎です。

 新潮文庫の『あらためて教養とは』に出てくる話です。

 ドイツ語の「Bildung」は,英語だと「Biulding」。

 「造り上げる」こと。がっちりとした基礎のうえに,自分という人間をしっかりと造り上げるというニュアンス。

 そして,話は飛躍するようですが,この「しっかりと造り上げる」ための基礎に当たる部分を,

 「修身」でつくろうとする発想が,福沢諭吉にはあった。

 私が授業でよく口にするのは,幕末から明治初期の人物ほど,猛烈に学ぶ意欲をもっていた人たちはいないだろうと。しかも,それが単なる「モノ真似」ではなく,確固たる「基礎」のうえに何かを造り上げようとしていたこと。

 「素養」という呼び方もありますけれども,現代では,なぜ「素養」という言葉があまり使われなくなってしまったのか。

 「教養」という言葉があるが,本気で「素養を教える」熱意をもっている人間がどれだけいるのか。

 「土台をつくる」という意識が,どれだけあるのか。

 「教養」が軽視されているように感じるのは,アクティブラーニングという,

 義務教育では当たり前に行われてきたことを,大学で取り入れようと躍起になっている人たちが増えてきたからでもあります。

 大学で,「教養」を教えることができる人材が払底しつつあるという意味でもあるのでしょう。

 先日,日本語が大変上手なドイツの方とお話しする機会がありました。

 アメリカ人やイギリス人にはない,日本人に似たような感性があるのは,言語とも関係があるのかもしれません。

 「教養」のイメージの違いが国民性に大きな影響を与えているような気がしましたが,日本人のアメリカ人化が着着と進んでいるようにも思えています。

 厳密に言えば,「アメリカ人」化ではありませんが,その点についてはいずれ・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より