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教育的ではない劣等感克服法

 アドラー心理学でいう「共同体感覚」(日本語では「社会的関心」と表現する方が近い)に乏しく,相手の人格を否定する人間は,その共同体感覚を成長させるためのはたらきを実践することができない。

 中学校の教師の場合は,教師間・教師と子供の間・教師と保護者などとの間で協力的関係を築かなければ,すぐに学校が荒れてしまうから,否応なしに共同体感覚が体得できる(できない人間は教師からも子供からも「ダメ教員」の烙印を押される)が,職場環境が異なる他の校種では,自分さえよければよいと考える教師でも,その問題が表面化しにくい。

 自分の能力が高い(たとえば音楽ならピアノが上手に弾けるとか)というだけで教師になれるのなら,大学で免許を取得する必要はなく,採用試験も実技検査だけでOKだろう。しかし,それだけの人間に教師の資質があるとは言えないのは当然のことである。

 子供を教師など大人たちの協力関係の中で育て,子供たち自身に協力的な関係の大切さを実感させようとする教育的意図がはたらきにくい校種の先生方は気の毒だと思うが,少なくともその意義自体は理解しておいてほしい。

 「自分さえよければいい」と考える人間の話法は,

 「自分はああいう人間にはなりたくない」というものである。

 「こういうことをしない人になりたい」ではなく,「こういう人になりたくない」という

 「人間否定」型の自己教育力しかない人には,教師をつとめる資格はない。

 これも気の毒なことだが,「人間そのもの」ではなく,その「行為」が問題である,ということに気づいていながらも,相手の存在そのものを否定してしまう人間がいる。

 こういう人間は,少なくとも「人を育てる」資質が欠けていると自覚した上で,子供に接してほしい。

 
 人間は,それぞれ何かしらの劣等感を抱いて生きている。

 たとえば,幼少期に,恵まれた教育環境で育ってこなかった人は,それが原因で自分に大切なものが欠けているのではないかという不安にさいなまれる。

 その不安を解消し,劣等感を克服するために,人は様々な行動を起こす。

 最も低レベルな克服法が,「自分よりも下のレベルの人間」「どうしようもない人間」ばかりに目を向けて,相対的な優越感を得るというものである。

 「こんな人間にはなりたくない」というより,「自分はこんな人間ではないから,まあいいか」というレベルである。

 自己を成長させるというイメージは存在しないから,語る言葉に「教育らしい」ものが登場しない。

  
 人間は,自分が「劣っている」という主観的な認識があるから,成長する機会を与えられる。

 劣等感がなくなったとき,人間の成長はストップしてしまうと考えて生きることが大切である。


 教育という場の成長のプロセスで最も大切なのは,「自分だけに有益になること」に邁進させるのではなく,「自分だけではなく,他者や集団にとっても有益になること」を意図させることである。

教育の難しさは,その意義を理解しつつも,経験が浅かったり指導力が不足してしたりするために,すぐに逆効果となる言動をとってしまいがちであることにある。

 『学び合いが大切』と言ってしまった瞬間に,何が損なわれてしまうのかを次の記事で述べることとする。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より