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「~し合う」ことを強制する環境の危険性

 一部の小学校で,子供同士による「監視社会」を形成しているところがあるのをご存じだろうか。

 教室に入ると,一目瞭然である。

 「コの字型」に座席を配置することによって,子供同士が相手の顔を見て話ができるにする,という「教育的配慮」をねらったものである。

 この問題については以前の記事で書いたので,詳しくは省略するが,この座席が「とても嫌だ」と考える子供がいることだけは知っておいていただきたい。

 「コの字型」の座席にしても,教師が一方的に話を進めたり,一生懸命に板書をつくったり,意見を出させたくてもなかなか出てこなかったりという「指導力不足」が背景にあると,むしろ逆効果の方が大きいことは言うまでもない。

 日本という国は,同調性圧力がとても高いことが特徴的であると言われる。

 「意見の多様性」よりも,「みんなに合わせること」を重視し,「行動の多様性」は認めない。

 「~合い」という言葉がとても好きである。

 しかし,次の言い方にどういう問題があるかと問えば,すぐに気づいてもらえると思う。

 ある人に対して面と向かって,「私たち,信頼し合いましょうね」と声をかける。

 これで違和感がない人は,次の例ならどうだろう。

 松葉杖をついた人が,近くにいた人に,「私たち,助け合いましょうね」と声をかける。

 教員同志が,職員室で,「私たち,尊敬し合いましょうね」と声をかけ合う。

 『学び合い』や「コの字型座席」も,これらの事例と同じで,

 「学び」を強制する危険性があることを知っておくべきである。

 そもそも学校は「学び」を強制する場だろうと思われた方は,ご自分が大学生だったときのことを思い出してほしい。最近の大学は,出席も厳密にとるし,休講したら必ず他の日に講義をしなければならないそうだから,昔の大学をイメージしてほしい。もちろん,中学校時代でも高校時代でもいい。授業中に,いわゆる「内職」=「ほかのことができた」経験はないだろうか。「ぼーっとしたり,居眠りできた」経験はないだろうか。

 『学び合い』は,学校の教育活動の中でも最も強制力が高いタイプの学習形態であり,子供たちはその牢獄から抜け出しにくい。

 だからこそ,『学び合い』に飛びついている教師も少なくないと推察する。

 「コの字型」と同じで,サボっている子供は他の子供にすぐにばれてしまう。

 子供同士の監視が可能となり,「親切」な子供は教師に訴えてくれるだろう。

 よく理解できていない子供も「強制参加」となり,理解できていないことがさらされる結果となる。

 計算が遅いこと,確実でないことが,教室内で「周知の事実」となる。

 このような「~合い」が強制された場で学習指導を受けた子供たち・・・・特に,教師が「見捨てたくない」と強く思うような,学習の進度が遅れがちな子供たちに,「共同体感覚」「社会的関心」を育むことは可能だろうか。

 アドラー心理学における「共同体感覚」とは,「自己の貢献感・有意義感」と「自己と他者に対する信頼感・安全感」と「所属感」の3つを同時に持つことを言う。

 生活の場ではなく,学習の場でこれらを意識させることは,たとえば個に応じた教材をすぐに作成して提示できるような,相当の指導力のある教師でないと難しいだろう。

 中部圏の7大学が平成24年からの3年間で行った,文部科学省の「産業界ニーズ事業」の成果が昨年の11月に出されている。

 そのタイトルは『アクティブラーニング失敗事例ハンドブック』。

 冒頭に,アクティブラーニングの失敗結果と失敗原因の図解がある。

 今後,アクティブラーニングが教育現場に広がっていくときに,教育力を低下させないための指針の一つになるだろう。

 まずは,『学び合い』を実践している人たちに,その「失敗」を自覚してもらう手立てとしていただきたい。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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