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事務方の言いなりになる指導主事はいらない

 この4月から,指導主事になられる方でしょうか。こちらのブログの指導主事関係の記事へのアクセスが増えています。

 そこで,新任の指導主事の方に,応援のメッセージをお送りします。

 なお,私は3年しか指導主事経験はありません。ただ,指導主事の事務的な仕事は,1年あれば,すべて習得できます。仕事はすべて文書で残りますから,「黙って勝手にやっていた」という学校のような仕事はありません。電話による苦情もすべて記録にとるでしょうし,その対応内容も残っているはずです。4月の最初の1週間で,過去2年間分の記録全部に目を通しましょう。歓迎会を開いてもらうのは,その後にしてもらって下さい。
 特に苦情については「常連さん」もいるので,先輩からしっかり引き継いでおくことが重要です。

 都道府県や市区町村,さらにそれらの規模によって,指導主事の職務は(配置されている人数との関係もあり)さまざまでしょうが,最も大切にしてもらいたいのは,
 
 「現場の声を行政に生かす」ことです。

 昔,ある指導主事の会で,人事部の関係者に対して,「高い給料をもらっているのに,指導力不足だったり,やる気のない退職間際の教員たちをどうにかしてくれ」と発言した女性がいましたが,「これはやらせか?」と思うほど衝撃的なものでした。

 待遇の改善(能力主義の給与体系)を実現するために指導主事になる人はいないと思いますが,どんなに長時間労働をしても,何の手当もつかない「うまみ」を行政は利用しているわけで,むしろ「時間給」に換算すると,給料が減る仕事につくわけですから,ちょっと別の給与体系を用意してもらわないと,なり手がいなくなる恐れがあるのが指導主事という仕事なのですけれど・・・。

 話がそれました。

 「現場の声を行政に生かす」とは,どのようなことか。

 行政・・・事務方がやろうとすることは,法令なり答申なりに基づいたことですが,明らかに現場感覚からは乖離していることを平気でやらせようとします。

 戦後の教育史上,最悪だった(なくなったわけではないですが)のが「観点別学習状況の評価」でした。

 「質」を「量」に換算するという,学者でなくてもわかる「おそまつ評価」が,今でもまかり通っているのは・・・そして,真面目な教員ほど,大量のデータを集め,膨大な時間をかけ,ただでさえ「おそまつ評価」であるものに「おそまつさ」の上塗りをして,成績をつけているのです。

 高校では「なにそれ?」という反応が強かった評価で,センター試験という初歩的な問題が解ければそれでよいという認識が強いため,「思考・判断・表現」などは何の評価資料もなく評価を出してしまっている現状の学校も多いでしょう。

 事務方というのは,自分がやるのではなくて,他人にやらせることで自分の業績になる仕事なので,まともに仕事をしようとしている(出世しようとしている)事務方がいると,指導主事のやりがいも増えていきます。

 指導主事になったら,「やりがい」には2つの意味があることを知っておいてください。

 1つは,「本当にいいことをしている」という意味の「やりがい」です。

 もう1つは,「職務だからやっている」という意味の「やりがい」です。

 「観点別学習状況の評価」を徹底させるような仕事は,崩壊学級を預かったときの「やりがい」のニュアンスに似ています。

 指導主事にとって,9割は,この後者の「やりがい」です。

 もし「本当にいいこと」で「やりがい」を感じたかったら,勉強会を7種類くらい開いて,やる気のある先生方を集め,曜日ごとに会合を開き,徹底的に研究を進めるのです。

 指導主事はお役所仕事なので,偉くなければ土日の職務は基本的にはありませんから,いくらでも勉強ができます。午前と午後と別々の会合を開けば,平日はゼロでも,1週間に4つの勉強会を開くことができます。

 私は残念ながら委員などをしていたために,土日もふさがることが多かったのですが,新任の指導主事の方なら,まだ時間に余裕はあります。

 部活動にかけていた時間をまるまる勉強に使うことができれば,9割の「やりがい」の質を変えることができます。

 「観点別学習状況の評価」に限らず,事務方の考えるものの中には,教師目線で考えると愚かすぎて話にならないものもあります。「高校の先生の教え方が下手だから,予備校の先生に教えてもらおう」などという,学級会で飛び出すようなふざけた提案のようなイメージです。

 それが,「権力」をもっているために,「実施」せねばならなくなるから,線路を引いて,線路に列車を載せて,燃料を積んで,列車を動かすという仕事を指導主事が担います。こういうのは相当の「やりがい」です。

 学校が,「塾のおまけ」のような場所になってしまった後,どう立て直すかまで,指導主事は考えておくべきです。

 指導主事はそういう意味で,介護職にも似ています。

 以前には,私を講師に呼んで起きながら,直前まで全く何の連絡もよこさず,研修の当日もろくに準備をしている様子のない指導主事がいたことを紹介しました。

 現在は,こういう人にもつとまるのが指導主事という仕事です。

 かつては,現場の教員にとって「こんな先生になりたい」と思われるような人しか指導主事にはなれませんでした。

 ハードルが下がった今こそ,やる気を出してしっかりと学べば,現場からの信頼を得るチャンスも出ています。

 教育長の意識を変えることができる指導主事をめざして,しっかりと勉強をなさってください。

 ・・・・相変わらず,何の参考にもならなかったかもしれませんね。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より