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2015年3月

教師としての心構え~子どもは9褒めて1叱り,自分は叱られるだけであることも覚悟せよ~

 SNS依存症の影響か,自分が他者からよい評価を得ることだけに関心がある若者が多いという。

 叱られたり,否定されたりしたと受け止めると,すぐに折れてしまう。

 子どもにもこんな傾向があるものだが,逆に子どもはうまくいかない方が多いから,そう簡単に折れてもいられない。

 このブログには,「教師の心構え」という検索ワードから訪問される方がいる。

 ネット依存症の新任教師だろうか。勉強好きの人だろうか。

 教師としての心構えは,「簡単に折れるな」の一言に尽きる。

 禅の修行のつもりで,評価されるために行動するのではなく,よりよい行動をすること自体のみに価値を置いて,ひたすらに職務に専念するべきである。

 評価というと,「特別の教科 道徳」は「評価」しなければならなくなった。

 最大の問題は,「よいことだと思うから素直に実行した」のではなく,

 「よい評価をもらいたいから(受験のために),実行した」という行動パターンが少なからず見えるようになることである。

 一部の人間の考えには,「よい評価など,必要ない」「いじめや問題行動を抑止できればそれでよい」なんていうのもあるから困る。

 「悪い評価をもらいたくない(受験に影響する)から,~しない」という態度になってしまうおそれがあるからである。

 教師は,ただ子どもの豊かな成長のために,確かな学力を定着させるために,計画的に職務を遂行し,短期的な評価・改善を繰り返して,一歩でも前に進むことだけを考えるべきである。

 褒められてうれしいという素直な感情は否定しないが,

 褒められないから嫌だという感情は否定したい。

 子どもは,初めのうちは褒めてあげてもかまわない。

 バランス感覚は突然身に付くことではないから,コミュニケーションをしっかりとりながら,素直に自分がよいと思ったことを口にしていればよい。

 最初の一年間,ひたすらに利他的に行動できるようになった結果,自然と多くのアドバイスなり賞賛なりが集まっていたことに気づくだろう。

 明日より,よいスタートをきってもらいたい。

 小手先の技術を学ぼうとするより,もっと大きく教師としての成長が実感できるような1年にしてもらいたい。

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報道ステーションの「古賀発言」と「副操縦士の行動」

 古舘キャスターの謝罪で終わってしまうのか,発言の真偽が追究されるのか。

 テレビ局や報道番組のウラを報道するという,ある意味,究極の「報道」がなされたのか。

 古賀氏の「思い過ごし」なのか。

 古賀氏と「副操縦士」が何となく重なって見えてしまったのはなぜだろう。

 実は官邸と報道局とキャスターやコメンテーターと,

 似たような関係も教育現場にはある。

 残念なのは,「守秘義務」というものがあることだ。

 それが「残念だ」と書いていること自体も問題にされかねないが,

 つくづく自分は「政治家」や「経営者」には向いていないと思う。

 世の中は,「こういうことをすると,喜んでもらえるだろう」と勝手に解釈する人の行動によって,乱れてしまうことが多い。

 今後,日本には,本当の意味での民主主義が根付かないことの方が幸せではないか,

 と真剣に願う人が増えてくるのではないかと危惧している。

 「国益」という言葉が頻繁に出てくるようになると,

 相当怪しい状態になっていると想像できる余裕がほしい。

 「会社の利益」にも,さまざまなレベルがある。

 その利益に反することを強制退場させられる側の人間が自覚している場合,

 何かを逸脱してしまうおそれがあることは,教訓として経営者は知っておくべきだろう。

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教師は初任校のイメージを捨て去れない

 何%くらいの教師にあてはまるかわからないが,私などは教育実習と同じくらい,初任校での6年間の教育活動と研修が現在の教師としての自分に対し,いろいろな意味で大きな影響を与えていると感じている。

 初任校での教育活動は,多くの教師にとっては未熟なものであり,「教師として学んだことが多い」時期であるということは,そこで実現できなかったことが多く,それを悔いている人が少なくないと思われる。

 もう当時の生徒に当時の教育を繰り返すことはできないから,当時できなかったことはどうしようもなく,だから「悔い」に過ぎないわけだが,同じ「悔い」を抱かないようにする「働き」を教師はしていくはずである。

 ただ,その「悔い」を引きずりすぎると,対象となる子どもは変化しているのに,「昔こうだったらよかったはずだ」ということにこだわって,結局は同じ質の過ちを犯すことがあることを忘れてはならない。

 ある大学の教師は,その傾向が非常に強いというのが私の直観である。

 授業が成立しない。その「無力感」はすさまじいものだったはずである。

 だからこそ,他の教師の多くが肯定してきたことを,堂々と否定している。

 信念をもって教育を語る人間には,注意が必要である。

 自分ができなかったことを,次の世代の教師にたくそうとする気持ちはわからないでもないが,

 それは教育する相手がどういう状態にあるかによって変化する。

 一緒に教育する仲間がどういう状況にあるかによっても左右される。

 周囲に理解されない教育活動を展開して,「教祖」に泣きついている様子が堂々と公開されているが,

 その「教祖」の教師としての生い立ちも語られているから,冷静に自分を見つめて新たな一歩を踏み出すべきである。

 その「教祖」については,学校で学ぶ「知識」に対する浅い理解が最近の記事で露呈している。

 「調べればわかる」という程度のものを「知識」ととらえていられるのは,レベルの低い大学だけである。

 「知識」とは,それぞれがバラバラで孤立したものではそもそも役には立たない。

 自分の頭を使って考えて,「これは何かと似ている」「これはあれとはこういうところが違う」などと

 整理しながら,一定の理解の積み上げの上で「使える知識」になっていく。

 「知識軽視の教育」が,創造性すら奪っていくことを想像できない教師はいないはずである。


 アクティブラーニングを多く経験させれば,子どもが主体的に学べるようになる,というのは大きな間違いである。

 子どもが主体的に学ぶものがアクティブラーニングである。

 形式主義的な「こうすればこうなる」なんていう頭を使わない話ばかりをしても,現場には何の役にも立たない。

 まず教師自身が,「これがアクティブラーニングだ」と実感を持てる学びをしてみたらどうか。

 もう大学の先生になってしまっているが,ある番組で見た授業は,

 「アクティブラーニング」に見えるただの「詰め込み教育」だった。

 今後,子どもの主体性や学習意欲をますます失わせるアクティブラーニングが増えていくことを危惧している。

 「どうせこんな知識は子どもの役に立たない」という思いを初任者のときに抱いてしまった教師は,ボタンのかけ違いに気づかなければならない。
 
 過ちを繰り返すことを避けてもらいたい。

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「はずれ担任」とは運命共同体

 年度始まりになると,必ず話題になるのが小学校の「はずれ担任」問題である。

 キーワード検索で訪れる方が増える時期になった。

 都市部では,大量退職が始まっており,若い教師が急激に増えている。

 小学校にとって「若さ」は最大の武器であると思うが,

 保護者から「注文」をつけられやすいという弱点もある。

 教師の立場からすると,成長の糧になるはずの「注文」には正面から向き合わなければならない。

 当然のことだが,主幹教諭,副校長や教頭,校長とのホウレンソウを欠かさずに,

 自分の考えをしっかりともてるようになることが大切である。

 担任よりも校長の方が「大丈夫か?」と思う人がなっていることもあるが,

 「子どもへの直接的な被害」はなさそうだから,たいていはスルーされている。

 困るのは,校長が「注文」に対して過敏に反応し,余計なプレッシャーを担任教師にかけることである。

 子どもには,「先生は今日も元気だったか」という声を私はよくかけていた。

 「元気だった」と聞けば,「みんなしっかり授業を受けているんだね」とかえし,

 「今日は元気がなかった」と聞けば,「先生に心配かけないように,しっかりと授業を受けよう」とかえす。

 「へそを曲げた」という話を聞けば,「そういうこともあるだろう」とかえし,

 「~ちゃんを叱っていた」と聞けば,「よくみていてくれているんだね」とかえす。

 小学校では,子どもよりも,子どもを介した保護者と教師の関係がうまくいかなくなることが多い。

 保護者としては,基本的に子どもは自分に都合のよいことしか話していない(というより,見えていない)ことを自覚した上で,なかなかうかがい知れない「客観的な事実」に思いを巡らせる必要がある。

 子どもと教師の間で起こったことに,一方的かつ感情的な介入をする保護者の「注文」は,教師だけでなく,子どもも苦しめることになるという想像力をもっていたい。

 それでも,明らかな「はずれ担任」にあたってしまった場合はどうするか。

 LINE等による「ダメ担任ぶり情報集積」だけはやめた方がよい。

 いつの間にか,自分の子どもとは関係がないことについても「被害者意識」をもってしまうことがある。

 あくまでも自分の子どもから聞き取れる限りの内容を,感情的な言葉を交えずに,しっかりと記録をとっておくことを別の記事でも私は薦めている。

 よほどのことがない限り,「担任外し」の実力行使には出ずに,「運命共同体」としてできるところからの少しずつの前進を目指してほしい。

 幸いなことに,授業力不足が深刻でも,小学校の教育課程では,かなりの部分(算数を除き),子どもと教科書だけで力がつく。『学び合い』でもそれなりの結果が出るのは,そのためである。

 できる限り,保護者会や授業公開,授業参観,学校行事等には顔を出し,挨拶をしっかりかわしておきたい。

 親の教師に対する笑顔は,教師の子どもに対する笑顔になってかえっていく。

 親の教師に対する批判は,子どもの教師に対する不信に結びついていく。

 私は教師として,教師の指導に対する厳しい指摘は,校内の教師たちに任せてほしい,と言える学校づくりをしたいと考えている。

 私は保護者として,子どもに家庭で教えられることはしっかりと教えていると胸をはれる親でありたいと考えている。

 教師の中には,親に対する不満をぶちまけたい欲求のかたまりになっている者もいるが,多くの場合は子どもの笑顔に助けられ,昇華させていくすべを身につけている。

 教師と保護者のいがみ合いの中で,子どもが不幸になっていく流れだけは避けたいものである。


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アクティブ・ラーニングという「形式主義」的教育が日本人の欠点をますます助長する

 欠点を補おうとする教育で,ますますその欠点が際立つようになることに,どのくらいの人が危機感を抱くことができるだろうか。

 日本人にはない長所をもった人たちは,その長所を作り出したり,伸ばしたりする教育を受けているからそうなっている・・・・と考えるところまでは,半分くらいはうなずける。

 しかし,日本人は,そういう教育を受けていないから,教育をがらっと変えれば,今までになかった長所を作り出せる,という信仰のもとで,教育を変えることには反対する。というより,教育現場の人が変わらないのだから,教育はそう簡単に変えられない。「道徳」→「特別の教科 道徳」になる点についても同様なことが言える。

 結局は変わらないですむ・・・と楽観視できないのは,今までの内容重視の教育が劣化することで,取り返しのつかない「底辺層の広がり」「考える力の喪失」が予想できるからである。

 大学の教員の変化に私は注目している。

 今までは,「内容」を語れる大学教員が多かったが,

 今は「方法」しか語れない大学教員が増えているように思う。
 
 「方法」だけが研究対象である教員は仕方がないとしても,

 「内容」のないところで,授業もなにもあったものではない。

 アクティブ・ラーニングは,「内容」に対する確かな理解と解釈を抜きにして,教育現場に存在してはならない「道具」である。

 以前に紹介した研究授業をまた引っ張り出して恐縮だが,

 そこに「これからの教育の失敗」の典型を見たような気がしているので,繰り返しておく。

 「学び方」はとてもよく浸透していた生徒たちであった。

 しかし,「絶対にここをスルーしてはならない」と社会科教師たちが共通に感じていたある題材について,見事に教師も生徒もスルーした。

 「そこをスルーしたら,社会科ではない」という教材観というか教育感が,決定的に欠落していた。

 学習は,「マニュアル」「惰性」にまかせた流れを重視し,

 「さっさと時間通りに進むこと」が大切である,という価値観に満たされている様子を強く感じた。

 大学附属でそういう授業をしてしまう時代になったのだと,改めて痛感することになった。

 子どもは,「建前」を堂々と「建前」として消化していた。

 あるいは,「発言すべき内容」を感じていた生徒がいたかもしれない。

 そういう生徒の「不規則発言」が封殺されてきた3年間が,「本音は隠しておくべき」という行動様式・思考形態を生んだのだろうか。

 「批判的精神がない研究会には意味はない」という講師の言葉も,本音であったのかどうかが疑わしい。

 そういう言葉が建前として語られるようになったら,教育は死んでしまう。
 

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タブレット端末が「真性の勉強嫌い」を生むおそれ

 今や通信添削の世界でもタブレット端末が活用されている。

 ICT機器を活用すれば,学力は向上するのか。

 私が所属している研究グループの報告によれば,

 様々な障害を抱えている児童生徒が,教師自身がしっかりと工夫した内容でICT機器を活用した場合には,一定の成果が見られているようだが,通常の学級に所属している多くの児童生徒に関しては,ICT機器を使わないと効果が得られないとか,ICT機器を使うことでめざましい成果が得られた,という報告は聞いたことがない。

 学習に困難を抱えている児童生徒に対して,ICT機器を「教師が」活用して授業する場合にだけ,成果が得られている,ということには何となく納得がいく。

 ある地域では,反転学習といって家庭でも学習を課すために,タブレット端末を利用させているようだが,私はこのように「機械で子どもを縛る」行為によって,「真性の勉強嫌い」が生まれてくるおそれがあると考えている。

 「真性の勉強嫌い」は,「学力低下」よりもおそろしい結果を生むであろうことが私の危惧するところである。

 ICT機器での学習は,「紙ゴミを出さない」という点では優れている。

 「教育活動でゴミを出すことを禁止する」という法律でもできれば,ICT機器はまさに「欠かせないアイテム」となるだろう。

 しかし,紙,鉛筆,消しゴムを使って学習することと,それらを使わないことにはどのような意味での「隔たり」があるのだろうか。

 単純に言って,手(指)の繊細な感覚が失われるだけでなく,脳の発達にも悪い影響が出るのではないかと直観的に感じる。

 ICT機器を使い,超短期的な「意欲の高まり」で喜んでいる程度で,教育への効果を期待するのは愚かなことである。

 「良い結果を出さなければならない」という縛りがあるような研究のために,ICT機器や子どもを利用するは止めてほしい。

 タブレット端末による学習など,すぐに飽きるのが子どもというものである。

 それを,学習履歴のチェックをするなど,子どもを縛り始めたら,本当の意味での「学校教育の終わり」が近づいていると言えるかもしれない。


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ドラえもん映画にみる「特攻」「玉砕」精神

 昨年公開されたドラえもん映画『新・のび太の大魔境 〜ペコと5人の探検隊〜』が今月テレビ放送され,娘がその録画をときどき見て楽しんでいる。

 登場人物の心情や行動を,『道徳的諸価値』と重ねながら,一緒にながめていたが,

 「友情」とか「信頼」とか「協力」いう価値を具体化させる行動として,

 敵に堂々と立ち向かっていく「勇気ある突進」に対しては,少々の違和感を覚えた。

 まさに「特攻精神」である。

 ドラえもんの秘密道具という究極の武器を手にしていながら,

 登場人物たちは苦戦を強いられる。

 そして「仲間を見捨てない」という決意のもと,

 多数の敵陣に乗り込んでいく場面があるのだが,

 武装勢力に子どもがほとんど素手で立ち向かう姿はいつかの戦争を思い起こさせる。

 子ども向けのアニメの「戦闘シーン」は,だいたい同じようなテーマと結末である。

 「あの」のび太でも,勇気をもって敵に立ち向かった・・・・ことが,

 子どもたちの心にはどのように残っていくのだろうか。

 日露戦争時に子どもだった世代の人たちが,アメリカとの戦争に向かっていったことはよく知られている。

 大国ロシアを破った軍人はまさにヒーローであった。

 新聞や雑誌,子ども向けの絵本などによって,その「英雄像」は心に深く根付いてしまった。

 「モンスター」たちに戦闘はまかせて,指示だけしていればよい「ポケモン」ファンの子どもには生まれない感情とは何だろうか。

 作者の意図からは乖離して,やがてヒーローになってしまったゴジラやアトムが育てた感情とは何だろうか。

 「だれかが守ってくれる」ことへの信頼感と,

 「自分で何とかする」という「自主・自律の精神」が,相反する価値として対立してしまうことはおそろしい。

 「玉砕」を避けるための「制御装置」を開発することも急務であると思われる。

 「秘密道具」にやられてしまう側の無力感を知っていることが,強みの一つだったとの思いもある。


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移行期間の中学校・道徳をどうするか?~「心情」「判断力」→「判断力」「心情」~

 昨日,文部科学省告示第六十一号として,一部改正学習指導要領が出されました。

 「道徳」を「特別の教科 道徳」とすることに伴う改正となり,新旧対照表も公開されています。

 「特別の教科 道徳」の目標は,

 「第1章総則の第1の2に示す道徳教育の目標に基づき,よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため,道徳的諸価値についての理解を基に,自己を見つめ,物事を広い視野から多面的・多角的に考え,人間としての生き方についての考えを深める学習を通して,道徳的な判断力,心情,実践意欲と態度を育てる。」

 となりました。

 これまでの「道徳」の目標が「学校の教育活動全体を通じて,道徳的な心情,判断力,実践意欲と態度などの道徳性を養うこととする」というぼんやりしたものであったことと比べると,「考え」という言葉が2回出てくることからも,より主体的な学習が重視されることは間違いありません。

 また,「心情」と「判断力」という言葉の順が逆になっていることにも注目です。

 内容項目に通し番号はついていないのですが,全部で22となりました。

 それらを私がまとめたものが,次の図です。

Dotoku

 「道徳」のときもそうでしたが,一見して,「主として集団や社会との関わりに関すること」の比重が大きいことがわかります。

 「特別の教科」にされた経緯については,NHK解説委員室の解説アーカイブスに収録されているものがとてもわかりやすく整理されています。

 「特別な教科 道徳」の実際の授業をイメージするためには,「内容の取扱い」を熟知しておくことが必要です。

 ここでのキーワードは,「振り返り」であるというのが私の考えです。

>(3) 生徒が自ら道徳性を養う中で,自らを振り返って成長を実感したり,これからの課題や目標を見付けたりすることができるよう工夫すること。その際,道徳性を養うことの意義について,生徒自らが考え,理解し,主体的に学習に取り組むことができるようにすること。また,発達の段階を考慮し,人間としての弱さを認めながら,それを乗り越えてよりよく生きようとすることのよさについて,教師が生徒と共に考える姿勢を大切にすること。

>(4) 生徒が多様な感じ方や考え方に接する中で,考えを深め,判断し,表現する力などを育むことができるよう,自分の考えを基に討論したり書いたりするなどの言語活動を充実すること。その際,様々な価値観について多面的・多角的な視点から振り返って考える機会を設けるとともに,生徒が多様な見方や考え方に接しながら,更に新しい見方や考え方を生み出していくことができるよう留意すること。

 下線は私が引きました。

 (3),(4)で「考え」という言葉が7回登場しています。(3)では「自ら」が3回。

 今回は,以上の情報の提示だけで終えようと思います。

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教育を変える真の反知性主義とは

 教育現場にも,「反知性主義」が台頭してくるかもしれない。

 そのために,まずは「知性とは何か」についての共通認識が形成されることを望む。

 内田樹による「知性」の仮の定義は,「知の自己刷新のこと」であるという。

 自分の知的な枠組みそのものをそのつど作り替えるはたらきを,「知性」と考えている。

 とすると,「反知性主義」という言葉の意味はわかりやすい。

 反知性主義者たちは,無知であるよりも,むしろ知識をたくさん持っていることが多い。

 しかし,なぜ「反知性」と呼ばれるのか。

 それは「ことの理非の判断を他人に委ねる気がない」からである。
 
 だから,反知性主義者による政治はおそろしいものになる,というわかりやすい理屈である。

 反知性主義者は,民主主義の破壊者になるおそれがある。


 教育論・教育問題のカテゴリーに参加しているブログの記事内容についてはどうだろうか。

 いつもびくびく他人の目を気にしながら,

 無知な人の話題を好んで取り上げている人間がいるが,

 なぜこういう人間から知性が感じられないのか。

 「自らの知的な枠組みが変わる」プロセスが,「お勉強」のおかげという,

 何とも可愛らしい「学生風」の姿勢は憎めないのだが,

 知識が増せば知性が増す,というわけではないところがおさえどころである。


 さて,アメリカ生まれの「反知性主義」には,ネガティブではない意味での存在意義がある。

 キリスト教を背景としたラディカルな平等意識にも支えられる「反権力」的な動きである。

 
 こうした動きのあるアメリカに日本が従属せずにいられるためにも,

 これからの教育には,「議論の場」が欠かせない。

 民主主義を地でいくような活動の場が,日本の教育界には乏しかった。

 ディベートをやればいい,という単純な話ではない。

 議論はゲームのため,勝ち負けのために行うものではない。

 剣道がなぜオリンピック競技にならないかについての簡単な説明を読んだ。

 勝ち負けを競うものになってしまうことで,剣道本来の理念が失われることを危惧しての判断だという。


 知性と権力との固定的な結びつきに対する反感を,単なる反感で終わらせずに,

 相手に負けないだけの知性をもって堂々と対峙できる「真の反知性主義者」が日本で誕生できるかどうか。

 

 今後,「反知性主義」は,正しい意味・意義が理解されないままで耳に残っていくキーワードの一つになっていくかもしれないが,少なくとも「批判のための批判」に陥らないように,

 研ぎ澄ました目で「教育論・教育問題」を吟味したいものである。


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「他人を見下す人間」を教師にしてはならない

 今後,学校現場で評価のシステムが変わると,性格面だけではなく,学習面でも

 「自分で自分の長所,ストロングポイントを主張する」能力を高めることが要求されるようになる。

 日本人の美徳からは,かけ離れた行為のようにも思えるが,

 グローバル社会で生きていこうとするなら,当然もっていなければならない能力となるだろう。

 だから「自分で自分を褒める」ような行為も,笑って認めてあげるような人間が増えないと,

 いつも他人と自分を比較して,「自分はそれほどでもない」という卑下の精神で生きていく子どもを増やすことになってしまう。

 何よりも醜いのは,「自分で自分を褒める」ような可愛らしい人を指して,

 「低レベルの人間だ」などと見下す人間である。

 「低レベルの行為だ」というなら,まだわかるが,

 「行為をもって人そのものを否定する」ような人間には,少なくとも教育を語る資格はない。

 「あつはダメな人間だ」

 「お前はダメな人間だ」

 という言葉を子どもにかけ続けている親や教師を想像してほしい。

 自分がそう言われても,他人には言わない人を教師にしなければならない。

 自分がそう言われて嫌な思いをしても,他人には・・・特に子どもには嫌な思いをさせない人を教師にしなければならない。 


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横綱・白鵬の「終わり」

 白鵬自身に余裕がなくなってきているのではないか,というのが私の印象です。

 競技中はもちろん,競技を終えた後でも,

 心の乱れが言動の乱れに直結してしまう人間というのは,「弱者」です。

 今の白鵬は「弱者」そのものになってしまいました。

 NHKアナウンサーからも批判を受けるようになってしまった「大横綱」ですが,

 「日本人を敵にまわしている」という飛躍しすぎた見方がされることには同情します。

 

 スポーツ選手には,精神面・肉体面の「衰え」が必ずやってきます。

 オープン戦でも活躍しているイチローにも,やがて訪れることが決まっているのが「衰え」です。

 「衰え」の自覚は,マスコミや身内などへの対応の余裕のなさに現われてきます。

 ファンへのサービス精神を忘れ,逆に励まされるようになってしまっては,

 「記録だけ残した横綱」で終わりになってしまう可能性があります。

 バラエティ番組で愛想をふりまくようになってしまっては終わり,という持論もありますが,

 それには反証もたくさんあるので,追及はできません。

 しかし,予定されているTV放映のインタビューでの微笑ましくない態度は,

 決して「大横綱」のそれではありません。

 自らの実力で(という自覚のもとで)頂点に上り詰めた人間が,ときとして

 信じられないような行動をとることがありますが,

 「人間の強さ」とは,単に勝負事に「勝てるかどうか」ではないことを

 教えてくれる非常によい「道徳教材」になってしまうかもしれません。

 「こんな横綱は私が倒す!」という意気込みで他の力士たちが奮闘してもらうことを願います。

 そして,白鵬には「絶対的な強さ」を改めて見せつけてほしいと思います。

 千代の富士が引退するときは,その無念さに何だか心を痛めました。

 そうではない心の痛め方を経験しないでよいことを望みます。


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「こういう人になりたくない」という人になっている自分

 「お父さんみたいな人になってはだめよ」と母親が子どもを叱る。

 こういう言葉で一番傷つくのは誰だろう。

 教師が生徒に,「お前の思考回路はどうかしている」となじる。

 こういう叱り方をして,何かが改善するのだろうか。

 「私は,あなたのような人にはなりたくありません」

 こういう言葉で相手が傷つくという想像はできないのだろうか。

 相手の受け止め方などはどうでもいい,という人間がいる一方で,

 他人に対する想像力が非常にたくまくしい人もいる。

 やっかいなのは,その割に自分がどういう人間なのかが全く分かっていない人である。

 さらに輪をかけてやっかいなのは,本人が自分のことをよくわかっているつもりでいることである。

 カウンセラーの方がこの話を読んでいただいたら,

 「そういう人ばかりだ」なんていう感想をもたれるかもしれない。

 実際,このような子どもは増えている。保護者がその子どもとそっくりな場合も多い。

 カウンセラーも見下すような相談者が増えているそうである。

 こういう話を,他人事として聞き流してはならない。

 自分はそれと全く同じでないか,という自問自答は常に繰り返すべきである。

 「よく考えてみよう」と声をかけてくれる人,そういう気持ちにさせてくれる人は本当に貴重である。

 組織に一人くらいはいてほしい。

 

 さて,子供たちにとって,「こういう人になりたくない」という面が最も良く見えやすいのは,教師だろう。

 一番気色悪いのは,自分が教師でいることに酔っているような人間である。

 若い人の中にも,「教師臭」にまみれている人はいないだろうか。

 
 「自分はそうであってほしくない」と無意識に願っている姿に,実際にはなってしまっていることが多いことも知っておこう。

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事務方の言いなりになる指導主事はいらない

 この4月から,指導主事になられる方でしょうか。こちらのブログの指導主事関係の記事へのアクセスが増えています。

 そこで,新任の指導主事の方に,応援のメッセージをお送りします。

 なお,私は3年しか指導主事経験はありません。ただ,指導主事の事務的な仕事は,1年あれば,すべて習得できます。仕事はすべて文書で残りますから,「黙って勝手にやっていた」という学校のような仕事はありません。電話による苦情もすべて記録にとるでしょうし,その対応内容も残っているはずです。4月の最初の1週間で,過去2年間分の記録全部に目を通しましょう。歓迎会を開いてもらうのは,その後にしてもらって下さい。
 特に苦情については「常連さん」もいるので,先輩からしっかり引き継いでおくことが重要です。

 都道府県や市区町村,さらにそれらの規模によって,指導主事の職務は(配置されている人数との関係もあり)さまざまでしょうが,最も大切にしてもらいたいのは,
 
 「現場の声を行政に生かす」ことです。

 昔,ある指導主事の会で,人事部の関係者に対して,「高い給料をもらっているのに,指導力不足だったり,やる気のない退職間際の教員たちをどうにかしてくれ」と発言した女性がいましたが,「これはやらせか?」と思うほど衝撃的なものでした。

 待遇の改善(能力主義の給与体系)を実現するために指導主事になる人はいないと思いますが,どんなに長時間労働をしても,何の手当もつかない「うまみ」を行政は利用しているわけで,むしろ「時間給」に換算すると,給料が減る仕事につくわけですから,ちょっと別の給与体系を用意してもらわないと,なり手がいなくなる恐れがあるのが指導主事という仕事なのですけれど・・・。

 話がそれました。

 「現場の声を行政に生かす」とは,どのようなことか。

 行政・・・事務方がやろうとすることは,法令なり答申なりに基づいたことですが,明らかに現場感覚からは乖離していることを平気でやらせようとします。

 戦後の教育史上,最悪だった(なくなったわけではないですが)のが「観点別学習状況の評価」でした。

 「質」を「量」に換算するという,学者でなくてもわかる「おそまつ評価」が,今でもまかり通っているのは・・・そして,真面目な教員ほど,大量のデータを集め,膨大な時間をかけ,ただでさえ「おそまつ評価」であるものに「おそまつさ」の上塗りをして,成績をつけているのです。

 高校では「なにそれ?」という反応が強かった評価で,センター試験という初歩的な問題が解ければそれでよいという認識が強いため,「思考・判断・表現」などは何の評価資料もなく評価を出してしまっている現状の学校も多いでしょう。

 事務方というのは,自分がやるのではなくて,他人にやらせることで自分の業績になる仕事なので,まともに仕事をしようとしている(出世しようとしている)事務方がいると,指導主事のやりがいも増えていきます。

 指導主事になったら,「やりがい」には2つの意味があることを知っておいてください。

 1つは,「本当にいいことをしている」という意味の「やりがい」です。

 もう1つは,「職務だからやっている」という意味の「やりがい」です。

 「観点別学習状況の評価」を徹底させるような仕事は,崩壊学級を預かったときの「やりがい」のニュアンスに似ています。

 指導主事にとって,9割は,この後者の「やりがい」です。

 もし「本当にいいこと」で「やりがい」を感じたかったら,勉強会を7種類くらい開いて,やる気のある先生方を集め,曜日ごとに会合を開き,徹底的に研究を進めるのです。

 指導主事はお役所仕事なので,偉くなければ土日の職務は基本的にはありませんから,いくらでも勉強ができます。午前と午後と別々の会合を開けば,平日はゼロでも,1週間に4つの勉強会を開くことができます。

 私は残念ながら委員などをしていたために,土日もふさがることが多かったのですが,新任の指導主事の方なら,まだ時間に余裕はあります。

 部活動にかけていた時間をまるまる勉強に使うことができれば,9割の「やりがい」の質を変えることができます。

 「観点別学習状況の評価」に限らず,事務方の考えるものの中には,教師目線で考えると愚かすぎて話にならないものもあります。「高校の先生の教え方が下手だから,予備校の先生に教えてもらおう」などという,学級会で飛び出すようなふざけた提案のようなイメージです。

 それが,「権力」をもっているために,「実施」せねばならなくなるから,線路を引いて,線路に列車を載せて,燃料を積んで,列車を動かすという仕事を指導主事が担います。こういうのは相当の「やりがい」です。

 学校が,「塾のおまけ」のような場所になってしまった後,どう立て直すかまで,指導主事は考えておくべきです。

 指導主事はそういう意味で,介護職にも似ています。

 以前には,私を講師に呼んで起きながら,直前まで全く何の連絡もよこさず,研修の当日もろくに準備をしている様子のない指導主事がいたことを紹介しました。

 現在は,こういう人にもつとまるのが指導主事という仕事です。

 かつては,現場の教員にとって「こんな先生になりたい」と思われるような人しか指導主事にはなれませんでした。

 ハードルが下がった今こそ,やる気を出してしっかりと学べば,現場からの信頼を得るチャンスも出ています。

 教育長の意識を変えることができる指導主事をめざして,しっかりと勉強をなさってください。

 ・・・・相変わらず,何の参考にもならなかったかもしれませんね。


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扱い方が難しくなるかもしれない近現代史

 読売新聞から配信されているニュースによれば,民主党は今後,政権批判のターゲットとして安倍首相の歴史認識を取り上げていくらしい。

 民主党最高顧問でもある藤井裕久元財務相を座長とする近現代史研究会の活動が再開されるという。

 安倍首相が夏に発表する,戦後70年談話をめぐる議論を行うための下準備=勉強会を開いていくということである。

 中学校の歴史的分野では,中2の終わり頃から中3の夏までにかけて,昭和史から戦後史(現代史)を学んでいくのが一般的である。

 与党と野党が歴史認識をめぐってどのような議論を展開していくのか,興味深くもあるし,新聞の特集等を通じて中学生が学べる教材も増えていくだろうが,中学生から

 「では,先生の考えは?」と問われたときに,どのような説明ができるかは,それなりに気をつかうところである。

 ある意味では,「板挟み」のような状況におかれることが想定される。

 極端にどちらかに偏った主張を教師が述べ,ネット上で「私刑」になるようなことが今から想像される。

 一方で,しっかりとした知識をもち,自分の主張を堂々と生徒にぶつけられる社会科教師がどのくらいいるのかも不安になる。

 私としては加藤陽子や坂野潤治らの著作から授業を組み立てるヒントをもらっている。

 藤井裕久・仙石由人監修の『歴史をつくるもの』(日本の近現代史調査会編,中央公論新社)も読み,教材もいただいている。

 そこに,刺激の強い白井聡『永続敗戦論』にも目を通している。

 一歩間違えば,政権批判に生徒の考えを誘導する授業になりかねない。

 もちろん,生徒からの政権批判の主張を封じる気もない。

 一つの出来事が,見方を変えたり,史料を加えるだけで全く違う印象のものになるおそろしさだけは,明確に伝えておきたい。

 教材研究を怠ることは,特に社会科教師には許されないことである。


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「学力向上」政策=点数主義という批判の問題点

 小中一貫校(義務教育学校)の制度化に向けての動きが本格化しようとしている。

 現在,小中一貫に取り組んでいる学校の主なねらいは「学力向上」であると言われる。

 そして,そこには「点数主義」という批判がからみつく。

 私も,単純なテストの準備のためだけの教育はあってはならないと考えている。

 しかし,テストの点数は良いにこしたことはないし,小学校くらいなら,多くの子どもが100点をとることが可能だから,それだけ学習の励みにもなることは確かである。

 小中一貫校の卒業生の学力が低く,高校の選択肢が少ない状況になってしまうようではお話にならない。

 保護者の立場からすると,一般の公立小学校,中学校に通わせるよりも,

 高い学力が身につくという期待があるからこそ,1時間くらいかけてでも子どもを通わせる気になるわけである。

 小学校5年生くらいから,中学校の英語の先生が指導と評価を行ってくれれば,そういう仕組みのない学校よりは学力向上の期待が高まるだろう。

 では,このような仕組みで「進学校化」は進んでいってしまうのだろうか。

 一般の公立中学校は,小中一貫校で学力が低迷し,挫折してしまう子どもの受け皿になってしまうのか。

 このブログでは何度も書いてきているが,いわゆる「ゆとり」の提言と中高一貫校の拡充はセットだった。

 中高一貫校は,学力検査によって受け入れる生徒を選抜してはならない。

 だが実態は,塾に通って準備する必要がある適性検査問題と内申点によって,合格者が決定する。

 多数の応募者を選抜する必要があるから,検査問題はそれなりに難しい。

 そして東京都立高校がよい例だが,大学進学実績を伸ばすことに主眼がおかれている。

 全国の公立高校でも,すでにご立派な予備校化が進んでいるのだ。

 義務教育学校も同じ運命をたどるのだろうか。

 ここでは,二つの方向性を分けて考えなければならないことを明示しておく。

 一つには,全国学力調査や,都道府県や市区町村が独自に行っている学力調査の「でき」についてである。

 問題の難易度が非常に低いこれらの調査については,点がとれて当たり前,という常識があまり浸透していない。たとえば分数や小数の計算ができない大学生がかつて話題になったが,それらは小学校で習得しておかなければならないのだ。

 こういうタイプのテストで点数がとれるように指導することは,「点数主義」と呼んで否定される筋合いのものではない。もちろん,できない子どもをできるようにすることは容易ではない。しかしその努力を怠ったままでいることは,義務教育学校になれば許されないだろう。7年生の生徒に対し,5年生の元担任が放課後の部活動の時間に補習して実力をつけさせるようなことを,「点数主義」と呼べるだろうか。その能力が身に付いていなければ,将来困るのが目に見えている状況を放っておくことを,「点数主義」という批判で妨害する発想は信じられない。

 もう一つのいわゆる(難関の)中学受験学力については,普通の小学校の授業を受けているだけでは,点がとれなくて当たり前,大人でも時間内に解けない問題があることは,過去問を調べれば一目瞭然である。

 このような問題を解くための指導を,小学校が行う必要はない。義務教育学校になっても同様である。

 短時間で正解を求めるテクニックなどを教える「点数主義」は,塾や予備校の専売特許でよい。

 このように,難易度の全く異なる「テスト」を混同して,その得点を向上させる努力に批判を浴びせている人間がいるのが実態である。

 
 では,小中一貫校や義務教育学校の役割とは何だろうか。

 それは,これまでの制度では実現できなかった「最低学力の保障」である。

 「このままでは中学校の学習についていくことができない」と判断されたら,小学校の免許をもっている教師が小学校段階で求められていることができるまで,とことん教える。きれいな板書をつくったり,調べさせたり発表させたりするだけで教えた気になっている教師がいたら,「本当に学力がついているかどうか」の検証を徹底的に行わせる。

 学習の「過程」だけを重視し,「結果」を見ようとしない教師が減ることが,義務教育学校の最大のメリットかもしれない。


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「~し合う」ことを強制する環境の危険性

 一部の小学校で,子供同士による「監視社会」を形成しているところがあるのをご存じだろうか。

 教室に入ると,一目瞭然である。

 「コの字型」に座席を配置することによって,子供同士が相手の顔を見て話ができるにする,という「教育的配慮」をねらったものである。

 この問題については以前の記事で書いたので,詳しくは省略するが,この座席が「とても嫌だ」と考える子供がいることだけは知っておいていただきたい。

 「コの字型」の座席にしても,教師が一方的に話を進めたり,一生懸命に板書をつくったり,意見を出させたくてもなかなか出てこなかったりという「指導力不足」が背景にあると,むしろ逆効果の方が大きいことは言うまでもない。

 日本という国は,同調性圧力がとても高いことが特徴的であると言われる。

 「意見の多様性」よりも,「みんなに合わせること」を重視し,「行動の多様性」は認めない。

 「~合い」という言葉がとても好きである。

 しかし,次の言い方にどういう問題があるかと問えば,すぐに気づいてもらえると思う。

 ある人に対して面と向かって,「私たち,信頼し合いましょうね」と声をかける。

 これで違和感がない人は,次の例ならどうだろう。

 松葉杖をついた人が,近くにいた人に,「私たち,助け合いましょうね」と声をかける。

 教員同志が,職員室で,「私たち,尊敬し合いましょうね」と声をかけ合う。

 『学び合い』や「コの字型座席」も,これらの事例と同じで,

 「学び」を強制する危険性があることを知っておくべきである。

 そもそも学校は「学び」を強制する場だろうと思われた方は,ご自分が大学生だったときのことを思い出してほしい。最近の大学は,出席も厳密にとるし,休講したら必ず他の日に講義をしなければならないそうだから,昔の大学をイメージしてほしい。もちろん,中学校時代でも高校時代でもいい。授業中に,いわゆる「内職」=「ほかのことができた」経験はないだろうか。「ぼーっとしたり,居眠りできた」経験はないだろうか。

 『学び合い』は,学校の教育活動の中でも最も強制力が高いタイプの学習形態であり,子供たちはその牢獄から抜け出しにくい。

 だからこそ,『学び合い』に飛びついている教師も少なくないと推察する。

 「コの字型」と同じで,サボっている子供は他の子供にすぐにばれてしまう。

 子供同士の監視が可能となり,「親切」な子供は教師に訴えてくれるだろう。

 よく理解できていない子供も「強制参加」となり,理解できていないことがさらされる結果となる。

 計算が遅いこと,確実でないことが,教室内で「周知の事実」となる。

 このような「~合い」が強制された場で学習指導を受けた子供たち・・・・特に,教師が「見捨てたくない」と強く思うような,学習の進度が遅れがちな子供たちに,「共同体感覚」「社会的関心」を育むことは可能だろうか。

 アドラー心理学における「共同体感覚」とは,「自己の貢献感・有意義感」と「自己と他者に対する信頼感・安全感」と「所属感」の3つを同時に持つことを言う。

 生活の場ではなく,学習の場でこれらを意識させることは,たとえば個に応じた教材をすぐに作成して提示できるような,相当の指導力のある教師でないと難しいだろう。

 中部圏の7大学が平成24年からの3年間で行った,文部科学省の「産業界ニーズ事業」の成果が昨年の11月に出されている。

 そのタイトルは『アクティブラーニング失敗事例ハンドブック』。

 冒頭に,アクティブラーニングの失敗結果と失敗原因の図解がある。

 今後,アクティブラーニングが教育現場に広がっていくときに,教育力を低下させないための指針の一つになるだろう。

 まずは,『学び合い』を実践している人たちに,その「失敗」を自覚してもらう手立てとしていただきたい。


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教育的ではない劣等感克服法

 アドラー心理学でいう「共同体感覚」(日本語では「社会的関心」と表現する方が近い)に乏しく,相手の人格を否定する人間は,その共同体感覚を成長させるためのはたらきを実践することができない。

 中学校の教師の場合は,教師間・教師と子供の間・教師と保護者などとの間で協力的関係を築かなければ,すぐに学校が荒れてしまうから,否応なしに共同体感覚が体得できる(できない人間は教師からも子供からも「ダメ教員」の烙印を押される)が,職場環境が異なる他の校種では,自分さえよければよいと考える教師でも,その問題が表面化しにくい。

 自分の能力が高い(たとえば音楽ならピアノが上手に弾けるとか)というだけで教師になれるのなら,大学で免許を取得する必要はなく,採用試験も実技検査だけでOKだろう。しかし,それだけの人間に教師の資質があるとは言えないのは当然のことである。

 子供を教師など大人たちの協力関係の中で育て,子供たち自身に協力的な関係の大切さを実感させようとする教育的意図がはたらきにくい校種の先生方は気の毒だと思うが,少なくともその意義自体は理解しておいてほしい。

 「自分さえよければいい」と考える人間の話法は,

 「自分はああいう人間にはなりたくない」というものである。

 「こういうことをしない人になりたい」ではなく,「こういう人になりたくない」という

 「人間否定」型の自己教育力しかない人には,教師をつとめる資格はない。

 これも気の毒なことだが,「人間そのもの」ではなく,その「行為」が問題である,ということに気づいていながらも,相手の存在そのものを否定してしまう人間がいる。

 こういう人間は,少なくとも「人を育てる」資質が欠けていると自覚した上で,子供に接してほしい。

 
 人間は,それぞれ何かしらの劣等感を抱いて生きている。

 たとえば,幼少期に,恵まれた教育環境で育ってこなかった人は,それが原因で自分に大切なものが欠けているのではないかという不安にさいなまれる。

 その不安を解消し,劣等感を克服するために,人は様々な行動を起こす。

 最も低レベルな克服法が,「自分よりも下のレベルの人間」「どうしようもない人間」ばかりに目を向けて,相対的な優越感を得るというものである。

 「こんな人間にはなりたくない」というより,「自分はこんな人間ではないから,まあいいか」というレベルである。

 自己を成長させるというイメージは存在しないから,語る言葉に「教育らしい」ものが登場しない。

  
 人間は,自分が「劣っている」という主観的な認識があるから,成長する機会を与えられる。

 劣等感がなくなったとき,人間の成長はストップしてしまうと考えて生きることが大切である。


 教育という場の成長のプロセスで最も大切なのは,「自分だけに有益になること」に邁進させるのではなく,「自分だけではなく,他者や集団にとっても有益になること」を意図させることである。

教育の難しさは,その意義を理解しつつも,経験が浅かったり指導力が不足してしたりするために,すぐに逆効果となる言動をとってしまいがちであることにある。

 『学び合いが大切』と言ってしまった瞬間に,何が損なわれてしまうのかを次の記事で述べることとする。


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心そのものを否定する人間に教育を語る資格はない

 アドラー心理学の講義を受けるまでもなく,発言や行動ではなく心そのものを否定する人間に教育を語る資格はない。

 「こんな人間にはなりたくない」という人間不信の発想では,相手からの不信感を招くだけである。

 「この人には,こんな行動をとってもらいたい(こういう行動はとってほしくない)」というメッセージを送るような姿勢が,教育者には求められている。
 
 協調性に欠ける子供がいたとき,『学び合い』が大切なのだから・・・相手が教えようとしてくれているのだから,その行為に報いるような行動をとらなければだめだ・・・協力しろ・・・という「強制」をさせるようなところでは,子供は成長しない。
 
 子供が協力できない原因は,協力を拒む心の結果ではなく,協力しようとする心がくじけてしまっていることにある。

 子供が問題行動を起こす原因は,「注目」を受けることで集団に所属していることの価値を見出したいと願っている・・・と考えることで,子供が求めていることが何かを考えようとする「教育者」としての姿勢が生まれる。

 どのような経緯で協力しようとする心がくじけてしまっているのか,所属意識を渇望しているのかを考えることなく,

 「もともと協力しようとする心をもっていないのだ」「悪い環境で育ったせいだ」と結論づけてしまうような人間には,子供たちの指導はつとまらない。

 自分自身の経験から学ぶことができない「大人」がいるのは残念なことである。

 自分自身が「救われている」経験がありながら,そのことを自覚した「教育者」としての行動をとることは難しい。

 だからこそ,大学の教職課程で,教育心理学の専門的知識が習得されるべきだったのだ。

 大人社会も変わりはない。

 相手の心を否定するような人間には,対人関係を好転させる能力はない。

 相手の言動ではなく,心を否定するタイプの人間は,自分自身が適切な言動をしているつもりなのに,それが認められない不満から,相手の人格を貶めることで自尊心や自分自身の優越感を守ろうとしているだけである。

 『学び合い』を批判する相手の自滅を望む人間も同じである。

 自己軽蔑によって防衛線を張る教師も問題である。

 責任から逃れるための・・・・手段としての自己軽蔑を「教え子」に伝える人間も「教育者」とは呼べない。


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教育実践者を敵・味方に分け,敵の自滅を望む大学教員

 教師がすべきことは,学習指導要領の総則,各教科編の解説を読めば,ほぼ自覚することができる。

 それを読むことを怠り,教科の目標をおろそかにした指導を行い,結果が出せないことに責任を持とうとしない教師が存在する原因の一つが,大学における指導者にある。

 私の勤務校における教育実習の場で,学生たちが死ぬほどの苦しみを味わうのは,

 一つには自分たちがまともな授業を受けてこなかったことが原因なのだが,

 一番大きいのは「大学の教職課程で学んだことに意味がなかった」ことを知るためである。

 以前に実習生の感想を載せたことがあったが,毎年同じような思いをしている。 

 私自身が免許更新講習を何年か前に受けてよくわかったことだが,大学の教員の中には,学習指導要領に示された目標や内容をきちんと把握していない者がいる。話を聞いているだけで,読んでいなくはないが,理解はしていないことがわかることがあった。教師がわかっていないことを,それらしく学生に学ばせたことにする一番よい方法が,『学び合い』である。

 「教えるべきこと」と「教えなくても大丈夫なこと」の区別がつきにくい若い教師が「教えない」選択肢をとってしまうと,「教えること」の効果を知らないまま経験年数だけが増えていくことになる。

 子供たちに「学ぶ意欲」が真の意味で育つことは,そう容易なことではない。

 特に,教師に「教える意欲」がないと見切った子供たちの多くは,できるだけ「学ばなくてすむ」ような道を選択するようになる。

 負のスパイラルに陥る危険性があるにもかかわらず,

 批判する相手を「敵」と見なし,しかもその「自滅」を望むと明言するような人間が教師を育てようとしているのが,ある大学での実態のようである。

 謙虚な人間と,謙虚なふりをする人間の違いは教師を20年もやっていると容易に見分けがつくようになる。

 「敵の自滅」はすなわち子供たちの不幸である。それを望む人間は決して「教育者」ではなく,

 シンパにすがりつつ自分の実践に酔おうとしている「教育関係者」にすぎない。


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心を言葉で操作する~問題行動に対する指導の前に行っておくべきこと

 他人の心を言葉で操作する技術は,営業職など職業上のスキルとして重宝されるものだろうが,

 教育の現場では,教師が心にもないことを言葉で表現するという「仮面の世界」が広がることについては違和感がある。

 ぎりぎりOKと言えそうなのは,

 自分の心を自分の言葉で操作することである。

 心理学でいう「プライミング効果」を自分自身に適用させることによって,嫌いな子供や教師を好きになったり,自分に自信を持たせたりすることは,有効的であろう。

 アメリカの学校では,プライミング効果そのものを日課のように実践しているところも多いようである。
 
 ポジティブな言葉だけを頭に浮かべたり,何回も声に出したりすることで,「心」のあり方が変わっていくことは,つらいことの鍛錬を通して実力を磨いていこうとする伝統的な自己教育力の育成とはそぐわないところもあるが,つらいことをするのが耐えられない人たちにとってはよい逃げ場となるだろう。

 他に大きなニュースがなかったために,日本で最も有名になってしまった警察署長がいるが,

 その言葉の中に「毎日100件以上の苦情で忙殺されている」という「言い訳」があった。

 中学校の現場も,規模は異なるが似たような面がある。

 こういうことを「嫌なこと」として捉えている心で,新たに発生した問題について,冷静に対処し続ける・・・特に相手の心を思いやりながら対応することは,至難のわざかもしれない。

 しかし,対応を誤ること・・・本音を言ってしまうとか,相手を傷つけるとか・・・で,さらなる対応が求められるようになるから,問題への対処力は高めておく必要がある。

 中学校の問題行動への対応では,プライミング効果を応用してどのような方法がとれるのか。

 まずは,問題行動を起こした生徒が活躍しているすばらしい場面を思い浮かべる。

 それがない場合がほとんどかもしれないが,何でもいいから「良い面」を知っておく。

 そして,そういう「良い面」をもった,成長期待のあるよい生徒であるとして「認める」態度で指導にあたる。

 これによって,指導上,「余計な言葉」にあたるものをポロッと出してしまうことがかなり防げるようになる。

 一部のブログなどでは「余計な言葉」ばかりが目立っている。

 面と向かって言葉を伝えているわけではない状況では,「余計な言葉」を出すことによって自己満足を得ることができるのだが,そうやって人間はどんどん信頼をなくし,孤立化していくのである。

 問題行動を起こした生徒の心を痛めつけるだけでなく,指導をしている自分自身も貶めていくような言葉を発しないようにするための準備は,決して怠ってはならない。

 うつろいやすい人間の心はおそろしいものだが,

 言葉のもつ力のおそろしさはそれを上回る。

 
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承認欲求だけが異常に強い人間がたくさん生まれるわけ

 人間は,人から褒められるために成長しているわけではない。

 人から褒められようとして人助けに精を出す人間よりも,

 ただひたすらに,人助けをしようとしている人を褒めたくなるのが人間というものである。

 もちろん,人から褒められたいと願う気持ちを否定するつもりはない。

 しかし,「どうしてこの人,私を褒めてくれないんだろう」と怪訝な顔をするような人間に子供を育てたいとは思わない。

 人から褒められたいという思いが強い人間ほど,他人を褒めないという傾向があることは,中学校教師で子供をよく観察していればよくわかるし,教師集団からも気づけることである。

 お返しに人から褒められたくて,たいしたことがないことで相手を褒める人間もいる。

 「お返し」がなかったときのがっかりした表情を見ることで,褒められたこちらも失望感を覚える。


 歪んだ承認欲求が育まれる背景は,家庭と小学校にあると私は考えている。

 40人の個人と1人の教師が長時間向き合う小学校という環境では,

 指導力の乏しい教師ほど,子供のご機嫌をとる機会が多くなる。

 以前から紹介している,子供を「モノ」にたとえて

 「こうすると,こうなる」などという操作主義そのものの「指導法」マニュアルに基づく指導は,

 教師自身も「マシーン」に変えていく。

 いかに「モノ」と「マシーン」のやりとりが不自然に見えるかは,やはり小中学校の授業を見比べてもらうしかないだろう。

 人間の成長は,そう簡単に成し遂げられるものではない。

 そういう事実をしっかりと受け止める経験は,上級学校に進むにつれて増えてくる。

 「褒めたらその気になるから」

 「褒めることで伸びるから」褒めるのではなく,

 「人間として立派だから」褒めるという,人間として自然なあり方を教師は求めるべきである。

 「褒めよう」として人を褒める行為はやめるべきである。

 個人個人は,自らの力で成長しよう,と願っている存在である,という認識のもとで,教師は子供に接するべきである。

 最後に,子供への対応と親への対応は若干異なることを忘れてはならないことを付記しておく。

 親は決して貶したり,批判してはならない。むしろ無理にでも褒めるべきである。

 日常的に一緒に生活し,指導によって変えられる子供たちと,そうではない人たちは区別しなければならない。

 それは「教育者」としてではなく,「社会人」としての常識である。

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「褒める」というより「認める」という意識での指導を

 「褒める」ことと「おだてる」ことの区別とは何だろうか。

 教師によって褒められるのではなく,おだてられ続けた子供はどのように育っていくのだろうか。

 教師は経験を重ねることによって,実に多くの子供たちと接することになる。

 そして,それぞれの子供の「伸びしろ」を知るようになる。

 よく「伸びる」子供と,「伸びが停滞する」子供との違いは何だろうか。

 たくさん褒められた子供がよく伸びて,そうでない子供は伸びないという因果関係は成り立つのだろうか。

 たくさん褒められる行動をとったり成果を残した子供はよく伸びていて,そうでない子供は伸びていないというのは確かだろう。

 褒められる機会が乏しい子供の中には,

 「好かれる子供」が褒められて,「好かれない子供」が褒められないという誤解によって,自分の可能性を信じようとするのが見られるようになる。

 自分が褒められないのは,教師から嫌われている・・・あるいは好かれていないからだと信じ込む。

 大人不信や教師不信によって,自分への信頼感を維持できることは,ある意味では「生きる力」を持っているとも言えるが,「伸びる力」にはならない。

 教師として心がけたいことは,「どんな小さなことでも褒めよう」などということではなく,

 「どんな子供でもその存在なり,伸びようとする人間であることを認めよう」とする態度である。

 問題行動等は,「伸びようとすること」がうまくいかずに混乱している状態であると解釈すればよい。

 子供たちには,褒められないからといって,自分自身が認められない存在であるわけではないことを知ってもらいたい。

 安易に「褒める」ことで,駄々をこねる子供をあやすように誤魔化すのではなく,

 高度な意味で人間としての存在を「認める」ことで,その成長を支援する立場の人間であることを示し続けなければならない。

 「こんな生徒,クラスにいなければいいのに」という心は,

 ストレートに子供に届く。

 クラスの生徒たち全員にそう思われている子供にとって,学校での最後の砦はどこにあるか,言うまでもない。


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形だけの発表会が増え続ける

 研究発表会の協議で自由な発言ができない学校は,今や少数派とは言えなくなっているのかもしれない。

 私も行政にいた経験から,そもそも発表会を開くこと自体が奇跡であるような学校もある。

 そこを訪問した人が,いやいや発表させられたと嘆いている教師たちを批判するようになった場合,行政の側なら発表側を守らなければならなくなる。

 10だめなところがあっても,指摘するのはせいぜい1くらいにして,あとはその10倍くらい褒めなければならない。

 そんなしきたりのもとで「形だけの発表会」を続けているところが他にもあるのだろう。

 それは考えてみれば,子供たちによる発表会…特に小学生たちの発表と全く同じレベルである。

 だから情けないという見方もできるが,小学生たちへの教育のイメージを,

 自分たちの発表でつくりあげていくという曲解も成り立つ。

 公立学校に限らず,国立大学の附属も,そういうレベルになってしまっているのだろう。

 私が2月に参加した「形だけで内容がない」附属学校の発表は,

 「形だけを真似しよう」という学校には参考になったと思われる。

 草野球で言えば,ユニフォームだけ,強いメジャーリーグのチームに似せるような行為である。

 そういうレベルから,今の教師たちは出発しなければならないのかもしれない。

 形だけでも,発表できるだけまし,という状態は寂しいものではあるが,

 子供と同じで注意されてやる気がなくなる教師たちに教育現場に立ち続けてもらうためには,

 通過しなければならない儀式なのかもしれない。

 それだけ教師の質も,大学教員の質も低下傾向が続いているということである。

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日本らしいグレーゾーンを大切にする教育システムへ

 日本人には,白か黒かという二者択一をしたがらない人が多い・・・・ような気がする。

 どちらも別々の意味で好き,という理由や,

 純粋な白や黒よりも,少しだけ混ざった感じの色がよい,などという感性がはたらくからではないかと思われる。

 特別支援学校とそうではない学校の違いは何か。

 特別支援学校に通う子どもと,そうではない学校に通う子どもの違いは何か。

 これらは,実はあいまいで線引きができない部分がかなりあるはずではないだろうか。

 

 私は,グレーゾーンがあるということを前提にした教育活動を行うことが大切であると思うようになっている。

 もちろんこんなことは,総則に書いてあることだが,

 さまざまな子供たちと出会うことで,むしろ障害がない子どもなどいない,という感覚を抱くようになっている。

 このような立場で教育現場の課題を考えると,1クラス40人というのがあり得ない規模であるという思いがひしひしと感じられる。

 しかし,教員の数を増やすことには絶対に反対である。


 とすると,さまざまな障害をもつ子供たちが同じ場所で生活したり学習したりすることによって,障害の程度が重い子供だけでなく,障害がほとんどない子供も,新たな能力や可能性を開花させる機会をふんだんに持てるようになり,実際にどんどん新たな力が身に付いていくといった現場をつくることが大切である。

 
 もちろんすべての教科や活動で実施する必要はない。


 子供たちがもっている自己教育力をふんだんに伸ばせる時間を週1時間は確保したい。


 多様性に富んだ集団の方が,新たな能力の開発に適している・・・ということを実証するような研究をされている方はいらっしゃらないだろうか。


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教師のかかわり方ひとつで子どもは変わる

 教師になりたてのころなどに,一度くらいは聞いたことがある言葉だろう。

 たったひとことで子どもは傷つき,たったひとことで子どものやる気に火がつく。

 そんな経験をもった教師たちが,若い人たちによくかける言葉である。

 しかし,長年教師をしていると,「かかわり方」はそれなりの長い期間のあり方が問われてくることがわかる。

 長い期間にわたる励ましの結果,あるひとことで火がつく・・・

 コップの水にたとえれば,あと一滴であふれるというタイミングでかける言葉が大切なのである。

 褒め方にもさまざまある。

 おいしいご飯ばかりを食べて育った人には経験できないような

 「おいしさ」を味わえるようにするために,普段は質素な食事を心がける・・・といったようなかかわり方もある。

 こんなことを考えていたら,先日のある先生方の態度に唖然としてしまった。

 生徒同士が話し合いをしているときに,自分たちは遠くで椅子に座って休んでいた。

 今,その瞬間に,その生徒が話す一言に関心はないのだろうか。

 今,その瞬間に,その生徒がした表情のわけを知りたくはないのだろうか。

 そう。教師のなかには,子どもとの「かかわり」に関心のない人がいるのである。

 関心がありすぎて,子どものなかにすぐ介入してくる教師も考えものだが,

 少なくとも子どもは「かかわってくれる先生」という目で見てくれる。

 教師のかかわりに関係なく,よい成長を遂げる子どももたくさんいる。

 しかし明らかにかかわりを求めているようなタイプの子どもに近づくことができない人を,

 「教育者」とは呼べない。

 これからは,教師を「教育者」と「教育関係者」に分けて考えてみたらどうだろう。


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「見える学力」という教育用語

 「見える学力」という言葉を初めて使った人物がだれかをどこかの本で読んだ記憶はあるが,その人物も本のタイトルも忘れてしまった。

 「見える」「見えない」という言葉を使うときは,

 視覚障害を持たない人にとって「見える」か「見えない」か,「判断できる」か「判断できない」かをさしていることが一般的だと考えられる。

 視覚に障害があり,「見る」ことができない人にとっては,

 「見える」はずの学力も「見えない」。

 しかし,「見えない」はずの学力は「見えている」のかもしれない。

 日本語は,体の機能を示す言葉で何かをたとえる慣用句が多い。

 こうした慣用句は,障害がある人にとっては,気にかかることもあるのだろう,と知りつつも,多くの場合は障害がない人といるわけだから,何気なく使ってしまう。

 障害がある人にとっては,どのような気持ちになることがあるのだろう。

 両手を切断してしまっている人がいるところで,

 「この子どもたちは本当に手がかからないですむ」

 「今日は手ぶらで帰る」という言葉は使いにくい。

 「言い換え」が必要である。

 こういう「配慮」をすることの意義について,道徳の時間に学ぶことはできても,

 実際に「配慮」すべき場面を体験しないと,なかなか「身に付かない」のが道徳的実践力である。

 道徳的実践力は,失敗体験によって生み出されることもある。

 どういうことを考えていたか,ということと,どういうことをしてしまったか,ということは,

 全く別次元のことである。BではなくAと考えていても,AではなくBにしてしまうようなことはよく起こる。

 本日,ある会議の場で印象に残ったことだが,

 だれかが話を始めると,そちらの方に注意をさっと向けられる人と,そうでない人がはっきりと区別できる。

 「話を聞く」ための集中力というか,切り換え力というものは,どのようにして育てることができるのだろうか。

 中には,おしゃべりをしているくせに,よく話も聞けている,という子どももいるが,少数派だろう。

 学力のある子どもの特性は,おしゃべりをしていても,大事な話が始まった瞬間に止められることにある。

 逆は言うまでもないし,なるほど,と思っていただけるだろう。

 「聞く力」は,基礎の中の基礎である。

 小学校では,「聞いて理解する力」に頼れないために,あるいは,記憶を補うために,板書を多用する。

 残念ながら,これは子どもたちに「聞かなくてもコトは足りる」ことを刷り込みされてしまう悪癖であると言ってよい。

 中学校では,「聞く力」がないと,求められていることと全く別の答え方をしてしまうことがある。

 「見える学力」をつける基本が,実際に見えることとは無関係のことにあるとは,なかなか気づかれにくい。


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止まった時計を前に進ませるためには

 同じ学校に何年も居続けたり,学校外の仕事を全くしない生活が続いた教師の話を聞くと,

 20年前のことを「新しい取り組み」などと勘違いしている場面に出会うことがある。

 子どもと同じで孤立傾向にある教師の場合は,研究会への誘いもかからず,

 校内で研究授業を任されることもなく,教育実習生の指導の立場になることもなく,

 ただただ時間だけが過ぎていく。

 私は,こういう「新しいモノ」に関心がない教師は,決して嫌いではない。

 実直に昔のスタンスを崩さず,余計な仕事を増やすでもなく,

 成功とは言えないが失敗にも見えないような実践をひたすら繰り返す人は,

 どちらかというと子供も親も管理職も歓迎する傾向があるように思う。

 人事では,「大きなキズがない」ことが重要な財産になるというレベルの問題がある。

 しかし,こういう教師が通用しなくなる時期が訪れようとしている。

 とにかく「動きの迅速さ」に最大の価値をおく人間たちが増殖することで,

 過去の遺物のような教師の居場所は次第になくなっていくだろう。

 止まった時計を前に進ませるために,今後,

 ダムの放水のような,ほとんど洪水と似たような流れが生じる可能性がある。

 教育の世界を,工場の品質管理と同じ感性でコントロールしていく発想は,

 当然のことながら「教育者」のそれではない。

 「事務方」に対する「教育者」の立場を維持・・・あるいは向上させていくために求められるものは何か。

 それは,絶えざる自己変革に自ら進んで向かう姿勢である。

 勘違いしてはならないのは,「自己変革」は単純なスキルアップで達成できるものではない。

 「変革」などそう簡単にできるものではない。

 しかしだからと言って,すぐにあきらめてしまうような人には教師はつとまらない。

 自分の時計のねじは自分で巻く。

 小さな努力の積み重ねが大事だという,子供でも知っている価値観を,教師自身が強く自覚するべきである。

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自分の立ち位置を柔軟に変えて思考できるかどうか

 語学留学の訪問国を,フィリピンにするか,イギリスにするか。

 同じお金を全部使い切る期間だけ,訪問できるとしたら,どちらを選ぶか。

 それはなぜか。

 理由を確かめると,それは逆の方がよい,と判断できる根拠が見つかることもあるでしょう。

 「学び合い」の価値とは,そのような場合に認められることになります。

 ただ相手の主張を聞くだけ聞いて(聞き流して),「きみはきみ」と突き放すのではなくて,

 「自分の立場だったら,これこれこういう理由でこうだが,改めてあなたはどう考えるか」

 という投げかけができるような人が,教師にはむいています。

 さらに,「あなたの場合は,これこれの理由から,これがいいのではないか」

 とすすめたり,そういう状態に気づかせたりするヒントを与えられるといいですね。

 これから採用試験でも,討論場面を面接官が見ていて,

 「よいよい教師の資質」を見抜こうとする問題が出題されるかもしれません。

 子供の立場だったら,こういう言われ方をするとうれしい,

 というものが思い浮かぶ人にとっては,難しい課題ではないでしょう。

 頭の柔軟性に欠ける印象のある教師がいます。

 年をとるにつれて,「立ち位置を変えて思考する」ことが面倒くさくなるのかもしれません。

 こういう教師は子どもたちの指導も,非常にいい加減・投げやりなものに見えます。

 教師自身が「反・道徳」的教材になっています。

 頭の固い人に,道徳の指導は向きません。

 特別の教科・道徳では,子供による教師の評価が最も有効的かもしれません。


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日本語→ドイツ語→英語→日本語

 →(矢印)はさまざまな意味の記号として使えます。

 A→Bという書き方で,AとBはどのような関係にあることが想定できるか,中学生にたずねてみた結果だけで30通り以上ありました。

 では,タイトルの→は何を意味するものでしょう。

 こういう経験がある方は,想像できる話かもしれません。

 「こういう経験」というのは,「教養」にあたる事柄であると言えるかもしれない。

 最初の「日本語」とは何でしょう。

 実はこれが「教養」という言葉なのです。

 「教養」という日本語の意味に最も近い外国語は何か。

 「教養」を和英辞書で調べると,「culture」になってしまう。

 でも,何だかしっくりと来ない。

 ドイツ語ではどうか。Geogle翻訳だと「kultur」となってしまいますが,

 「Bildung」が最もよくあてはまると書いているのが村上陽一郎です。

 新潮文庫の『あらためて教養とは』に出てくる話です。

 ドイツ語の「Bildung」は,英語だと「Biulding」。

 「造り上げる」こと。がっちりとした基礎のうえに,自分という人間をしっかりと造り上げるというニュアンス。

 そして,話は飛躍するようですが,この「しっかりと造り上げる」ための基礎に当たる部分を,

 「修身」でつくろうとする発想が,福沢諭吉にはあった。

 私が授業でよく口にするのは,幕末から明治初期の人物ほど,猛烈に学ぶ意欲をもっていた人たちはいないだろうと。しかも,それが単なる「モノ真似」ではなく,確固たる「基礎」のうえに何かを造り上げようとしていたこと。

 「素養」という呼び方もありますけれども,現代では,なぜ「素養」という言葉があまり使われなくなってしまったのか。

 「教養」という言葉があるが,本気で「素養を教える」熱意をもっている人間がどれだけいるのか。

 「土台をつくる」という意識が,どれだけあるのか。

 「教養」が軽視されているように感じるのは,アクティブラーニングという,

 義務教育では当たり前に行われてきたことを,大学で取り入れようと躍起になっている人たちが増えてきたからでもあります。

 大学で,「教養」を教えることができる人材が払底しつつあるという意味でもあるのでしょう。

 先日,日本語が大変上手なドイツの方とお話しする機会がありました。

 アメリカ人やイギリス人にはない,日本人に似たような感性があるのは,言語とも関係があるのかもしれません。

 「教養」のイメージの違いが国民性に大きな影響を与えているような気がしましたが,日本人のアメリカ人化が着着と進んでいるようにも思えています。

 厳密に言えば,「アメリカ人」化ではありませんが,その点についてはいずれ・・・。

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「外部機関」という呼び方のよそよそしさ

 学校評価の本格的導入とともに,「外部評価」も着々と進んでいる。

 多くの方が同じ意見だと思われるが,この「外部」という呼び方にはいささかの違和感がある。

 教師たちが行う評価は「内部評価」である。しかし,これは実施主体を念頭に置いた言い方で,評価対象は「外部」も及んでいる。

 「外部評価」の内容の多くは,もちろん学校「内部」のことである。

 「内部」「外部」と言い分けていること自体が,学校と地域等との高い「壁」,深い「溝」をつくってきたのではないかと思うこともある。

 いまや,学校の教師の役割は,学校内部でだけ果たしていればよい,というものではない。

 フィールドワークで校外に連れ出すこともあるし,もちろん修学旅行は校内ではできない。

 子どもは「学校外」に家庭を持ち,毎日登下校を行う。その途中でのトラブルも少なくない。

 「学校外」だから,学校には責任がない,などと他人事でいられるわけではない。

 このような「内」とか「外」という枠を外す手段はないものだろうか。

 たとえば,「教育地区」「教育地域」という平面上の「塗りつぶし」はできないものだろうか。

 敷地の中だから,外だから,などとせこい話をしていても教育は始まらない。

 「外部の人」と呼べない仕組みを整えることが,

 第二,第三の上村君をつくらないために必要なのではないだろうか。

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子どもを「モノ」にたとえられる教育現場

 私の気のせいであってほしいことが一つある。

 ある校種の先生と話をしていると,ときどき違和感に襲われることがあったのだが,その理由がはっきりとわかった。

 それは,子どもたちを「モノ」にたとえた表現が会話の中でときどき登場するからだった。

 どうやら,その校種では子どもは「モノ」と同じように「扱う」習慣がついているらしい。

 中学校になると,生徒はそう簡単に「扱う」ことはできない。

 と言うよりむしろ,人間を「取り扱う」という発想が中学校にはない。

 人の「取扱説明書」などは,存在してはいけないと思われる。

 しかし,出版物をながめてみれば,ある校種では次から次へと「取扱説明書」が見つかる。

 こういう本の影響なのか,それとも,もともとそういう「取り扱い」をしたい人たちだけがその現場に集まっていく仕組みになっているのか。

 もしかすると,「モノ」として扱われる方が,よほど「人間的」と言える現場なのかもしれない。

 「モノ」ではなく,「記号」として扱われている現場もあるのではないか。

 思い過ごしであることを祈っているが,念のため,一度,自問自答してみていただきたい。

 また,教育実習や研究授業で現場を訪れる方々には,教師の話し方に注意しておいていただきたい。


 私たち教師の仕事は,「モノ」を「コト」に変えることである。

 「コド・モノ・コト」という団体があることを偶然知ることができた。

 私たち教師は,「コド・モノ・コト」に,全力を尽くすことを使命として生きている。

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子どもたちの「価値」の重みを実感できるのはいつからか

 教師になって,「子どもを大切にする」ことなど,いつでもだれでもできているはずだと思っていたことが,決してそうではないことを知って愕然としたのはいつだっただろう。

 親として,「子どもを大切にする」ことができない人間がいることを,実感することができたのはいつのことだろう。

 伝聞で知ることと,肌で知ることの違いを痛切に感じた初めての経験はいつだろう。

 大切に育てられた経験の乏しい人が,自分を大切にすることはできるだろうか。

 他人を大切にすることがどれだけできるだろうか。

 人間の認識力は,「信頼」から「懐疑」へと重点を移していく。

 その逆はあり得るのだろうか。表面的なものではなく,深い意味として。

 「子どもたち」は,「子どもたち」であるからこそ,ただそれだけで「価値」をもっている。

 その「価値」は大切にするも何もなく,ただそこに「ある」ものである。

 そういう考え方が甘い世界に生きてきた人たちを救うのも教師の役割である。

 人間としての「価値」を軽視されたり,否定されたりして生きている子どもたちを救う人間が必要である。

 しかし,だれもが救える「場」にいるとは限らない・・・というより,そういう「場」に立てる人間はまれである。
 
 何が教師の役割かは,言うまでもない。

 教師として最も大切な仕事は何か。

 「子どもを大切に育てる」という行為が,「価値」のあるものであると子どもに思わせることである。

 相手に得をさせることで,自分も得しようとかいう話ではない。

 損得で動く人間の動機は理解しやすいし,そうやって人間は動きやすい。

 しかし,そうではない人間がこの世に存在していることを子どもに示せるのが教師である。

 また,何も考えていない人間と戦っている姿を子どもに見せることができるのも教師である。

 そういう意味で,何も考えていない教師も,役に立ってしまっている。


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大人と子どもの違い

 さまざまな小学校から来る指導要録抄本を読んでいると,変わった係活動をしている学校がときどき見つかる。

 ユニークで興味をそそるというものもあるが,中には「この学校,大丈夫か?」と心配になるものがある。

 小中連携を進めていく上で,中学校教師が小学校教師の教育方針なり指導方針なりを知っておくことは大切だから,思わず電話でたしかめたくなるものもある。

 子どもを見ていると,ときどき大人の自分よりも立派だと思えるときがある。

 子どもから聞く小学校教師の話によると,教師よりも大人の対応をしている子どもがいることがわかる。

 「大人の対応」とは,どういう意味で使われるのが正しいのだろうか。

 大人と子どもの違いとは,何だろうか。

 教師と生徒との違いは,何だろうか。

 このへんがあいまいというか,どっちがどっちだかわからなくなってしまっている問題が,一部の学校なり家庭なりで多発していないだろうか。

 小学校には,職員室での鬱憤を子どもに向けて晴らしているのがいるらしい。

 家庭での諍いを学校に持ち込む教師がいるらしい。

 児童生徒が気の毒である。

 こういうブログでめいいっぱい,ストレス発散してみてはどうか。

 ただ,容疑者の親をバッシングするのはさすがに行き過ぎのような気もする。

 尾木ママの怒りはわからないでもないが,

 今後も,その怒りを増幅させることが学校現場では続発するだろう。


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大河ドラマと「学ぶ意欲に満ちた目」

 大河ドラマの視聴率が低迷しているということで,NHKは番組宣伝に力を入れたのだろうか。

 あまり大河を自ら見ようとしない家内が,「今日は見てみたい」と言ったので,

 高杉晋作が登場するこの日曜日の回を視聴した。

 私がここで気になったのは,

 「向学心に燃えた人物たち」の役で登場しているはずの役者の「目」である。

 教師である私は,吉田松陰役の俳優の「口」や「目」よりも,

 台詞のない役者たちの「目」に注目していた。

 心を動かされている人間の「目」の輝きを,教師という立場にいるとよく目にすることができる。

 熱狂的なファンやお笑いでリラックスしている人たちの

 「楽しそうな目」とは区別させていただきたい。

 「楽しそう」でかつ,さらに上の段階に「挑んでいこう」とする目には,独特の輝きがある。

 人は深く考えるときには口を開かないが,

 「目」は何かをとらえようとしている。

 こういう話をすると,すぐに思い浮かんでしまうのは,

 東大寺戒壇院の四天王・広目天の目である。

 どれが広目天か自信がない人でも,「筆と巻物を持っている」と言えばおわかりになるだろう。

 このような目をもつ教師になりたいと思ったが,

 どうしても,きょろきょろして「語る目」を探してしまう。

 ドラマの中で,「語る目」を探していたが,なかなかとらえきれなかった。

 台詞のない役者の「目」の力にまで演出の注意は働かないのかもしれないが,

 この場面ならもっと「強い目」の力がほしい,と不満になってしまった。

 こういう調子だから,大河ドラマも楽しめない。

 次に見るのは安政の大獄あたりだろうか。

 (追記)

 以前にも書いたかもしれないが,私が高校生のときに戒壇院を訪れたときは,

 触れる場所に四天王が立っていた。

 自分が教師になってから訪れたときには,もうその場所には入れなかった。

 当時,撮影禁止とされていたが,何を思ったか管理人の人が,

 いっとき,建物の外に出て行っ(てくれ)た。

 あれは,「写真を撮ってもいいよ」というサインだったのか。

 私たちの目は,文化財を傷つけたりするような人間のものでもなく,

 本物を間近で見てみたいと強く燃えている人間の目にうつったのではないか。

 確かめることもできない想像の話ではあるが。

 あのとき,間近で見ることができたおかげで,広目天の目は自分の目に焼き付けることができた。

 多くを学ばせてくれた「目」であったのだ。

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職員室=EU~ブログの記事のメッセージ性

 ブログは,タイトルからしてそのお立場がはっきりわかるものもあれば,かつての現場への未練がましさというか,怨念めいたものも臭わせるものがあって,様々ですね。

 私のこのブログで,あまりストレートに社会事象を扱ったことはなかったかもしれないので,

 「何か意図が隠されているのではないか」と受け止められた方がいらっしゃったようですが,

 前回の「火薬庫」の記事は,単純に「ヨーロッパは大変そうだな」という「他人事」的な発想で書いて,

 どうにか「自分事」や「日本のこと」に置き換えて何かのかたちにできないかなと

 思っていたものです。いつもの調子で脱線しそうだったところで止めてしまいました。


 EUを日本の教育界にたとえると,ギリシャあり,イギリスあり,様々な「国家」が各校種ごとや大学別に存在しますね。

 私は社会科関係の大きな学会に入って,何度か発表もさせられたのですが,現場感覚からいって,あまりのレベルの低さに幻滅し,もう個別に頑張っている人たちと連絡をとりあって研究するしかないと腹をくくりました。いかにも「発表回数目当て」的な場面に出くわしたり,「常連さん」的な手抜き場面に遭遇すると,本当に時間がもったいなくて仕方がない,人生の時間をこんな場所で無駄に使いたくない,という切迫感にかられました。

 とはいっても,お金を動かせる立場の人たちには「訳が分かる状態」をぜひつくってもらいたいので,それなりの当事者に近い立場も維持しなければいけないというのは,ややこしくもありますが,やりがいはある立ち位置です。

 海外の特色のある・・・というのは,かなり特殊な部類の・・・・教育事情を紹介する番組がありましたが,

 日本がどこかの国にとても後れをとっているという印象はありません。

 ハイテクなどは存在しない,古代中国の春秋・戦国時代でも同じような「教育」をしていたのではないかと錯覚するくらいでした。

 他の国に遅れをとっているとしたら,私たち現場の教師たちにとっても同様に,一般人には何をしているのかよくわからない大学の質くらいでしょうか。

 大学を認可した人の責任がきちんと問われる仕組みをつくるべきでしょう。

 文科省は,国立大学の「選別」に走り,「お金を渡す仕組み」づくりに躍起になっているようですが,不正の温床になってきた経緯には十分な注意を払ってもらって,「成果の厳密な検証」に今までの何十倍もの費用をかけてもらいたいところですね。

 「簡単に数字が出せる」分野にばかり大学がいそしむようになるえげつない姿の産みの親になるわけですから,「後処理」の厳密さにも精力をふるってもらいたいものです。そんなことができる人というか,やる気のある人はいないでしょうけど。

 荒れた学校にいたとき・・・・・

 生徒の対立場面は当たり前ですが,他の教師と生徒との間の仲裁,生徒同士の争いの仲介,生徒と親との争いの仲介,生徒が迷惑をかけた地域の人と生徒・親との仲裁などなど,様々な経験を通して,権力とかお金がないなかでの「生活の工夫」を学ぶことができました。

 そして,学校現場には,「優れた人材」が必要だと,常々思っていました。

 「予算をとってこれるから偉い」とか,そういう発想など,生まれる余地がありません。

 こういう現場をよりよくする,という発想ができる人が,この世の中にどのくらいいることか。
 
 給料を上げてほしいから,そういうことを言っているわけではありません。

 度胸と忍耐力と健康な体。これが公立学校の教師に必要な資質・能力で,なぜか,机に座ってのんびりお茶を飲んでいる暇のある人が,存在する。

 職員室は,まるでEUそのものでした。

 ああ,今,わかりました。EUが気になったのは,かつての職員室の構図と同じだったからでした・・・。

 ギリシャみたいな国をどうにかしてほしいと思う気持ちがあっても,当時はどうにもならない存在だったのです。

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「ヨーロッパの火薬庫」から「ヨーロッパが火薬庫」の時代へ

 1世紀前には,バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれていました。

 そして,サラエボ事件をきっかけにして,第一次世界大戦が勃発しました。

 現在は,ヨーロッパが「世界の火薬庫」になろうとしています。

 二つの世界大戦を通して・・・特に第二次世界大戦後には,多くの植民地も独立し,

 世界のなかでの地位を相対的に低下させたヨーロッパ諸国は,統合によって

 生き残る道を模索してきました。
 
 それが今,分裂の危機に直面しています。

 週刊東洋経済3月7日号の特集は,『1冊まるごと欧州』で,

 「2015年最大の火薬庫」というコピーが使われていました。

 とてもわかりやすい図解が39~40ページに掲載されており,

 言葉で説明すると,以下のようになります。

 EU内での「優等生」はドイツ,オランダ,北欧諸国。

 「問題児」はギリシャとイタリア。

 英国ではEUからの離脱を訴える政党が躍進。

 フランスは新聞社テロで極右政党に勢い。

 EUと他国との関係は,石油・ガスの最大輸入相手国ロシア

 とはウクライナ問題で対立。そのロシアは原油急落によって打撃。

 原油急落は,中近東の国々も直撃し,EUへの移民流入が加速。

 この図解の下には各種データのグラフが示されており,

 世界最大の経済圏であるEUの世界経済に与える影響の大きさを,

 低空飛行を続けるGDP,減少が止まらない雇用,需要不足による

 じりじりとした物価の下落など,マイナス要因で満たされてしまっています。

 「カリスマ講師」細野真宏氏のたとえは,

 「今の欧州は学級崩壊状態」というもの。引き金となったのはギリシャ。

 強力な支援を行うかわりに,構造改革を強要される・・・・。

 支援に反対の国もあるし,公務員の反対で構造改革を進められない国の事情もある。

 日本のように1つの国の中では,地方の若者が都市で働いてお金を稼ぎ,

 自力で生き残れない地方には,都市で稼がれたお金を政府がまわして支える・・・・

 こういう地方の生命維持装置に反対する都市の住民もいるでしょうが,

 地方の人の数が多い国会では,地方維持の仕組みは守られます。

 しかし,EUは,違う国の人を助ける,というかたちになる。

 だから,国が国を「見捨てる」というかたちになりかねません。

 その国の労働を支えているのは他国からの移民だったりして,

 「相互扶助」のイメージをどこまで広げて維持できるかがEUの生命線になっているわけですね。

 このEU情勢を学校にあてはめると,とてもわかりやすい教育問題の現状に行き着いたのですが,今日はやめておきます。ブログは「火薬庫」であってはならない,というのがブログ村の方針ですから,それを守りましょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より