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東田直樹さんから何を学ぶか~新しい道徳科と『跳びはねる思考』

 イースト・プレスから出されている東田直樹著『跳びはねる思考』から,初めて「自閉症者」の内面を知った人は多いだろう。

 教育関係者・・・特に,特別支援学校の先生なら,NHKの番組や,東田さんが養護学校中学部のときに著わした『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール)などですでにご存じだった方も多いと思われる。

 『跳びはねる思考』から学べる内容を書き出していったら,すぐにA4で4ページ以上になってしまった。

 37の短編エッセイのすべてに,そしてインタビュー内容にも,すべての教師,すべての親,すべての人々が知っておくべき「障害と向き合う人の心」のヒントがある。

 もちろん,「知る」「理解する」だけでは足りないことは分かっているが,東田さんはこの点についても多くのことを教えてくれる。

>たとえば「自閉症を理解してください」と言われても,多くの方は戸惑われるような気がします。・・・啓発活動をしている人は,障害の理解を広めれば,誰もが暮らしやすい社会がつくれると考えています。しかし,人の心は複雑にできています。理解できたから,協力するとは限りません。正しさがいつも,世の中を動かすわけではないのです。いろいろな矛盾も含め,多くの人たちの意思でこの社会は成り立っています。
 それでも,自閉症を知ってもらうことで生きやすくなると思うのは,僕を見るみんなのまなざしが,変わってくるからです。(「僕と自閉症」より)

>理性で感情をコントロールし,会話によって思いを伝え合う現代社会は,僕にとって異次元に迷い込んだかのような世界です。
 人の目に映る自分の姿を想像しただけで,この世から消えてしまいたい気分になります。僕が抱えている心の闇は,どんな魔法をかけても消えません。(「刺すような視線」より)
 

 「刺すような視線」を意識していると考えられるのは,障害をもった人だけとは限らない。

 「いじめ」られる側にとって最もつらいものの一つがこの「刺すような視線」だろう。

 もっと攻撃力が高いのが「刺す言葉」である。 

 ブログの世界は,多くの「刺す言葉」にあふれている。その言葉に傷つく人も多いだろう。

 私のブログにも,強い「刺す言葉」を含んでいることは自覚している。

 障害をもっている人たちの心を踏みにじるような言葉を投げつけるな!

 と非難している記事もある。

 こうやって,「敵」を攻撃する姿勢では,何も変わらないことを東田さんは教えてくれる。

 「北風」よりも「太陽」が強いことを,人間は経験でも理性でも,理解はしているはずである。

 しかし,「攻撃」せずにはいられないときがある。

 私にとって,そんな心の叫びをやさしく包み込んでくれるのが東田さんの言葉である。

 叱られているのに,笑ってしまうような自閉症者の心を理解できず,指導に必要のない,むしろ逆効果の言葉ばかりを投げかけるような教師がいるとしたら・・・

 そういう教師から,子どもたちを守る方法がある。

 東田さんの言葉を,子どもたちに投げかけることである。

 子どもたちは,その言葉の数々によって,「人を傷つける心のはたらき」から自分や他人を守ることもできる。

 以下には,次の学習指導要領向けに検討されている改定案で示された内容項目のキーワード別に,『跳びはねる思考』の内容がどの程度活用できるかを☆の数で示した。

 ☆☆☆は,かなり活用できる。☆☆は,ある程度,活用できる。☆は,他の資料と組み合わせて活用できるといった3つのレベルに分類している。

 「読み物資料」道徳が批判される場合があるが,それは「読み物資料」への批判ではなく,「使い方」「学び方
」への批判であることを確認しておくべきである。

 授業のスタイルとしては,

 1 まずは「自閉症の方」だとはわからない部分だけを読ませて,
印象に残った内容を紹介し合う。

 2 「自閉症」とはどのような障害なのかがわかる部分を読ませて,
感想を述べ合う。

 3 自分自身の「生き方」「考え方」などを見つめ直し,
学べたことを200字程度にまとめる。

 のように,「考える」活動後に,「意見交換」し,「自分を見つめ直す」
 という展開がもっともオーソドックスだろう。

 家庭でも,資料とこの時間に記録した内容をもとに話し合うことを学校としてお願いできる。

 保護者の感想文を学校だよりに掲載するなど,「地域ぐるみ」の取り組みにも発展させられる。

*******************

 A主として自分自身に関すること

  ☆☆(1)自主,自律,自由と責任
   ☆(2)節度,節制
   ☆(3)向上心,個性の伸長
  ☆☆(4)希望と勇気,克己と強い意志
   ☆(5)真理の探究,創造

 B主として人との関わりに関すること
 ☆☆☆(6)思いやり,感謝      
    ☆(7)礼儀
  ☆☆(8)友情,信頼
 ☆☆☆(9)相互理解,寛容

 C主として集団や社会との関わりに関すること
    ☆(10)遵法精神,公徳心
 ☆☆☆(11)公正,公平,社会正義
    ☆(12)社会参画,公共の精神
     (13)勤労
  ☆☆(14)家族愛,家庭生活の充実
  ☆☆(15)よりよい学校生活,集団生活の充実
     (16)郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度
     (17)わが国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度
  ☆☆(18)国際理解,国際貢献

 D主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること
 ☆☆☆(19)生命の尊さ
    ☆(20)自然愛護
 ☆☆☆(21)感動,畏敬の念
 ☆☆☆(22)よりよく生きる喜び

 なお,(6)思いやり,感謝をキーワードとする内容とは,思いやりの心をもって人と接するとともに,家族などの支えや多くの人々の善意により日々の生活や現在の自分があることに感謝し,進んでそれに応え,人間愛の精神を深めること。
 
 (9)相互理解,寛容とは,自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと。

 (22)よりよく生きる喜びとは,人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し,人間として生きることに喜びを見いだすこと。

*******************
 
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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より