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幻に向かって必死に矢を射るヒマな人たち

 本物に向かって矢を射る度胸がない人間は,ひたすら「影」や「幻」に向かって攻撃を繰り返す。

 既成メディアの多くがそのパターンであり,

 時間的に余裕がある個人は,ネット上でたくさん「発射」している。

 自分の考えを自由に表明できる場があるということは,それだけでそれなりにストレスが発散されるだろうから,実社会で犯罪が減少していることとかなり相関がありそうだが,ネットの場合は犯罪の原因になることもあるからおそろしい。

 ただ,教育ネタの攻撃ほど,「実害のない」ものはない。

 多くの人は,自分が受けてきた教育のイメージをそれなりにもっており,それが「劇的に変わる」などということは想像できない。

 「話し合い」活動で実力が伸びたなどと胸を張れる人は少数であろうし,「勉強よりも部活で身についたことの方が社会に出てからは意味がある」と真剣に信じている人は多いだろう。

 ブログとか掲示板で発言できる内容は限られているから,そこで相手の考えていることを「すべてを知ろう」というのはそもそも無理なことである。

 ただ,振り込め詐欺にひっかかる人は相変わらず多いようだから,高齢者の場合は「目に触れるもの」「耳から聞こえてくるもの」がすべてだという感覚の人が多いのだろう。

 「本人に会って確かめる」ことほど重要なことはない。

 「実害」とは,教育現場で子どもがたちが仲間や教師たちから直接的に被るものである。

 どれだけ学習指導要領を改訂しても,その趣旨は教員たちが学校現場で実際に行動に移さない限り,何の意味もない。

 中学校の社会科などは,「内容が増えたから終わらない」などといって,重要な箇所を飛ばし,どうでもいいところに時間をかけることを繰り返しているから,いつまでたっても「学力」は向上しない。

 「活用できる知識」が増えない限り,学習指導要領が示す目標を達しているとはいえないのである。

 だから,公開授業研究会などにどんどん参加して,自分の意見や考えを直接教師にぶつけるべきである。

 私が授業研究会で発言した「議論にはなっていなかった」というコメントは「厳しい」ものかもしれないが,もし授業者が「これは議論でした」と言い張ったとしたら,もう「話すのは無駄」と私も接触をあきらめただろう。

 しかし,後日メールで改めて御礼を言われて,正しいことを指摘してもらったと自覚できている先生だったから,これからもずっと付き合いは続いていくだろうと思う。

 そういう先生だと思うからこそ,「議論になっていなかった」というコメントが言えるわけである。

 「よいしょ」だけのコメントほど気色悪いものはない。

 しかもそれが自作自演である場合は,むしろ気の毒に思えてくる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より