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「意欲」が重視されない日本の教育と社会~小学校教育がもつ可能性~

 日本の教育において「意欲」が重視されないことには,長い歴史の積み重ねとの関係があるのだろう。

 どんなにやる気があっても,能力がない人間に対しては冷たい社会である。

 「やる気」だけでアイドルになり,みんな人気者になれるのであれば,ライブ会場はいくつあっても足りない。

 組織でも,モチベーションだけが高い人がリーダーになるのは恐ろしい。

 「筆記試験による選抜」などに代表されるように,「意欲」よりも「実力」を重視すること。

 これは,社会として数多くの失敗を経験した末に,多くの人々に共有されるようになった結果なのではないか。

 しかし,人口減少社会,グローバル社会など,新たなステージへと移り変わっていく社会への対応の必要性が顕在化してくると,こういう「冷静な判断」に対する魅力が薄れてくる。

 大学入試センター廃止などは,このような考え方にもとづくものだろう。

 「今まではそれでよかった」ことが,「これからもそのままでよい」とは限らないことがわかっているからだ。

 かといって,「成功しないかもしれない」改革を,進んで実行にうつしていこうとする「やる気」に欠けている以上,結局は「何も変わらない」可能性も高い。

 多くの場合,「何もしない」まま,嵐が通り過ぎるのを待つような姿勢になっているのが今の日本の教育や社会の実態だと思われる。

 日本の未来の社会像を見すえることは非常に困難であり,様々な資料をもとにして将来像を語っても,常に「誤りかもしれない」という不安を抱えた状態となる。

 「誤るリスクを冒せない」という慎重派が多いのは,今までの社会がそれなりに安定感を保ってきたからである。

 今まで,日本の小学校の教育に対しては,中学校の教師の立場で多くの疑問を投げかけ続けてきたが,大きなリスクをかけて改革に取り組んできた場所である,という解釈も成り立つことを今日は述べていきたい。

 受験指導の必要がない小学校の教育では,中学校や高校と比べると,「意欲」「やる気」が比較的重視されている。

 目標に準拠した評価などまるで無視して,授業態度だけで評価・評定を決める教師も存在することを私は知っている。

 ときどき,中学受験のための調査書に示された自分の子どもの(低い)評定を知って,親が大騒ぎする「事件」が勃発する。調査書は受験校の校長宛の「親展」扱いの文書であり,親はその内容を知ることはできないが,子どもが「間違って封筒を開けてしまった」ことにすれば,見ることができる。

 小学校の教師が小学校レベルの学習で行っている評価・評定への信頼感はないから,多くの私立中学校では調査書に記載されている評定には何の関心もないのが実態である。

 むしろ,「授業を真面目に受けていたか」「テストの点数がいつも高得点だったか」「宿題や提出物は忘れずに出していたか」などの質問項目に,イエス・ノーで答えてもらうだけでもよいくらいである。

 こういう小学校での教育で「救い」になるかもしれないのは,子どもの「意欲」「学ぶ姿勢」「やる気」が最も大切だと考えている教師たちの教育観である。

 このような教育観が日本の将来を変えることになるかどうかはわからない。

 やはり「実力主義」「能力重視」の社会では生き残ることができない子どもが生まれていくのかもしれないが,異質なものを持っているということ自体,決して否定してはならないというのが私の認識である。

 どのような方法でこれを突き詰めていけるのか,考えていきたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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