ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 大学の教育学部における「セクハラ」の研究 | トップページ | 他人への批判が正直な自己開示になってしまっている話 »

『学び合い』信仰が前提としていることの問題点

 子どもたちが教室で歩き回りながら学び合う姿は,とても「アクティブ」で,主体性に富んだように見えるから,一般的な授業では「見たことがない姿」が見えるようになる。

 しかし,残念ながら,その姿を,「子ども本来の姿」と受け止められる現場の教師は決して多くないだろう。

 子どもたちは,「まわりにあわせる」ことが基本であることを知っている。

 だから,いつでも発言する子どもがじーっと考え込んだりしていると,自分ももっと考えないといけないのではないかと思い,挙手できなくなる。

 逆に,いつも発言しないような子どもが手を挙げた場合には,わかっていなくても手を挙げてしまう。

 先生が,「わかりましたか」と問うたことに対して,自分よりも理解は遅いと思っている子どもが「わかりました」と答えたら,自分がわかっているかどうかを確かめる間もなく,反射的に「わかりました」と答えてしまう。

 集団などのグループで活動するときもそうである。

 子どもだけで過ごす休み時間などとは訳が違う。

 子どもなりの「演技」をする一方で,子どもなりに「調和」のとれた態度をとることに徹することができるのが,日本の特徴である。

 おそらくは,就学前の教育の成果だろう。親や,保育園,幼稚園の先生方がとても大事にしてくれたことだろう。

 教師に対して見せない「本当の姿」を,子ども同士なら見せ合えると思ってしまうのは,非常に幼稚で浅い,大人にとって都合のよい一方的な見方であると思われる。

 むしろ逆のケースが多いことをしっかり自覚しておくべきである。

 子どもたちというのは,一部の教師よりも「より高い社会性」を発揮する場面がある。

 子ども同士にしかわからないような合図を送り合うこともあるし,教師にはわからないような演技を他の子どもに対して堂々と行えることもある。

 『学び合い』に固執した偏った授業を行うと,そこは「いじめ」の温床になる可能性があることを指摘しておく。

 学校によっては,子どもの「役割分担」・・・・もっと激しい言葉を使うならば,「階級意識」は相当なものである。

 参観者には,『学び合い』を行う前と,数ヶ月続けて得られた結果としての授業を比較できる機会はない。

 固定化した「階級意識」によって生じた人間関係ほど無残なものはない。

 こういう子どもが,こうなりました,という報告を授業者から聞くことはできるが,

 「見取り」ができていない部分については,知るよしもない。

 『学び合い』によって,「見取り」をすべき子どもであふれかえってしまっている状況で,すべて把握できることなど不可能であろう。  

 小学校レベルだと,子どもの人間関係の背景に,親同士の関係が影響を与えている場合もあるから,小学校教師がクラスを引き継ぐときは,

 できる限りの情報を前の担任から引き出しておくべきである。

 もちろん,「前の担任」が気づいていないこともあるから,「その前の担任」から聞き取りをすることも必要である。
 
 さらには,学校側では全く把握できていないときもあるから,そのときの最終手段は「保護者会」である。

 自分の目で「見取り」をする必要がある。

 こういうときには,『学び合い』の手法が役に立つ。

 「保護者会」は,「教師による一方向的な情報伝達」で終えてはならない。

 保護者が自分の子どもの教育により主体的になれるように,アクティブ・ラーニングをしかけるべきである。

 子どもと違って,親には隠しきれないメンツがある。

 着てきた洋服の値段,センス,身につけてきた装飾品,バック,香水・・・・すべてが,お互いの関係をはかる上での情報源になる。保護者による授業参観では,普通は自分の子どもに視線が釘付けになるが,別のものに関心がある保護者がいると,すぐに「見取り」ができる。

 たまたま,過去の手紙を整理していたら,10年以上前に軽度の知的障害を抱えた生徒の親からもらったものが出てきた。

 5分の4くらいは,「発表」がある授業というのが,可哀想で見ていられない,という苦悩の表明で,

 残りの5分の1は,「発表」のために私が子どもと一緒に練習をしたことに関する感謝の言葉であった。

 保護者は,親以上に,子どもがおかれている状況を把握したり,感じ取ったりしている。

 『学び合い』という,子どもたちが教室を自由に歩き回れるような授業を行うときは,できるだけ多くの時間,保護者に公開すべきである。

 そして,できるだけの説明を教師は行うべきである。

 正直に,「すべては見切れない」と告白するべきである。

 子どもにとって,教師だけではなく,子どもたちから「見捨てられている」時間を耐えるというのは,非常につらい経験である。

 底の浅い,「だれにでもとりくめる」などという謳い文句は辞めて,

 できるだけ多くの人の目にふれるようなことを心がけていただきたい。

にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 大学の教育学部における「セクハラ」の研究 | トップページ | 他人への批判が正直な自己開示になってしまっている話 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

学習の評価」カテゴリの記事

いじめ問題」カテゴリの記事

学力向上」カテゴリの記事

言語活動の充実」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

小中連携」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

『学び合い』」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 『学び合い』信仰が前提としていることの問題点:

« 大学の教育学部における「セクハラ」の研究 | トップページ | 他人への批判が正直な自己開示になってしまっている話 »

2019年11月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より