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社会科の学習は技能に走ると「ツボ」を見失う

 以前,私の授業の感想をブログにアップしている人がいて,授業後に協議会もあったことから,「言いたことがあれば直接その場で言うべき」とご本人にお伝えした。

 授業の「型」を重視する先生方からは,「教師のねらいと子どもの学習結果のズレはかえってありがたい」という私のスタンスは理解しにくいかもしれないので,補足が必要である。

 よく,教師は授業の「めあて」を先に子どもに伝えて,それをよく子どもがおさえた上で,授業を展開することが望ましい,と言われるが,それは数学や理科ならわからないでもない。

 しかし,そもそも「空気抵抗はなかったものとする」などという「あり得ない環境」に限定して学習を進める数学や理科とは異なり,社会科はナマの社会的事象を扱う教科である。

 社会的事象がもつ意味は,見る角度によっていくらでも変わる。
 
 だから,Aという面からその事象を追究しているうちに,子どもがBという側面から考える意義の方が大事と思う場合も出てくる。とすると,教師の「ねらい」と,子どもが追究する「めあて」は変わってくるわけである。

 私の授業では,1時間の内容に対して,「授業が終わったときに,この時間の内容のタイトルを書いてみて」ということがある。

 タイトルは,「問い」のかたちでもかまわない(というより,それが望ましい。自分自身が立てた問いに一定の答えが出せている,ということに意味がある)。

 このように,社会科の学習では,「内容」が大事になるため,「内容教科」と呼ばれることもある。

 ここに,社会科が専門ではなく,「教育」が専門の先生が介入してくると,余計なことに目が向いてくる。

 私が先日参観した授業では,協議会で直接本人にお伝えしたから,ここでも書かせてもらうことにする。

 その学校では,全教科を通して,4人班での活動を重視しているらしい。

 1人が「ムードメーカー」になる,というのが特徴だし,あと「ファシリテーション役」もつくっている。

 しかし,実際の授業では,事前に用意してきた自分の考えを,4人が順番に語りだし,ほかの3人はひたすら下を見てメモをする,という時間が過ぎていった。

 司会役も必要なく,ムードメーカーはもちろんだれだか全くわからず,ファシリテーションのしようもない。タイムキーパーも,教師がつとめていた。子どもはストップウォッチを持っていなかった。

 各個人が話している内容に大差はないから,4人とも同じような主張が続く。

 それを,10個の班が同じようにやっている。

 黒板に10個の班の主張のまとめが出されたが,ほとんど全部同じである。

 教師が扱ったのは,ごく一部の,それも末節的な主張であった。

 結局,授業内容としていた大きな社会問題の核心には全く近づけずに,50分が経過していった。

 協議会では,複数の参観者がそこに気づき,指摘もあったから,私は

 「学習形態を重視したことによる弊害」と本質的な指摘を行ってみた。

 あたかも初めの20分の説明によって,子どもが考え,主張をまとめたように仕立てていたが,実際にはすでに子どもは「言いたいこと」をまとめて持っていた。

 研究授業では,よくある光景で,先輩教師たちがみんなそういう「やらせ」をしていたのだろうから,そこは追及しないで「あげた」が,

 「4人班」という形態によって,

 「教師の一斉授業よりもはるかに質の低い,『伝達』型の情報発信」に終始してしまった最大の原因が,

 社会科の授業の本質からかけ離れた,

 「技能重視」の姿勢によるものであることは明白である。

 書きたいことは,この何倍もあるが,この記事はとりあえずここまでにする。

 私の言いたいことは,

 「学校全体で取り組もうとしている実践」が,

 「教科の目標達成」の阻害要因になるわかりやすい事例であること,

 「学習技能」「学習形態」という,

 学習内容とは関係がない部分を重視することで,

 最も大事な教育目標が達成されにくくなっている事例であること,

 その2点であった。

 「グローバル教育」などを看板に掲げたことによって,

 中身がおろそかになっていく典型的な学校になるだろう。

 その学校の近くの大学で,

 「グローバルコミュニケーション学部」が4月にオープンするらしい。

 そのうち,「話し合い学部」も誕生するのではないか。

 日本は世界のなかでも「平均点」的な発想で大学をつくっていこうとしているのか。

 そのために海外の学校の授業を多く見ている人がいるのだろう。

 情けない限りである。

 日本に教科教育の専門家をしっかりと育てる大学はもう存在しないのか。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より