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2015年2月

学校教育は,校種ごとの課題の違いが非常に大きい

 ある教師の体験記を読んでも,どうしてもそれが「どこにでもあてはまる話」には見えてこない。

 「教え方を知らない教員」が本当に8割もいるのか,信じがたい話である。

 特に,行政や管理職の目線に立って教育現場の課題を考えた経験のない人の教育論は,

 「新聞の投書」「掲示板への書き込み」のようなものである。

 それでは「読み捨て」で終わりとなってしまう。

 現実問題として,小学校における「学級崩壊」の情報は次々に飛び込んでくる。

 「学び合い」だとキョウインは言い張っているようだが,

 実態としては崩壊しているとしか思えない「授業」?も多々あるようだ。

 何しろ,その時間で「身につけているはずの力」がついてないのでは,言い訳のしようもないだろう。

 「子どもを見捨てない」のは,補習をさせられる上級学校の教員の仕事になってしまっている。


 教育現場の課題について,マスコミによって報道される教師による犯罪行為などはとても分かりやすい

 「言語道断」のニュースなのだが,

 「自分はプロの教師だ」という自負(気負い?)を持っているような教員にとっては,

 今,そこにいるキョウイン自体が言語道断なのである。

   時間を守らない。

   事前に決めていたことをなかったものとして行動し出す。

   整理ができない。

 子どもに何かを語る資格があるとは思えないキョウインとともに,教師は子どもに向き合わなければならない。

 多くの場合,「子どもに助けられている」面が多いことを,キョウインたちはどのくらい自覚しているのか。
 
 
 こうした,小中高いずれにもあてはまりそうな問題もあれば,各校種に特有のものもある。

 それらの処方箋を考えるための仕組みとして,学校評議員制度は機能しているだろうか。

 していないとしたら,どこが教育を変えることができるのか。

 
 今,小中一貫や中高一貫が「はやり」だが,

 新しい取り組みが「空中分解」状態にあるところも多いようだ。

 具体的な「すれ違い」の実態を,先日,当事者の先生から耳にした。


 中高もそうだが,決定的に「ズレ」が大きすぎてどうしようもないのが,

 小中の部分である。

 そもそも免許が異なるからと言ってしまえばそれまでかもしれないが,

 最大の原因は,教科指導の「専門性っぽさ」に埋没する傾向にある小学校と,

 過度に特別活動や部活動の指導に埋没する傾向のある中学校という

 それぞれ独自性の高い学校文化の衝突にある。


 ある意味では,小中一貫という「強制的に生まれた新しい鋳型」でしか解決できない,という予想も可能かもしれない。しかし,強制だからこそ,

 「それなりのいい連携」ではなく,「嫌々取り組まされる連携」という受け止め方による悪影響の方が大きくなっている。

 下手をすると,「共倒れ」になる。

 「ジリ貧を避けようとしてドカ貧に陥らないように」

 という忠告がありながらも,戦争に突入し,自滅の道をたどった組織と同じタイプの失敗は繰り返してはならない。

 
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若い先生たちのために何ができるか?

 「学校教育の失敗学」という副題がついた光文社新書の新刊を読んだ。

 教員の「残念な状況」はよくわかった。

 これからの課題は,「では,どうするか」である。

 この本に書いてあることが,「残念な教員」を「有望な教員」「信頼できる教員」に変える力をもっているか。

 私のブログの当初のタイトルは,「教育失敗学」であった。

 「失敗の原因」を探り,その状況を把握し,改善の努力に結びつけばよいと考えていたが,

 厳しい学校現場の切なる願いは,

 「では,どうしたらよいのか」という「処方箋」の提示である。

 子どもには,「課題を発見し,解決する能力の育成」を求めていつつ,自分たちはそれができていない・・・というか,本気で取り組もうとしていない。

 もちろん,「特効薬」などないことはわかっているはずだが,すぐに成果が出せそうなものに飛びつく。

 子どもと同じレベルである。

 個人の問題ではなく,組織の問題を解決するには,個人レベルではどうしようもないこともある。

 学校の組織の問題ではなく,行政レベルの問題があることもこのブログでは何度も訴えてきた。

 どのように教育改革を進めていくか。

 どのように教育を創造していくのか。

 その答えを探っていくために,タイトルを現状に変えた。


 今は,「アクティブ・ラーニング」に期待の目が寄せられ始めている。

 教育雑誌の特集のタイトルを追っていけば,そのときそのときの「注目の的」がよくわかる。

 しかし,そんなことはとっくの昔からやってきたことで,今更ああだこうだ言っている場合ではない,というのが特に小学校の教師の感想だろう。

 私は,「進んでいる」ことを自負している小学校教育の「裸の王様ぶり」も,何度も指摘してきているが,

 教育問題の検討の方向性は,本当に混乱を極めるばかりである。

 
 時間が過ぎるのは早い。

 ブログを始めて10年が経過しようとしている。

 
 若い先生たちのために,何ができるかを真剣に考えて,実行に移さなければならない。

 「次の10年」のための準備を始めることにしよう。

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都立入試の社会の大問1の問1は・・・・本当?

 昨日実施された東京都立高校の入試問題を見ました。

 社会科の最初の問題を見て,地形図の地点を Geogle Earth (ストリートビュー)で確認したら・・・・やっぱり。

 この程度の傾斜では,

 「斜面に果樹園が広がっている」様子は,目では確認できないはず!

 身長が2m以上あっても難しいのではないかな。

 まず,「斜面」であることもなかなか実感することが難しいのが本当のところ。

 つまり,〈この調査地点で分かったこと〉・・・ではないのでは?

 私は,入試問題をつくるときは,必ず現地に行って調査しています。

 すると,建物が邪魔していたり,傾斜がないと遠くは見通せないのが一般的。

 景観写真を撮るのも,けっこう至難の業です。

 繰り返しますが,斜面とっても,扇状地程度の傾斜では見渡せない。

 それに,扇状地の果樹園といっても,規模は様々。

 どのくらい先まで「広がっている」かは,地上からは木が邪魔して見えないのです!

 問題を解き間違えた中学生はあまりいないと思いますが,

 もし実際に見えていないものが「分かった」としているとすると・・・いかがなものかな?

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「指導力がない」というレッテル貼りをされた小学校教師のために

 ある出版社の話では,小学校教育に関する本を出す場合,「個人名を出さないと売れない」ということだった。

 本人が渋々承知しているのか,それとも自ら喜んで名前を出しているのかはわからないが,帯に顔写真までついている本もある。

 教師という職業は,羞恥心がない方が向いている気がするのだが,いくらなんでもそれはやり過ぎだろう。

 しかも現役の教師ということになると,その教え子たちは中学校に進学し,「その先生の教え子」という目で見られるわけである。

 迷惑なのは,子どもの方ではないか。

 さて,最近ふと,昔,初任者研修を担当したときの小学校教師のことが頭に浮かぶことがあった。

 それは,同僚の先生のことを子どもの目の前で罵倒するというトンデモ教師の話を聞いたときのことだった。

 初任者は,夏に宿泊研修というのを実施する。そこでは,教師になって半年もしない間に,すでに「精神的にまいっている」人が何人かいた。

 グループワークをしている様子を見ると,なぜ「精神的にまいってしまうのか」がよくわかる場面に遭遇する。

 それは周囲の教師からの冷たい視線である。同じ初任者なのに,「子ども扱い」されている教師がいる。

 こういう光景を,私の中学校での勤務経験,研修等での集まりでも,さすがに見たことはなかった。

 小学校に特有の「風習」なのだろう。

 「こんなこともできないのか」

 「そんなこともわからないのか」

 そんな言葉を投げかけられるのが嫌で,小学校教師たちはせっせと本を購入して読むのだろうか。

 気の毒な職場である。

 一般社会では,そんな言葉は当たり前のように上司から投げかけられるのかもしれない。

 行政の現場でもそういう面があった。

 しかし,小学生の見ている前で,他の教師から罵倒される人間の姿を想像してみてもらいたい。

 憔悴していた初任者にかけた私の言葉を,相手は覚えてくれているだろうか。

 中学校の現場に戻って,その言葉を,再び使うことはなかった。

 若い教師たちに・・・・特に,「指導力がない」というレッテルを貼られた小学校教師たちに,

 中学校教師は,反撃の機会を与えてあげることができる。

 子どもが,すべてを物語ってくれる。

 ぜひ,教え子たちの姿を中学校に見に来てほしい。


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他人への批判が正直な自己開示になってしまっている話

 スポーツにしろ,音楽にしろ,なかなか上達しないとき,

 人は「自分には才能がないのではないか」と不安になったりする。

 では,だれかに「才能がない」ことを見抜ける人間はいるのだろうか。

 いるはずがない。

 人間は,「利己的な面」をそれなりにもっている。

 だからこそ,世の中はうまくいかないことが多い。

 そして,「利他的な行動は尊いものだ」と教えられる。

 しかし,だれかに対して「お前は利己的だ」と正面切って批判できる人間はいるのだろうか。

 「お前こそ何なのだ」という堂々巡りが続く。

 嘘をついたことがない人はこの世にいるのだろうか。

 入試で気分が悪くなったとき,「大丈夫?」と聞かれて,

 正直に「気分が悪いです」と言える受験生はどのくらいいるだろうか。

 相手を心配させないための嘘をはじめとして,

 相手をだますための嘘でも,本当に人は「平気で」・・・つまり,

 良心の呵責も全くなしに,嘘をつくことができるのだろうか。

 本人がそういう嘘をつけるのならば,うなずかざるを得ないが。

 人の悪口を書くとき,それは結局,自分の本来を姿を述べているにすぎない場合がある。

 「おれはあいつに才能がないことを証明できる」と本気で思っている人間ならば,

 「才能がない」と他人に言える人間がいることはうなずかざるを得ない。

 人格は,他人を批判しているときに素直に表面に出てきてしまうものらしい。

 国会の「論戦」も,人格とか品格を観察されているという意識をもって,臨んでいただきたい。

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『学び合い』信仰が前提としていることの問題点

 子どもたちが教室で歩き回りながら学び合う姿は,とても「アクティブ」で,主体性に富んだように見えるから,一般的な授業では「見たことがない姿」が見えるようになる。

 しかし,残念ながら,その姿を,「子ども本来の姿」と受け止められる現場の教師は決して多くないだろう。

 子どもたちは,「まわりにあわせる」ことが基本であることを知っている。

 だから,いつでも発言する子どもがじーっと考え込んだりしていると,自分ももっと考えないといけないのではないかと思い,挙手できなくなる。

 逆に,いつも発言しないような子どもが手を挙げた場合には,わかっていなくても手を挙げてしまう。

 先生が,「わかりましたか」と問うたことに対して,自分よりも理解は遅いと思っている子どもが「わかりました」と答えたら,自分がわかっているかどうかを確かめる間もなく,反射的に「わかりました」と答えてしまう。

 集団などのグループで活動するときもそうである。

 子どもだけで過ごす休み時間などとは訳が違う。

 子どもなりの「演技」をする一方で,子どもなりに「調和」のとれた態度をとることに徹することができるのが,日本の特徴である。

 おそらくは,就学前の教育の成果だろう。親や,保育園,幼稚園の先生方がとても大事にしてくれたことだろう。

 教師に対して見せない「本当の姿」を,子ども同士なら見せ合えると思ってしまうのは,非常に幼稚で浅い,大人にとって都合のよい一方的な見方であると思われる。

 むしろ逆のケースが多いことをしっかり自覚しておくべきである。

 子どもたちというのは,一部の教師よりも「より高い社会性」を発揮する場面がある。

 子ども同士にしかわからないような合図を送り合うこともあるし,教師にはわからないような演技を他の子どもに対して堂々と行えることもある。

 『学び合い』に固執した偏った授業を行うと,そこは「いじめ」の温床になる可能性があることを指摘しておく。

 学校によっては,子どもの「役割分担」・・・・もっと激しい言葉を使うならば,「階級意識」は相当なものである。

 参観者には,『学び合い』を行う前と,数ヶ月続けて得られた結果としての授業を比較できる機会はない。

 固定化した「階級意識」によって生じた人間関係ほど無残なものはない。

 こういう子どもが,こうなりました,という報告を授業者から聞くことはできるが,

 「見取り」ができていない部分については,知るよしもない。

 『学び合い』によって,「見取り」をすべき子どもであふれかえってしまっている状況で,すべて把握できることなど不可能であろう。  

 小学校レベルだと,子どもの人間関係の背景に,親同士の関係が影響を与えている場合もあるから,小学校教師がクラスを引き継ぐときは,

 できる限りの情報を前の担任から引き出しておくべきである。

 もちろん,「前の担任」が気づいていないこともあるから,「その前の担任」から聞き取りをすることも必要である。
 
 さらには,学校側では全く把握できていないときもあるから,そのときの最終手段は「保護者会」である。

 自分の目で「見取り」をする必要がある。

 こういうときには,『学び合い』の手法が役に立つ。

 「保護者会」は,「教師による一方向的な情報伝達」で終えてはならない。

 保護者が自分の子どもの教育により主体的になれるように,アクティブ・ラーニングをしかけるべきである。

 子どもと違って,親には隠しきれないメンツがある。

 着てきた洋服の値段,センス,身につけてきた装飾品,バック,香水・・・・すべてが,お互いの関係をはかる上での情報源になる。保護者による授業参観では,普通は自分の子どもに視線が釘付けになるが,別のものに関心がある保護者がいると,すぐに「見取り」ができる。

 たまたま,過去の手紙を整理していたら,10年以上前に軽度の知的障害を抱えた生徒の親からもらったものが出てきた。

 5分の4くらいは,「発表」がある授業というのが,可哀想で見ていられない,という苦悩の表明で,

 残りの5分の1は,「発表」のために私が子どもと一緒に練習をしたことに関する感謝の言葉であった。

 保護者は,親以上に,子どもがおかれている状況を把握したり,感じ取ったりしている。

 『学び合い』という,子どもたちが教室を自由に歩き回れるような授業を行うときは,できるだけ多くの時間,保護者に公開すべきである。

 そして,できるだけの説明を教師は行うべきである。

 正直に,「すべては見切れない」と告白するべきである。

 子どもにとって,教師だけではなく,子どもたちから「見捨てられている」時間を耐えるというのは,非常につらい経験である。

 底の浅い,「だれにでもとりくめる」などという謳い文句は辞めて,

 できるだけ多くの人の目にふれるようなことを心がけていただきたい。

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大学の教育学部における「セクハラ」の研究

 ある大学の教育学部教授が懲戒免職になったというニュースの波紋が広がっている。

 大学は氏名を公表していないが,個人の特定は比較的容易だったようで,関係者にもショックが広がっているようだ。

 この大学では,ぜひ研究者を雇って,「大学におけるセクハラの研究」を実施してもらい,徹底的に調査をしてほしい。

 私自身も直に感じたことがあるが,権威主義的な匂いが濃い地域である。そうではない地域より,公表されている被害の件数は小さくても,実態は異なる可能性がある。

 影響はどこまで及ぶのだろうか。

 掲示板の情報だから信憑性には欠けるものの,同じようなセクハラ被害が常態化していたのではないかという疑惑は深まる。

 この教授に単位をもらって卒業し,社会に出たり教育現場に立っている人は多いのだろう。

 教育に関係する場所での「セクハラ」で,被害が明るみに出にくいのが,「パワハラ」ができる条件も整っているところである。

 「単位が出せる」人間と教え子の関係は,教育実習を担当する教師と実習生の間でも同じようなものである。

 まさか,「セクハラと引き替えに単位をもらって先生になっている」などと今更カミングアウトもできない。

 「閉鎖性」については,小中学校や教育委員会をはるかに上回る

 大学教育の現場について,もっと「世間の目」が向けられる条件を整えることも必要だろう。

 小保方氏のような研究者についても同じことが言える。

 小中学校には「授業参観」や「PTA関係の行事」などがあるが,大学にはないから,

 親には全く内部の状況がわからない。

 そのうち,大学で「保護者会」が当たり前のように開かれる時代が来るのだろう。

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東田直樹さんから何を学ぶか~新しい道徳科と『跳びはねる思考』

 イースト・プレスから出されている東田直樹著『跳びはねる思考』から,初めて「自閉症者」の内面を知った人は多いだろう。

 教育関係者・・・特に,特別支援学校の先生なら,NHKの番組や,東田さんが養護学校中学部のときに著わした『自閉症の僕が跳びはねる理由』(エスコアール)などですでにご存じだった方も多いと思われる。

 『跳びはねる思考』から学べる内容を書き出していったら,すぐにA4で4ページ以上になってしまった。

 37の短編エッセイのすべてに,そしてインタビュー内容にも,すべての教師,すべての親,すべての人々が知っておくべき「障害と向き合う人の心」のヒントがある。

 もちろん,「知る」「理解する」だけでは足りないことは分かっているが,東田さんはこの点についても多くのことを教えてくれる。

>たとえば「自閉症を理解してください」と言われても,多くの方は戸惑われるような気がします。・・・啓発活動をしている人は,障害の理解を広めれば,誰もが暮らしやすい社会がつくれると考えています。しかし,人の心は複雑にできています。理解できたから,協力するとは限りません。正しさがいつも,世の中を動かすわけではないのです。いろいろな矛盾も含め,多くの人たちの意思でこの社会は成り立っています。
 それでも,自閉症を知ってもらうことで生きやすくなると思うのは,僕を見るみんなのまなざしが,変わってくるからです。(「僕と自閉症」より)

>理性で感情をコントロールし,会話によって思いを伝え合う現代社会は,僕にとって異次元に迷い込んだかのような世界です。
 人の目に映る自分の姿を想像しただけで,この世から消えてしまいたい気分になります。僕が抱えている心の闇は,どんな魔法をかけても消えません。(「刺すような視線」より)
 

 「刺すような視線」を意識していると考えられるのは,障害をもった人だけとは限らない。

 「いじめ」られる側にとって最もつらいものの一つがこの「刺すような視線」だろう。

 もっと攻撃力が高いのが「刺す言葉」である。 

 ブログの世界は,多くの「刺す言葉」にあふれている。その言葉に傷つく人も多いだろう。

 私のブログにも,強い「刺す言葉」を含んでいることは自覚している。

 障害をもっている人たちの心を踏みにじるような言葉を投げつけるな!

 と非難している記事もある。

 こうやって,「敵」を攻撃する姿勢では,何も変わらないことを東田さんは教えてくれる。

 「北風」よりも「太陽」が強いことを,人間は経験でも理性でも,理解はしているはずである。

 しかし,「攻撃」せずにはいられないときがある。

 私にとって,そんな心の叫びをやさしく包み込んでくれるのが東田さんの言葉である。

 叱られているのに,笑ってしまうような自閉症者の心を理解できず,指導に必要のない,むしろ逆効果の言葉ばかりを投げかけるような教師がいるとしたら・・・

 そういう教師から,子どもたちを守る方法がある。

 東田さんの言葉を,子どもたちに投げかけることである。

 子どもたちは,その言葉の数々によって,「人を傷つける心のはたらき」から自分や他人を守ることもできる。

 以下には,次の学習指導要領向けに検討されている改定案で示された内容項目のキーワード別に,『跳びはねる思考』の内容がどの程度活用できるかを☆の数で示した。

 ☆☆☆は,かなり活用できる。☆☆は,ある程度,活用できる。☆は,他の資料と組み合わせて活用できるといった3つのレベルに分類している。

 「読み物資料」道徳が批判される場合があるが,それは「読み物資料」への批判ではなく,「使い方」「学び方
」への批判であることを確認しておくべきである。

 授業のスタイルとしては,

 1 まずは「自閉症の方」だとはわからない部分だけを読ませて,
印象に残った内容を紹介し合う。

 2 「自閉症」とはどのような障害なのかがわかる部分を読ませて,
感想を述べ合う。

 3 自分自身の「生き方」「考え方」などを見つめ直し,
学べたことを200字程度にまとめる。

 のように,「考える」活動後に,「意見交換」し,「自分を見つめ直す」
 という展開がもっともオーソドックスだろう。

 家庭でも,資料とこの時間に記録した内容をもとに話し合うことを学校としてお願いできる。

 保護者の感想文を学校だよりに掲載するなど,「地域ぐるみ」の取り組みにも発展させられる。

*******************

 A主として自分自身に関すること

  ☆☆(1)自主,自律,自由と責任
   ☆(2)節度,節制
   ☆(3)向上心,個性の伸長
  ☆☆(4)希望と勇気,克己と強い意志
   ☆(5)真理の探究,創造

 B主として人との関わりに関すること
 ☆☆☆(6)思いやり,感謝      
    ☆(7)礼儀
  ☆☆(8)友情,信頼
 ☆☆☆(9)相互理解,寛容

 C主として集団や社会との関わりに関すること
    ☆(10)遵法精神,公徳心
 ☆☆☆(11)公正,公平,社会正義
    ☆(12)社会参画,公共の精神
     (13)勤労
  ☆☆(14)家族愛,家庭生活の充実
  ☆☆(15)よりよい学校生活,集団生活の充実
     (16)郷土の伝統と文化の尊重,郷土を愛する態度
     (17)わが国の伝統と文化の尊重,国を愛する態度
  ☆☆(18)国際理解,国際貢献

 D主として生命や自然,崇高なものとの関わりに関すること
 ☆☆☆(19)生命の尊さ
    ☆(20)自然愛護
 ☆☆☆(21)感動,畏敬の念
 ☆☆☆(22)よりよく生きる喜び

 なお,(6)思いやり,感謝をキーワードとする内容とは,思いやりの心をもって人と接するとともに,家族などの支えや多くの人々の善意により日々の生活や現在の自分があることに感謝し,進んでそれに応え,人間愛の精神を深めること。
 
 (9)相互理解,寛容とは,自分の考えや意見を相手に伝えるとともに,それぞれの個性や立場を尊重し,いろいろなものの見方や考え方があることを理解し,寛容の心をもって謙虚に他に学び,自らを高めていくこと。

 (22)よりよく生きる喜びとは,人間には自らの弱さや醜さを克服する強さや気高く生きようとする心があることを理解し,人間として生きることに喜びを見いだすこと。

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佐賀・いじめ裁判で明らかにしてほしい「精一杯の対応」

 一般の公立学校に限ったことではないが,生徒同士のトラブルやいじめへの対応にかかる労力は,並大抵のものではない。これは,実際に対応にかかわった教師にしかわからない苦労かもしれない。

 夜中の11時すぎに電話がかかってきて,2時間以上,親の話を聞いたりするようなことも,決して「ごくまれ」なことではない。

 様々な原因によるトラブルへの対応に一年中追われている中学校の教師たちにとって,訴訟への対応というのはさらに追い打ちをかけるような事態だと感じているだろう。

 しかし,だからといって訴訟に踏み切った生徒を非難できる人間はいないだろう。

 なぜ学校や教育委員会といじめにあっていた生徒のコミュニケーションがしっかりと図れなかったのか。

 「精一杯の対応」をしてきたというが,それは何だったのか。

 学校といじめをしていた生徒の関係はどうだったのか。

 最も重要かつ重大な点は,いじめの実態がどうであったのか。

 すべてが裁判で明らかになるだろう。

 「閉ざされた空間」である学校と,「さらにそれを上回る閉ざし方」をしている教育委員会が,

 どのような対応をしていたのかが,明らかになるだろう。

 おそらくは,「勝者」がいない戦いになるにちがいない。

 しかし,それを「不毛な戦い」にしてはならない。

 いじめの対応という「簡単そうに見えて,実は単純にはいかない」教師の役割,教育委員会の役割,学校での生徒間の人間関係について,少しでも理解が深められるとよいと思う。

 いじめへの対応に,「これが正解」という単純な「解」はない。

 いじめの決定的な要因が,プライバシーの保護の原則のもとで公にできないため,説得力のある説明ができずに,不信感が高まるというジレンマに陥ることも多い。

 「すれちがい状態」はどのようにしたら解消できるのか。

 司法に解決法を見出すことはできないかもしれないが,何か良いヒントが得られるように,しっかりとした取材を新聞社の方にはお願いしたいと思う。

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アクティブ・ラーニングを文部科学省はどう捉えているか?

 雑誌『教職研修』2月号に掲載されている塩見みづ枝・文部科学省初等中等教育局教育課程課長の言葉から,今回の諮問についての重要なポイントを拾っておくことにします。私なりのまとめです。

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 次期学習指導要領改訂は,今までの学習指導要領を否定するものではないこと。

 まるっきり新しいことを始めようということではない。

 学校現場で蓄積されてきた「よさ」をさらに伸ばすためにも,学習指導要領の改善・発展を図ろうとしていること。

 これからは,「何を知っているか」という知識の量だけではなく,子供たち一人ひとりが実際に生きていくなかで必要となる,「どんな力を身につけているか」が重要になる。

 「教える内容」を中心としてきた学習指導要領だが,そもそも子供たちにどんな力を育てていくかのかを明らかにする必要があり,その力を育てていくために,どのような学習活動でどんな内容を学んでいく必要があるかを示していくことが大切。

 新学習指導要領では,育てるべき力を踏まえた目標・内容・方法・評価などのあり方を再構成していくことになる。

 これからの子供たちの育てるべき力を育むためには,「主体的・協働的に学ぶ学習」が必要であり,その学習のことをアクティブ・ラーニングと呼んでいる。

 この「アクティブ」というのは,「単に活動をすればよい」ということではなく,大事なのは,子供たちが「頭の中をアクティブにして,しっかりと考える」ということ。

 これからは全部,アクティブ・ラーニングという型にしなければいけないのだ,ということではない。教師が教えるべきところはしっかりと教え,覚えるべき知識はしっかりと覚えさせ,反復練習が必要な場面ではそれを重ねながら,その知識や技能を活用して,子供たち一人一人が主体的・協働的な学習を通じて深め合っていくということが必要。

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 以上のことを踏まえると,結局のところ,

 学習指導要領は,その総則や『学習指導要領解説』に示されたことがら,

 『評価規準・評価計画』で定めていたことがらも盛り込んだものにする,ということなのでしょう。

 昔から,学習指導要領だけを読んだのでは,どのような授業をすればいいのかよくわからないもので,

 必ず『学習指導要領解説 教科編』を参考にしたものでした。この『解説 教科編』の解説本まで出回っていたものです。

 全部を一つにする,ということになるでしょう。

 もう一つだけ,重要なポイントを引用しておきます。

*******************

 現行学習指導要領では,各教科,道徳,外国語活動,総合的な学習の時間,特別活動といった縦の「系列」ごとに章立てをして記述をしてありますが,これからの時代を生きる子供たちに必要になってくる「資質・能力」というのは,縦の系列だけでなく,これを横断するような視点での学習も併せて行うことで,よりよく育つのではないかと考えているのです。

*******************

 総合的な学習の時間は,ここでいう「横断の視点」で実施するはずのものだったのでは?

 それほどまでに,「総合的な学習の時間」が無残な姿になっている今の学校にとって,次期学習指導要領が期待しようとしていることは,荷が重すぎる気がしています。

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教育における「先行者不利益」問題

 トヨタが世界初の量産燃料電池車を発売するなど,FCVの開発が進展する一方で,水素ステーション整備は遅れが目立っている。その理由は,水素ステーション事業が「先行者不利益」に陥っているからだそうだ。

 今年設置した水素ステーションより,東京オリンピック後の2021年に設置した方が,黒字転換が早いという試算がある。

 産業界でのこのような「先行者不利益」問題は,教育界でもあるのだろうか。

 学校ではICT関係の研究が進められており,タブレット機を購入させて授業で活用している学校もあるが,それを導入した場合と,それにかかった費用を別の面の環境充実にかけた場合とでは,どちらがより大きな成果が出せたかというと,答えは簡単ではない。

 教育の現場での「新しい取り組み」の多くは,一時的なブームや関心の高まりを背景にして,成果が出ているように見えるものもあるが,学習後に,たとえば資料などをもとに,自分の考えをしっかりと書かせるような問題を解かせて結果がよくないようでは,「何もしなかった方がよかった」と思わざるを得なくなる。

 ICT機器を活用して授業を行うと,子どもは「わかったような気分になる」ことが最大の落とし穴である。

 授業後には,「わかったかどうか」というアンケートだけではなく,

 「わかっているかどうか」がわかるようなテストをして,「感覚」と「実態」に乖離がないかを確かめる必要がある。

 しかし,研究校の発表で,「乖離がある」ことを堂々と述べられるような度胸のある人間はいないだろう。

 科学者の論文しかり。結論が先にありき。~の導入は役に立つ。

 それを物語るデータ「だけ」を集めて公開すればよいのだ。


 また,雑誌でも何でも,「新しいもの」への食いつき度は半端ないが,

 「実際に行わなければならないはずのことが行われていないこと」への反省・振り返り,改善の努力には関心が向かない。

 たとえば,学習指導要領の総則も理解できていないような人間が多いから,

 本来は「それを行うのが当然」という学習が,年間指導計画のなかですら位置付けられていなかったりする。

 大学では,「アクティブ・ラーニング」を通して,「最低限の指導」のあり方をぜひとも理解させたうえで,単位を出してほしい。しかし,残念ながら,「C」がついても単位は単位である。

 大学には「最低基準の保障」など,どこにもない。

 話がそれてしまった。


 教育現場では,「先行者」は損をしている場合が多いと思われる。

 しかし,「先行していること」に取り組んでいる雰囲気というのは大事である(もって1~2年にすぎなくても)。

 将来,どんな失敗が待ち受けていようが,挑戦的な起業を行う人材は,このような前向きな「教育の失敗」から生まれてくるのかもしれない。

 残念ながら,このような希望的観測を信じる親世代は少数派だろう。

 だから「先進的」なことをしそうな学校に,親世代は背を向けてしまい,

 「伝統的」な受験指導を行う学校に目を向ける。

 「先進性」を信じて子どもを通わせてくれる親のためにも,教師たちは「精一杯の失敗」を誠実に乗り越えていかなければならないのだろう。

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「伝達型の授業」はよくないと語る人たちが行っている「伝達型の授業」

 アクティブ・ラーニングとはどのようなものか,じっと映像を見て学んで実践に移すという教師たち。

 なぜ子どもたちは,その教師と同じような「学び方」をしてはならないと言われるのか?

 結局のところ,『学び合い』や『協働学習』の理念のウラには,

 「子どもたちは教師たちが語る授業を主体的には受けられない」という「子ども=低能力」観と,

 「教師は子どもが主体的に『聴く』授業をする力がない」という「教師=低能力」観

 の2つが隠されているものと思われる。

 ただ情報を伝達されているだけに見える子どもたちであっても,その頭のなかでは,もちろん個人差はあるが多くの「思考」がはたらいているはずである。

 本来は,その「思考」の過程や結果をさまざまなかたちで表現させ,それらをグループなどで検証させ,最後に個人で振り返らせる,そのような「学習過程」をコントロールするのが教師の役割である。

 この「思考」の段階を十分に経ずに,よくわかっていない他の生徒から多くの情報が垂れ流される状態を放置することが,教師の役割であるとは思えない。

 よほど周到に練られた教材と,課題によってでなければ,グループ学習の形態で成果を出すのは困難であろう。

 子ども同士でプリントの穴埋めをせっせと行っているような学習を「主体的な学び」などとは呼べないことを,教師ならわからないはずはない。

 
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悪意に満ちた風刺表現への感性

 日本の近代史の学習では,ビゴーなどの風刺絵を活用すると効果的である。

 オウムだったり猿だったりする日本人が登場し,欧米の目からは完全にバカにされているわけだが,どこか愛嬌がある。

 こういう風刺を笑ってすますことができる国民性は,「戦争の抑止」には欠かせないものだと思われる。

 フランスやギリシャの風刺絵についてはどうか。

 自国民に「ウケる」からつくって売るのだろうが,こういう風刺絵を見て,

 不快になるフランス人やギリシャ人はいないのだろうか。

 イスラム教徒全員を怒らせたり,ドイツ人全体を敵にまわしたりするような

 「節操のない」風刺絵は,日本だったら国内で批判の対象になるだろう。

 ネット上に公開されていれば,多くの人が閲覧するかもしれないが。

 「悪意」があるかどうかを感じる力は,おそらくどんな国の人にもあるだろう。

 それがわかった上で公開することの「メリット」とは何だろうか。

 ヨーロッパの人々は,勝手に「近代化」を進め,それを「文明化」とし,

 海外に進出して植民地を取り合い,勝手に「世界大戦」を二度も引き起こし,

 そしてまたあからさまに「敵」をつくって攻撃している。

 第三次世界大戦が起きるのも,やはりヨーロッパがらみではないか。

 「歴史に学ぶ力がない人たち」と思わざるを得ない。

 ・・・・・という感想を中学生が抱いたとき,社会科の教師なら,

 どのような反応をすべきだろうか。

 アクティブ・ラーニングが日本に定着すれば,

 「先生が支持する政党はどこですか。また,それはなぜですか」

 という質問に直面することも出てくるだろう。

 社会科の教師は,政治的な発言をどこまですることが可能なのだろうか。

 まずは,「ゲートキーピング」という役割をしっかりと自覚すべきなのだろう。

 感情に強く左右されそうな話題については,しっかりと冷静な判断が下せるような材料を提供するか,それがないのなら,まずはしっかり情報収集につとめるべきである。

 地球温暖化に関する取り組みの委員になっている大学の先生が,実は自分自身は温暖化を信じていない,なんていう話を,教師は自ら子どもに提供する必要があるだろうか。

 極端なものに,生徒は強く惹きつけられる。

 論理的な説明がつく題材かどうか,教材には事前のチェックが必要である。

 しかし残念ながら,今の小規模化した学校には,そのチェック機能が働くような組織は存在しない。

 ばれたときに管理職が上と下から責められるだけである。

 今後,学校における教職員の不祥事について,教育委員会の人間や学校の管理職の顔をメディアに露出することはやめた方がよいのではないか。

 問題が起こした本人は氏名も公表されずにすむのに,管理職だけが「さらしもの」になるのはおかしい・・・・そのような印象が強くなるほど,学校というのは「組織」としてのかたちを成していないところで,それこそが最大の問題なのである。

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幻に向かって必死に矢を射るヒマな人たち

 本物に向かって矢を射る度胸がない人間は,ひたすら「影」や「幻」に向かって攻撃を繰り返す。

 既成メディアの多くがそのパターンであり,

 時間的に余裕がある個人は,ネット上でたくさん「発射」している。

 自分の考えを自由に表明できる場があるということは,それだけでそれなりにストレスが発散されるだろうから,実社会で犯罪が減少していることとかなり相関がありそうだが,ネットの場合は犯罪の原因になることもあるからおそろしい。

 ただ,教育ネタの攻撃ほど,「実害のない」ものはない。

 多くの人は,自分が受けてきた教育のイメージをそれなりにもっており,それが「劇的に変わる」などということは想像できない。

 「話し合い」活動で実力が伸びたなどと胸を張れる人は少数であろうし,「勉強よりも部活で身についたことの方が社会に出てからは意味がある」と真剣に信じている人は多いだろう。

 ブログとか掲示板で発言できる内容は限られているから,そこで相手の考えていることを「すべてを知ろう」というのはそもそも無理なことである。

 ただ,振り込め詐欺にひっかかる人は相変わらず多いようだから,高齢者の場合は「目に触れるもの」「耳から聞こえてくるもの」がすべてだという感覚の人が多いのだろう。

 「本人に会って確かめる」ことほど重要なことはない。

 「実害」とは,教育現場で子どもがたちが仲間や教師たちから直接的に被るものである。

 どれだけ学習指導要領を改訂しても,その趣旨は教員たちが学校現場で実際に行動に移さない限り,何の意味もない。

 中学校の社会科などは,「内容が増えたから終わらない」などといって,重要な箇所を飛ばし,どうでもいいところに時間をかけることを繰り返しているから,いつまでたっても「学力」は向上しない。

 「活用できる知識」が増えない限り,学習指導要領が示す目標を達しているとはいえないのである。

 だから,公開授業研究会などにどんどん参加して,自分の意見や考えを直接教師にぶつけるべきである。

 私が授業研究会で発言した「議論にはなっていなかった」というコメントは「厳しい」ものかもしれないが,もし授業者が「これは議論でした」と言い張ったとしたら,もう「話すのは無駄」と私も接触をあきらめただろう。

 しかし,後日メールで改めて御礼を言われて,正しいことを指摘してもらったと自覚できている先生だったから,これからもずっと付き合いは続いていくだろうと思う。

 そういう先生だと思うからこそ,「議論になっていなかった」というコメントが言えるわけである。

 「よいしょ」だけのコメントほど気色悪いものはない。

 しかもそれが自作自演である場合は,むしろ気の毒に思えてくる。

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小学校学習指導要領実施状況調査の報道発表

 約2年がかりで分析が行われた「全国学力調査」の「全教科版(6年生が体育以外すべて)」の結果が公表されている。

 実施時期は2年前の2~3月にかけてであるから,当時の小学校6年生はすでに中学校2年生になっている。

 調査は全学校の約4%を対象としたから,ほとんどの子どもは問題を解いていない。

 統計的に十分な数のサンプルが集まっているという前提で分析は行われている。

 平成20年の学習指導要領の改訂での基本方針にあげられた,
 
 「思考力・判断力・表現力等の育成」などがどの程度行われたかを調査するための問題だったので,

 いわゆる「一問一答式」の問題ではないため,子どもたちは「すべてが応用問題」のように感じただろう。

 この調査結果は,もう改訂に入ろうとしている次の学習指導要領の基本方針に反映されることになる。

 社会科では,次の4つの「指導上の改善点」が掲げられた。

1 情報を基にして社会的事象の意味を考え表現できるようにする指導の充実

2 基礎的な知識や技能を確実に身に付けるようにする指導の充実

3 問題解決の見通しをもったり学習したことを振り返ったりする指導の充実

4 よりよい社会の形成に参画する資質や能力の基礎を育てる指導の充実

 それぞれに,2~3点の「重要なこと」が示されている。

 子ども向けの質問紙調査では,平成15年度の調査と比べて,

 「社会科の学習が好きだ」という質問では

 「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた6年生が

 56.9%から63.2%に増えている。5年生では微増といった感じ。

 他教科では,理科の学習が好きという子どもが増えているのが目立つ。

 逆に,算数に関しては,5,6年生ともに,「好きだ」と答えている子どもは減っている。

 「好き」「嫌い」を問うものほど意味がなく,むしろ害の方が大きい質問はないと思っているが,
 
 きっとこの結果を踏まえて「好きにさせることを目標にする指導」に力を入れることになるのだろう。

 「好き・嫌いにかかわらずに,学ぶべきことを自ら学ぶ子ども」をつくる教育は,小学校では無理なのだろうか。

 小学校の教師がいろいろと教材を工夫して「楽しめる」ようにがんばっている授業などには参加せずに,

 「もっと面白いことがたくさん書いてある参考書」をひたすら読みまくる受験生がいたりするのが邪魔であろうことは想像できるが,

 「好き」「楽しい」という「感情」には,非常に様々な「レベル」が存在することに気づき,その分類を真剣に考えてくれる人はいないだろうか。

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「腐った教師脳」の分析

 遺体画像を授業で子どもたちに見せた教師たちに対して,文科大臣も尾木ママも,強い口調で非難している。

 掲示板等ではキツイ非難が散見される。 

 私自身も教師の一人として,見逃すことができなかったのは

 「腐った教師脳」というフレーズである。

 思春期の子どもたちにとって,「他人」である教師は親以上に「ウザイ」存在になったり,「憎しみ」の対象になったりする。

 学校時代によい思い出のない人たちに限らず,今でも「教師」が敬う存在ではない人は多いかもしれない。

 退職した後,年賀状が何枚届くか・・・届き続けるかで,卒業生たちの「思い」はわかるものである。

 さて,「腐った教師脳」とは,どのような「脳」なのか。

 その「脳」のはたらきによって,どのような「問題行動」が生み出されていくのだろうか。

 遺体画像を見せた教師に,「ためらい」はなかったのだろうか。

 そもそも,私はそのような画像を見たいとは思わないし,養老孟司がどこかの文章で書いていたように,

 人間は「変わること」を恐れる生きものであり,「死体」「遺体」を目にしただけで,相当のショックを受け,想像できない「何か」に自分が変化することを忌避する人が多いことは,想像するまでもなくわかるはずのことだ。

 だから,TVや新聞にそのような画像が無修正で出されることはない。

 大人でもそう感じる「遺体画像」を,おそらくは「興味本位」で「見たい」と言った子どもだけを対象とするのではなく,教室で画面に映してしまうような行動がどうしてとれるのだろうか。

 このような画像を見た経験をもつ子どもがどうとかいう話はここでは書かない・・・というか,書けない。

 かつて,14歳の少年が起こしたショッキングな事件を知らぬはずはあるまい。

 その画像(があるかどうかは知らないが)も機会があれば見せるのか?

 「命の大切さ」を知ってほしいという前に,

 遺族の気持ちも何も考えず,「遺体を公開する」ような行為をする人間自身が,

 本当に「命の大切さ」を知っているかどうかを自問してほしい。

 「腐った教師脳」には,「命の大切さ」,「御遺族の心情」・・・そして何よりも,亡くなった方々の「無念」はどのように認識されているのだろうか。

 「目の前の(一部の)子どもに,そのときだけ,ウケ入れられること」に齷齪している教師の姿が私には浮かんでくる。

 教師は,努力しようとしているわけである。

 自分の存在意義が,その行為によってたとえ一瞬でも認められるのであれば,

 「その後,どんな事態が待ち受けているかを想像できずに」

 行動にうつしてしまう・・・・「腐った教師」ではなく,一瞬だけでも「存在価値のある教師」として認めてもらおうとする努力は,そのような思考回路で生じてしまうのではないか。

 私の想像だが,都市部の学校での事例が明るみになっていないことから,

 どこかのレベルで隠匿されているのだろう。

 学校,教育委員会レベルで,情報は抑えることが可能である。

 「遺体を見た子どものいる学校」というレッテルは,

 「どうせ大勢の子どもが家族と一緒に見ているのだろう」などというただの「想像」を超えて,

 深刻なものになり得ることをだれもが知っているし,

 健康被害がなければ,「なかったことにできる」のである。

 しかし,子どもの心に与える影響を,甘くみることはできない。

 体調がすぐに悪くなる子どもばかりではない。

 「時限爆弾」のスイッチを押したことの自覚だけはもっていてほしい。

 「心の研究者」には,ぜひともこの「スイッチ」を切る手段を開発してもらいたい。

 
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短時間での意思決定を嫌がる日本人気質は変えられるか?

 日本企業の行動や意思決定が遅いというのは,よく知られていることのようだ。

 その理由として,以下の3点を『「世界で戦える人材」の条件』(PHPビジネス新書)で挙げているのが渥美育子である。

 1 あまりにも人間関係中心の社会

 2 コンセンサスによる意思決定が民主的で正しいという思い込みと,リーダーシップの欠如

 3 世界の大変化と連動していない

 私が教育現場の「意思決定の遅さ」と聞いてすぐに想起するのは,

 石巻市立大川小学校である。

 東日本大震災に伴う津波によって,校庭にいた児童108名中の74名と,教職員11名中の10名が亡くなった。

 地震発生から津波の到達までの50分間という「避難するには十分な長さの時間」のうち,ほとんどが点呼や避難行動に関する「議論」で費やされたらしい。

 対照的なのは,全員が無事だった2校の小学校である。

 児童による自主避難が実施された釜石小学校,すぐに高台に避難させた門脇小学校。

 失われずにすんだ命の重みははかりしれない。

 この話を持ち出すと,「命」の話と「その他」の話は別だ,という反応がすぐにかえってくる。

 長時間議論した上での決定による「大失敗」は,「しかたがない」と思えてしまうような空気だからこそ,しないですむ失敗を繰り返すのである。

 短時間で決めたことが「失敗」すると,「とりかえしのつかない,あきらめきれないもの」と思えてしまう人間が多いうちは,いつまでも「大失敗」が繰り返されるのだろう。

 もっと短時間で決めたことの「失敗」に慣れるべきなのか。

 「失敗」の原因を,「短時間で決めたから」ですまされないようにするためには,短時間であらゆる検討がしっかりと加えられるような仕組みをつくることが大切だろう。
 
 また,どこまでの「失敗」が許容されるのか,その点については十分な時間をかけての議論と共通理解が必要だろう。

 「スピード感のある議論→決定」の訓練を積める教育内容も検討すべきかもしれない。

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「考える力」を奪う社会科の授業

 社会科=暗記科目ととらえている子どもや大人は少なくないだろう。

 センター試験に代表される駄問・愚問だけが原因ではない。

 多くの教師が安易な試験問題でお茶を濁しているからである。

 「覚える」ことではなく,「考えて理解する」ことが大切なのは,

 もちろん社会科だけではない。

 社会科には,「生きた教材」にあふれているという教科固有の特徴があり,

 「遺体画像を子どもに見せる」ことに教育的価値があると考えてしまう教師が生まれる理由の一つになっている。

 「生きた教材」のなかには,子どもの「感情」に強力に働きかけるものがある。

 しかし,「感情」に支配されると人間は「思考力」を失ってしまう。

 それをねらいとしているかのような授業も存在する。

 様々な授業を参観してきたなかで,最も痛ましかったのが,

 水俣病の授業であった。

 その教師は,20分以上にわたり,

 「水俣病の悲惨さ」を物語る映像をひたすら生徒に見せ続けていた。

 そして,その感想を述べさせていた。

 生徒に「考える」時間は与えなかった。

 「考える」ための資料も提示されなかった。

 日本には,このような社会科の授業を「取り締まる」手段がなかった。

 朗報がある。

 「遺体画像を見せられた」子どもたちが,その事実を簡単に公表できる手段を得ている。

 子どもたちが利用できる情報端末は,学校で教師が行っている様々な問題行動を直接訴える手段として活用することができる。

 体罰などの教師による暴力行為も,やがて丸裸にされる時代が来るだろう。

 教師がICT機器を活用できるようになるよりはるかに早く,

 子どもがICT機器で学校の問題を暴けるようになる。

 教師たちは,全力で「ICT機器」の排除に向かうようになるかもしれない。

 数年先には,どうみてもただのメガネにしか見えないものが,カメラになっており,家にいる親が授業をそのまま受けられるようになるかもしれない。

 教師も同じメガネをかけて,目にしたものはすべて記録される。

 「監視社会」の到来で何が失われ,何が「成果」として残るだろうか。


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教科の学習リーダーを育てる発想

 久しぶりに他校の「授業研究会」に参加したので,感想をもう一つだけ。

 その学校では,授業の開始時に,「教科の学習リーダー的生徒」が,2人1組で,本時のねらいを発表したり,前時の学習のふりかえりをしたりしていた。

 協議会では,「本時のねらい」が,子ども目線の言葉ではなく,教師の使う言葉そのままだったことの指摘があった(つまり,教師にやらされているだけだった)が,私がそれ以上に気がかりだったのは,

 子どもが「穴埋め問題」を出していたことである。

 社会科の学習では,「丸暗記」の象徴である「穴埋め問題」というのは,

 最も「低品質,低レベル」のものとして,敬遠されているものである。

 安易な入試問題や安い問題集ではよく見るが,「穴埋めはできるが説明はできない」と批判されるように,

 こういうことを授業でやっているレベルだと,子どもの学力は向上しない。

 理解していない=知識とはいえない「単語」がわかっている程度で終わってしまうのだ。

 「質問の答えを単語で答えさせているうちは,社会科教師として最低レベル」という評価が下される。

 だから,教師は「子どもが語れる質問」を投げかけるべきだし,

 子ども自身もお互いにそういう質問を投げかけ合うことが大切である。

 日常会話においても同じである。

 生徒会の活動や,部活動ではもっと「言語活動の充実」が重視されてもよいだろう。
 
 授業参観させてもらった学校の子どもは,

 日常的な教師の姿をそのまま体現してしまっていたように思える。

 もし,教科の学習リーダーがいて,その機能をしっかり生かそうとするのであれば,

 もっと「子どもらしい発想」で語らせるべきである。

 極端な話,教科の学習リーダーが出した問いがもとになって,子ども同士の問いの投げかけ合いが始まり,50分間がそれで過ぎてしまうこともあり得るというくらいの教科が,社会科であるということを大切にしてほしい。

 あまりに「形式主義」「学習形態重視」が過ぎると,

 変化に対応できない・・・というより変化に対応する気のない役人が増えてきそうで不安である。

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社会科の学習は技能に走ると「ツボ」を見失う

 以前,私の授業の感想をブログにアップしている人がいて,授業後に協議会もあったことから,「言いたことがあれば直接その場で言うべき」とご本人にお伝えした。

 授業の「型」を重視する先生方からは,「教師のねらいと子どもの学習結果のズレはかえってありがたい」という私のスタンスは理解しにくいかもしれないので,補足が必要である。

 よく,教師は授業の「めあて」を先に子どもに伝えて,それをよく子どもがおさえた上で,授業を展開することが望ましい,と言われるが,それは数学や理科ならわからないでもない。

 しかし,そもそも「空気抵抗はなかったものとする」などという「あり得ない環境」に限定して学習を進める数学や理科とは異なり,社会科はナマの社会的事象を扱う教科である。

 社会的事象がもつ意味は,見る角度によっていくらでも変わる。
 
 だから,Aという面からその事象を追究しているうちに,子どもがBという側面から考える意義の方が大事と思う場合も出てくる。とすると,教師の「ねらい」と,子どもが追究する「めあて」は変わってくるわけである。

 私の授業では,1時間の内容に対して,「授業が終わったときに,この時間の内容のタイトルを書いてみて」ということがある。

 タイトルは,「問い」のかたちでもかまわない(というより,それが望ましい。自分自身が立てた問いに一定の答えが出せている,ということに意味がある)。

 このように,社会科の学習では,「内容」が大事になるため,「内容教科」と呼ばれることもある。

 ここに,社会科が専門ではなく,「教育」が専門の先生が介入してくると,余計なことに目が向いてくる。

 私が先日参観した授業では,協議会で直接本人にお伝えしたから,ここでも書かせてもらうことにする。

 その学校では,全教科を通して,4人班での活動を重視しているらしい。

 1人が「ムードメーカー」になる,というのが特徴だし,あと「ファシリテーション役」もつくっている。

 しかし,実際の授業では,事前に用意してきた自分の考えを,4人が順番に語りだし,ほかの3人はひたすら下を見てメモをする,という時間が過ぎていった。

 司会役も必要なく,ムードメーカーはもちろんだれだか全くわからず,ファシリテーションのしようもない。タイムキーパーも,教師がつとめていた。子どもはストップウォッチを持っていなかった。

 各個人が話している内容に大差はないから,4人とも同じような主張が続く。

 それを,10個の班が同じようにやっている。

 黒板に10個の班の主張のまとめが出されたが,ほとんど全部同じである。

 教師が扱ったのは,ごく一部の,それも末節的な主張であった。

 結局,授業内容としていた大きな社会問題の核心には全く近づけずに,50分が経過していった。

 協議会では,複数の参観者がそこに気づき,指摘もあったから,私は

 「学習形態を重視したことによる弊害」と本質的な指摘を行ってみた。

 あたかも初めの20分の説明によって,子どもが考え,主張をまとめたように仕立てていたが,実際にはすでに子どもは「言いたいこと」をまとめて持っていた。

 研究授業では,よくある光景で,先輩教師たちがみんなそういう「やらせ」をしていたのだろうから,そこは追及しないで「あげた」が,

 「4人班」という形態によって,

 「教師の一斉授業よりもはるかに質の低い,『伝達』型の情報発信」に終始してしまった最大の原因が,

 社会科の授業の本質からかけ離れた,

 「技能重視」の姿勢によるものであることは明白である。

 書きたいことは,この何倍もあるが,この記事はとりあえずここまでにする。

 私の言いたいことは,

 「学校全体で取り組もうとしている実践」が,

 「教科の目標達成」の阻害要因になるわかりやすい事例であること,

 「学習技能」「学習形態」という,

 学習内容とは関係がない部分を重視することで,

 最も大事な教育目標が達成されにくくなっている事例であること,

 その2点であった。

 「グローバル教育」などを看板に掲げたことによって,

 中身がおろそかになっていく典型的な学校になるだろう。

 その学校の近くの大学で,

 「グローバルコミュニケーション学部」が4月にオープンするらしい。

 そのうち,「話し合い学部」も誕生するのではないか。

 日本は世界のなかでも「平均点」的な発想で大学をつくっていこうとしているのか。

 そのために海外の学校の授業を多く見ている人がいるのだろう。

 情けない限りである。

 日本に教科教育の専門家をしっかりと育てる大学はもう存在しないのか。


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なぜ大選手ではない人が優れたコーチになれるか?

 人にものを教える職業には,様々ある。

 「教える立場」の人間が,かつてはその道でプロフェッショナルであったとしても,

 「優れた教師」になれるわけではない。

 スポーツの世界では,選手たちから尊敬される「記録を残した選手」や「スーパースター」は

 何人かいるが,だれもが「優れたコーチ」にはなれない。

 一方で,こういうこともあり得る。

 野球のプロ選手が,中学校の体育でバレーボールの指導をするとき,

 バレーボール選手では思いつかないような優れた教え方をする。

 「できる人」と,「人ができるように教えられる人」は一致しない。

 「できない人」でも,「人ができるように教えられる人」はいる。 

 それがなぜかをわかっていない人間は,教師にはならない方がよいだろう。

 教育は,他人に自分と同じことをさせる営みではない。

 エデュケーションの語源は大学時代の「教育原理」で必ず習う内容であるはずだ。

 自分が子ども時代にどんなに勉強ができない人間であっても,

 教師になる道をあきらめる必要はない。

 自分が「なぜ~できるのか」がわかっている人はそう多くはない。

 だれのどのようなアドバイスで,また,自分のどのようなトレーニングで,それができるようになったのか,厳密な意味で選手は知ることはできないだろう。

 同じことをアドバイスされ,同じメニューのトレーニングでできるようになる人とそうでない人がいる理由を,どこまで正確に説明できる人がいるだろうか。

 教育現場には,「教育がどういうときに失敗するか」の事例でいっぱいである。

 余計なことをしないか,そこだけは大切にすべきというところには力を入れるかに気をつけるだけで,

 子どもの成長を邪魔しないですむ。

 あるプロ野球のキャンプのレポートで,あるコーチの「教え方」を批判していた人がいた。

 もちろん大選手で,大監督で,優れたコーチであった。

 「余計なことをしない」ことに重点をおいていた人である。

 教育現場は「プロ」を相手にした仕事ではないが,もう少しこのような姿勢を重視すべきかもしれない。

 そうでないと,子どもはやがて,非常に厳密で正確な「教師の教育力の評価」に目覚めてしまうだろう。

 「教えてくれないことに不満を感じる」くらいがちょうどよい感覚は,ベテランでないと味わえないかもしれないが。


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「イスラム国」の「絶対」を知る

 イスラム・・・イスラームとは,「絶対服従」という意味です。

 何に絶対服従しているから,今のようなことになっているのか。

 読書編で紹介した相澤理著『はじめての哲学・宗教』(大和書房)

 ・・・副題はすごく控えめな表示で・・・・

 「センター倫理でびっくりするくらいよくわかる」です。

 さて,ここで引用されていた,イスラーム教とユダヤ教の共通点と相違点を知る問題は,「一般教養」として大切な情報を私たちに伝えてくれるものだと思い,掲載させてもらうことにしました。

 センター試験というのは,問題自体の選択肢はつまらないのですが,問題を解くうえで示されている資料はおもしろいものが多いのです。

****************

 【クアルーンの十の戒律

  神に並ぶものを配してはならない
  
  両親によくしなさい

  貧乏を恐れて子を殺してはならない

  醜悪なことに近づいてはならない

  理由なく命を奪ってはならない

  孤児の財産に近づいてはならない

  十分に計量し正しく量れ

  発言する際には,公正であれ

  神との約束を果たせ

  神が示した正しい道に従え

 
 【モーセの十戒

  私以外のどんなものも神とするな

  像を造って,ひれ伏してはならない

  神の名をみだりに唱えてはならない

  安息日を心に留め,これを聖とせよ

  父母を敬え

  殺してはならない

  姦淫してはならない

  盗んではならない

  隣人に関して偽証してはならない

  隣人の家をむさぼってはならない

****************
 
 とても似てますね。生活を送っていく上で,私たち日本人からすると,とても不便そうなところも。

 でも,「教育勅語」と同じ内容もある。

 なぜ同じ根っこをもつ人間どうしが殺しあうのか。

 人間ってまったく違いすぎる人より,少し似ていて違う人の方が憎みやすいという性質はないですか?

 グローバル化だ,異文化理解だ,といっている人たちは,

 おとなりの国との将来像をどう描いていらっしゃるのでしょう。

 自分の答えはないのに,それを子どもたちに「自ら」探させようとしているのが,

 「新しい教育」を唱える人たちの行動パターンです。


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貧困な教育観だからこそ飛び出す罵詈雑言

 教育ブログに限ったことではないかもしれないが,汚い言葉を使うと,アクセス数が増えて「注目」される結果になる。内容がほとんどなく,同じようなことばかり繰り返しているブログでは,そうでもしないと読者が増えない。忘れ去られることがこわいから,刺激を自分で作り出す。しかし,「批判のための批判」を繰り返しているうちに,自分自身がひどい「差別主義者」であることが露呈してしまう。

 「だれも見捨てない」と言っているのは,「口先だけのことですよ」と暴露してしまうのも問題だが,「嘘も方便」という「救済措置」でぎりぎりセーフにすることは可能である。

 しかし,「おかしな考え方をしている」という決め付けで他人を差別し罵る人間は完全にアウトである。

 「たとえ話」の質が低すぎる。アナロジー思考のレベルがあまりに低いために,「相当するたとえ」として読むことができない。

 「たとえになっていないたとえ話」を,批判する相手が「おかしな人間だ」という自分の決め付けの正当性を確保したいためだけにやっているような人間に,教育を語る資格はない。

 なぜなら,教育は何のために必要かといえば,「おかしな考え方」であることを本人に自覚させることや,そもそも「本当におかしな考え方とは何か」を考える取り組みそのものだからである。

 それを放棄している人間の戯言が,教育の何に役立つというのだろう。

 非難だけに情熱を傾け続ける「本当の理由」を語ったらどうだろうか。

 
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出遅れ組の研究者の出番

 学習指導要領の改訂に向けての動きが本格化する。

 私の印象では,「ゆとり教育」スタート時の「出遅れ組」の出番になろうとしている。

 最近の話題であるグローバル教育や10年前からのESDの関係で,「21世紀型学力」などと

 呼ばれ始めている教育論は,すでに平成10年公示の学習指導要領に織り込まれていた。

 授業論にしても同様である。

 現場では,それが十分に実現できないできた。

 「理想と現実」の違いを最も強く実感しているのは,中高の現場である。

 教員たちは「入試があるからだ」と言い訳しているが,

 入試がない小学校でできていないのだから,仕方がない。

 むしろ,入試がない小学校で成果が出ていない教育方法を,

 中高にまで広げようとする方針には,現場からの強い異論が出てくるだろう。

 中高で「入試がない」という時代はなかなかこないだろうが,

 改訂された学習指導要領どおりに実践し,

 入試制度が変わって,きっと再び頭をもたげてくるのは「学力低下」問題である。

 「結局,力がついていないこと」の方がより明らかになるだろう。

 ときのたつのは早いもの。

 20年してまた亡霊がよみがえうとしている。

 20年以上前に耳にした授業論を,今日はある学校の講演で久しぶりに出会った。

 20年間に出番がなかった研究者が,20年前と似たような話をし出している。

 そこに加わった味付けは,ダイバーシティとか,「異質なものとの共生」などという

 日本の学校現場では,ほとんど実感できないタイプの価値観である。

 英会話を重視しようとする英語教育よりもやっかいな存在になるだろう。

 「みんな違ってみんないい」という話を,イスラム国がしていることを目の前にして叫ぶのは難しい。

 日本の教育改革の振り子のゆれは,研究者たちに

 「順番に出番を与える」ことに終始しているせいだが,

 何十カ国の授業を見て,「日本の授業は異質だ」といってみたところで,

 「異質なもののよさを重視しようとしている」自分の姿勢との矛盾にさらされたら何と答えるのだろう。

 大学の世界では,「師匠」「恩師」に楯突くことができない。それが最大の「支障」になっている。

 私が言う必要はないが,日本の教育の良さは,現場の優秀な教師が支えている。

 今,問題は,優秀な教師をつくりだすための教育を支える大学の基盤がもたなくなっていることだろう。

 教員養成系大学の方が,その危機感が強いのではないか。

 教員養成系以外の大学を出た教師の方が現場で実力を発揮している実態がもし明らかになれば,

 だれがどのような責任をとってくれるのだろう。

 学校現場の課題は,小規模化で,校内で若い教師を育てる力と余裕のあるベテラン教師が減っていることにある。解決策は単純なものである。適正規模を守る(超過疎地域を除く)ことである。

 「学び」の他律性より自律性を,伝導型よりも探究型を,などと言っているが,

 まず大学の授業でそれを実践し,「優秀な人材」に育ててから,ものを言うようにしていただきたい。

 大学の授業の実態は,今,「教え方を大学教師が学ぼうとしている」レベルである。

 話にならない。

 この国の教育関係の学会では,大学生にやろうとしても無理な教育を,

 「小中高でやっていなかったからだ」と言って,押し付けようとする傾向がある。

 話が逆であって,現場では「大学の研究者は役に立たない」という印象の方が強い。


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「考える道徳」のメッセージ~「道徳地獄」に陥らないために~

 平成30年実施に向けた動きが本格にスタートした「道徳科」ですが,最大のネックは「学習の評価」にあると考えられてきました。

 しかし,「考える道徳」を主たるメッセージにすることで,たとえば「ドイツにおけるイスラム排斥の動きをどう考えるか」といったほとんど「社会科」の学習内容に近いものが「評価」の対象になり得てきます。

 「寛容」「異文化理解」という道徳的価値に主眼をおけば,「それはなし」という話が「正解」かもしれませんが,要は「正解」を求める学習ではなく,

 「よりよい改善策を練る」ことが大切になっていくのでしょう。

 身近な生活の一つ一つを細かくチェックされ,

 「減点方式的」に

 「あ,それ,道徳科の減点材料ね」

 などと脅かされ続ける子どもの身になってみると,

 学校がそうとう窮屈な,子どもにとってみれば

 「道徳地獄」に見えるようになるかもしれないことを念頭におきつつ,

 今から「べからず集」の作成を先に初めておきたい気になってきました。

 NHKのニュースで流れた小学校の道徳の授業で,

 あくびをしていた何人かの小学生には「素直でいい子どもたちだ」という印象を持ったことを,

 最後に付け加えておきます。

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タブレット端末の時代は終わり,大型画面のスマホの時代へ

 教育現場でのICT機器の利用については,2~3年スパンの研究が終わると,もう研究中に使っていた機器は古くて使えなくなっている,時代が訪れるだろう。

 今や,高校生のほとんどがスマホを持っている時代である。

 中学生にもすごい勢いで広まっている。

 やがて小学生の多くがスマホをもつ時代になるだろう。

 とすれば,「持ち込み禁止」という原則は難しくなっていき,

 むしろ「授業でも利用してもらいます」という方が,

 学校や教育委員会,教師は費用負担という意味でプラス,

 親には経済的な負担がかかるが,単なる通信費に教育費の意味が加わることになり,

 子どもは学校で堂々とゲームやメールができてしまうという意味で,

 だれもが「得をする」結果になる。

 2020年の東京オリンピックのころには,小中学生もスマホを使って,

 来日した外国人とは音声翻訳ソフトを使って堂々とコミュニケーションをとるなど,

 今まででは見たこともない「国際化」の光景が当たり前になるかもしれない。

 英語の授業は,スマホのアプリを用いた学習が主流になり,

 定期考査などのテストも,アプリで出題し,解答を集め,文章題も教師のパソコン上のエクセルシートで解答が一覧で表示され,キーワード検索などでほぼ自動的に採点ができるようになるなどのシステムも可能になるだろう。

 通話などは耳にとりつける小さな機器があればできるから,「携帯電話は小さい方が便利」という言い方もできなくなっていく。

 iPhone 6の影響で,iPadのWebコンテンツ利用が減少しているというニュースが出たのは昨年のことである。

 実現可能性の低い「タブレット革命」の「先」を見た行動が教育界には必要になっていくだろう。


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日本ほど「革命」が陳腐なフレーズで語られる国はないだろう

 「革命」とは,それが導入される以前と以後で,社会のようすが一変するような「大変化」をさす言葉のはずである。

 それが,日本では何でも「革命」になってしまうから,子どもが感じる「革命」という言葉の価値は,200円のものが100円で売られていることを驚く程度の認識になってはいまいか。

 「タブレット革命」という言葉を記事で読んだが,今や一般家庭でも広がりつつあるタブレット機が,授業を根本的に変えると期待する人たちは,よほどまともな授業に出会えなかった経験の持ち主なのだろう。

 「IT革命」なら,それなりの継続性をもって日々進歩しており,たとえば携帯電話の機種を2年で換えるのが当たり前の時代が,1年単位になるかもしれないくらい,変化のスピードが速まっている。

 「市民革命」なら,身分制社会が一気に崩れるような大変動が起こり,

 「産業革命」なら,工業化の進展,輸送手段の変化が「弱い地域」の「植民地化」がより容易に行われるようになった。

 「強い者が勝ち残る時代」が続いており,「強者と弱者の格差」が問題視されるようになったが,現在の弱者が勝てる方法は今のところ見つかっていない。

 だから,今の日本では,「タブレット革命」を起こすということは,本当の意味での「革命」と同じくらい,「あり得ない」ことなのだろう。

 「タブレット革命」の実現には,悲しいことに多額な『お金』が必要である。

 「個人負担」にしているところでは,やがて「成果に乏しい」ことを理由に「反対運動」が起きるか,「敬遠」される原因になるだろう。

 私がもし本当の意味での「タブレット革命」を起こすとしたら,「学習を支援する教師が不要になる」ことを前提とした授業へのタブレット機の導入である。

 塾ではコンピュータ画面の前に受講生を座らせてこれをやっている。

 そんな「革命」を起こすメリットは,「人件費が削減できること」くらいだろう。

 学校現場は,利益を出す必要がない。

 しかし,だからこそ「仕事の手を抜いている」と批判されやすい場所でもある。

 教師は,もっと「汗水たらして」仕事をすべきである。

 今は,子どもが自由自在に使いこなしているタブレット機を前に,教師が冷や汗をかいている姿しかどうも想像できない。

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プロの教師は「伝わる言葉」に変換できる人

 成果がもとになって自分の指導に自信がある教師が,失敗に陥るケースがある。

 それは「以前に通じた」言葉が,「今の子どもに通じる」とは限らないことを自覚していないことによるものである。

 全く同じ方針,同じ内容を教えるにしても,子どもへの「伝わり」方を左右するのは「言葉」であることを自覚するべきである。

 社会科などでは良い例が,事象の「たとえ話」にある。

 20年前の「たとえ」が現在で使えない理由は,現在では「たとえられた対象」を子どもが知らないからである。

 「ポケベルみたいな音がした」という言葉が通じない子どもは多いだろう。

 上記の自覚がない教師は,「昔はよく理解できていた子どもが,今は全然反応がなくなっている。原因は学力低下だろうか」と思ってしまうが,実態は自分自身の「指導力低下」による結果である。

 この手の話をこの20年間の間でもよく耳にする機会があった。

 教育公務員は「研究と修養に励む」ことを義務づけられた存在だが,「子どもに通じる言葉を話し続ける」ために,まずは子どもの反応をよく見ることである。

 原因を子どもに求めるのではなく,自分自身に求めることが重要である。

 もともとアナロジー思考力に乏しく,「たとえ話」ができない人にはそもそも「伝わる言葉を使うように努力する」という発想がない。

 辞書にこう書いてあるから,この意味で使っている,などと子どもに対しても指導するから,相手にされなくなるのだ。

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イスラム国の要求と「疑似命題」の関係

 週刊東洋経済に連載されている佐藤優のコラムのタイトルを紹介した。

 「非現実的な要求は対日戦争の予告」であるというドッキリする内容であるが,

 イスラム国の構成員らしき男性の要求である

 「72時間以内に2億ドルを支払う」ということの不可能性がよくわかった。

 「疑似命題」という,質問の仮定や前提が間違っていたり,検証できない事柄によったりするために,答えがそもそも存在しない問題のことが,教育の世界でときどき話題になることがある。

 そもそも「中身」がないものに対して,「中身がないのはいかがなものか」と批判しても何にもならない。

 問題は,「こんなの読むのは時間の無駄」と言っていられる教育の世界はよいのだが,税金を投入して「無駄な議論」をされたらたまらない。

 「議論ばかりして決断しない政党」は,今でも政治から国民を離れさせる原因になっている。

 ただ,「議論ばかりして決断しない」ことが成功する場合もある。

 「決断」によって企業が失敗し,倒産することと,国が倒れることを一緒にしてはならないだろう。

 せめて「疑似命題」を,答えが導き出せる「命題」に変えようとする努力が求められるところであろう。

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「既成メディアも危険をおかしての取材姿勢を学ぶべき」という指摘の危険性

 「ジャーナリストらしいジャーナリスト」には危険がつきものである。

 「ジャーナリストらしいジャーナリスト」が求められる空気がその危険性をさらに高める。

 今朝のテレビのニュースでコメンテーターのだれかが発言した瞬間に,

 「既成メディアの中から第二,第三の後藤さんが生まれる」危険性を直観した。

 確かに,フリーのジャーナリストが得た情報を提供するだけなら,メディアに「取材能力」は求められない。

 「ときと場合を考えろ」という指摘が通用しなくなることがおそろしい。

 新たな犠牲者を生み出さないための知恵を,メディアの方もしぼって発信するべきである。


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他人の教育論を具体的に批判すると,必然的に自分の教育論のボロが出る

 教育論のカテゴリーでは,やはり教育論を論じることが正統的な行為だろう。

 より具体的な教育方法の議論になると,自分の教育方法の問題も浮き彫りになる。

 原典を確認してはいないが,「気になる子どもには気軽に声をかけるな」という趣旨の「格言」があるらしい。

 私もそれは正しい指摘であると感じる。

 もしも中学校で,「気になる子どもには声をかける」という原則が徹底された場合,どのようなことになるか想像してみてほしい。

 ある特定の子どもは,「気になる」すべての教師から声をかけられ続けることになる。

 これは,子どもたちの間で声をかけられることとは全く意味が異なる。

 だから,教師は「子どもが気になる」からといって,不用意に声をかけてはならない。

 むしろ,何でもなかった(教師の側の誤解だった)場合などは,余計な不安を煽ったりしてしまう。

 小学校の教師のように,自分しか子どもと話す大人はいない,などと誤解している人間にとっては,

 「声をかけないことが悪」のように思えるらしい。

 もちろん,階段から足を踏み外しそう,だとか,前を見ていないで,人にぶつかりそう,というときはすぐに声をかけなければならない。

 声をかけるタイミングも大事だが,声をかけないでおく,という配慮もときとして重要なのである。


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「意欲」が重視されない日本の教育と社会~小学校教育がもつ可能性~

 日本の教育において「意欲」が重視されないことには,長い歴史の積み重ねとの関係があるのだろう。

 どんなにやる気があっても,能力がない人間に対しては冷たい社会である。

 「やる気」だけでアイドルになり,みんな人気者になれるのであれば,ライブ会場はいくつあっても足りない。

 組織でも,モチベーションだけが高い人がリーダーになるのは恐ろしい。

 「筆記試験による選抜」などに代表されるように,「意欲」よりも「実力」を重視すること。

 これは,社会として数多くの失敗を経験した末に,多くの人々に共有されるようになった結果なのではないか。

 しかし,人口減少社会,グローバル社会など,新たなステージへと移り変わっていく社会への対応の必要性が顕在化してくると,こういう「冷静な判断」に対する魅力が薄れてくる。

 大学入試センター廃止などは,このような考え方にもとづくものだろう。

 「今まではそれでよかった」ことが,「これからもそのままでよい」とは限らないことがわかっているからだ。

 かといって,「成功しないかもしれない」改革を,進んで実行にうつしていこうとする「やる気」に欠けている以上,結局は「何も変わらない」可能性も高い。

 多くの場合,「何もしない」まま,嵐が通り過ぎるのを待つような姿勢になっているのが今の日本の教育や社会の実態だと思われる。

 日本の未来の社会像を見すえることは非常に困難であり,様々な資料をもとにして将来像を語っても,常に「誤りかもしれない」という不安を抱えた状態となる。

 「誤るリスクを冒せない」という慎重派が多いのは,今までの社会がそれなりに安定感を保ってきたからである。

 今まで,日本の小学校の教育に対しては,中学校の教師の立場で多くの疑問を投げかけ続けてきたが,大きなリスクをかけて改革に取り組んできた場所である,という解釈も成り立つことを今日は述べていきたい。

 受験指導の必要がない小学校の教育では,中学校や高校と比べると,「意欲」「やる気」が比較的重視されている。

 目標に準拠した評価などまるで無視して,授業態度だけで評価・評定を決める教師も存在することを私は知っている。

 ときどき,中学受験のための調査書に示された自分の子どもの(低い)評定を知って,親が大騒ぎする「事件」が勃発する。調査書は受験校の校長宛の「親展」扱いの文書であり,親はその内容を知ることはできないが,子どもが「間違って封筒を開けてしまった」ことにすれば,見ることができる。

 小学校の教師が小学校レベルの学習で行っている評価・評定への信頼感はないから,多くの私立中学校では調査書に記載されている評定には何の関心もないのが実態である。

 むしろ,「授業を真面目に受けていたか」「テストの点数がいつも高得点だったか」「宿題や提出物は忘れずに出していたか」などの質問項目に,イエス・ノーで答えてもらうだけでもよいくらいである。

 こういう小学校での教育で「救い」になるかもしれないのは,子どもの「意欲」「学ぶ姿勢」「やる気」が最も大切だと考えている教師たちの教育観である。

 このような教育観が日本の将来を変えることになるかどうかはわからない。

 やはり「実力主義」「能力重視」の社会では生き残ることができない子どもが生まれていくのかもしれないが,異質なものを持っているということ自体,決して否定してはならないというのが私の認識である。

 どのような方法でこれを突き詰めていけるのか,考えていきたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より