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『学び合い』によって失われるもの・捨てられるもの

 学力の程度を問わずに進級させたり進学させたりしている日本の仕組みでは,同じ学年の学力格差が大きいものであることを前提とした教育課程の編成が必要である。

 1クラス30人規模であれば,当然のことだが教師1人が学力が下位の子どもたちに次々に登場する新しい内容を習得させ,格差を縮めることは難しい。

 そこで,学力上位の子どもたちに,下位の子どもたちの「先生役」を任せるという発想が登場してくる。
  
 この仕組みでは,下位の子どもたちの学力の底上げになることと,上位の子どもたちにも教師に求められるような「説明力」「表現力」「説得力」「やさしさ」「思いやり」などの能力がつくことが期待できる。

 これによって,学力格差は縮小する。

 今まで,学力下位の子どもたちがあまりにも放置されすぎていたために,「平均点」が上昇するという結果にもなるかもしれない。

 数字上から見ると,「成功例」と言えるものになるかもしれない。

 「1年間で成果を出す」という発想の教育改革をするとき,最も効果的なのは,20点しか取れなかった子どもに40点とらせるようにすることである。70点とれる子どもに90点とれるようにすることは難しい。

 もし,このような学習環境が公立学校で広がっていくと,どのような現象が起こってくるか,想像できるだろうか。
 
 学力上位の子どもとその親の中には,「教育を受ける権利」の侵害を主張する人たちもでてくるだろう。

 他の子どもに「教える」ということは,すでにその内容が習得できた子どもたちであり,公立学校の教育水準としては,「目標は達成されている」と考えればよいわけだが,今までのように先生が教材を工夫し,おもしろい内容をどんどん話してくれたり,自分で自分の考えたい課題を追究していくという「学習機会」は失われることになる。

 「先生の一方的な知識の伝達では,習得できない子どもが多い」という単純な理由から,『学び合い』の時間を増やすことで,「先生の一方的な知識の伝達によって,多くのことを習得し,理解し,それをもとに自分の考えを広げ,調べ,深めていく子ども」は公立学校には存在しなくなるのだ。

 公立学校からの上位層の離脱に拍車がかかることだろう。

 上位の子どもは「見捨てて」しまってもかまわない,という発想は公立学校の現状を見ると強く否定できない面ももちろんあるが,

 「日本を捨てる」という選択肢をとる日本人が増えていくのも現実のものになってくる。

 「思いやり」だけでは困っている人たちを救えないことを主張できる政治家がどれくらいいるだろうか。

 「日本の教員の世界が,地球上で唯一残存する,平等主義のみを重視する歪んだ社会主義思想の集団である」という陰口に多くの人が共感できる時代になっていく。

 最後に,『学び合い』によってどういう子どもが生まれているか,一言。

 教師が主導する「学び」の場でも習得できず,子どもも交えた「学び」の場でも習得できない子どもは少なくない。

 このような子どもにとっての「救い」とは何だろうか。「見捨てない」という姿勢だけが,「救い」になるのだろうか。

 収入がなくなり,生活に困っている人を「見捨てない」という話と,

 学力面で教師が子どもを「見捨てない」という話は同列ではない。

 同じようなことは,中教審の答申で示されている入試選抜制度についても言える。

 あらゆる角度から評価されて,最低ランクがつけられた大学進学希望者と,その希望者が通う大学が生まれる。今では,「偏差値」だけで決まっていたランクが,より精緻化されて序列化されるわけである。

 準備にも実施にも長時間かけて,「あらゆる角度から見て最も下」という評価が決まるシステムが,準備には長時間かかるが,実施は短時間で(1~2日で)すみ,「入学試験の点数によって不合格が決まる」仕組みより優れた仕組みである,と胸を張って言える人の教育観をよく聞いてみたい。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「楽毅」第二巻より