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「子どもを幸せにしたいと願う自分への満足感」で終わらせないために(一部加筆修正済)

 学者と専門家の違いはどこにあるか。

 読書編で話題にした内容ですが,教育の世界は,学者が専門家を兼ねている場合があります。ここに恐ろしさがある。

 学者は真理を追究するために学問の自由が保障されています。だから,誤りかもしれないことを発表して,それに対する批判を受けることもできる。(ただし,ここで捏造やコピペをするような人は,自由な発表を行う権利を剥奪されても文句は言えません。)

 しかし,専門家には,主張したことに対する責任が生じます。

 自分が主張している手法が教育現場に立つ教員に誤った理解をされ,そのために多くの子どもたちが犠牲になっているとしたら・・・。

 責任を感じるべきなのは,子どもを教えている教師だけでなく,その教え方を主張した人間もです。

 「乗数」「被乗数」という概念を小学生に理解させようとして,5×4=20と答えたものを不正解として,4×5=20が正しいなどと教えていたことがいかにナンセンスかは,数学者が真面目に説明してくれています。

 たったこれだけで,算数が嫌いになる子がたくさんいるわけです。

 同じように,教師の「教え方」がいけないために,勉強が嫌いになる(その前に,すでに教師が嫌いになっている)子どもがたくさんいる。

 自分自身のことを振り返ってみれば,そういう「評価対象」は複数いるでしょう。

 教育現場に限らず,警戒しなければならない「専門家」は,宗教の世界と同じように,「人を信じさせる方法」を知り,それを駆使している人間です。

 だれがどう考えても誤っていないことをスローガンにし,感情の高まりを利用してそれを行動のきっかけにするというのは,自分自身で利用するのは正しい行動ですが,他人に使うのは・・・特に教育の上ではいかがなものでしょう。

 なぜ私が「操作主義的なノウハウ」をここで批判し続けているのか。

 どうして「専門家」気取りの学者が「胡散臭くなるか」は,こうしたバレバレの「心理利用作戦」があるからです。

 多くの悩める教師を救う最も簡単な方法は,「少なくとも,自分は子どもの幸福を願っている教師である」ことを自覚させることです。このような「最短の道」には,落とし穴が待っていることも自覚すべきです。

 どういうわけか,「最短の道」を「最善の道」だと勘違いし,当たり前のことを「実感」しただけで酔ってしまうのは小学校の教師に多いのですね。

 昔から,小学校の実践を読むと,やけに感情に訴える大げさな表現が多く登場するのですが,これは心理学の世界からは容易に見抜かれてしまう「まやかし」「独善的理解」に過ぎないものが多いように感じます。

 小説やテレビ用のドラマとして成立してしまうような話に酔ってしまうだけでは教育は成立しません。 

 実際に,子どもが幸せになっている(将来の)姿が想像できないのが教師という存在です。

 だから,実際には不安のままでよいのです。

 不安な人を,安心させようとする時点で,すでにその「教育法」「指導法」は誤っています。心理療法としてならOKかもしれませんが。

 教師が一番陥りやすい失敗が,「自分に酔うこと」です。「感動している自分に酔う」こと。これが一番やっかいな症状です。

 授業のなかでの楽しそうで,活発な姿だけをよしとして,家で定着を図れない子どもを見過ごしているようでは,子どもをテレビの視聴者と同じレベルに貶めているだけです。

 テレビの一つの番組をつくるために,どういう専門家が,どれだけの時間を費やして,どれほどのチームワークで仕事を進めなければならないか,一度じっくり教えてあげたいものです。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より