成人式
今日は,中学校の教え子たちが主催し,招いてくれた「成人式前夜祭」に出席してきた。
5年しか経っていないが・・・というべきか,5年も経っているが・・・・というべきか,
表現に迷い,複雑な思いになる期間である。
150人くらい集まっただろうか。ずいぶんと立派になった(中学生のころと比べるとという意味で,当たり前のことだが)「新成人」たちに囲まれながら,少し意外だったことは,中学校時代は病気等で登校日数が少なかった「元生徒」,不登校だったり不登校傾向があった何人かの「元生徒」も顔を揃えていた。当時の学校には「居場所」がなかったかもしれないが,5年たった今,抵抗なく学年の集団にいる様子を見ていると,実は当時も心の中ではここを「居場所」としていたのかもしれないと思えてきた。
話をしてみてさらにほっとさせられたのは,それぞれが自分の夢に向かって確実に歩んでいることである。
3年サイクルで新しい「世代」の子どもたちに出会っていくが,まだ「決定的な違い」「断層」を実感したことはない。
ただ,年によってはピンポイントで強い衝撃を受けるような事件を経験する子どもたちがいる。
東日本大震災もそうだろう。被災者ではなくても,大川小の件などは衝撃的なニュースである。
確か,この新成人が小学校1年生のとき(2001年)に「附属池田小事件」が起こっている。
ニュースを聞いてショックを受けた人たちが多く存在する学年だろう。
海外でも学校が襲撃されるテロ事件が発生してしまったばかりだが,テロに対する恐怖と同時に,怒りも強く感じられるような年齢になってきたのではないか。
中学校時代の大きな教育方針に,「強く」生きること,「正しく」生きること,「朗らかに」過ごすこと,というのがあったのだが,「強さ」と「朗らかさ」の両立は難しい。「正しさ」は見る角度によって変わる。そういう「達成しにくい課題」にも「強い意思で,正しさを追求し,朗らかにまとめていく」ことができる新成人になってほしい。
対テロに「朗らかさ」など不要だ,という主張もあろうが,強硬なだけの対処が,さらなるテロを・・・以前よりさらにスケールが大きなテロを引き起こしてしまうような「強い対処」は「正しい」と言えるのかどうか。
人にはなぜ「やさしさ」や「朗らかさ」が求められるのか。
実は,人間ではなく動物の世界の方が,「強さ」も「正しさ」も「朗らかさ」も兼ね揃えた生活が成立しているかもしれないという目をもって,選挙権を活かし,社会を担っていく「成人」になってほしい。
今年はおめでたさが何倍にもなった念頭のお祝いであった。
« 日本型教育の最終形態!? | トップページ | 『学び合い』によって失われるもの・捨てられるもの »
「教育」カテゴリの記事
- 教員になりたての人がすぐ辞める理由(2019.01.12)
- 教育は「願ったもの勝ち」「言ったもの勝ち」ではない(2019.01.08)
- 「一人も見捨てない」は罪な要求である(2019.01.04)
- 列で並ぶこと自体が好きな?日本人(2019.01.01)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント