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日本型教育の最終形態!?

 オンライン学習への商機を見定めている日本企業があるらしい。

 海外のオンライン教育システムをもつ企業を買収し,そこに日本型のソフトを組み込んで外国向けに売る。

 人口減少が加速し始める日本以外の顧客を増やさないと,日本の企業が危ないということはわかりやすい予想である。

 そこで,授業のスタイルというものを変えようとしている日本の教育界の未来を想像してみた。

 結論から言えば,日本の学校教育は,「学力」全体を向上させるための場ではなくなっていく。

 たとえば,知識はほとんどなくても,口から言葉が出てくれば,そしてそれが周囲の知識のほとんどない同年代の子どもたちを納得させることができるものならば,高い評価を受けられるような仕組みが学校でできる。

 親はそれではたまらないので,子どもを塾に通わせたり,オンライン学習をさせたりする。

 今まで,学校で「教え込み」をさせられていた,と言われている内容は,すべて塾まかせになり,

 学校では集団として教育することが適切なものばかりが学習内容となる。

 そうこうしているうちに,日本の「学力」全体が地盤沈下し,新興国や途上国に並ばれ,抜かれていく。

 「教え込み」=「悪」という教育観で救われるのは,いわゆる「分数が理解できない大学生」(これはたとえのひとつ)がたくさんいる大学である。

 教育の世界で,なぜ国のリーダーが信頼する「教育学者」が生まれないかというと,「教育学者」の「顧客」がこういう大学だったり,人数的に圧倒的多数を占める「学力に不安や課題がある学校」の教師たちだからである。

 「落ちこぼれをなくす」という原理は,つきつめて言えば「どのような能力・状態が優れたものであるか」をあいまいにさせ,見えなくするためのものである。

 「1点刻みの評価の廃止」も同様である。たとえば,79ポイントを獲得している生徒と59ポイントの生徒が,同じ「C」というランクに位置するという仕組みを想像してほしい。両者が結果として同じ評価を受けているということは,何を意味するか。

 それは,79ポイントの生徒と59ポイントの生徒は「同じランク」だが,79ポイントの生徒と80ポイントの生徒は「ランクが違う」ということである。

 この制度の方が,「1点の違い」が一部の生徒にとっては決定的に不利になることを意味する。

 「学力は数値では測定できない」などと言っているが,A,B,Cなどと評価し,ランクをつけてそれを総合して最終的な評定をつけるという現在のしくみも,Aを何点,Bを何点などと点数化している現状がある。

 点数化しなくても,Aが何個,Bが何個でこうなる,という仕組みの場合,結局は「数値」が決め手になっているわけだ。

 なぜこれほどまでにわかりやすい課題がある「評価」の仕組みを取り入れようとする動きが出てしまうのか。それは,「文科省に楯突くことは自分の大学への配分金を減らされるデメリットを意味する」という「恐れ」が大学の委員にあるからと想像する。

 真面目に,本心から,このような仕組みが必要だ,と認めた委員がいたら,まずその大学から実践すべきである。

 そして,結局は自分たちだけが損をする,ということを思い知るべきである。

 今までの評価システムにも問題がないわけではない。しかし,評価システムを変えることが,「学力」面の取り返しのつかない地盤沈下を生むという恐怖が先にたって,あわてて学習指導要領が改訂されたことを思い起こしてほしい。

 日本の教育の最終形態は,文部科学省の「傘下」にある組織が敬遠され,優良企業(教育産業を含めて)が提供する教育が本物だと多くの国民が認識するというものになるのではないか。

 そういう優良企業(教育産業を含めて)に文部科学省から天下りする人間が出てくるとしたら,本当に許せない。
 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より