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どうしたら,社会科を好きにさせることができますか?

 このような質問には,中学校の教師よりも,小学校の教師の方が関心があるのではないでしょうか。

 小学校の教師は,「好き」とか「嫌い」という子どもの声に振り回されながら,毎日を送っているのかもしれません。

 小学生というのは,「好きだからやる」「嫌いだからやらない」という理屈が通ってしまう世界で教育を受けているようですね。

 中学校から上になると,そういう理屈は通用しなくなります。

 中学生には受験があるし,高校には「進級」「卒業」というハードルがあるからです。

 中学受験をしない小学生には,このようなハードルが存在しないから,つまらない授業は寝ていても関係ないし,好きな体育は担任さえもてば,何時間でもできてしまう。

 そういう小学校の先生に同情(するふりを)し,「教えることが苦手」という意識の先生が多い社会科という教科について,「好きにさせる方法」を聞かれたら,どう答えるかを考えてみました。

 まず,気をつけなければならないのは,小学生は,

 「話し合い」などの活動自体が好きであること。

 社会科の授業で「話し合い」活動を増やすと,子どもは生き生きと学習しているように見えてしまいますが,これは社会が好きになったわけではなくて,「話し合い」が楽しいだけであることが多いのです。

 小学生は出来合いのペーパーテストしかやらないことが多いでしょうから,その「話し合い」から習得できたはずの知識なり技能なりが定着したかどうかを確かめる方法をもっていません。

 小学校では教師が子どもの発言を板書してしまうことが多いので,「話し合い」の過程を子どもがノートに自分なりにしっかりメモするという習慣はないでしょう。ですから,たとえば1か月たって,あのときの「話し合い」では何が何であることがどうやってわかったか?と尋ねても,忘れてしまっていることが多いはずです。

 「学び合い」は,それ自体が楽しいのであって,教科で習得すべき知識や技能を自分たちの力だけで身に付けていくことは困難です。

 では,教科で習得すべき知識や技能を子どもが自らどんどん習得していけるような,「課題を与えてもらうこと」が大事なのでしょうか。

 先生が,面白いネタを見つけてきてくれて,興味をもたせてくれる。

 先生の質問に魅了されて,ぐんぐん授業にのめり込んでいく。

 そんな姿が理想なのでしょうか。

 これも違います。

 「社会科が好き」なのではなくて,「おいしいネタ」に食いついただけです。

 では,「社会科が好き」な子どもというのは,どういう行動にでるのでしょうか。

 もし,「授業に意欲的に参加してくれる」程度のことを想定しているのであれば,それは教師としてあまりにも要求水準が低すぎます。

 本当に「社会科が好き」な子どもは,学校になど来ませんよ。

 自分でフィールドワークをしていたり,図書館で歴史の本を読んだりしているはずです。

 こういう「社会科が好き」な子どもに我慢をさせて,年間計画で決められた内容を学習させるのが教師の仕事なのです。

 ですから,「社会科を好きにさせる方法」を考えること自体がナンセンスなんです。

 なぜ「どうしたら,社会科を好きにさせることができるか」と考えてしまうか。

 それは,年間計画で決められた内容を子どもに意欲的に学習させられない自分がいるからでしょうね。

 社会科を教える難しさはどこにあるのでしょうか。

 算数のように,「できる」「わかる」から意欲的になる,という単純な教科ではないからでしょうか。

 扱う教材が,具体的すぎるからでしょうか。抽象的な言葉や概念が登場してくるからでしょうか。

 最大の問題は,「社会科を好きではない教師」「社会科を教えるのが得意ではない教師」自体でしょう。

 だから,まずは教師である自分自身が「どうしたら社会科を好きになることができるか」を考えるべきです。

 それを考え始めれば,実際の社会に出た経験がある人は,すぐに気づけるはずです。

 「社会科という教科は,好きとか嫌いとかいう次元で語るべきものではない」こと。

 要は,「社会科」が対象としている「社会」自体をバカにしていた自分が見いだせるはずなのです。

 それは,人間を甘く見ていたという問題でもあります。

 いい加減,教科の学習を「好き」とか「嫌い」という言葉で表現させるクセをなくしたらどうでしょうか。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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