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「日本一の証し」がほくして?・・・犯罪等動画投稿少年問題

 漢字のみのタイトルで中国語のように見えてしまうが,日本語は助詞を除いてしまっても,修飾語が被修飾語の前にくるというルールを知っていれば,ほぼ正確な意味がとりやすい言語である。
 
 今回,「ようじ混入動画投稿少年」を英語では何というか,Google翻訳で見てみると,

 Toothpick mixed video posting boy

 となった。単語を直訳しただけの日本語語順英語という新しい言語を開発する研究をしている人はいないだろうか。
 
 翻訳ソフトの開発が2020年の実現を目標に実施されているようであるが,日本人にとっての英語の習得の必要性が増していること以上に,英語を話す人が日本語を習得する必要性が増しているのであれば,「完璧な翻訳」をゴールとしないサービスで間に合わせることも可能ではないか。

 とにかく勤勉性という点ではどの国にもひけをとらない英語学習をしてきた日本だが,時間をかけても英語で自己表現することができないし,その必要性も感じられないままでいることがどれだけ「問題であるか」を意識できないこと・・・つまり「英語習得への関心・意欲・態度」が弱いことが,問題であることは確かだろう。

 ニュースを見て,上記のことを考えてしまったのだが,「問題」は自分(たち)がしている犯罪等の行為をネット上に公開する「少年」「若者」が後を絶たないことを,どう考えるのか,ということである。

 食品をめぐっては製造過程で起こる問題がしばらくニュースになっていたが,流通過程で異物が混入される事件も過去には多く起こっている。

 「新しい」のは,混入している場面をそのままネットに投稿して公開するという行為である。

 おそらく,お菓子などの買い物をするときに,「ようじ(や針のようなもの)の穴が開いていないか」を確認しようとする人は増えるだろう。今まで,まさか何かが入れられている不安を抱えながら買い物をしてきた人はいなかったと思う。

 売る側にとっても,心配の種になるだろう。万引きは自分に損失だが,購入者の側におそろしい被害が起こる可能性もあるからだ。

 こうした他人の迷惑・不幸・被害を顧みず,自分が目立ちたい,注目を浴びたい,閲覧数を増やしたい,という思いで犯罪等の行為を行う人間は,どうしたら救われるのだろうか。

 教育現場には,「子どもたちを孤立させないための心の交流を図るための実践を増やしてほしい」などと要望されるだろうが,教育の難しさとは,ねらいがそれとわかる実践をすると,そういうねらいの実践をされていることが伝わるだけで孤立感を強めたり深めたりしてしまう子どもがいることである。

 「あなたは一人ではないよ」と言われてつらい思いをする子どもがいることは理解されにくいと思う。

 「わたしはだれも見捨てないよ」と言われて,逆にやりきれない思いになる子どもがいることを理解してくれる人はどのくらいいるだろうか。

 「注目してほしい」という願いとともに,「放置してほしい」という思いがあるのも思春期の子どもの特徴である。

 「自主的な活動」とは何か。

 「自立」とは何か。

 将来への明るい展望が見えない少年たちにとっての救いとは何か。

 「道徳教育を充実させよ」という声が高まるのは自然かもしれないが,道徳教育そのものの難しさを理解しないで学校まかせにするような風潮では,子どもたちはきっと「救われない」と思う。

 なぜなら,少年たちの本当の未来は,「学校」ではなく「社会」にあるからである。

 余計なことだが,キョウインがなぜ見当外れだったり「世間知らず」風の考えをもってしまうかと言えば,教員だけが,「社会」でなく「学校」に居続けられる存在だからである。

 「社会」の人たちに日常的にふれ合えることが,「学校」にしばられてきた子どもにとってもキョウインにとっても必要なのかもしれない。

 万引き防止のために,被害を受けている店の方に学校でお話してもらうとか,防犯カメラのチェックにどれくらいの労力がかかるかを警察官に話してもらうなどの対策は考えられる。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
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    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
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  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
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    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より