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なぜ自分が批判している内容が自分自身がやっているものだということに気がつけないのか?

 教師になりたてのころは,小学生や中学生の「いたらないこと」にイライラしたり,ムカムカしたりするものだが,子どもはやがて成長し,卒業するときには「それなり」の姿になっていく。そして「それなり」の姿で送り出した後に待っているのは,次の「いたらない」子どもたちである。

 このサイクルを繰り返していくうちに,やがて気づいていくことがある。

 それは「いたらなさ」の根源が,実は子どもにあるのではなく,親や教師,大人たち自身にあるということである。
 
 教師の場合,ここに到ると2つのタイプに分かれることになる。

 「子どもを主たる相手とした仕事」である教育に,責任感をおぼえる人と,

 無責任でいても問題ない現状に安心してしまう人である。

 両者では,「忙しさ」の意味が異なる。

 責任感が強い人にとっての「忙しさ」とは,充実感やさらなる向上への意欲とイコールである。

 後者にとっての「忙しさ」とは,「何としても避けたいもの」となる。

 だから,「研修」に向かう姿勢も正反対となる。

 どんなに忙しくても,そして,その忙しさを助長するような研究になってしまうとしても,進んで取り組める人。

 「忙しい」ことを理由に「研修」に向き合わない人。

 後者のタイプの教員は,どこの学校にも必ずいるものである。

 初任者でもすぐに見分けられる両者のポイントは,生活指導の場面にある。

 教育に責任を感じている人は,問題行動が発見されたとき,自動的に「スイッチ」が入り,「プログラム」が始動するように,子どもの成長を支えるための土台作りのシナリオを描き始める。こういう場面で教師は教育への「使命感」を見出されるわけである。

 一方で,「またか」などと「怒り」だけが先行し,面倒くさそうに・・・「忙しくなる原因を持ち込むな」という態度で子どもに接する教員がいる。こういう教員が一定数いると,生活指導は堂々巡りになっていき,教員の介在がさらなる問題を生産していく悪循環に陥る。「いじめ」の事実を隠す子どもがいるのは,こういう教員がいる場合は「正しい選択」となりうるのだ。

 また,学校現場には,「研究のために生きる」などというアイデンティティを確立して,突発的な生徒指導などを「雑務」として考える教員も一定数存在する。まずいのは,「おれの研究の邪魔をするな」という「私情」を生徒指導に持ち込んでくることである。それさえなければ,「授業研究の熱心な先生」「教え方が上手な先生」などとして,一定の信頼も得られるのだが。

 さて,ここからは脱線したまま,話を終えることにする。

 ごくごくまれに,自分が「怒っている」内容そのものが,自分自身がやっていることだということに気づけない教員もいる。

 心理学的には,強固な自己防衛機能が備わっているために,自分の欠点に全く気づけないことが原因のようだが,周囲が困るのは,そのことを指摘されると周囲への攻撃性を増すことである。

 要するに,子ども時代の過ごし方に問題があったのだと思われる。

 自分が興味をもったことについてはとことんやるが,そうでないものは「とりあえず暗記しておけばいい」という態度でいると,視野がどんどん狭くなっていく。

 ある事象が,Aという側面から見ると正しいが,Bから見ると全くの誤りになる,ということに気づけない大人と話すと本当に苦労する。自分にとって都合のよい面だけから物事を見るようなクセがついてしまっているのだ。

 現在の小中学生の一部が,過去の子どもたちと決定的に異なるのは,総合的な学習の時間等で,「学び方を学んでいる」点である。

 一問一答式のような低レベルのテストの正解を追い求めるような学習が,「本当の学習」ではないことはみんな知っている。

 ただ,そんな低レベルの問題でもできない自分が許せないでいる子どもも少なくない。こういう子どもを救うには,やはり「基礎・基本の定着」は欠かせない。

 総合的な学習の時間の指導を経験したことがある教師なら,「正解が決まっている問題の解き方を教えること」だけが教育ではないことはわかっているはずである。

 こういう当たり前のことが理解できないで,現場の教師を批判するような「好戦的な」内容を繰り返し,ひとりごとのようにつぶやいている人がいるが,自分と同じようなタイプの人間に対するアンテナの感度は抜群のようであるから,あとは自分自身の文章が人からどう読まれるかをじっくりと考えることが大切である。

 相手がいても,反応が返ってこなければひとりごとと同じである。相手がいないひとりごとの方が,まだ「ひとりごと」として周囲も認識できるだけましだろう。

 これは恥をかき続けている人への善意の言葉だと解釈していただきたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より