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不登校児童生徒の数字だけからはわからないこと

 不登校児童生徒の数が減ることに超したことはないが,それがすなわち問題の解決に向かっているとは限らないことに注意すべきである。

 たとえば「保健室登校」「別室登校」のような形で学校に通っている児童生徒が増えている可能性もある。

 また,「不登校児童生徒」に認定されるための日数に届かないが,その数に近い児童生徒が増えているか減っているかはわからない。

 そもそも,不登校児童生徒の「人数」だけにこだわってしまうこと自体に問題がある。

 一般の方には理解しにくいことかもしれないが,

 登校している児童生徒の中には,「不登校状態になれない」苦しさを味わっている子どももいる。

 小学校の適正規模の最低基準は12学級といわれる。

 これは学年ごとの人数がほぼ同じことを想定し,各学年の学級数が複数であることを示した数字で,

 極端な例として,1学年~5学年=各1学級,6学年=7学級という学校が「基準を満たしている」とは考えられない。

 小規模校の最もわかりやすい問題は,「1学年1学級ではクラス替えができない」ことである。

 一定の距離を置くべき問題が発生した子どもを,別々のクラスにするという選択肢がない状態である。

 学校の適正規模の「現在の基準(1校12~18学級)の考え方」について,文部科学省のHPに以下のような「まとめ」がある。

******************

○一定の規模があることにより、子どもが集団の中で、多様な考えに触れ、認め合い、協力し合い、切磋琢磨することを通じて、一人一人の資質や能力をさらに伸ばしやすい。

○各学年2学級以上とすると、人間関係に配慮したクラス編制ができる、習熟度別指導等多様な指導形態をとることができる、スポーツでクラスの対抗戦ができる、部活動がより多くの種目、多くの人数でできるため、生徒のモチベーションがあがるなどの利点がある。

○教員配置に関しても、学年複数学級とすることで、教員同士が指導方法について協議ができるようになったり、組織的な校務分掌をすることもやりやすくなる。教員が互いに切磋琢磨するために必要な教員数を確保するという観点は重要である。

○特に中学校の場合は教科担任制であり、同じ教科を担当する教員を複数配置できると組織的な教科経営や、多様な指導方法の工夫がしやすくなる。

○同一県内でも都市部、または、郡部の中でも中核的な町に人口が集中している実態があり、都市部と郡部を一律に考えることにはかなり無理があるのではないかという意見もある。

○適正配置を考える際に、都市部か郡部かという二分法ではなく、個々の学校の置かれている地域の条件を整理していくべきではないか。

○都市部、郡部と基準を分けるよりも、基本となる基準を参考にしつつ、市町村ごとに判断できるようにすることが適当ではないか。

○統合等により適正配置を進めるに当たっては、標準規模に満たないことによる教育上の具体的なデメリットについて、どのように克服していくかという観点から検討すべきである。

○子どものことを考えると、義務教育において、小規模校のデメリットに対して何ら対応しないことは問題である。

*******************

 小規模校における不登校児童生徒及び不登校児童生徒と同じような心の悩みを抱える子どもの研修をどこかで見て,この記事でもふれた記憶があるのだが,現在,私の抱いている最大の実感は,

 「ごく少ない,同一の集団で小中の9年間を過ごすことのデメリット」である。

 「小規模校に,不登校状態になれずに苦しんでいる子どもが多い」かどうかは実証できない。

 しかし,この問題は,ある一定数の集団でも言えるかもしれないので,小中一貫教育の課題として,認識しておく必要があると考えている。

 「環境を変えることで新しい生活を発見するチャンスとする」ことに成功した子どもがたくさんいることを私は知っている。

 必ずしも,「学校に通えるようになること」だけが「成功」とは言えない。「新しい人とのつながり」を見つけることが,その子どもと保護者の「救い」になるケースもある。

 現場の教師には,「環境を変えてみたら」とは言いにくい面がある。多くの「関係者」による多面的・多角的な支援が必要である。

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コメント

 先般公表された文科省の新しい学校統廃合指針では小中とも2学級の学年があればそれ以上の統廃合は求めないモノでした。学年1~2学級の中学に小学校の学区をあわせて一貫校化するのが少子化にあえぐ地方の落としどころになるとも思われます。私も小中一貫校には懸念があります。実は一貫校化はされていないものの小中同一学区に居住しており小5の子どもがおります。はっきり言って不登校予備軍です。市内に県立中高一貫校が有るため1割ぐらいの生徒はそちらへ進学します。一概には言えないことですが道徳的にも意識の高い生徒だと思います。いじめの歯止めになるような生徒が半減した集団が小学校時代の負の人間関係みたいなモノを引き摺ったまま中学に進めばどんな辛辣な目に遭わされるのか想像するだけでも恐ろしい。岩手県では県教委通達により数十年前から全中学生部活加入強制です。学区の中学は事実上運動部しか存在せず運動が苦手な生徒(我が子がそうです)への蔑みも助長されるでしょう。学区が同一の老朽化した小中がともに学年3~4学級以上で学区内に使わなくなった大きなハコモノがあってそこに同居しましょうということでもなければ小中一貫校には賛成できません。
 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「歴史の活力」より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より