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2015年1月

2割の子どもに8割の子どもを操作させる教師

 中学校の教師にとって,「生徒の動かし方の上手・下手」は生命線の一つである。

 たとえば,様々な行事では,それなりの「整列したかたち」をつくる機会が多い。

 そのつくり方の上手・下手は,声の出し方,指示の出し方,教師の立ち位置の3つでほぼ決まる。

 「整列」を甘く見てはならない。それができている学校とそうではない学校の違いは,別の活動や学習面での違いと相関関係があるはずである。

 私はこれまで何度も中学生,高校生,大学生の野球の試合の球審をしたことがあるが,試合前の練習とベンチ前の様子を見ていれば,強いチームかどうかは判断できるが,最もわかりやすいのが試合開始時の整列状態である。

 野球は想像以上に頭を使うスポーツである。頭を使うための「間」があることも特色の一つだが,瞬時の判断で何通りかのうちの1つを選択するという場面も多い。

 まともに真っ直ぐに並べない選手が,複雑な対応をこなせるとは思えない。

 教育現場では,スペースの広さ,活動の種類や目的によって,様々な形態で生徒をまとめて動かす必要のある場面があるが,集団競技を経験している人間は,こういう指導が得意であることが多い。

 このような「直接的な指示で動かす」場面だけではなく,

 教師には「間接的に動かす」力が求められる。

 私が最も醜いと感じる「動かし方」は,自分の意図が通じそうな一部の生徒たちを利用して,そうではない生徒たちを「管理」させようとするものである。

 「意図が通じそうではない生徒」が抱く疎外感を想像できないような人間が学校現場の教師になるべきではない。

 すべての子どもに対して,同じような機会を提供することが教師のつとめである。

 教師の「助け」を必要とする子どももいるが,実際に「助け」を求める子どもだけではなく,「助け」を拒むタイプの子どももいることを忘れてはならない。

 「助け」ないことも,教師にとっては重要な選択肢の1つである。

 教師の「お気に入り」たちに動かされることが屈辱的なことであると感じる子どもは,「見捨て」られている。

 「子どもを見捨てる」という概念が頭にある教師から,「だれも見捨てない」という建前の言葉が出てくるのは,ごくごく自然なことである。


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「研究者ぶる」教師は手に負えない

 学者と専門家の発言の意義の違いは以前に説明したが,もう一度繰り返すと,

 学者は学問の自由という原則のもとで,自分の学説を述べることができる。

 しかし,専門家として呼ばれてどこかで発言する場合は,自分の発言を真に受ける人がいることも想定して,注意しておかなければならない。

 両者の違いがあいまいなのが,大学の教員である。

 社会科教育などの場合,学会自体がすでに時代遅れになっているせいか,新しい知識をもっていない大学教員がいることがわかる。

 何十年か前に書かれた本の中身のような話を延々とされても,その本で学んで成果を出した教師が現われていない以上,使えない内容だということが判断できなければならない。

 直近では,自分の教え子が学校現場で「よい教師」と認定されていなければ,ある程度の責任を感じてもらいたい。

 学校現場で最も使えないのが「研究者ぶる」キョウインである。

 研究者なら,自分の考えが正しい根拠が整然と述べられる。

 しかし,「研究者ぶる」キョウインは,「自分が正しい」ことを自分の考えが正しいことの根拠にしてしまう。

 どうしてこういうキョウインが生まれるのかというと,それは直近の「恩師」のおかげ(?)に違いない。

 社会科教育の現場では,「資料や根拠に基づいて自分の意見を述べる」ことは常識であるが,最近の大学の授業では,資料すらまともに扱えない学生が増えている。それは,大学の教員が相当量の資料の提示を怠っているせいだと想像する。

 シラバスには,授業で扱う数百から数千の資料も参考のために載せておいてみたらどうか。

 資料の質から授業の質は判断できる。

 しかし,そもそもこのような資料を必要としない大学教員の教育観がブログで平然と語られるのが今の時代である。

 教育現場にとって,決して未来は明るいものではない。

 だからこそ,統廃合の積極的な推進によって,人数は増えても負担も増えるという最悪の事態を回避することが求められている。

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教育ブログからの「撤退」は本意ではない

 ブログ村でケチをつけられたのが原因がどうかはわからないが,村から「撤退」したブログがある。

 そこで語られていた教育観は,私から見れば「噴飯モノ」で,こういう考え方をもっている人間が現場に上がってくることには反対であった。

 なお,この「噴飯もの」という表現には,正しい意味の「おかしくてたまらないこと」ではなく,誤用されている「腹立たしくて仕方ないこと」という意味を込めている。

 文化庁が2012年に行った調査では,正しい意味だと理解している人は20%で,誤用派は50%だった。

 だれが最初に誤用したのかという調査もぜひ行ってほしい。

 さて,教育ブログから去ってしまった「噴飯もの」だが,こういう事例も教育を考える上では欠かせない。

 大学の教員養成の実態を知る上でも,重要な情報源である。

 「学び合い」という言葉が,いろんな意味で誤解を生むきっかけをつくった人間には,ある程度の責任がある。

 そこに乗っかっている人間かどうかを見分けるのはカギ括弧の使い方であるが,会話の上では判断がつかない。

 子どもを正面にすえて「損得勘定が大事」と教える人間に,教育基本法などの法律は無力である。

 教育現場としては不安の方が大きい分,まっとうな疑念を公的に投げかけられる場がほしい。

 ブログの上での反応はほとんど感じられないのだが,今回は「撤退」というのが大きなアクションであった。

 孤立を深めている人間ほど,自分が多くの人間とつながっていることを誇示したがる。

 教育ブログではよくあるパターンである。

 ブログの世界など,孤独でなければわざわざ踏み入れない場所かもしれない。

 もっとこの村の中にメッセージを放り込むスタンスを続けてほしかった。

 「校長」と「大学教授」に対して異様な執着心と攻撃性を発揮する個人のせいではないことを祈る。

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中学校の良きリーダーは必ず現われる

 久しぶりにコメントをいただいたので,少し補足しておきたいと思います。

 昔から,国立や私立中への受験者が多く,公立中に進学するときに上位の子どもが抜ける地域では,「人材不足」を嘆く中学校教師がいるのは確かです。

 私立中や中高一貫校に抜ける小学生が増えた結果,中学校では評定で「5」がとれる生徒が減っていく,という印象があります。絶対評価になった影響で評定はインフレ状態となったため,今では相当な数の「5」が出ていますが。

 しかし,当然ですが公立中に進学する優秀な子どももそれなりにたくさんいるのです。

 というより,中学校がしっかりと教育して,育てています。だから,東京都の場合,日比谷や西高校などに高校から優秀な生徒が進学していくわけです。

 また,小学校とは異なり,中学校では生徒自らがつくりあげていく行事の回数が増えていきます。

 部活動も始まります。

 こうした経験の中で,決して学力は上位ではなくても,クラスを引っ張っていったり,部活動を動かせるようになる中学生は現われてきます。

 小中が実質的に一貫校になっており,人間関係がほとんど変わらないという地域もあるでしょう。

 それでも,「中学校になってがらっと変わった」ように思える子どもは少なくありません。

 小学校では,~さんがいたから,いじめられそうなときも守られてきたのに・・・というときの~さんが,私立に行ってしまうような場合,「守られてきた子ども」やその保護者は不安になるとは思いますが,第二の~さんはきっと現われます。驚くべきことに,「守られる立場」だった子どもが,逆にだれかを「守る立場」に変わることもあります。

 中学校は,だれがどれだけ伸びるか,全く予想が立てられないという「可能性の場」と言えます。
 
 学校では,そういうことを意識しながら子どもを教育するべきですし,基本的には子ども自身の「自ら成長する力」を信じて子どもに接するべきです。

 どうしても統廃合が難しいという地域の方には,このような言葉を投げかけたいというのが私の気持ちです。

 「極小規模の小中一貫は問題しかない」という決めつけはよくないでしょう。

 こういう学校こそ,相当高い教師の意識が必要ですし,そういう高い意識をもった教師がきちんと配置されていくことを期待したいと思います。

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「研究校なのに~」という教育の素人をだまらせる方法

 教科や道徳,総合的な学習の時間の研究指定校になれば,中学校でも校内研究の時間を設ける必要が出てくる。
 
 校内研修・校内研究の活性化を狙って,研究指定校になろうとする校長の判断は正しい。

 問題は,このような研究が子どもにプラスとなってかえっていくことを教師たちに実感させられるかどうかだが,ただでさえ忙しく,学校内での研究・研修のチャンスをもつことができないで育った教師たちには,「果実」は想定しにくく,開始当初は文句たらたらかもしれない。開始してみれば,それなりの刺激になるはずである。

 中学校の場合,放課後の部活動の指導時間を確保したいと願っている教師が多く,校内研修・校内研究はどうしても形だけのものになりやすい。しかし,職員会議とは違って,校内研修・校内研究は,その学校の教師たちがもつ「良さ」を共有するために欠かせない時間である。だから,落ち着いた学校ほど,研修・研究が充実し,教師の指導力も高まっていくという「プラスのスパイラル」効果が働く。

 「時間がない」ことを理由に研修・研究をいい加減にする学校の教師たちは,「マイナスのスパイラル」に陥っていく。教育公務員特例法という法律で,教員に「絶えず研究と修養に努めなければならない」ことを求めているのは,まぎれもなく「その職責を遂行するため」である。「職責」の自覚自体があいまいになっていることも現場の課題だが,「知識を軽視し技術に走る」空気も変えていく必要がある。

 研修・研究によって,より広範囲で高密度の知識をもつことは,教育の職責を全うするために欠かせない。

 学校の空気や文化を変える上でも,研究指定校になるというのはよい手段である。

 このような話は,実際に研究・研修で成果を残したことのない教師たちには通じにくいし,ときどき部活動が中止だといって子どもを家に早く帰らせることを嫌がる親たちなど,教育の素人の方たちには理解されにくい面もある。

 要は,成果である。

 教育の素人をだまらせるには,「成果」しかない。

 表面的な飾りでごまかそうとするのはいけない。

 その学校が,「あと数年はもつ」と実感できるような「成果」がほしい。

 「研究校なんか・・・」と言う教師をなくすことが第一の求められる「成果」である。

 個人研究ではなく,学校という協働の場でのすべての教員による研究の「成果」を出す経験によって,初めて「学び合い」の大切さが語れる教師になると思われる。

 「研究校なのにこんな問題を出しやがって」などという部外者からのヤジは無視してよい。

 「道徳の研究をすればいじめはいっさいなくなるはずだ」などという人間ほど,「教育の重さ」がわかっていない者はいない。

 こういうことを言う人間は,絶対に「研究の指定を受けること」を拒否するだろう。

 研究後の問題が発覚して批判されるのは嫌だと思っているからである。

 教育現場から,「問題」などそう簡単になくなりはしない。

 要は,正面から「問題」に向き合う姿勢がつくかどうか,ついているかどうかである。


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語るに落ちた『学び合い』教

 大学の先生方は,昔,組合の人たちが騒いでいたころの義務教育の現場よりも,かなりの程度で「文科省」に絞られているようですね。

 予算の獲得は「政治」であり,教育も「損得で動く」ことを自ら語ってしまっているような人間がいます。

 気がかりは,「損得で動く」ことを子どもに教えている,というコメントがあることです。

 「徳」ではなく「得」を優先させる教育は,「あり」でしょうか。「なし」でしょうか。

 教員が現場に立って,「何が得か」を考えて子どもを教育している姿を想像してみて下さい。

 そして,「何が得か」を優先させて行動を選択する子どもが増えている様子を想像してみて下さい。

 いよいよ,尊い「学び合い」という言葉を商業的に利用したツケがまわってくるときが来るのではないでしょうか。

 
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不登校児童生徒の数字だけからはわからないこと

 不登校児童生徒の数が減ることに超したことはないが,それがすなわち問題の解決に向かっているとは限らないことに注意すべきである。

 たとえば「保健室登校」「別室登校」のような形で学校に通っている児童生徒が増えている可能性もある。

 また,「不登校児童生徒」に認定されるための日数に届かないが,その数に近い児童生徒が増えているか減っているかはわからない。

 そもそも,不登校児童生徒の「人数」だけにこだわってしまうこと自体に問題がある。

 一般の方には理解しにくいことかもしれないが,

 登校している児童生徒の中には,「不登校状態になれない」苦しさを味わっている子どももいる。

 小学校の適正規模の最低基準は12学級といわれる。

 これは学年ごとの人数がほぼ同じことを想定し,各学年の学級数が複数であることを示した数字で,

 極端な例として,1学年~5学年=各1学級,6学年=7学級という学校が「基準を満たしている」とは考えられない。

 小規模校の最もわかりやすい問題は,「1学年1学級ではクラス替えができない」ことである。

 一定の距離を置くべき問題が発生した子どもを,別々のクラスにするという選択肢がない状態である。

 学校の適正規模の「現在の基準(1校12~18学級)の考え方」について,文部科学省のHPに以下のような「まとめ」がある。

******************

○一定の規模があることにより、子どもが集団の中で、多様な考えに触れ、認め合い、協力し合い、切磋琢磨することを通じて、一人一人の資質や能力をさらに伸ばしやすい。

○各学年2学級以上とすると、人間関係に配慮したクラス編制ができる、習熟度別指導等多様な指導形態をとることができる、スポーツでクラスの対抗戦ができる、部活動がより多くの種目、多くの人数でできるため、生徒のモチベーションがあがるなどの利点がある。

○教員配置に関しても、学年複数学級とすることで、教員同士が指導方法について協議ができるようになったり、組織的な校務分掌をすることもやりやすくなる。教員が互いに切磋琢磨するために必要な教員数を確保するという観点は重要である。

○特に中学校の場合は教科担任制であり、同じ教科を担当する教員を複数配置できると組織的な教科経営や、多様な指導方法の工夫がしやすくなる。

○同一県内でも都市部、または、郡部の中でも中核的な町に人口が集中している実態があり、都市部と郡部を一律に考えることにはかなり無理があるのではないかという意見もある。

○適正配置を考える際に、都市部か郡部かという二分法ではなく、個々の学校の置かれている地域の条件を整理していくべきではないか。

○都市部、郡部と基準を分けるよりも、基本となる基準を参考にしつつ、市町村ごとに判断できるようにすることが適当ではないか。

○統合等により適正配置を進めるに当たっては、標準規模に満たないことによる教育上の具体的なデメリットについて、どのように克服していくかという観点から検討すべきである。

○子どものことを考えると、義務教育において、小規模校のデメリットに対して何ら対応しないことは問題である。

*******************

 小規模校における不登校児童生徒及び不登校児童生徒と同じような心の悩みを抱える子どもの研修をどこかで見て,この記事でもふれた記憶があるのだが,現在,私の抱いている最大の実感は,

 「ごく少ない,同一の集団で小中の9年間を過ごすことのデメリット」である。

 「小規模校に,不登校状態になれずに苦しんでいる子どもが多い」かどうかは実証できない。

 しかし,この問題は,ある一定数の集団でも言えるかもしれないので,小中一貫教育の課題として,認識しておく必要があると考えている。

 「環境を変えることで新しい生活を発見するチャンスとする」ことに成功した子どもがたくさんいることを私は知っている。

 必ずしも,「学校に通えるようになること」だけが「成功」とは言えない。「新しい人とのつながり」を見つけることが,その子どもと保護者の「救い」になるケースもある。

 現場の教師には,「環境を変えてみたら」とは言いにくい面がある。多くの「関係者」による多面的・多角的な支援が必要である。

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研究会に出席したら

 若い先生方が増えてきたからか,教科関係の研究会に自主的に参加される若手も増えてきたように思います。
 
 「若手を育てよう」という意識の高い研究会では,質問や意見を若手にどんどん言わせる司会者がいることと思いますが,やはり心構えとしては,自分からどんどん考えを発信することが大切でしょう。

 そういう生徒を育成したいのなら,自分も同じような態度をとっていかなければなりません。

 また,研究会の発表者なり,運営側の先生方に,自己紹介・・・できれば名刺交換をして,「私はやる気のある人間です」という自己PRをしてもらいたいのです。

 授業力,実践力,教材研究力などを高めるには,密度の濃い準備を行った上での研究授業を繰り返すのが一番です。

 そのような機会があるたびに,研究会で「この方のご意見をうかがいたい」という先生方にご案内を出したり,事前に指導案を送ってご意見を求めたりすることも大切でしょう。

 そしてできたら,「会の終了後」の時間も貴重なものだと知っていただきたい。

 私はどちらかというと,研究会出席後はすぐに神保町などに出かけて,新しい資料をすぐに収集するくせがあった方ですが,9割のお金は成果には結びつきませんでした。

 頭を冷やしてから,買い物には出かけた方がよいことを知ったのは,教員になって十数年たってからでした。

 今思えば,本に答えを求めるという姿勢より,熱意をもって実践している,あるいは実践してきた先生方との時間をたくさんもつことの方が,教師としての総合力を高める上でも重要であったことが実感できます。

 貴重な経験をもつベテランが,今後,わずかな期間に現場から一斉に去られます。

 その前に一緒に過ごせる時間を大切にしてほしいと思っています。

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どうしたら,社会科を好きにさせることができますか?

 このような質問には,中学校の教師よりも,小学校の教師の方が関心があるのではないでしょうか。

 小学校の教師は,「好き」とか「嫌い」という子どもの声に振り回されながら,毎日を送っているのかもしれません。

 小学生というのは,「好きだからやる」「嫌いだからやらない」という理屈が通ってしまう世界で教育を受けているようですね。

 中学校から上になると,そういう理屈は通用しなくなります。

 中学生には受験があるし,高校には「進級」「卒業」というハードルがあるからです。

 中学受験をしない小学生には,このようなハードルが存在しないから,つまらない授業は寝ていても関係ないし,好きな体育は担任さえもてば,何時間でもできてしまう。

 そういう小学校の先生に同情(するふりを)し,「教えることが苦手」という意識の先生が多い社会科という教科について,「好きにさせる方法」を聞かれたら,どう答えるかを考えてみました。

 まず,気をつけなければならないのは,小学生は,

 「話し合い」などの活動自体が好きであること。

 社会科の授業で「話し合い」活動を増やすと,子どもは生き生きと学習しているように見えてしまいますが,これは社会が好きになったわけではなくて,「話し合い」が楽しいだけであることが多いのです。

 小学生は出来合いのペーパーテストしかやらないことが多いでしょうから,その「話し合い」から習得できたはずの知識なり技能なりが定着したかどうかを確かめる方法をもっていません。

 小学校では教師が子どもの発言を板書してしまうことが多いので,「話し合い」の過程を子どもがノートに自分なりにしっかりメモするという習慣はないでしょう。ですから,たとえば1か月たって,あのときの「話し合い」では何が何であることがどうやってわかったか?と尋ねても,忘れてしまっていることが多いはずです。

 「学び合い」は,それ自体が楽しいのであって,教科で習得すべき知識や技能を自分たちの力だけで身に付けていくことは困難です。

 では,教科で習得すべき知識や技能を子どもが自らどんどん習得していけるような,「課題を与えてもらうこと」が大事なのでしょうか。

 先生が,面白いネタを見つけてきてくれて,興味をもたせてくれる。

 先生の質問に魅了されて,ぐんぐん授業にのめり込んでいく。

 そんな姿が理想なのでしょうか。

 これも違います。

 「社会科が好き」なのではなくて,「おいしいネタ」に食いついただけです。

 では,「社会科が好き」な子どもというのは,どういう行動にでるのでしょうか。

 もし,「授業に意欲的に参加してくれる」程度のことを想定しているのであれば,それは教師としてあまりにも要求水準が低すぎます。

 本当に「社会科が好き」な子どもは,学校になど来ませんよ。

 自分でフィールドワークをしていたり,図書館で歴史の本を読んだりしているはずです。

 こういう「社会科が好き」な子どもに我慢をさせて,年間計画で決められた内容を学習させるのが教師の仕事なのです。

 ですから,「社会科を好きにさせる方法」を考えること自体がナンセンスなんです。

 なぜ「どうしたら,社会科を好きにさせることができるか」と考えてしまうか。

 それは,年間計画で決められた内容を子どもに意欲的に学習させられない自分がいるからでしょうね。

 社会科を教える難しさはどこにあるのでしょうか。

 算数のように,「できる」「わかる」から意欲的になる,という単純な教科ではないからでしょうか。

 扱う教材が,具体的すぎるからでしょうか。抽象的な言葉や概念が登場してくるからでしょうか。

 最大の問題は,「社会科を好きではない教師」「社会科を教えるのが得意ではない教師」自体でしょう。

 だから,まずは教師である自分自身が「どうしたら社会科を好きになることができるか」を考えるべきです。

 それを考え始めれば,実際の社会に出た経験がある人は,すぐに気づけるはずです。

 「社会科という教科は,好きとか嫌いとかいう次元で語るべきものではない」こと。

 要は,「社会科」が対象としている「社会」自体をバカにしていた自分が見いだせるはずなのです。

 それは,人間を甘く見ていたという問題でもあります。

 いい加減,教科の学習を「好き」とか「嫌い」という言葉で表現させるクセをなくしたらどうでしょうか。


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どうしたら,生徒に好かれる先生になれますか?

 こういう質問を教員に対してするのは難しいようですし,「好かれていなさそうな」教員に聞くこともできないので,ネット上にヒントがないか探している人がいるようです。

 ココログではアクセス解析というのがあって,たとえば今週では,世界史の出題ミスの影響からか,このブログに3つの大学からのアクセスがあったことがわかります(大学名は公表しませんが)。

 「検索キーワードランキング」もあって,今月ですと「指導主事」が上位にあり,「入試 インフルエンザ」も10位以内に入っています。

 記事をつくる上での参考にするために「検索キーワード」をときどき確認するのですが,どうやら「子どもに好かれる方法」を知りたくて,このブログを訪問してくださる方がいるようです。

 「生徒に好かれる」かどうかは何で決まるのでしょうか。

 アンケート調査の結果では,「先生が好きになる条件」として,

 「授業がわかりやすい」ことがトップに挙がります。

 これは,「教師として」好かれる上では絶対的に必要な条件だと思われますが,

 「授業はわかりやすい」とは思われなくても,「人として」好かれているようなタイプの教師もたくさんいるわけです。部活動のめんどうを一生懸命みてくれるとか。相談事を親身になって聞いてくれるとか。

 大切なのは自問自答です。

 「自分は,どのような理由で生徒から好かれる教師になりたいのか?」

 自分が理想とする教師像とは何か。

 その「理想像」が,「子どもから好かれる」という漠然としたものではいけないのですね。

 「どういう理由で好かれたいのか?」

 こういう問いを自らに発することができることが,教師としては大事なのではないでしょうか。

 ある一定の経験を経ると,

 子どもから「好かれる」「嫌われる」などはあまり気にならなくなります。

 要は,子どもがどれだけ成長できるかが大切なわけで,

 「嫌いな教師を無理に好きにさせる」必要はないわけです。

 「好き」「嫌い」にこだわる人は,きっと小学校の教師の多いのでしょう。

 特に,同じ学年に「人気のある先生」がいて,自分が担任するクラスが問題ばかり起こしていると,どんどん気が滅入るばかりかもしれませんね。

 親が自分に聞こえるように「今年はハズレね」なんて言ってくる1年間はとてもつらいものでしょう。

 しかし,教師の自分には「ハズレ」はないのです。

 むしろ,自分に期待していない子どもを教えられるというのは,大きなチャンスです。

 「先生が好きだから勉強が好きになった」というかたちではなく,

 「勉強がわかるから勉強が好きになる」と経験をさせることができる1年間だからです。

 教師の仕事は子どもから「好かれる」ことではなく,子どもを成長させることです。

 「好かれる」かどうかは後回しにして,子どもを成長させることに全力を注ぐべきです・・・・・

 なんていう話しか,このブログでは読めなさそうですね・・・・。

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「脱ゆとり」の成果をはかる前に・・・

 今年のセンター試験については,現役生が「脱ゆとり世代」であることを指摘していたメデイアが多かったようです。

 できたらさらにつっこんで,

 「ゆとり世代」の浪人生,あるいは,去年に受験した現役生の得点と,「脱ゆとり世代」の現役生の得点を問題の難易度を加味して比較してみてほしいところです。

 「脱ゆとり世代」は「優秀」なのでしょうか。

 出題ミスだった問題などを眺めながら,どうでもよいことを聞いている・・・・もう知識のみで思考力がいっさい必要とされないようなものが多いこと自体が「問題」なのだろう,と改めて実感しました。

 実は,「ゆとり世代」に期待されている学力というのは,現状のセンター試験ではほとんど測定されていないのですね。

 「ゆとり世代」が受験するうちに,大学入試改革はスタートするべきでした。

 こういうちぐはぐな政策の変化の背景には,自ら責任を負う「覚悟」のいらない役人たちの仕事のあり方自体の問題があるように思います。

 まだしばらく教育現場に登場してくる「ゆとり世代」の人たちには,「自分たちしか経験していない何か」を自信の柱にして,堂々と教壇に立ってほしいと思います。

 向かい風はきっと激しいものと予想されますが,吹き飛ばされずに,しぶとく立ち続けて下さい。

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センター試験世界史Bの出題ミスはなぜ起きたか?

 読書編では,どのような出題ミスだったのかを書きました

 ここでは,このような出題ミスが起こった原因を想像してみます。

 まず,チェック機能が弱かったことは確かでしょう。

 受験生が指摘しなくても,高校の地歴科の先生や大学の先生が気づいて指摘することになったと思います。

 受験問題の作題過程でよく使われる言葉に,

 「限定がかかっているか」というものがあります。

 選択肢の問題なら,誤答になるはずの選択肢がきちんと排除できているか,本当にそれが誤答であると言い切れるのかを考えるのですが,センター試験のように単純な知識のみをきくような問題では,ここまで考えなくてもわかったはずです。

 私は,「いずれ廃止になるテストだ」という油断があったのではないかと考えます。

 センター試験には,相当のお金がかけられています。

 何重ものチェックがかかっていたはずです。

 でも,事前に気づけなかった。

 「いずれなくなるもの」に精力を傾けるモチベーションを維持するのは困難でしょう。

 「油断」が生まれたのではないか,と考える根拠はそこにあります。

 テーマについて言えば,「暦」に関する問題は,2011年度の世界史B本試験でも扱われていました。

 問題には「リード文」という,実際に解く上では必要のない場合が多いけれど,脈絡のないところから1問1答が次々に出てくるようでは,あまりにも芸がないために,語句に下線部を引っ張って,そこに関する問題を出す,という目的でつくられるものがあります。出題の「テーマ」みたいなものです。

 「リード文」というのは,受験生が初めて読んで,「なるほどそういうことか」と勉強になる,といういい文章になっていると思いますが,センター試験というのは,単純な知識だけを聞いているのが本当に痛い。

 だからこそ,穴埋めのための問題文でしくじってしまったことは,「単なるミス」では片付けられない「学力低下」が忍び寄ってきていることすら想像できてしまうのです。


 なお,今年の問題は,2011年度の第3問のCを学習していた人なら,簡単に解けたのではないでしょうか。

 教学社の過去問研究では,「授時暦は日本(江戸時代)の貞享暦に影響を与えた」というCHECK項目がついていました。これを読んでいた人は,みんな正解できたはずです。

 過去問では,正誤問題で,2つのうちの1つが,授時暦がイスラーム天文学の影響を受けてつくられたことを「正」として判断するものでした。

 ネタ切れも叫ばれるセンター試験ですが,繰り返し出されているのは,「大切な事象」として,学習面で生かしていきたいものです。

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教員をやめたくなったとき,だれに相談しますか? その2

 「教員 辞め時」というキーワードでのご訪問があって気になったので,「教員をやめたくなったとき,だれに相談しますか?」という記事の続編を書いておこうと思います。

 以前に記したその記事は,教員採用試験の面接で問われた場合の答え方について述べたものでした。

 ですから,現在は教員で,本当に教員を辞めたいと考えている方には参考にならない文章でした。

 ここでは,もし本当に辞めたいと考えている人に私がアドバイスするとしたら,どんな言葉をかけるかを記しておきます。

 まずは,理由をお聞きしなければなりません。

 そして,「本当は辞めたくないのだが」という経緯がある場合と,

 「本当に辞めたい」という場合を分けて考えます。

 「本当は辞めたくないのだが」という場合は,原因は同僚や管理職や子どもや保護者など,「自分以外の人のせい」か,「子どもと話がうまくかみ合わない」「子どもが自分の話を聞いてくれない」「授業の教え方がうまくない」などという「自覚」にあると考えられます。

 いずれも,実は「自分の問題」に還元することが可能です。

 人間にとって,自信や誇りが持てない仕事は苦痛以外の何物でもありません。

 ただし教育の場合,教師自身は何もできないことを装ったり,実際,何もできなくても,子どもがすくすく育つ場合があります。何もできない図太い神経のキョウインは,実際に少なくありません。そして,このキョウインたちにとって大事なのは,まさに「図太い神経」をもっていることであり,「堂々としていること」に尽きます。

 結果として,子どもがまっとうに成長し,キョウインを軽蔑できるようになることは,教育の成果であると言うこともできます。

 しかし,「教員をやめるべきか」と迷ってしまうような人には,こういう「図太さ」はないわけです。ですから,本当に何もできないのであれば・・・・どんなに研修を積んでも自信がもてないのであれば,自信がもてないということを理由に,お辞めになることを薦めます。自信がない人,たよりない人でも逆に生徒に「守ってあげる」などと言われていい気になれるのは高校くらいなものです。

 問題は,「本当に何もできないか」「できるようにならないか」です。

 努力をしてもらいたいですね。努力ができない人なら,辞めてほしいと,心から思います。

 さて,複雑なのは,同僚や管理職,保護者とのやりとりのなかで,「辞めろ!」などと言われた場合。

 必要なのは,「開き直り」ですかね。

 具体的な問題を起こしていない教員を,辞めさせることはできないから,相手は自分から「辞める」というのを待っている,という場合です。

 「おまえこそ辞めろ!」なんていう逆ギレはさすがにできないでしょうが,管理職がコミュニケーションをしにくい相手だと思ったら,ぜひ教育委員会の指導主事さんにお話してみてください。教員からの身の上相談なんて,滅多にありませんから,親切な人なら逆に食いついてきてくれます。教育長さんという人は,学校現場を経験していない人も多いですから,もっと次元の異なる相談ができるようになるかもしれません。

 教師にとっての,「よき教育者」とは何でしょうか。

 「よき教育者」とは,「よき理解者」でもあるはずです。

 「よき理解者」がいない,という孤立感は,「よき理解者」をたくさん保有する(?)私には想像することができませんが,きっとつらいものでしょう。

 教員なら,そのつらさも,子どもの笑顔を見れば吹っ飛ばせる,という人であってほしいですが,それすらないのであれば,辞めていただくのが正解だと思います。

 つまり,子どもたちの「よき理解者」に自分がなれるかどうかを,私は問いたいのです。

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「日本一の証し」がほくして?・・・犯罪等動画投稿少年問題

 漢字のみのタイトルで中国語のように見えてしまうが,日本語は助詞を除いてしまっても,修飾語が被修飾語の前にくるというルールを知っていれば,ほぼ正確な意味がとりやすい言語である。
 
 今回,「ようじ混入動画投稿少年」を英語では何というか,Google翻訳で見てみると,

 Toothpick mixed video posting boy

 となった。単語を直訳しただけの日本語語順英語という新しい言語を開発する研究をしている人はいないだろうか。
 
 翻訳ソフトの開発が2020年の実現を目標に実施されているようであるが,日本人にとっての英語の習得の必要性が増していること以上に,英語を話す人が日本語を習得する必要性が増しているのであれば,「完璧な翻訳」をゴールとしないサービスで間に合わせることも可能ではないか。

 とにかく勤勉性という点ではどの国にもひけをとらない英語学習をしてきた日本だが,時間をかけても英語で自己表現することができないし,その必要性も感じられないままでいることがどれだけ「問題であるか」を意識できないこと・・・つまり「英語習得への関心・意欲・態度」が弱いことが,問題であることは確かだろう。

 ニュースを見て,上記のことを考えてしまったのだが,「問題」は自分(たち)がしている犯罪等の行為をネット上に公開する「少年」「若者」が後を絶たないことを,どう考えるのか,ということである。

 食品をめぐっては製造過程で起こる問題がしばらくニュースになっていたが,流通過程で異物が混入される事件も過去には多く起こっている。

 「新しい」のは,混入している場面をそのままネットに投稿して公開するという行為である。

 おそらく,お菓子などの買い物をするときに,「ようじ(や針のようなもの)の穴が開いていないか」を確認しようとする人は増えるだろう。今まで,まさか何かが入れられている不安を抱えながら買い物をしてきた人はいなかったと思う。

 売る側にとっても,心配の種になるだろう。万引きは自分に損失だが,購入者の側におそろしい被害が起こる可能性もあるからだ。

 こうした他人の迷惑・不幸・被害を顧みず,自分が目立ちたい,注目を浴びたい,閲覧数を増やしたい,という思いで犯罪等の行為を行う人間は,どうしたら救われるのだろうか。

 教育現場には,「子どもたちを孤立させないための心の交流を図るための実践を増やしてほしい」などと要望されるだろうが,教育の難しさとは,ねらいがそれとわかる実践をすると,そういうねらいの実践をされていることが伝わるだけで孤立感を強めたり深めたりしてしまう子どもがいることである。

 「あなたは一人ではないよ」と言われてつらい思いをする子どもがいることは理解されにくいと思う。

 「わたしはだれも見捨てないよ」と言われて,逆にやりきれない思いになる子どもがいることを理解してくれる人はどのくらいいるだろうか。

 「注目してほしい」という願いとともに,「放置してほしい」という思いがあるのも思春期の子どもの特徴である。

 「自主的な活動」とは何か。

 「自立」とは何か。

 将来への明るい展望が見えない少年たちにとっての救いとは何か。

 「道徳教育を充実させよ」という声が高まるのは自然かもしれないが,道徳教育そのものの難しさを理解しないで学校まかせにするような風潮では,子どもたちはきっと「救われない」と思う。

 なぜなら,少年たちの本当の未来は,「学校」ではなく「社会」にあるからである。

 余計なことだが,キョウインがなぜ見当外れだったり「世間知らず」風の考えをもってしまうかと言えば,教員だけが,「社会」でなく「学校」に居続けられる存在だからである。

 「社会」の人たちに日常的にふれ合えることが,「学校」にしばられてきた子どもにとってもキョウインにとっても必要なのかもしれない。

 万引き防止のために,被害を受けている店の方に学校でお話してもらうとか,防犯カメラのチェックにどれくらいの労力がかかるかを警察官に話してもらうなどの対策は考えられる。


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人の心を傷つける「風刺絵」を描く自由(追記あり:意識調査の現状)

 「Fukushima 風刺絵」で検索すると,日本人として悲しい思いや憤りを感じるようなイラストに出会える。

 日本の場合,これは「風刺絵」ではなく,「いたずら書き」の範疇に入るものだと思われる。

 「想像図」「空想の恐怖絵」である。

 テロといたずら書きの「罪の重さ」は比較にならないほどテロの方が重いものと感じられるが,宗教を生活上の根本原理とするような人々にとっては,「肉体ではなく精神を攻撃するテロ」は絶対に許せないものであるというのもわかる。

 「肉体よりも精神を貴ぶ」という心・・・名誉を守るために死を選ぶという考え方は,武士などのように,かつての日本の一部には存在していた。

 テロに対して,武力による制裁を果たした国もあったが,「表現の自由」の原則を武器にして,「絵」によって復讐する,という手段はやはりそれなりの効果をねらって意図的に行われるものである。

 私たち日本人にとって,一定数のフランス人に圧倒的な支持を受けている自国のメディアとイスラム社会の人々との確執は,「終わりの見えないケンカ」として認識する程度ですませてよいのだろうか。

 人間の「闘争本能」は,「言葉と言葉の戦争」で解消されるというのであれば,「表現の自由」は全面的に認められるべきだろう。

 「黙ったら負け」だから延々と続くことになるだろうが。だれも死ななくてすむのなら・・・・。

 しかし,テロが身近な脅威になってしまうと,そうは言っていられなくなるはずである。

 フランスの国歌の内容は皆さんご存じだと思う。

 そういう国民性が招く不幸を私たちは知っている。

 命よりも自由が大事だ,という主張は,否定はできないが,自分や自分の子ども,自分の親が自分の語った言葉がきっかけで失われるような事態を,「相手が絶対的に悪い」と言い張り続ける勇気を人は持てるのだろうか。

 再びの悲劇が繰り返されないことを祈るばかりである。

******************

 追記(1月18日11時40分) Yahoo! の意識調査の現状

 「表現の自由」として賛成           15.8%   7,424票
 
 イスラム教の価値観を尊重せず、反対   72.9%  34,203票

******************
 
 追記(1月18日21時)
 
 フランスの風刺週刊紙「シャルリエブド」は,ムハンマドの風刺画が掲載された最新号の発行部数を500万部から700万部に再増刷するらしい。

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教育論・教育問題というカテゴリー

 教育論・教育問題というカテゴリーは,教育ブログの中でも最大の参加者をもつところです。

 ブログ村は管理がゆるいことも魅力のひとつなのでしょう。

 教育論も教育問題も扱っていないブログでも「住民」として認められています。

 私としては,それは非難されるべきことではないと考えています。

 参加者が多いということは,自然と人の目にふれる機会も多いということで,「宣伝・広告」の効果も高いわけですね。

 塾などの教育産業にイチャモンばかりつけている人がいますが,この多くはキョウインか元キョウインでしょう。

 顧客でも何でもないわけですから,そんなイチャモンは無視していればよいのです。

 ただ,やはり見当外れの批判は放置しておけませんね。

 学校にいるとときどき出会うのですが,子どもに限らず親までも,自分の主張が正しいと言い張る人間はおかしいと,自分の方の主張の正しさだけを強調してくる人がいるわけです。こういう人たちに,「あなたの方がおかしい」というのは逆効果です。自分が言っていることの方がおかしいことに気づけるようにするのが教育ですが,それには相当の「指導力」が必要で,なかなか満足のいく成果は私も出せないでいます。

 どうして「聞く耳を持たない」人がいるのでしょう。

 自分のことを「振り返る」経験がなかったのでしょうか。

 あるいは,「自己評価の適正さ」を何人かの大人に判断してもらう機会がなかったのでしょうか。

 他人を「独善的」だと批判することが大好きな独善的な人に育てないようにするためには,やはり「多面的な評価」の機会は必要になります。子どものなかには,自分を否定されるとすぐにカッとなり,相手への攻撃を強める結果になるのが目に見えているのもいますから,どうしても「評価」は甘くなりがちです。

 ですから,「評価」が辛くできる環境をつくらなければならない。

 その方法のひとつが,「入試」であるわけです。

 勉強を「暗記力で何とかなる」と思っている人というのは,

 「そういうレベル」の学力の人であるわけです。

 以前にも書いたように,最低でも,地歴などでは,東大や一橋大といった国立大学レベルの入試にそろえてもらいたいというのが私の主張です。

 東大の入試問題を解くのに,「暗記力で何とかなる」と思う人はだれもいないでしょう。

 そういう力を求めている,ということをもっと大学はPRした方がよいですね。

 しかし,良問をつくるというのも至難の技。それなりの作問力のある人が大学にいないと,「事故」を起こしかねません。

 中教審の出した答えは,「理想」というか「空想」に近い。

 東大入試を参考に,で終わることはできないでしょうかね。

 最近も,「東大のディープな日本史(世界史)」といった本が売られています。

 メチャクチャ細かい知識を穴埋めで問うような「難問」「悪問」ではない,良質なテスト問題に慣れる経験を増やすべきでしょう。

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日本の従来型の教育でIB(国際バカロレア)認定校が価値をおく人間がどれだけ育成できるか

 結論から言えば,「複数の言語を用いた創造的な自己表現」はなかなか難しいかもしれませんが,その他の「人間像」は今までの学校教育で十分に育成できるものだと考えています。

 IBの学習者像とは,

 「探究する人」(INQUIRERS)

 「知識のある人」(KNOWLEDGEABLE)

 「考える人」(THINKERS)

 「コミュニケーションができる人」(COMMUNICATORS)

 「信念をもつ人」(PRINCIPLED)

 「心を開く人」(OPEN-MINDED)

 「思いやりのある人」(CARING)

 「挑戦する人」(RISK-TAKERS)

 「バランスのとれた人」(BALANCED)

 「振り返りができる人」(REFLECTIVE)

 の10項目で,これらの力がある人が,国際的な視野をもち,人類に共通する人間らしさと地球を共に守る責任を認識し,より良い,より平和な世界を築くことに貢献する人間となると考えているようです。

 日本の学校生活の中で,これらのうちのいくつかは,学校行事や部活動のなかで育成されます。

 道徳の時間は自分を見つけることに集中させられるあまり,「心を開く」ゆとりもなくなってしまいますが,道徳の時間で育てようとしている能力ともかなり重なります。

 IBのプログラムが日本の従来型の教育と異なるのは,評価が厳格であることです。

 これを多言語でこなすとなると,ハードルが高いと考える教師や子どもも多いでしょう。

 少なくとも英語が自由に操れないと,厳しいプログラムです。

 英語ではなく,日本語でもあり,という仕組みをとったとしても,教師の側からすると,IBプログラムは指導のためよりむしろ評価のために多大な時間を費やすことになるため,敬遠したくなるプログラムになります。

 これが日本に根づくことは,今のところ考えにくいです。

 「観点別学習状況の評価」すら怪しい現状で,IBプログラムの拡大は困難を極めることが予想されます。

 IBプログラムの拡大よりも,従来の日本型教育を生かしたIB風プログラムを開発し,それが国際的に承認されるよう努力する方が,より「RISK-TAKERS」らしい道のような気がします。

 今のまま,闇雲にIBプログラムを拡大することは,日本人が嫌うタイプの「RISK-TAKERS」でしょう。

 日本に欧米などと同じ「RISK」という概念が根づくまでには,まだ時間がかかりそうです。

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教育管理職のなり手がいなくなっていく事情

 指導主事という行政職も,自分の言葉で話せない部分が多いことはつらい立場ですが,学校の管理職というのはそれを上まわるほど,いえ,想像もできないほどつらい立場だと思います。

 管理職は「やさしい」だけの人にはつとまらないため,研修期間では「厳しさ」を痛感できる訓練が行われます。

 研修内容は守秘義務にあたる可能性もあるため,ここでは書きませんが,「だれでもなれる」わけではないことだけ,記しておきます。「ただごますりが上手」だけで管理職になれるほど,学校現場は甘くないです。

 近年は,教師と子どもの間にトラブルが生じた場合,校長を通り越して教育委員会に直接通報?される傾向にあります。教育委員会は当然内容を照会し,問題の程度に応じて手を入れることがあります。「いじめ」問題では教育委員会の怠慢というかたちで問題視されているため,「問題ありますか?」「たいしたことはないです」「では,事後処理はおまかせします」では終われない厳しさもあるでしょう。

 保護者は校長の上司が教育長であることは知らないかもしれませんが,「上の立場の人たち」に訴える効果はかなりわかっていると思われます。

 教育委員会が校長とツーカーになってしまっている地域ではこれでも無駄なので,議員への訴えというかたちになるのでしょう。

 具体的なこととして,問題を起こすのが常勤の教員ならまだやりやすいのですが,めんどうなのが非常勤講師がトラブルを起こす場合です。

 安い給料で雇っているという負い目もあるためか,「指導」もなかなか徹底できません。

 そもそも教員採用試験に合格できていない人に,指導力を求めること自体,無理があるわけです。

 人材不足のため,問題講師でも,「勤めていただいている」という意識がある場合はなおさらやっかいです。

 トラブルになっても子どもが「大人」である場合は丸く収まるのですが,「大人」でないのは講師だったり保護者だったりするわけで,泥沼化してしまうケースも少なくありません。

 自分の指導力不足を認めず生徒のせいだと思い込んでしまっている場合は本当に手に負えないのです。

 常勤の教員ですらあてにならない学校で,非常勤講師の確保も難しいところは本当にお気の毒です。

 他人事のようで申し訳ありませんが,「自分で教員を選べない管理職」って,給料はそれなりに高いですが企業では「係長」くらいの地位のように思えてきます。

 こんなことを書くと,ただでさえなり手がいない教育管理職を敬遠する「実力者」がますます減ってしまうかもしれませんが,「校長先生を叩く」ことでは,何も解決しないことをご理解いただきたくて,こんな文章を書きました。


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起業教育の授業実践モデル ~米ウーバーを題材にして~

 スマホの利用拡大が,他の業種にどれだけのプラス効果があるかの試算をどこかで入手したいが,

 週刊東洋経済1月17日号で紹介されている「タクシー業界を破壊 嵐を呼ぶ米ウーバー」という記事を読むと,既存の業界に打撃を与えるような「優れたビジネスモデル」があることもよくわかる。

 ウーバーは,スマホの専用アプリでタクシーを呼ぶという単純なサービスで,日本ではLINEも類似のサービスを行っている。

 ウーバーが人気を集めている理由として,

→アプリに行き先を入力すれば,運転手の到着時間,料金の目安が示される。

→支払いは登録済みのクレジットカードで自動決済される。

→車種も選べる。

→アプリは世界共通。自国の言語で行き先が指定できる。

→運転手を評価する仕組みを導入。結果がオープンにされている。

 などが紹介されている。

 ITとタクシーの融合は,小売業界や運送業界とITとの関係と同様か,それ以上に,消費者に「利便性」を実感させるものであると感じられる。

 今は「人気のタクシー運転手」にお目にかかることはないが,

 「おもしろい話をしてくれる運転手」

 「元気づけてくれる運転手」

 「占いができる運転手」

 「決して話しかけることはしない運転手」

 「距離と時間によっては,コーヒーをごちそうしてくれる運転手」

 「ショートコントのDVDが鑑賞できる車」

 「マッサージチェアが組み込まれている車」

 など,「特色のある運転手や車」を選ぶことができるようになるかもしれない。

 サービスの質を,タクシー運転手が自ら高める努力をする時代になるかもしれない。

 しかし,ウーバーは,記事のタイトルにもあるように,「破壊者」として見られているようで,世界各国で訴訟なり規制なりが相次いでいるようである。

 米ウーバーの創業者は,他にも起業を行っている人のようで,今後もITと既存の業界を結びつける新業態が誕生するかもしれない。

 「起業教育」というのが日本にも求められるとしたら,「スマホと~」という課題を生徒に与えて,ビジネスモデルを考えさせるという授業実践が考えられるだろう。

 ちょっとした空き時間がある大学生をスマホで検索して,宿題を教えてもらう仕組みなど,子どもの発想ならいくらでもモデルはでてくるだろう。どうしても犯罪を恐れる心配が先に立ってしまうが,セキュリティは自分で何とかする,という「リスク管理教育」とセットにすべきであろう。

 「タクシーとスマホと~」のように,三者を組み合わせるような仕組みもできるかもしれない。

 タクシーは,乗客がいない場合は,「運転手」だけを運んでいる状態であり,効率が悪い。

 走行システムをICT技術で一括管理できれば,運送業界とのコラボも実現できるのではないか。

 実際に,船や飛行機は乗客とともに貨物も運んでいる。

 消費者側では,「タクシー待ち」の時間を減らしたい。タクシー業界も,「流している」時間を減らしたい。

 アプリを提供する会社に手数料を支払わなければならない面もあるが,それでも収益が上がれば,決してマイナスにはならないはずである。

 日本では,ICTのリテラシーのある世代が社会の中心で活躍するとき,リテラシーの不足している「団塊の世代以上の高齢の人々」を顧客としたサービスを転換していかなければならない。

 できたら,高齢者のスマホ利用料金の格安モデルをどんどん提供して,現在での60歳以上の方々のリテラシーを向上させる努力を国にはしてほしい。将来への重要な投資になる可能性がある。
 
 
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『学び合い』によって失われるもの・捨てられるもの

 学力の程度を問わずに進級させたり進学させたりしている日本の仕組みでは,同じ学年の学力格差が大きいものであることを前提とした教育課程の編成が必要である。

 1クラス30人規模であれば,当然のことだが教師1人が学力が下位の子どもたちに次々に登場する新しい内容を習得させ,格差を縮めることは難しい。

 そこで,学力上位の子どもたちに,下位の子どもたちの「先生役」を任せるという発想が登場してくる。
  
 この仕組みでは,下位の子どもたちの学力の底上げになることと,上位の子どもたちにも教師に求められるような「説明力」「表現力」「説得力」「やさしさ」「思いやり」などの能力がつくことが期待できる。

 これによって,学力格差は縮小する。

 今まで,学力下位の子どもたちがあまりにも放置されすぎていたために,「平均点」が上昇するという結果にもなるかもしれない。

 数字上から見ると,「成功例」と言えるものになるかもしれない。

 「1年間で成果を出す」という発想の教育改革をするとき,最も効果的なのは,20点しか取れなかった子どもに40点とらせるようにすることである。70点とれる子どもに90点とれるようにすることは難しい。

 もし,このような学習環境が公立学校で広がっていくと,どのような現象が起こってくるか,想像できるだろうか。
 
 学力上位の子どもとその親の中には,「教育を受ける権利」の侵害を主張する人たちもでてくるだろう。

 他の子どもに「教える」ということは,すでにその内容が習得できた子どもたちであり,公立学校の教育水準としては,「目標は達成されている」と考えればよいわけだが,今までのように先生が教材を工夫し,おもしろい内容をどんどん話してくれたり,自分で自分の考えたい課題を追究していくという「学習機会」は失われることになる。

 「先生の一方的な知識の伝達では,習得できない子どもが多い」という単純な理由から,『学び合い』の時間を増やすことで,「先生の一方的な知識の伝達によって,多くのことを習得し,理解し,それをもとに自分の考えを広げ,調べ,深めていく子ども」は公立学校には存在しなくなるのだ。

 公立学校からの上位層の離脱に拍車がかかることだろう。

 上位の子どもは「見捨てて」しまってもかまわない,という発想は公立学校の現状を見ると強く否定できない面ももちろんあるが,

 「日本を捨てる」という選択肢をとる日本人が増えていくのも現実のものになってくる。

 「思いやり」だけでは困っている人たちを救えないことを主張できる政治家がどれくらいいるだろうか。

 「日本の教員の世界が,地球上で唯一残存する,平等主義のみを重視する歪んだ社会主義思想の集団である」という陰口に多くの人が共感できる時代になっていく。

 最後に,『学び合い』によってどういう子どもが生まれているか,一言。

 教師が主導する「学び」の場でも習得できず,子どもも交えた「学び」の場でも習得できない子どもは少なくない。

 このような子どもにとっての「救い」とは何だろうか。「見捨てない」という姿勢だけが,「救い」になるのだろうか。

 収入がなくなり,生活に困っている人を「見捨てない」という話と,

 学力面で教師が子どもを「見捨てない」という話は同列ではない。

 同じようなことは,中教審の答申で示されている入試選抜制度についても言える。

 あらゆる角度から評価されて,最低ランクがつけられた大学進学希望者と,その希望者が通う大学が生まれる。今では,「偏差値」だけで決まっていたランクが,より精緻化されて序列化されるわけである。

 準備にも実施にも長時間かけて,「あらゆる角度から見て最も下」という評価が決まるシステムが,準備には長時間かかるが,実施は短時間で(1~2日で)すみ,「入学試験の点数によって不合格が決まる」仕組みより優れた仕組みである,と胸を張って言える人の教育観をよく聞いてみたい。


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成人式

 今日は,中学校の教え子たちが主催し,招いてくれた「成人式前夜祭」に出席してきた。

 5年しか経っていないが・・・というべきか,5年も経っているが・・・・というべきか,

 表現に迷い,複雑な思いになる期間である。

 150人くらい集まっただろうか。ずいぶんと立派になった(中学生のころと比べるとという意味で,当たり前のことだが)「新成人」たちに囲まれながら,少し意外だったことは,中学校時代は病気等で登校日数が少なかった「元生徒」,不登校だったり不登校傾向があった何人かの「元生徒」も顔を揃えていた。当時の学校には「居場所」がなかったかもしれないが,5年たった今,抵抗なく学年の集団にいる様子を見ていると,実は当時も心の中ではここを「居場所」としていたのかもしれないと思えてきた。

 話をしてみてさらにほっとさせられたのは,それぞれが自分の夢に向かって確実に歩んでいることである。

 3年サイクルで新しい「世代」の子どもたちに出会っていくが,まだ「決定的な違い」「断層」を実感したことはない。

 ただ,年によってはピンポイントで強い衝撃を受けるような事件を経験する子どもたちがいる。

 東日本大震災もそうだろう。被災者ではなくても,大川小の件などは衝撃的なニュースである。

 確か,この新成人が小学校1年生のとき(2001年)に「附属池田小事件」が起こっている。

 ニュースを聞いてショックを受けた人たちが多く存在する学年だろう。

 海外でも学校が襲撃されるテロ事件が発生してしまったばかりだが,テロに対する恐怖と同時に,怒りも強く感じられるような年齢になってきたのではないか。

 中学校時代の大きな教育方針に,「強く」生きること,「正しく」生きること,「朗らかに」過ごすこと,というのがあったのだが,「強さ」と「朗らかさ」の両立は難しい。「正しさ」は見る角度によって変わる。そういう「達成しにくい課題」にも「強い意思で,正しさを追求し,朗らかにまとめていく」ことができる新成人になってほしい。

 対テロに「朗らかさ」など不要だ,という主張もあろうが,強硬なだけの対処が,さらなるテロを・・・以前よりさらにスケールが大きなテロを引き起こしてしまうような「強い対処」は「正しい」と言えるのかどうか。

 人にはなぜ「やさしさ」や「朗らかさ」が求められるのか。

 実は,人間ではなく動物の世界の方が,「強さ」も「正しさ」も「朗らかさ」も兼ね揃えた生活が成立しているかもしれないという目をもって,選挙権を活かし,社会を担っていく「成人」になってほしい。

 今年はおめでたさが何倍にもなった念頭のお祝いであった。

 
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日本型教育の最終形態!?

 オンライン学習への商機を見定めている日本企業があるらしい。

 海外のオンライン教育システムをもつ企業を買収し,そこに日本型のソフトを組み込んで外国向けに売る。

 人口減少が加速し始める日本以外の顧客を増やさないと,日本の企業が危ないということはわかりやすい予想である。

 そこで,授業のスタイルというものを変えようとしている日本の教育界の未来を想像してみた。

 結論から言えば,日本の学校教育は,「学力」全体を向上させるための場ではなくなっていく。

 たとえば,知識はほとんどなくても,口から言葉が出てくれば,そしてそれが周囲の知識のほとんどない同年代の子どもたちを納得させることができるものならば,高い評価を受けられるような仕組みが学校でできる。

 親はそれではたまらないので,子どもを塾に通わせたり,オンライン学習をさせたりする。

 今まで,学校で「教え込み」をさせられていた,と言われている内容は,すべて塾まかせになり,

 学校では集団として教育することが適切なものばかりが学習内容となる。

 そうこうしているうちに,日本の「学力」全体が地盤沈下し,新興国や途上国に並ばれ,抜かれていく。

 「教え込み」=「悪」という教育観で救われるのは,いわゆる「分数が理解できない大学生」(これはたとえのひとつ)がたくさんいる大学である。

 教育の世界で,なぜ国のリーダーが信頼する「教育学者」が生まれないかというと,「教育学者」の「顧客」がこういう大学だったり,人数的に圧倒的多数を占める「学力に不安や課題がある学校」の教師たちだからである。

 「落ちこぼれをなくす」という原理は,つきつめて言えば「どのような能力・状態が優れたものであるか」をあいまいにさせ,見えなくするためのものである。

 「1点刻みの評価の廃止」も同様である。たとえば,79ポイントを獲得している生徒と59ポイントの生徒が,同じ「C」というランクに位置するという仕組みを想像してほしい。両者が結果として同じ評価を受けているということは,何を意味するか。

 それは,79ポイントの生徒と59ポイントの生徒は「同じランク」だが,79ポイントの生徒と80ポイントの生徒は「ランクが違う」ということである。

 この制度の方が,「1点の違い」が一部の生徒にとっては決定的に不利になることを意味する。

 「学力は数値では測定できない」などと言っているが,A,B,Cなどと評価し,ランクをつけてそれを総合して最終的な評定をつけるという現在のしくみも,Aを何点,Bを何点などと点数化している現状がある。

 点数化しなくても,Aが何個,Bが何個でこうなる,という仕組みの場合,結局は「数値」が決め手になっているわけだ。

 なぜこれほどまでにわかりやすい課題がある「評価」の仕組みを取り入れようとする動きが出てしまうのか。それは,「文科省に楯突くことは自分の大学への配分金を減らされるデメリットを意味する」という「恐れ」が大学の委員にあるからと想像する。

 真面目に,本心から,このような仕組みが必要だ,と認めた委員がいたら,まずその大学から実践すべきである。

 そして,結局は自分たちだけが損をする,ということを思い知るべきである。

 今までの評価システムにも問題がないわけではない。しかし,評価システムを変えることが,「学力」面の取り返しのつかない地盤沈下を生むという恐怖が先にたって,あわてて学習指導要領が改訂されたことを思い起こしてほしい。

 日本の教育の最終形態は,文部科学省の「傘下」にある組織が敬遠され,優良企業(教育産業を含めて)が提供する教育が本物だと多くの国民が認識するというものになるのではないか。

 そういう優良企業(教育産業を含めて)に文部科学省から天下りする人間が出てくるとしたら,本当に許せない。
 
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流行語に「おんぶにだっこ」の教育政策は終わりにしよう

 「課題解決型の学習」などは,使い古されていて魅力がない。

 だから,「アクティブ・ラーニング(AL)」とか「インタラクティブ・ティーチング」という言葉が今後はやっていくだろう。

 少し前は「言語活動の充実」だった。こんな言葉も,時間がたてば「そんな当たり前のこと・・・」と我に返ってだれもが気づく。

 こういう流行語に乗っかった形での改革を進めようとする方法は,「教育」の世界の話ではない。

 「消費マインドを高める」といった営利企業の経済活動のレベルの話である。

 一度,一斉授業のかたちでどんどん子どもに力がついていく「アクティブ・ラーニング」と,ICT機器を使わない方が効果があるのにわざわざ使って成果が上がらない「アクティブ・ラーニング」を比較してもらう経験をしてほしい。

 落ち着いて考えてほしい。

 今,読書をする高校生が・・・・岩波新書とか講談社現代新書などを読める高校生がどのくらいいるだろうか。

 読書はアクティブな学習ではないのだろうか。

 「見た目にこだわる」ことも絶対にダメとは言えないが,最終的に能力が本当に伸びるのかどうかは,厳密な評価規準や評価のシステムのない「総合的な学習の時間」の現状を考えればわかるはずである。

 最近のネット上のゲームは,「協働性」を生かせるものもある。

 「協働性」なら,部活動なり学校行事なりでいくらでも伸ばせるはずだ。

 学校がますます「能力開発」の場ではなくなり,塾や教育産業が生き残れる道を用意しているように思えてならない。

 念のため,文部科学省の人間の天下り先をぜひ公開してほしい。

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【重要提言】ALの充実策とは,時計の針を60年以上戻すことか,教科書を廃止すること

 毎日新聞が1月8日の15時ころに配信したニュースの内容が,あまりにむごい。

 記事のタイトルは『<課題解決型学習>授業法を開発へ…来年度、文科省が研究所』というものだが,ここに「課題解決型授業のイメージ」が,「従来の教え込み授業」と対比させるかたちでイラスト化されている。

 今時,小学校で例示されているような「教え込み授業」をしている教員がいるとは考えにくい。

 教科書でも,少しは「課題解決型授業」ができるように編集されている。

 そして,iPadのような機器を用いて「双方向のやりとり」をしている場面が描かれ,これが「AL(アクティヴ・ラーニング)」だと示そうとしているようだが,折り紙でできることをICT機器を使って考える必要はないし,教師1人と子ども2人という設定自体がナンセンスである。

 課題解決型授業は,単純に言って習得できる内容が非常に少なくなる。時間がかかりすぎるのが最大の欠点であり,かつ,それなりの「思考力,表現力,協働力」を伸ばせるという保障もない。グループで課題に取り組ませると,一部の生徒による学習成果で他の生徒が満足してしまう『学び合い』のような欠陥だらけの学習になってしまう恐れもあるし,グループの数や生徒の人数が多いと教師が評価することも難しく,時間がかかるのも欠点である。

 こうした三重苦・四重苦を,日本ではすでに戦後すぐに開発されたカリキュラムで経験している。

 だから,方向性としては60年以上前と同じ失敗を繰り返すゴールに向かっていることになる。

 当時は,教科書がないのが「困る理由」だったが,逆に言えば,そのときに,「教科書がなくても教師が自分で教材を考えて実践せよ」と突っぱね続けていたら,もしかしたら日本式の課題解決型学習が定着していたかもしれないのである。

 文科省が決断できる最善策は,

 50年後を見据えての,教科書の即廃止だろう。

 学習指導要領の目標と内容に則した課題解決型授業を義務づける。

 どのようなカリキュラムで実施したかを報告させる。そのカリキュラムや,実践内容・方法,評価事項・方法を検証する仕事を大学に任せたる,業者に委託させたりする。

 この英断ができれば,本当の「教育改革」を始めることができるかもしれない。

 「思考力・判断力・表現力」の育成に結びついていない「総合的な学習の時間」を廃止するというのも一つの方法である。週2時間分が浮けば,たとえばある週は数学で2時間続きの授業,次の週では社会が2時間続きなど,柔軟なカリキュラムが編成できるようにもなる。

 社会科や理科,英語などは,毎日の新聞が教材になるかもしれないから,新聞社あたりの方々には食いついてほしい提案なのだが。


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教師への反抗が褒められる時代に

 体罰をはじめとした教師からの「即効性や強制力のある指導」に対して,毅然とした態度で反発できる生徒は少ない・・・というかまずいない。

 反発できないことを前提とした圧力を教師は加えることがある。

 指導力がある教師の場合は,わざわざ反発を招くような叱り方をしないですむのだが,指導力不足の教員に感情むき出しの態度に出られると,それだけで条件反射的に反抗する子どもは一定数存在する。

 最近は,教師が体罰ができないことを知っての挑発行為を子どもがするケースもあるようだが,こういう場では教師の腕の見せ所である。

 子どもに「正しい反抗の流儀」を教えてあげることが,体罰をはじめとした教員による人権侵害行為や違法行為を抑止する効果が証明されれば,子どもと指導力不足教員との関係は劇的に変化するかもしれない。

 子ども対子どものケンカになってしまうようなケースでは,冷静な目で「教師の子供っぽさ」を査定しなければならない。

 注意をするときの言葉のかけ方,かけた言葉の内容も,査定の対象になる。

 こうして子どもを利用することは心苦しいが,少なくない子どもたちの不幸を救うための方策の一つになるかもしれない。

 子どもが不登校になる原因は「友人関係」というのが最も多いとされているが,「隠れ原因」は山ほどあり,その中のひとつが,指導力不足教員にとっては「たいしたことのない一言」であることも考えられる。

 「私はそんな重い意味を込めて言ったわけではない」という自分の側の都合を言い訳として話しても意味はない。

 要は相手がどうとったかということが重要なわけで,たったそれだけのことすら理解できないのが指導力不足教員の特徴でもある。「いじめ」の定義すら理解できないような教員が,どんなトラブルを引き起こしてくれるかは全く予想もできない。

 悪条件下で決めさせられたルールを無理に守らせようとする教員を撲滅するために「法教育」は有効的かもしれない。

 多くの中学校教師が「道徳」の指導を苦手にしている理由は言うまでもない。

 自分が「道徳的でない」ことを自覚しているからである。

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市教育委員会の指導主事の1年間の仕事がよくわかる~「稲城指導主事」さんのツイート~(追記あり)

 (1月9日追記)

 「稲城指導主事」さんのツイートは,昨年の3月31日までで終わってしまっていたのですね。

 4月に異動してしまったのでしょう。異動先が学校なら,同じようなパターンで学校紹介をしてくれるでしょうが,規模の大きな自治体の教育委員会に行かれてしまうと,行動範囲が狭かったり偏ったりしていることがばれてしまいますから,公開を認めない方向になってしまう恐れがありますね。

 こういう現象から何がわかるかというと,結局のところ,教育とは「組織」も大事ですが「人材」がすべてなんですね。

 「チームワーク」が問われる場面ももちろんありますが,「できる人」がたった1人でも,組織全体がめちゃくちゃ目立てるわけです。

 「~さん全国大会出場」などという垂れ幕が校舎の壁面にかかっているところもありますが,これも同じです。

 授業料免除でこういう人を1人入学させれば,広告宣伝効果で何倍ものお金が戻ってくる。

 さて,私の要望は,このツイートは貴重な「資源」「記録」ですから,できれば削除しないでいただきたい。

 いつまでも残しておいてほしいデータです。

******************

 私のブログには,「指導主事」の仕事に興味がある方がときどき訪問されます。

 「指導主事 仕事」で検索すると,2番目に下の記事へのリンクが出てきます。

 指導主事の仕事は「激務」ではないが「失敗が許されない」というプレッシャーが強い

 「指導主事 現場」で検索すると出てくる次のような記事もあります。

 指導主事は現場に育てられる

 たまたま「指導主事」で検索していたところ,twitter で仕事の現場を紹介している「稲城指導主事」さんを見つけました。

 2012年8月から現在まで,学校訪問や研修等の内容が写真入りでふんだんに紹介されています。

 教育委員会が「開かれた存在」になっている一例でしょう。

 教育行政の仕事は,2月~3月のうちに,次の年度の予定がほぼ確定されます。教育課程届けを提出させる前に,教務主任や生活指導主任の研修会,校長会等をいつ開催するかを伝えなければならないので,もっと前に決めておくこともあるのです。

 指導主事として1年を過ごすと,基本的にはその繰り返しになるから,2年目からはもうベテランです。

 稲城市のように小さい教育委員会になると,分担もできないくらい多くの業務を1人が担当することになるので,仕事を覚えるのも早くなるでしょう。また,学校との距離もとても近くなるから,「子どもと会えない」寂しさはあまり感じられないでしょうね。

 仕事を楽しんでいらっしゃる様子がよく伝わってきます。

 監査のなまなましい場面の写真も紹介されていますが,こういう内容は現場の教師たちによい意味のプレッシャーとなるでしょう。

 そのうち,twitter で業務報告なんていう時代が来るのでしょうか。

 このような情報発信をするのに一番適している存在は,やはり校長先生でしょうか。

 学校だよりは紙を大量に使用することになりますから,これからはブログやtwitter の時代ですかね。

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なぜ自分が批判している内容が自分自身がやっているものだということに気がつけないのか?

 教師になりたてのころは,小学生や中学生の「いたらないこと」にイライラしたり,ムカムカしたりするものだが,子どもはやがて成長し,卒業するときには「それなり」の姿になっていく。そして「それなり」の姿で送り出した後に待っているのは,次の「いたらない」子どもたちである。

 このサイクルを繰り返していくうちに,やがて気づいていくことがある。

 それは「いたらなさ」の根源が,実は子どもにあるのではなく,親や教師,大人たち自身にあるということである。
 
 教師の場合,ここに到ると2つのタイプに分かれることになる。

 「子どもを主たる相手とした仕事」である教育に,責任感をおぼえる人と,

 無責任でいても問題ない現状に安心してしまう人である。

 両者では,「忙しさ」の意味が異なる。

 責任感が強い人にとっての「忙しさ」とは,充実感やさらなる向上への意欲とイコールである。

 後者にとっての「忙しさ」とは,「何としても避けたいもの」となる。

 だから,「研修」に向かう姿勢も正反対となる。

 どんなに忙しくても,そして,その忙しさを助長するような研究になってしまうとしても,進んで取り組める人。

 「忙しい」ことを理由に「研修」に向き合わない人。

 後者のタイプの教員は,どこの学校にも必ずいるものである。

 初任者でもすぐに見分けられる両者のポイントは,生活指導の場面にある。

 教育に責任を感じている人は,問題行動が発見されたとき,自動的に「スイッチ」が入り,「プログラム」が始動するように,子どもの成長を支えるための土台作りのシナリオを描き始める。こういう場面で教師は教育への「使命感」を見出されるわけである。

 一方で,「またか」などと「怒り」だけが先行し,面倒くさそうに・・・「忙しくなる原因を持ち込むな」という態度で子どもに接する教員がいる。こういう教員が一定数いると,生活指導は堂々巡りになっていき,教員の介在がさらなる問題を生産していく悪循環に陥る。「いじめ」の事実を隠す子どもがいるのは,こういう教員がいる場合は「正しい選択」となりうるのだ。

 また,学校現場には,「研究のために生きる」などというアイデンティティを確立して,突発的な生徒指導などを「雑務」として考える教員も一定数存在する。まずいのは,「おれの研究の邪魔をするな」という「私情」を生徒指導に持ち込んでくることである。それさえなければ,「授業研究の熱心な先生」「教え方が上手な先生」などとして,一定の信頼も得られるのだが。

 さて,ここからは脱線したまま,話を終えることにする。

 ごくごくまれに,自分が「怒っている」内容そのものが,自分自身がやっていることだということに気づけない教員もいる。

 心理学的には,強固な自己防衛機能が備わっているために,自分の欠点に全く気づけないことが原因のようだが,周囲が困るのは,そのことを指摘されると周囲への攻撃性を増すことである。

 要するに,子ども時代の過ごし方に問題があったのだと思われる。

 自分が興味をもったことについてはとことんやるが,そうでないものは「とりあえず暗記しておけばいい」という態度でいると,視野がどんどん狭くなっていく。

 ある事象が,Aという側面から見ると正しいが,Bから見ると全くの誤りになる,ということに気づけない大人と話すと本当に苦労する。自分にとって都合のよい面だけから物事を見るようなクセがついてしまっているのだ。

 現在の小中学生の一部が,過去の子どもたちと決定的に異なるのは,総合的な学習の時間等で,「学び方を学んでいる」点である。

 一問一答式のような低レベルのテストの正解を追い求めるような学習が,「本当の学習」ではないことはみんな知っている。

 ただ,そんな低レベルの問題でもできない自分が許せないでいる子どもも少なくない。こういう子どもを救うには,やはり「基礎・基本の定着」は欠かせない。

 総合的な学習の時間の指導を経験したことがある教師なら,「正解が決まっている問題の解き方を教えること」だけが教育ではないことはわかっているはずである。

 こういう当たり前のことが理解できないで,現場の教師を批判するような「好戦的な」内容を繰り返し,ひとりごとのようにつぶやいている人がいるが,自分と同じようなタイプの人間に対するアンテナの感度は抜群のようであるから,あとは自分自身の文章が人からどう読まれるかをじっくりと考えることが大切である。

 相手がいても,反応が返ってこなければひとりごとと同じである。相手がいないひとりごとの方が,まだ「ひとりごと」として周囲も認識できるだけましだろう。

 これは恥をかき続けている人への善意の言葉だと解釈していただきたい。

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英語を何のために学ぶのか

 週刊東洋経済1月15日号では,とても中身の濃い特集が組まれている(『最強の英語力』)。

 ここで登場している人たちは,ビジネスパーソンなら一度は聞いたことがあるエキスパートばかりなのだろう。

 佐藤優の連載では「専門知識を得るには適切な著者を選ぶ」ことの重要性が述べられているから,その有力者が集まっていると考えてよい。

 私が何冊か著書を読ませていただいたのが,日本通訳サービス代表の関谷英里子さんで,『えいごのもと』(NHK出版)の一部がこの雑誌で紹介されている。

 英単語は,一般的にはそのつづりと,よく用いられる日本語の訳語をセットにしては覚えるものだが,「イメージ力」を身に付けることを重視している。

 たとえば,cimmit という単語には,「献身する」「委託する」「決意する」「結婚する」などの訳語があるのだが,この表現のイメージを,「身を投じる」というもので理解する,ということ。

 arrange なら,「整列する」「用意する」「調整する」「アレンジする」などの訳語があるが,「うまくいくように整える」と理解しておく。

 そうすれば,いちいち「適切な訳語を探そうとしてまごまごする」頭の状態を取り除くことができる。

 「英語は英語として理解する」とはよく言われることだが,日本人はすぐに「日本語で言うと何という単語か」にこだわるクセがある。

 他の特集で紹介されているが,商談相手の方に「お座り下さい」というとき,日本人は「Please」をつければ丁寧な言い方になると単純に考えていて,「 Please sit down 」と言ってしまうのだが,これは犬に「お座り」と言っているのと同じニュアンスだったりする。当然,商談など成立しない。

 だから,「どのような単語で」という発想ではなく,「どのような表現で」相手に伝えるのがベストかを考えるようにしなければならない。

 それは,コミュニケーションの基本であり,「単語を並べてどうにかする」という発想ではダメなのである。

>イメージでとらえると,話の内容にとらわれず,相手の話しているフレーズのいちばん言いたい「本質」を的確に受け取れるようになる。人とのコミュニケーションで重要なのは,相手の言葉の意図を正確にくみ取り,自分の言いたいことを相手に届けること。英語のコミュニケーションではそこにイメージを介在させることが大切になる。

 英語を学ぶなら,このような能力を身に付けたいものである。

 お蔵入りにしてよかったと思っているが,

 「自分の言いたいこと」が単なる「相手への侮辱」(「○がおかしい」のような表現で)に過ぎない人間の場合は,言葉を学ぶこと自体が他人にとっての災厄になる気がする。

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大学入試改革の廃案と高校授業改革の全面的強化

 中央教育審議会が答申した大学入試改革案について,各方面から期待や困惑の声がわき起こっている。

 これまで教育界では,「入試が変わらなければ教育(授業)は変わらない」と言われ続けてきたため,知恵が絞られて「入試改革」・・・それも,本格的な「改革」らしい「改革案」が出されたようだ。

 しかし,その「実現不可能性」はだれにでも証明できそうなものになっている。

 「困惑」というのは柔らかい表現だが,「大迷惑」というのが高校の現場の本音だろう。

 「また新しい受験対策をやらされるのか」という気持ちが支配的であることが想像される。

 教育産業(予備校)にとっては,新たなビジネスチャンス到来,ということで,強制的な需要の拡大に胸を躍らせながら,実は「どうやったらいいのか」とこちらも頭を悩ませ始めているに違いない。

 一度実現されたら,その内容をもとに合格への「最短距離」を探すようなノウハウを持っているのが自慢なのだろうが,中教審答申が求めているのはそんな生半可な能力ではない。下手をすると,存在意義が失われる恐れもあることに気づいている教育産業の人はどのくらいいるだろうか。

 私が卒業した高校のように,受験対策のようなものはいっさいせずに,大学のように先生が教えたいことを教えていただけのところは,対応のしようがあるかもしれないが,そうではない教師たちにとっては,想像もつかないような入試改革案が持ち上がっている。

 私の考えはこうである。大学入試改革そのもの自体を変えることは,非常に困難である。

 もし実現させようとしたら,大学のみ,9月から新学期が始める制度にしなければならない。

 大学入試に5か月間かける仕組みである。

 これならできるかもしれないが,大学にそこまでの体力があるかどうか。

 あまり現実的ではないから,別案が必要である。

 どうするかといえば,高校の教育課程の管理を徹底的に行って,中教審が答申した,大学入試で求めているような力を高校で徹底的につけさせ,厳密に評価する仕組みをつくることである。

 予備校の授業に毛がはえた程度の授業は「禁止」とする。

 教科書をただ読んだり,プリントの穴埋めをさせたりするような授業も「厳禁」とする。

 コピペではすまされない手書きのレポートをたくさん課し,授業では議論させたり,フィールドワークさせたりして,発表形式の内容を多く導入する。

 「思考力」「主体性」「協働性」が実際に評価できる授業に「大改革」させるわけである。

 実は,小中学校の授業の何%かは,このようなかたちに随分と移行しているのである。

 しかし,「知識が乏しくなる」という理由をもとに,相変わらずの「単純型一斉授業」も多いわけだが,「思考力」を育成するための授業を行えば,核となる知識もしっかりと定着することが証明されている。

 高校の授業を変える。それだけで,相当に「学力」は向上するはずである。

 授業改革なくして,入試改革はあり得ない。


 日本経済新聞の記事では,1月5日の『能動的学習へ転換を 中教審,大学入試改革で答申・・・安西祐一郎 中央教育審議会会長』が参考になる。

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英語教育におけるICT機器の利用

 英語の学習ができる無料のアプリをいくつか試したみたが,やはり有料のアプリにはかなわない。

 音声認識もなかなか厳しくチェックされるので,1回でクリアできない文も多い。

 そのあたりは甘くジャパニーズイングリッシュを認めてほしい気もするが,それだけネイティヴと話せる英語を訓練したい人にはもってこいだろう。

 このようなアプリは,小学生にもってこいだと思われる。

 家庭でもどんどん学習を進められる。

 学校では,持ち運ぶとやはりiPadなどは落としたりして液晶画面を破損するおそれもあるので,小規模化して空き教室が増えているところではそれを利用し,英語教室を1つ用意して学べる環境がつくれるといいだろう。

 そもそも持ち運べるように軽量化されているICT機器だが,学校では場所を固定しておいた方が無難である。

 高校生段階では,個人でスマホを保有する生徒も多いので,その利用を許可して進めていくことも可能だろう。

 英語は,コミュニケーションの手段であり,それ自体を学ぶことを教育現場では目標としていない。

 機器と対話するような形で学習が進められる環境は,1人とか2人といった教師と30~40人の子どもが学ぶ日本にはぜひとも手に入れたいものである。

 NHKのプロフェッショナル仕事の流儀に登場していた中学校の英語の先生(今は大学教授になってしまっている)の授業は,中学生というよりも,むしろ小学生向きである。

 ここにICT機器があればもうこわいものはない。

 子どもが各自のペースで英語によるコミュニケーションのスキルを身につけていける環境を,小学校でぜひ導入してほしい。

 絶対にやめてほしいのは,発音が正しくない教師による一斉指導である。

 それは実は,中学校の英語の授業にも言えることでもある。

 ICTの利用は,ぜひとも英語教育の世界でどんどん進めてほしい。

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歴史から学べない人たち

 天皇陛下のお言葉も重いものですが,日本人というものは,長い歴史をもつ国で生きていながらも,歴史から学ぶという「歴史」が浅い人間たちだと思われます。

 有名な話では,伊藤博文がヨーロッパで成立したばかりの国の学者から「歴史から学ぶことの大切さ」を教わったということで,江戸幕府の政治を否定するところからスタートした明治の人たちには「歴史から学ぶ」という発想がなかったわけです。

 単純な論理として,「~時代はこうだった」という意見に対して,「今は~時代ではない」とつっぱねて思考停止してしまうような態度では,過去は何の価値もないものになってしまいます。だから同じ失敗を延々と繰り返すことになるわけですね。

 歴史の授業を受ける意味を全く感じずに教室に座ってただ暗記していた子ども時代が気の毒でなりません。

 歴史を学ぶ意義を教えてくれない先生に出会ってしまったことが不幸でなりません。

 呪文のように,「今は縄文時代じゃない」「今は武士の時代じゃない」と繰り返していた様子が目に浮かびます。

 「~時代には,~はいくらでしたか?」なんていう反応をする子どもはいないと思いますが,「~時代にはまだ~もなかったでしょ」という論理だと,

 スマホがなかった数年前と現在も比較できないことになります。

 歴史から学ぶ発想がある人は,「~時代も同じように(あるいは~は今と違って)~だった」という話を聞いたときに,すぐに当時の時代背景を思い起こし,現在との共通点や相違点に目が向かうようになるはずなのです。

 これはごくごく初歩的な「歴史的思考力」です。

 過去に照らして主張される内容を否定するのは,背景を探った結果,その主張が正しくないことの論拠を見つけてから行うべきなのです。

 それを,「今は~時代ではないから」という思考する前の段階で否定するようなことを,「思考停止状態」とよぶのです。英語では「paralysis of the brain」という表現がこれに当たります。

 歴史に学べない人たちが追い求めるのが,ただ目の前の「感動」にすぎないことはよくわかりますね。

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年賀状からわかる伸びている子どもたちの共通点

 20年以上にわたってたまってきた中学生や卒業生からの年賀状を整理しながら改めて振り返ってみると,個性的なデザインやコメントがたくさん見つかり,受け取ったときの記憶に残っていることに気づかされます。

 送り手に強い印象を残してくれる生徒というのは,みんなよく成長してくれている気がします。

 「気がする」だけかもしれませんが,それだけ印象の強い年賀状を送ってくれた生徒のことを心にかけ,授業中だけはなく行事や部活動のときも何気なく見ていたのでしょう。

 一方で,親が勝手に出したのかも知れない,何のコメントも入っていない年賀状をくれた生徒の日常生活はなかなか思い起こせません。

 グローバル人材に限らず,これからの社会を生き抜いていくための資質として,自分の印象を強く相手に与えることができるような・・・たとえ10×15㎝程度の大きさでも,自分が伝えたいことをしっかりとPRできるような力を持っていることが必要なのかもしれませんね。

 成績を伸ばすコツは,「媚びを売る」とか「ごますりをする」とかいうことではなく,「とにかく頑張りますので応援して下さい」というようなメッセージを先生に向かって出すことにあるのかもしれません。

 手を抜けば,自分が自分に嘘をついたことになるので,教師に向けてのメッセージも実は自分に対するメッセージと同じであることがわかります。

 今年のナンバー1は,中学校2年生からの,毛筆で大きく伸び伸びとした文字を核にしたメッセージ入りの年賀状でした。

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【INポイント募集記事】相手にされない批判を解く鍵は「感動」にあり

 こちらの記事の続きは,お読みになりたい方がいなければほとんど価値のないものです。ご希望の方が一定数を超えた場合にのみ,公開いたします。下のバナーはブログ村の各カテゴリーへのリンクですが,INポイントがつく仕組みとなっています。ご興味のない方は,クリックなさらないで下さい。

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 人間の行動を決定するものは,「感情のエネルギー」であり,「思考力」ではありません。

 多くの方が経験している「三日坊主」の仕組みは,・・・

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学校と図書館の一体化を!

 日経の有料会員限定の記事が配信されてきました(朝刊の記事になっていました)。

 タイトルは『学校と公共施設を一体化 人口減見据え、教育効果も』というもの。

 このブログで架空の学校として紹介している「育鳳学園」の特色が,この記事で紹介されているようなものでした。

 日経の記事には見えませんでしたが,ぜひとも

 小中学校と図書館を一つにしていただきたい。

 図書館には,パソコンも40台くらい設置してもらって,図書利用と同様に,授業で使うときは小学生,使用しないときは市民が利用できる仕組みを。

 市民が本を借りにきたついでに,授業も参観していけるような小中学校を。

 放課後は,そのまま図書館で自習ができる・・・・先生は教材研究ができる・・・・ような小中学校を。

 本と教育の距離を縮めるのは,これが最善の策です。

 もちろん,高齢者福祉施設も一緒にしましょう。給食の調理室が一つで,図書館のレストランにもなります。

 全国の市長さん,ぜひ,実現を!

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「子どもを幸せにしたいと願う自分への満足感」で終わらせないために(一部加筆修正済)

 学者と専門家の違いはどこにあるか。

 読書編で話題にした内容ですが,教育の世界は,学者が専門家を兼ねている場合があります。ここに恐ろしさがある。

 学者は真理を追究するために学問の自由が保障されています。だから,誤りかもしれないことを発表して,それに対する批判を受けることもできる。(ただし,ここで捏造やコピペをするような人は,自由な発表を行う権利を剥奪されても文句は言えません。)

 しかし,専門家には,主張したことに対する責任が生じます。

 自分が主張している手法が教育現場に立つ教員に誤った理解をされ,そのために多くの子どもたちが犠牲になっているとしたら・・・。

 責任を感じるべきなのは,子どもを教えている教師だけでなく,その教え方を主張した人間もです。

 「乗数」「被乗数」という概念を小学生に理解させようとして,5×4=20と答えたものを不正解として,4×5=20が正しいなどと教えていたことがいかにナンセンスかは,数学者が真面目に説明してくれています。

 たったこれだけで,算数が嫌いになる子がたくさんいるわけです。

 同じように,教師の「教え方」がいけないために,勉強が嫌いになる(その前に,すでに教師が嫌いになっている)子どもがたくさんいる。

 自分自身のことを振り返ってみれば,そういう「評価対象」は複数いるでしょう。

 教育現場に限らず,警戒しなければならない「専門家」は,宗教の世界と同じように,「人を信じさせる方法」を知り,それを駆使している人間です。

 だれがどう考えても誤っていないことをスローガンにし,感情の高まりを利用してそれを行動のきっかけにするというのは,自分自身で利用するのは正しい行動ですが,他人に使うのは・・・特に教育の上ではいかがなものでしょう。

 なぜ私が「操作主義的なノウハウ」をここで批判し続けているのか。

 どうして「専門家」気取りの学者が「胡散臭くなるか」は,こうしたバレバレの「心理利用作戦」があるからです。

 多くの悩める教師を救う最も簡単な方法は,「少なくとも,自分は子どもの幸福を願っている教師である」ことを自覚させることです。このような「最短の道」には,落とし穴が待っていることも自覚すべきです。

 どういうわけか,「最短の道」を「最善の道」だと勘違いし,当たり前のことを「実感」しただけで酔ってしまうのは小学校の教師に多いのですね。

 昔から,小学校の実践を読むと,やけに感情に訴える大げさな表現が多く登場するのですが,これは心理学の世界からは容易に見抜かれてしまう「まやかし」「独善的理解」に過ぎないものが多いように感じます。

 小説やテレビ用のドラマとして成立してしまうような話に酔ってしまうだけでは教育は成立しません。 

 実際に,子どもが幸せになっている(将来の)姿が想像できないのが教師という存在です。

 だから,実際には不安のままでよいのです。

 不安な人を,安心させようとする時点で,すでにその「教育法」「指導法」は誤っています。心理療法としてならOKかもしれませんが。

 教師が一番陥りやすい失敗が,「自分に酔うこと」です。「感動している自分に酔う」こと。これが一番やっかいな症状です。

 授業のなかでの楽しそうで,活発な姿だけをよしとして,家で定着を図れない子どもを見過ごしているようでは,子どもをテレビの視聴者と同じレベルに貶めているだけです。

 テレビの一つの番組をつくるために,どういう専門家が,どれだけの時間を費やして,どれほどのチームワークで仕事を進めなければならないか,一度じっくり教えてあげたいものです。


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自己教育力を回復せよ!

 今年から中長期の注目ポイントを「自己教育力」とすることにしました。

 本当に「真新しさ」のないテーマではあります。

 中には「真新しさ」だけを追い求める人たちもいるでしょう。

 そういう人たちには「自己教育力を回復させる」きっかけが必要です。

 もちろんそれは「真新しい何か」かもしれませんから,

 「真新しい何か」を追究することも大事です。

 しかし,「真新しい何か」をよくよく眺めてみると,実はずっと前からみんな知っていたこと,やっていたことかもしれない何かだったりします。

 当たり前だったものに,「真新しさ」という付加価値をそえて提供する機会を学校はもっと増やすべきかもしれません。

 大事なのは教師の教材研究です。

 教材研究に費やせる力こそが,「自己教育力」でもあります。

 10の教材のうち,9つ,いいえ,100の教材のうち,99は使いものにならないものかもしれません。

 それでも101個目を探し続ける力。

 研修や教育でつけさせることが難しいように思えるその力とは何か。

 探究心を育てることができる環境とは何か。

 失敗もたくさんあるかもしれませんが,現場でその答えを探していこうと思います。


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教育の世界の「新旧交代」

 あけましておめでとうございます。

 本日いただいた年賀状では,お世話になった先生方の多くが退職の時期を迎えられるためか,「新旧交代」という言葉を添えられることが多くなりました。

 メールなどと違って年賀状の返信はできませんが,まだまだご活躍下さいと強く願わずにはいられません。

 日本では,40代後半でも「新世代」とよばれるような「高齢化社会」ならぬ,「高齢実力者現役社会」です。

 個人的には「旧旧交代」が繰り返されているのが日本の歴史であると思っています。

 人口減少社会での救世主?は60代,70代,あるいは80代の実力者です。

 若い世代には,とことん教育が必要です。

 教育の世界には,「新旧交代」はありません。

 地域によっては,60代でもまだ「若手」です。

 教育むらでは,70代現役をうたえるような時代になってほしいと思います。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より