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インタラクティブではない学びの場面しか想定できない人に「教師の指導力」は語れない

 教師は,子どもとの対話,教材との対話,自己との対話を充実させていくなかで,教師としての指導力を伸ばしていくものである。

 指導力に磨きをかけるためには,自分より指導力が優れていると実感できる教師との対話が必要である。

 若いときにそういう教師にたくさん出会えた私は本当に幸せな人間である。

 それ以上に幸せな機会だったのは,多くの優れた子どもに出会えたことである。 

 教師向きではない自分本位の人間が教育論を展開すると,どのようなパターンに陥っていくか,とてもわかりやすい例がある。

 その多くは,「私が,何をする」式の話法で表現される。

 「だれかといっしょに,何をする」式の表現も,小学生の日記と同じレベルである。

 どこを探してみても,「教師としての私」と「子ども」をつなぐ「教材」の価値が語られていない。

 何よりも,「子ども」の価値が語られていない。

 「子ども」とは「教師」よりもレベルの低い存在として語られるのが常である。

 「できない子ども」に,「できる教師」が「教えてあげる」式の話法は,醜悪以外の何物でもない。

 「何かをしてあげなければならない」という気持ちは,不必要ではないが,

 そういう動機だけでかかわりをもたれる子どもたちはとても不幸である。

 小学校低学年ですら,「自立」を目指そうとした行動を起こすことがある。

 「成長」の後押しをする教師像をイメージさせてくれるのが,

 インタラクティブ・ティーチングという,大昔からあったようでなかなか実現されてこなかった指導のあり方である。

 おそらく次の学習指導要領では前面に登場してくるのだろう。

 その最大の落とし穴は,

 「受けたことがない授業のスタイルで授業しなければならないこと」にある。

 数人程度なら大学のゼミなどで経験したかもしれないが,それを40人の子どもを相手にするのが学校教育の現場である。

 年齢が高い教師ほど,・・・あるいは,総合的な学習の時間の指導計画が上手くつくれないという実感があれば,若い教師であっても・・・「指導しにくい」と感じることだろう。

 なにしろ,多くの人は,そういう指導を受けたことがないのだから。

 人間性がどうとかいう問題は人間不信の激しい人の関心事としておいておき,指導力の高い教師と聞いて,「話が上手い」程度のことしか思い浮かばないようでは,道のりははるか遠い。

 道路すら見えていない場所にいることになる。

 一人ままごとを続けていても,何も始まらない。

 まず,「語れる子ども」に語らせるところから授業は変えていける。

 「語れる子ども」が「語らない」授業の問題を改善しなければならない。

 「語るべきこと」が「語れない」問題をどう解決していったらよいのかを考えなければならない。

 何がインタラクティブな学びを妨害しているのか。

 自分本位の教師である。

 休み時間に,教師は教室から離れてみるとよい。

 そして,だれでもよいから聞いてみるとよい。

 自分がいない教室で,伸び伸びしている子どもはいないか。

 そのように自分がいないときと同じような積極性を,

 「自分がいても」子どもから引き出すような力が「教師の指導力」の一つである。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より