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小学校でできる中1ギャップ解消方法

 小学校でも多くの出前授業をなさっている元中学校の教師が実感として語っていたことは,
 
 「テストに関する小中の文化の違い」が「中1ギャップ」の主因の一つになっているということでした。

 小学校では,業者がつくったカラーのプリントのテストが単元ごとにあって,基本的には多くの子どもが満点がとれるようになっています。ここ30年以上は変化のない仕組みではないでしょうか。

 中学校に入ると,テストの様相ががらっと変わります。

 範囲は長くなる。教員の自作になる。テストのためだけの日が2~3日設けられる。小学校のときは平均点など公開されない(ほとんどの子どもができるから,公開する意味もない)が,中学校では公開される。

 今までずっと「トップのうちの1人」という意識すらなかった子どもたちが,

 数十人から百人以上の単位の集団で,どのあたりにいる,という認識をもつようになる。

 小学校では,せいぜい4分の1程度の子どもが,塾に通い,このようなテストに慣れているにすぎず,半数くらいの子どもは中学校に入ってはじめて,

 「私は勉強が「人並み」とは言えない程度に苦手である」という意識を強くもつようになります。

 中学校で不登校になる子どもの多くは,学業不振という課題も抱えています。

 勉強がわからない,おもしろくない,という状況は,「学校に行きたくない」理由としては単純すぎるほど単純な原因です。だって中学校に通えば,8時間いるうちの6時間は授業なのですから。

 ここに「だれかに無視された」「ものを隠された」などという「いじめ」の状況が加われば,「学校に行かない」ことの理由で周囲の人たちを納得させることができるようになる。

 「他の人のせいで学校に行きたくなくなった」と訴えれば,その生徒自身は責められにくくなるのです。

 人間関係がうまくつくれない,学力が十分ではない,そういう生徒ほど,学校で学ぶことが求められているのに,学校からは離れていく・・・・だれか他人のせいにし続けていれば,休み続けることができる・・・・このような問題の解決は,決して容易ではありません。

 高校によっては,テストをやめたり,授業の時間を短くしたりして,「勉強が原因で学校に来ない」という理由が言えないようにしてあるところもありますが,実際にその高校で勤めている人に聞くと,

 「これで高校卒業の証明を出していることには,疑問だ」という素直な感想が帰ってきました。

 わずか数%の子どもですが,「問題を抱えている人」を見殺しにしない,という文化が残っている日本では,こういう高校も「あり」になるのです。

 「テスト不適応症状」が,中1ギャップなり,不登校なりの主因になっていることがいずれ証明されると,「テスト文化」への見直しにつながっていくかもしれません。

 そこが,最も「選択を誤ってはならない場所」であることを,私自身は強く感じています。

 私の主張を先に申し上げてしまうと,小学校における「定期考査」の導入を薦めます。

 問題は,その質です。中学校もセットで改革していかないと,無意味です。

 最も大事なのは,「だれでも100点がとれるような問題の廃止」です。

 全員ができることを確認するテストに意味はないのです。

 もちろん,小学校で今までやっていた,単元ごとのテストはそのまま残してかまいません。

 勉強してからすぐにやるテストは,みんなできるのです。記憶だけで解けてしまうから。

 本当に「理解しているかどうか」は,しばらくたってから確かめないとわかりません。

 中学校でも,これからの定期考査は,高校入試問題のうち,特に作問に時間がかけられているような良問を参考に,「文章で記述する」ことを中心にしたものにシフトしていくべきです。

 こういう問題によって「実力」をたしかめない限り,

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはわからないでしょうし,

 4(十分満足)と5(十分満足のうち,特に優れているもの)の違いはわからないでしょう。

 小学校の教師には,「テストは暗記物」という固定観念をもっているものも多いでしょう。

 それは,自分が卒業した中学校や高校や大学の定期考査や入試問題が「暗記」で答えられてしまう問題だったからでしょう。

 「テスト」は上からの改革を待つのではなく,下からの改革を進めるべきです。

 小学校においても,よい授業づくりは「教材研究」から始まります。

 そのある意味で究極なかたちが,「テストの良問作成」です。

 学校の規模が大きければ大きいほど,教師の負担が減るのはおわかりですね。

 学年が3クラスあれば,国語と社会はA先生,算数はB先生,理科はC先生と作問者を分担できるわけです。

 こういう研修が小学校で値付けば,授業がよりよくなることはもちろん,そういう授業で鍛えた力を,だれでも満点がとれるような単純なテストで確かめるだけでは満足できなくなるはずなのです。

 国語や算数は,すでに全国で実施されている調査の「B問題」が参考になります。

 よい問題がつくれる先生なら,きっとよい授業ができるようになり,

 子どもの学力は本当の意味で,「向上」します。

 テストでよい結果を残した子どもが,ほかの子どもたちに「教える」場を設けてあげるのです。

 「テストができる子,できない子」で子どもを差別するような教師には想像でもできないことでしょうが,子どもたちの「学び合い」とはこのような場でも可能になるのです。

 「わかる」子どもは「教える」経験で理解をさらに深めることができるようになりますし,

 「わからない」子どもは,子どもから「教えてもらう」経験で,教師が教えてもできなかったことができるようになる可能性を与えられるわけです。

 テストと聞くと,条件反射的に「嫌なもの」と感じる人は,そう感じていた自分を哀れに思えるような新しい学校をつくる努力をすべきです。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「子産(下)」より
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    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より