ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 下村博文文部科学大臣は学習指導要領解説を読んだことがありますか? | トップページ | 教育の世界の真実 »

どんな事務仕事でも「雑務」と呼ばない人を教員に

 教員がある仕事を「雑務」と呼んだとする。

 それを子どもが耳にしたとする。

 その子どもの親は,そういう仕事を主要な責務として働いているとする。

 子どもは,教員の言葉をどのように受け止めるだろうか。

 「お前の親の仕事は雑務だけだ」という意味になる。


 どんなささいな書類づくりでも,公務員の仕事に「雑務」などない。

 ところが,教員は,たいせつな成績処理ですら,「雑務」だという。

 「オレの仕事は音楽のよさを子どもに伝えることだ」などと主張する。

 そういう勘違い人間を公務員にする必要など,どこにもない。

 今の日本では,子どもはいつでも自分の好きな音楽を聴くことができる。

 私も経験したが,教員の自己満足いっぱいの授業に出会うと,子どもは「嫌い」になるのである。

 部活動のように自らすすんで活動する場所を選んで参加している子どもに対する話と,授業の話が区別できないような人間がいるのは確かなことである。

 教員の「楽をしたい」病は,成績処理の話題になると,さらに熱が上がる。

 成績処理は,たしかにコンピュータを使うと便利である。

 今時,平均点を電卓で計算している教師はいないだろう(いや,いても全然かまわないのだが)。

 しかし,何でもかんでもコンピュータやソフトにたよるのは考えものである。

 たとえば指導要録などは,手書きでつくるべきである。

 それが,今や調査書さえ,パソコンで作成できる時代となった。

 コンピュータが使えると聞くと,それにたよろうとする人間が教師のなかでも増えていくが,

 これまでは起こらなかったタイプのミスが同時に増え始めている。

 入力ミスを筆頭に,成績の入ったUSBメモリを盗まれるとか,どこかでなくすとか。

 私も,仕事のやり方について,何度か主張したことがあるが,どちらかというと

 「楽をする」方向に先生方の意見は流れがちになる。

 どんな方法であれ,私の場合は「(時期を)早く,(行動を)速く,処理したい」のが第一理由で,

 一手間かかるが確実に終わる選択肢をとりたい。

 しかし,それが「大変そうな仕事」に思えると,突然反対する教師が出てくる。

 それをやるのは私なのに。

 この思考回路は,まだ私には解明できていない。

 それが同僚の私に対する「やさしさ」なのか。

 そんな配慮は結構である。こっちはすぐに終わるのだがら。

 今,すぐ,そこで,終えられる仕事が,終えられなくなるような,

 「まどろっこしさ」が今の学校には怨霊のように息づいている。

 「仕事は平等であるべきだ」という信仰がもとにあるのか。

 心からのお願いがある。できる人にやらせてほしい。

 能力は神様は平等に与えてくれていない。

 仕事に対するやる気も平等に授けられていない。

 だから能力とやる気がある人が,実力を発揮できるような職場であってほしい。

 教員は,仕事に対する姿勢を最も長く生徒に見せている存在である。

 仕事上で楽をしようとしか考えない教師に学んだ子どもが,今,親になってどうなっているのか。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ
教育問題・教育論 ブログランキングへ

« 下村博文文部科学大臣は学習指導要領解説を読んだことがありますか? | トップページ | 教育の世界の真実 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

学校評価」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

教員研修」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: どんな事務仕事でも「雑務」と呼ばない人を教員に:

« 下村博文文部科学大臣は学習指導要領解説を読んだことがありますか? | トップページ | 教育の世界の真実 »

2019年5月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31  
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より