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古典的な「学習観」を変えない限り,日本の教育は変わらない

 私は別に,日本の教育制度を変えよう,という強い願いを持っているわけではないことをはじめにお断りしておきたい。

 今の制度のもとでの「目標の達成度を高める」ことが,教育現場で働く公務員としての責務である。
 
 変わらなければならないのは現場の教師であり,教員を養成している教員免許をもっていない人たちである。

 しかし,教師が変わろうとしても,その障害になるのは,意外なことに社会のニーズと固定観念である。

 将来に役立つ授業ではなく,受験に役立つ授業をしてほしい,という願いは,地方の公立高校では相当に強いらしい。だから,この先生の授業を受ければ,模擬試験の成績が良くなる,という先生の評判が上がる。

 教材研究も何もいらない。塾と同じように,広く,浅く,試験に出そうなことだけをやっていればよい。

 ということは,自分の受験勉強の時の知識が生きる。こうして,偏差値の高い大学の出身者が,いい先生の候補として迎えられる。

 しかし残念ながら,自分ができることと人に教えることは違うから,偏差値の高い大学を出ているのに,「教えることができない」教員が生まれてくる。最後には,「勉強は自分でするもの」などという逃げ口上が始まる。

 高校が抱えている様々な問題の根底には,「受験至上主義」があることは間違いない。

 受験などにしばられずに,ゆとりのなかで生きる力をつけるための学びができるようにとつくられたのが,「中高一貫校」である。しかし,それなりにレベルの高い高校が一貫校になったために,求められるのは「東大合格者」の数字になってしまった。本末転倒である。さらに悪いことに,中高一貫校に入るための塾の勉強や模擬試験が生まれ,受験競争が起こっている。悪影響である。要は,ただ「優秀な子どもがとりたい」「優秀な子どもに教育をしたい」と願う公立学校の教員の欲求が満たされているだけの話であった。

 もう一つの悪循環は,小学校から,中学校,高校,大学に進むにつれて,「難しいこと」をやるのだという古典的な「学習観」に由来する。

 「難しいことを教える人は偉い」という社会的な共通認識がある。

 私の目から見て,大学で使われるようなテキストには,「深さ」は感じるが「難しさ」は感じない。

 「問題が解ける,解けない」というテスト型の発想でしか「難しさ」を判断できない人間にはわからないことかもしれないが。

 最近,小学校で使われている社会科の教科書を読んでみたのだが,5年生では農業や工業などに関する知識を相当に習得できることがよくわかる。大人でも知らない知識が隠れていることもある。だからクイズ番組で出題されることもある。決して,「易しい」内容でもないし,「難しい社会の問題」を考えさせてくれる題材になっている。

 「難しいこと」と感じる内容は,人によって異なるし,人の能力によっても変わってくる。

 大学で学んでいることは,本当に「難しいこと」なのかどうか。

 「順をたどって考えて行けば,そうとしか言いようのないこと」を学ぶ機会が増えるのが大学であろうが,そのような内容に関しては,初めて考えた人は立派だが,後からそれを知った上で先に進む人には,それほど大きな負担があるわけではない。

 一番大事なのは,「さらにその先を自分の力で追究していこう」という意欲が起きるかどうかである。

 大学で講義を週に10個くらい受けて,その10個について自分で学んでいくことは時間的に不可能である。

 「受けて終わり」のタイプの学習を延々と続けても,何の抗議を受けないですんでいるのは,古典的な「学習観」が息づいているからである。

 「学習スタイル」は,小1から大学3年くらいまで,ほとんど変わらないか,人数が増えるという意味では最後には思い切り劣化して終わる。

 私が知っている大学では,能力の高い学生は大学を出て就職したり教員採用試験に合格して教師になったりしているが,全部だめだった行き場のない学生の多くが大学院に進んでいる。

 そして,大学院に進めばその学生の能力が高くなっているかといえば,私自身はそういう実感に出会ったことはない。

 専門的な内容を学ぶにつれ,どんどん視野が狭くなっていき,人間を相手にする仕事にはとうてい向かないのではないかと思われる人間が増えていく危惧の方を強くもっている。

 日本の教育に求められるのは,「自ら考え,自ら学ぶ力」の育成である。

 社会のニーズに合わせて,従来型の「学習観」では,効率的に思えるかもしれない一斉授業中心で授業を行っているのが今の教育スタイルであるが,

 それで未来が切り抜けられるのか,という危惧に対する対応を文部科学省は求められている。

 最も安易な対応は,「そうですね,じゃあ,変えます」という態度である。

 おかしな態度でもある。学習指導要領では,すでに「変えている」のである。

 しかし,なかなか現場は「変わらない」「変えられない」でいる。

 もう20年前に変わっていなければならない「学習観」自体が,未だに変えられないでいるからである。

 その根底には教師の指導力の問題もあるが,指導力はあっても,「古い学習観」の犠牲になって「自分を殺している」人がたくさんいる現状も打開しなければならない。

 穴埋め問題のようなくだらない入試の出題方法を禁止し,すべてを論文形式にするなどという「管理統制の強化」と,教育内容に関する大胆な「規制緩和」こそが文部科学省のすべき仕事である。

 
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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より