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作文が上手でも出世できない理由

 「公務員に自分のブログで主義主張を述べさせることを義務づける」とは,ものすごい「改革」である。

 こういう「改革」を推進できる人を「出世」させられる国は,本当に「自由主義」が徹底したところなのだろう。

 毎日毎晩,公務員が上司への批判を世界に向けて発信できる国は,よほど「民主主義」「個人主義」の徹底したところである。

 残念ながら,日本では様々な法律がその障壁となってしまう。法改正が先に必要だろう。

 教員が職員室でそんな主張をするものなら,「出世」どころか「研修所送り」になる。


 さて,「作文が上手でも出世できない理由」なんてことをどうしてわざわざ書かなければならないかは,一般企業の人にはわからないだろう。

 理由を聞くまでもないことだからである。

 しかし,行政の世界では,これがあり得るのだ。行政の仕事は「作文」そのものであったりするから,「作文」ができれば出世も夢ではない。

 ただし,教員の評価は,「作文」だけで「出世」ができるわけではない。

 教員採用試験の場合は,どうしても「作文」にかかる比重が高くなってしまう。

 この違いはどこから生じるのか。

 単純な話である。

 教員は,子どもを相手に教育の仕事をしている。その仕事の達成度なり,課題なりがどうであったかを,管理職とともに確認する作業が必要である。そのために「作文」が必要である。

 できてもいないことを「作文」しても,「これはできていませんよね」で話は終わり。

 いくら「作文」が上手でも,実態としての成果がともなっていないと,意味はない。

 サッカーの指導者が,いくら「私はサッカーが上手です」といっても意味がないのと同じである。

 そもそも全く成果が出せていない教員については,「作文」も不要である。

 ある小学校では,12学級中の6学級が崩壊状態にあるという。

 どうして2分の1の確率になるかといえば,学年が崩壊しないように配置するからである。

 こういう学校では,「作文」よりも何よりも「対応」が先となる。

 「教師の評価」などと言っている場合ではない。学校や学級を教育の場として成立させることの方が大事である。

 教員の採用試験の場合は,どうして「作文」の比重が高くなってしまうか。

 言うまでもないだろう。教員として自分が優れているかどうかを証明するための具体的な材料がないからである。まだ教員ではないのだから。かろうじて,教育実習のときのことを書くという方法はある。

 採用試験の「作文」は,「教員としての資質があるか,適性があるかどうか」を判断するために書かされる。

 しかし,当然のことだが,作文は立派でも,実践がともなわない人などいくらでもいる。

 そのことはわかっていながら,判断できる材料は作文のほかにあまりないから,ダメもとで採用することにするしかない,というのが教員採用の実態である。

 話を教員の評価に戻すことにしよう。

 すべての教員にブログを書かせて,その評価をしてみたらどうか,というご提案がある。

 何でも,「教員を出世させないための方策」なのだそうだ。

 そんな必要はないことは,以上のご説明で十分に明らかだろう。

 匿名ではなく,個人名でつくらせる教員のブログで,何が「書ける」のだろう。私立の学校には,そういうブログが実際につくられ,更新されているが。

 ここぶろぐ村の教育ブログのなかには,塾の宣伝用のものが多いが,現役の教師や退職者による匿名のブログもある。匿名でないと,書きにくいことが多いのが教育の世界だ。

 やたらと子どもや親の悪口を書き連ねていたブログがあったが,本心からの言葉が中心だったと思う。だからこそ,教師への信頼を失う原因にもなっていたのだが。

 ここからは,匿名ブログの世界の話である。

 匿名ブログでは,実際になかった話をいくらでもでっち上げることができる。

 自分のつくっているブログに,他人を装って自分自身で自分を褒めちぎるコメントを入れることもできる。

 こんなブログの内容に何の信頼性,信憑性があろうか。

 だから,真面目に批評したり批判したりする方がおかしい。

 私が今,書いていることも,実はおかしいわけだ。そういうおかしいところだらけなのが「あり」なのがこの匿名ブログの世界である。

 すべてを信用せずに,自分のアタマで判断しながら読む,という情報リテラシーの基本中の基本が理解できていない人間の場合は,こういうブログなど読むことは危険である。

 文字づらだけ眺めて,それが良いことだ,悪いことだと言ってみても仕方がない。

 大切なのは,その発言の本当の趣旨や意図はどこにあるのかと考える自分自身の思考力である。

 どうしてこのような当たり前すぎることをわざわざ書かなければならないかは,教育現場に立ったことがある人ならわかるかもしれない。

 教師のなかには,「他人の意図を読む」ことができない人が紛れ込んでいる。

 「空気を読めない」くらいなら,それほど害はないのだが,「意図が伝わらない」人というのは本当にやっかいである。子どもだけでなく,親とも,同僚とも,管理職とも,さまざまなトラブルを引き起こす。

 どういうタイプの人がこれに該当するか,非常によくわかるブログがある。

 学校現場の本当のたいへんさは,学級崩壊以前のところにあることがご理解いただけるだろう。

 こういう人間が「作文」で見抜ける方法が開発され,教員に採用されないようになれば,教育現場はとても仕事がしやすくなる。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より
  • 目くばりをするということは、実際にそこに目を遏(とど)めなければならぬ。目には呪力がある。防禦の念力をこめてみた壁は破られにくく、武器もまた損壊しにくい。人にはふしぎな力がある。古代の人はそれをよく知っていた。が、現代人はそれを忘れている。
    「楽毅」第1巻より
  • 知恵というものは、おのれの意のままにならぬ現状をはげしく認識して生ずるものなのである。
    「楽毅」第1巻より
  • 会う人がちがえば、ちがう自己があらわれるということであろうか。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 静寂に染まりきれば、ふたたび起つことはない。生きるということは、起つ、ということだ。自然の静謐に異をとなえることだ。さわがしさを放つことだ。自分のさわがしさを嫌悪するようになれば、人は死ぬ。
    「楽毅」第四巻より
  • 人というものは、自分のやっていることをたれもみていないと思い込んでいるが、じつはたれかがみており、やがて賛同してくれる人があらわれる。
    「春秋の名君」より
  • 寵を受けても驕らず、驕っても高い位を望まず、低い地位にいながら怨まず、怨んでもおのれを抑えることのできる人は少ない
    「沈黙の王」より
  • 小さな信義が、きちんとはたされてこそ、それがつもりつもって、大きな信義を成り立たせる。それゆえに、明君は、小さな信義をおろそかにせず、つねに信義をつむように、心がけるものである
    「歴史の活力」より
  • 奥の深いことと、表現がむずかしいこととは、むしろ逆の関係にある。むずかしい表現のほうが、ぞんがい簡単なことをいっている場合が多く、やさしい表現のほうが、奥の深いことをいえる。
    「歴史の活力」より
  • 黄河の流れは悠久とやむことはない。河床もあがりつづけるのである。いくら堤防の高さをましてもらちのないことであった。
    「侠骨記」より
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    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 外をもって仕えている者は信用するに足りぬ。つまり男でも女でも内なる容姿というものがあり、その容姿のすぐれている者こそ、依恃(いじ)にあたいする。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 橘という木があります。この木が淮水の南に生ずれば、すなわち橘となります。ところが淮水の北に生ずれば、すなわち枳となります。葉は似ておりますが、実のあじわいはことなります。なにゆえにそうなるかと申しますと、水と土がちがうからです。そのように、その者は斉で生まれ育ったときは盗みをしなかったのに、楚にはいって盗みをしたのです。楚の水と土は、民に盗みをうまくさせようとするところがありませんか
    「晏子」(第四巻)より
  • 倹より奢に入るは易く、奢より倹に入るは難し
    「中国古典の言行録」より
  • 礼儀という熟語がある。礼とは万物を成り立たせている根元に人がどうかかわるかという哲理のことで、儀とは礼をどう表現するかというレトリックをいう。その二つが組み合わさって礼儀ということばが生まれた。
    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より