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教育の世界の「出世」とは何か?

 現場で教育にあたっている教員にとって,「出世」とは何か。

 校長になることか。

 教育委員会に入ることか。

 文部科学省の教科調査官になることか。

 職場にも,さまざまな慣習が生きているところがある。

 いまだに教務主任や生活指導主任,学年主任などが年功序列で決まるところもあるかもしれない。
 
 自らは望んでいないのに,「順番だから仕方なくつとめている人」がいるかもしれない。

 若いのに能力を見込まれて,すすめられる立場につく人もいるかもしれない。

 私が思うところ,教員になった人間というのは,子どもが好きでこの仕事を選んだはずである。

 だから,教員にとっての「出世」のイメージは,「子どもとの距離が離れていくもの」と捉えられているのが一般的だろう。

 ということは,「子どもの近くにいさせたくない人」ほど,「出世してほしい」と願うのは,あながち悪いことではない。

 教育現場に入った人は,どういうきっかけで教員を志したのだろう。

 なかには自分の子ども時代を振り返って,「あんな楽な仕事なら私でもできる」と思った人がいるかもしれない。

 最近は,教員の子どもが教員を目指すというケースが増えている気がする。何となく気になった教育実習生には「あなたの親は先生じゃない?」と聞く機会をもっているが,当たることが多くなっているからである。

 多くの教員志望の人には,「あの先生のようになりたい」と思うロールモデルがいるはずである。

 そのロールモデルが全人格的なモデルになっているタイプや,教科や部活動の指導力のモデルになっているタイプなど,多種にわたっている人ほど,今の自分に対する評価もしやすいのだろう。

 子ども時代にはわからないのが,どこかの研究会の代表になっているとか,学会で発表しているといった姿である。私も高校生までは,先生が部活動以外に休日をどう過ごしているかなど,想像もできない世界だった。まさか部活動の指導が少し楽になった分,ほかの仕事が増えようとは,思いもしなかった。これを志望の対象にする人はいないだろう。ましてや「指導主事」という存在など,知るよしもなかった。
 
 私は区市町村教育委員会を飛び越えていきなり都道府県教育委員会の指導主事になったので,わからない部分も多いかもしれないが,以前も書いたように,都道府県教育委員会の指導主事で,「俺は偉い」「俺は出世してここまできた」などというふんぞり返った態度やオーラを出している人は一人もいなかった。

 むしろ,どこまで腰が低いのかと思われる人ばかりであった。

 この「腰の低さ」が出世の武器になる,と考えている人ももちろんいるだろうが,残念ながら,普通の教員と,校長や指導主事の仕事は全く異なっている。

 校長はまだ児童生徒に直接話ができる立場だから,教員時代に培ったノウハウが継続的に生かせるが,指導主事という行政職になると,脳の使う部分が全く違ってくる。

 職業として全く別のものであると考えた方がよい。

 企業のように,命令系統がはっきりしている。

 地方公務員法という法律にもとづいて行動しているという実感がわく。

 なかには,自分が課長や部長という立場になって,命令ができるようになりたいと思う・・・「出世したい」と思う・・・人がいるかもしれないが,たとえ部長になっても,自由裁量で何でも提案し命令することができるわけでもない。教育長になったとしても同じである。
 
 ここが企業ではなく,行政機関の特徴といってよい。

 だから,教育の仕事にたずさわっている人にとって,企業で考えられるような「出世」というのはなかなかないのである。

 小学校の教員の場合は,たとえば「自分の名前で書いた本が出版される」ことを「出世」と考える人がいるようだ。

 小学校の教育書というのは一応,対象が多いために利益を見込んで出版できる世界のようで,かつ,一度名前が売れるとその名前で買い手がつく世界らしく,「どうして仕事をしながらこんなに原稿が書けるのか」と不思議になる人もいる。副収入も少なくない額になっていることが想像できる。

 しかし,私はこういう人たちの行動は理解できない。教育実践の紹介などは,HPで無料で公開すべきである。

 ICT環境が整ったこの時代に,本で流通させるというのはいかにも効率が悪い。

 この件はひとまず置いておこう。

 私が教員志望者に強く訴えたいことは,もしあなたが教育公務員になれたとしたら,その時点で「出世」は果たしたことになる。

 非常勤講師を経験している人は,その惨めな待遇から脱出できることが何よりである。 

 大量採用の時代はだれでも教員になれたが,冬の時代は長かった。

 1年契約でいつでも切られる立場では,子どもの教育に情熱を注ぐことはなかなか難しい。

 中学校なら,子どもたちの3年間の成長を見届けることができて,初めて「教師」としての喜びを体感できる。

 担任になった時点で,「大出世」である。

 40人の将来を担う,重要な立場になれたのである。

 1年間でクラス替えがあるかもしれないが,人の一生のなかで,特に子ども時代というかけがえのない時間のなかで,1年間,親よりも長い時間を過ごせる立場というのが,どんなにやりがいに満ちたものか。

 言うことを素直にきけないような子どもたちなど,どれだけ育て甲斐のあることか。

 勉強ができないと苦しんでいる子どもたちなど,どれだけ伸ばし甲斐のあることか。

 私は,一般社会では「出世」したと思われているかもしれない校長,指導主事,教科調査官の多くに接することができた。みんな寂しそうである。現場の教員を,みんな,うらやましがっている。

 私が指導主事試験のときに,想定していた質問だったが,答えるのが苦しかったものが1つあった。

 それは,「若いんだから,もっと子どもたちと戯れていた方が楽しいんじゃないの」という質問であった。

 もし,「若いんだから,子どもたちとの距離が離れるのはつらいんじゃないの」という質問だったら,心が揺らいでいることをすぐに見抜かれた返答になっていただろう。

 私の救いは,「子どもたちと戯れる」という聞き方をしてきた面接官のミスだった。

 あるいは怒りをわざと誘うための罠だったかもしれないが,かえって冷静になり,用意していた模範解答を整然の述べることができた。

 「出世」したことがない人には,わかりにくいことかもしれない。

 教員の「出世」先の孤独感は,埋めようがないブラックホールのようなものである。

 そこには決して「バカ」などいない。

 それで勤まるような場所はこの日本には存在しないと信じたい。

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コメント

私は四年前から教師になり
最終的には最短で教育委員会に行きたいと考えてる学生です
あんまりこういった話を聞く機会は少ないため
本当にいい話が聞けて良かったです
後は自分の目で確かめることができるよう頑張ります

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より