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「建前」で満足する指導力・評価力不足の教師たち

 また「統合失調症」ネタが飛び出した。

 ブログを引っ越しても,中身は変わらないということだ。

 同じことの繰り返しである。

 子どものケンカと同じレベルの「口撃」しかできない

 ようでは,教育を語る資格などない。


 ある学会で,小学校の教師が,

 「社会科が好きですか」「授業は楽しいですか」

 などの児童へのアンケート結果を用いて,

 教科教育の実態や課題を発表していたことがあった。

 アンケートの結果というのは・・・・・

 特に,担任教師が受け持ちの児童生徒に行うアンケートの

 結果というものが,「事実」を示していると考えることには

 無理がある。

 学会の研究発表であれば,「好き」な内容とは何か。

 「楽しい」こととは何か,などをあわせて追究していかない

 と,子どもも教師の「感覚」だけに頼った「雰囲気」の予想

 にすぎない話をしているだけということになる。

 私の研究によれば,小学生が社会科を「楽しい」と考える

 最も大きな理由は,「話し合うこと」であった。

 つまり,「先生の話を聞いていることよりは,自分たちで

 話し合うことの方が楽しい」という意味である。

 教師が深い教材研究を行い,たくさんのしかけや実物を

 教室に持ち込んで,子どもの疑問を喚起し,追究の明確な

 視点を与え,ときに反論を引き出し,ときに奥深いところに
 
 ある社会問題に気づかせるような「一斉授業」は,

 世の中から消えてしまっているようである。

 毎日顔をつきあわせている担任の授業が「つまらない」と

 平気で答えられる児童が,どのような目で教師から見られる

 ことになるのか・・・・その担任教師の人間性や力量にも

 よるのだが・・・・想像できない日本人はいないだろう。

 帰国子女や外国籍の子どもたちの悲劇を紹介している

 本がたくさんあるから,日本社会の常識を知らない人は,

 一読しておくべきである。

 日本には,「本音」と「建前」を上手に使い分けるという文化

 がある。それは,「相手を思いやる」気持ちから生まれている

 場合もあるし,「ひどい相手から自分を守る」ために行う

 場合もある。

 小学校の教師に限らないが,教師が「わかりましたか」

 「わかった人は手をあげてください」と子どもにたずねて,

 「確認する」作業を行う場合がある。

 これには,生活指導の場で,「わかったと答えたんだから,

 二度と~はするんじゃないぞ」という恫喝に使うパターンもある。

 子どもは,学習指導の場でも,「わかったか」と答えたら

 「わかりました」と答えるのが「礼儀」であることを長い経験から

 知っているのである。なぜなら,「わかりません」と答えてしまったら,

 答えてしまった子どものために授業等が中断し,「余計な時間」

 を費やすことになる・・・・授業で終了10秒前に「わかったか」

 と聞かれて,「わからない」と答える勇気のある小学生は

 いないだろう・・・・し,最悪の場合には,「何を聞いていたんだ」

 などと教師に突っ込まれる恐れがある。

 だから,「わかりましたか」と子どもに確認する作業が,

 「子どもを見捨てていない」ことの確実な根拠になることはない。

 むしろその逆であることが多いのは,多くの大人が知っている

 通りである。

 もとは子どもで同じような経験をしたくせに,教師になった

 とたんにその「常識」を忘れてしまうのが,指導力不足教員の

 姿である。

 教育の評価というのは,選択肢つきのアンケートとか,

 わかった,わからないの2択とかで行うものではない。

 「わかっていることがわかる学習状況」から評価するのが,

 教育の世界の常識である。

 教育の世界の常識すらわかっていない人間が教員に採用されて

 しまうことは残念だが,もっと残念なのは,犯罪行為等で

 懲戒免職にならない限り,常識なしに教員が続けられて

 しまう今のしくみである。

 教員免許更新講習の制度も,ひとまわりしたら消えるべきだろう。

 確実になくすためには,

 講習を受ける前と受けた後で,どの程度の力量の違いが出たかを

 検証する制度をつくるべきかもしれない。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より