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中学校でできる中1ギャップ解消法

 ほとんどの子どもは,環境への順応性をもっているから,中1ギャップを感じずに立派な中学生になっていく。

 昨日まではいかにも「子ども」らしかったという「子ども」が,中学校の制服を身にまとったとたん,「中学生」らしくなっていく場面を教師や親は目にしてきた。

 子どもなりに,気合いを入れて「中学生」に変身しようとするのである。

 しかし,特に学力や基本的生活習慣に課題がある生徒は,中1ギャップが不登校の引き金になりやすい。

 不登校の理由を子どもに聞けば,「友達のせい」とか「先生のせい」と他人の責任にするが,そもそも机に座って学習する習慣ができていない子どもの場合は,授業そのものに不適応を起こしているのである。

 ではこのような子どもの中1ギャップはどう解消したらいいのか。

 結論から言えば,子どもに一切の甘えを許さないことが最善策である。

 子ども自身がそれを望んでいることが多いのに,入学当初は「カワイイから」と思いっきり甘やかして,あとで強烈なしっぺ返しを食らうのが,荒れた学校づくりの基本である。

 できれば,入学してから3日以内に中学校での行動パターンを体に染みこませる。

 アタマを使う必要はない。挨拶,返事,教室移動,整列,机や椅子の移動,清掃,号令,荷物の整理整頓・・・・多くの生徒は無意識にこれらを身につけていくが,できない子どもはすぐに発見できる。

 甘えを許さないとは言っても,怒鳴りつけたり,体を引っ張ったりしたら逆効果である。

 「全員ができるようにする」ことを合い言葉に,そろうまで繰り返し行う。

 「軍隊のよう」という形容がされるかもしれないが,戦闘訓練をするわけではない。

 整然とした集団行動ができるかどうかで,災害のときに一人でも多くの命が救われるかもしれないことをくどく語りかけるべきである。

 さて,問題は学力不振の子どもの対応である。

 小学校3年生くらいまでは,板書なしに先生の話を要約してノートに書くことはできない。

 だから,小学校の先生は,時間をかけて,ゆっくり,丁寧に,黒板に字を書いていく。

 子どもも,同じようにノートに字を写していく。

 これを悲しいことに小6まで続けてしまった子どもたちは,中1ギャップに苦しむことになる。

 ここでは「中学校でできる解消法」を語らなければならないのだが,話は簡単で,

 「遅れた分を取り戻す訓練」をする。

 1分程度の話をする。要約を3分以内に書かせる。4人班で回して読む。一番よい生徒の要約を2~3班に発表させる。これで10分くらいかかるが,10回くらい行うと,それなりに「聞いて書く力」が育つ。

 「聞いて書く力」が育っていないことは,中1を見ていると,とても強く実感することである。

 「黒板に先生が字を書くのを待つ」習慣がついている生徒には,

 「書写の時間ではない」と諭す。(国語の先生には失礼かもしれないが)

 最難関は,最初の定期考査である。

 まとまった範囲の試験勉強を,最低でも5教科行わなければならない。

 準備の仕方がわからない。だから最初は,「2週間の学習予定表」などをつくってあげる。

 毎朝提出させて,学習の進行度を担任がチェックする。たいした仕事ではない。

 最も大切なことは,最初の定期考査は,平均点が高めになるように難易度を下げて行うこと。

 これが効果的である。逆に,最初から難しい問題ばかり出題すると,「中1ギャップ人口」を増やすことになる。

 2学期制なら,自信を失わないうちに,夏休み明けを迎えられる。

 3学期制の場合には,あまり望ましくはないが,7月の1学期の期末考査も難易度を下げる。

 5教科合計で平均が最低でも350点以上(70点平均)になるようにする。

 最初の定期考査は,400点でもよい。ただし,平均点が80点の問題をつくってしまうと,100点満点がたくさん出過ぎるのが気になる。

 がくっと合計点が下がるのも子どもにとってはショックだが,「そういうもの」であることは知らせておく。

 社会科のテストの場合,大事なことは,「テストは暗記したことを書けばよい」という小学校時代に体に染みついた固定観念を捨て去るような問題を出すべきである。

 たとえば,地理は地図帳を見ながら解けるテストにして,北緯○度,東経○度に位置している都市名を書きなさい,とか,熱帯の地域とか,北アメリカ州などの地域をまず選び,自分が訪れたい3か所を巡るルートを略地図にして書きなさい,などのような出題にする。

 歴史では,聖徳太子(厩戸王)に政策の実施上の課題について,インタビューしたいことを箇条書きで3つ書きなさい,など,授業で学んだ知識を活用しつつ,さらに学習を深めていく動機付けになるような問題を工夫する。

 定期考査では,「アメリカ合衆国の首都はどこですか」とか,「聖徳太子は西暦何年に摂政になりましたか」などという問題は出題する必要はない。どうしてもやりたければ授業中にすればよい。

 社会的事象の意味や意義を考える問題を中心に,生徒自身が「どうして今,これを学んでいるのか」がわかるような出題にする。

 できるだけ生徒には,早い時期にいろいろな意味での「中学校での成功体験」を味わわせてあげたい。それがその後の中学校生活を生き抜くための自信になるからである。

 行事も含め,最も教師が知恵をしぼって中学校生活の軌道に乗せるように努力する時期が,「中1ギャップ克服期」であるとも言えるだろう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
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    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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    「歴史の活力」より
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    「晏子」(第四巻)より
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    「春秋の色」より
  • 都邑が矩形であるのは、この大地が巨大な矩形であると想像するところからきている。したがってかぎりない天地と形容するのは正確さに欠ける。大地にはかぎりがある。ただし大地は四方を高い壁でかこまれているわけではない。とにかく独創とか創見というものは、思考が狭い矩形をもたぬということではないか。人はいつのまにか思考を防衛的にしてきた。他者を拒絶しがちである。思考の四方に感情という壁を立てて、他者と共有してきた天を極端にせばめてしまった。
    「子産(下)」より
  • 人というものは、恩は忘れるが、怨みは忘れぬ。
    「孟嘗君 5」より
  • 人はたれにもあやまちがあります。あやまちを犯しても改めれば、これほど善いことはありません。『詩』に、初めはたれでも善いが、終わりを善くする者は鮮(すくな)い、とあるように、あやまちをおぎなう者はすくないのです。
    「沙中の回廊(下)」より
  • 「わたしは侈っている者を烈しく憎まない。なぜなら侈っている者はおのずと滅ぶ。が、なまけている者はどうか。わたしはなまけている者をもっとも憎む」
    「沙中の回廊(下)」より
  • 人を得ようとしたければ、まずその人のために勤めねばならぬ。すなわち、晋が諸侯を従えたいのであれば、諸侯のために骨折りをしなければならない。
    「子産(上)」より
  • 知るということは、活かすということをして、はじめて知るといえる。
    「青雲はるかに(上)」より
  • 師はつねに偉く、弟子はつねに劣っているものでもない。弟子の美点に敬意をいだける師こそ、真に師とよんでさしつかえない人なのではないか。
    「孟嘗君 2」より
  • 人を家にたとえると、目は窓にあたる。窓は外光や外気を室内にとりいれるが、室内の明暗をもうつす。そのように目は心の清濁や明暗をうつす。
    「孟嘗君 2」より
  • 人にものごとを問うということは、質問そのものに、問うた者の叡知があらわれるものである。
    「孟嘗君 3」より
  • 人から嫌われることを、避けようとする者は、心の修養ができていないことである。
    「中国古典の言行録」より
  • 人を利用すれば、かならず人に利用される。・・・企てというのは、人に頼ろうとする気が生じたとき、すでに失敗しているといってよい。
    「太公望 中」より
  • 与えられてばかりで、与えることをしないことを、むさぼると申します。むさぼった者は、なべて終わりがよくない
    「孟夏の太陽」より
  • ・・・料理をつくりながら、人と組織とをみきわめたのか。素材が人であれば、素材を合わせてつくった料理が組織である。それ自体はにがく、からいものでも、他の素材と合わされば、うまさを引きだすことができる。煮るとか蒸すとかいうことが、政治なのかもしれない。
    「太公望 中」より
  • 他人を変革するためには、まず自己を改革しなければならね。
    「太公望 中」より
  • 人が何かを得るには、二通りあります。与えられるか、自分で取るかです。(中略)与えられることになれた者は、その物の価値がわからず、真の保有を知りませんから、けっきょく豊さに達しないのです。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • みじかいなわしかついていないつるべでは、深い井戸の水を汲むことはできない。
    「奇貨居くべし 黄河編」より
  • 人は目にみえるものを信じるが、そのことにはかぎりがあり、けっきょく、人が本当に信じるものは、目にみえぬものだ
    「晏子」第二巻より
  • 人にはそれぞれこだわりがあり、そのこだわりを捨てて、変化してゆく現実や環境に順応してゆくことの、何とむずかしいことか。
    「奇貨居くべし 飛翔篇」より
  • 失敗を心中でひきずりつづけると、起死回生の機をとらえそこなう。それは戦場における教訓にすぎないともいえるが、大きな勝利とは、相手の失敗につけこむのではなく、自分の失敗を活かすところにある。楽毅の信念はそうである。
    「楽毅」第四巻より
  • 人の頭脳のなかの眼力は、木の幹にあたるであろうが、幹をささえるものは知識という葉ではない。根である。根は地上の者ではどうすることもできない伸びかたをする。その根は天から落ちてくる水を吸い、人からあたえられる水も吸って太ってゆく。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • 大木にするためには、幹の生長に目をうばわれがちであるが、地中の根を大きく張らせることを忘れてはならない。花を咲かせることをいそぐと、花のあとの結実をおろそかにしてしまう。要するに、大木でなければ豊かな実をつけないということである。
    「奇貨居くべし 春風篇」より
  • あらゆる事態を想定して準備を怠らず、変化に対応できるようなトップでいなければならない。
    「中国古典の言行録」より