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「教育改革」の最前線に立つことの意味

 今,手元にある14年前の本を読み返してみて,現在の議論と何か変わっているところはないかと探してみたが,なかなか見つからない。

 14年前といえば,寺脇研という当時の文部省の課長がテレビへの露出度を高め,さかんに「教育改革」を「宣伝」していたころである。

 当時の彼は,2012年にはすべての高校が単位制になり,大学生と同じように,「5年で卒業した」という人がいても蔑視されることのない時代になっていてほしい,などという発言をしている。

 現在の立場で読み返してみると,「多様性が大事」という当時の言葉は,結局は「ならば文科省は必要ないだろう」と思わざるを得ないところまできている。

 14年後の今,どうなったかといえば,「学力低下」の声におされ,当時よりも状態は「逆行」傾向にあることがわかる。

 教育改革や入試改革の旗は,今までにどれだけ立てられたかわからない。

 そして,実際に「改革が成功した」という話を聞いたことがない。

 学習指導要領の改訂の趣旨を理解し,実践に生かすことができている学校が少ないからである。

 なぜ「教育改革」が前へと進まないかと言えば,それは「現場」の実践が改革についてこられていないからである。

 私が指導主事の立場に3年間いてよくわかったことは,学校現場では教育課程の管理ができていないということである。これを校長の責任にするのは企業的な発想で,そもそも自分の学校の教師を自分で採用できない校長に,教員の指導力不足の責任を負わせることは気の毒である。

 校長は,教員を守りに入る。校長経験者が教育委員会にうようよいるような地方の自治体では,教育委員会の事務局が学校を守りに入る。そして「日本的な経営」が幅をきかせており,そこに「改革」などを実践する能力などあるはずがない。

 そしてそれは,あながち「悪い」ことではないというのが私の実感である。

 農業の世界では「農協」がこれにあたるのだろう。

 学校はまだ,現場で働いている人間がそれなりの数を保っているが,現場ではない人間の数が上回っている世界の改革は困難だろう。

 自分で自分の首を絞める人間はいないのと同じで,

 自分で自分にとって利益のでる組織をなくすことはできない。

 「入試改革」など,今まで何度「かけ声」がかかったことか。

 中高一貫校の誕生とともに,結果として生まれたのは「競争の激化」である。

 「ゆとり」とは真逆のことが起こっているのが中高一貫校である。

 それが国民のニーズなのだから,仕方がない。

 小学校で英語教育がスタートすることで,次に何が始まるかを鈍感ではない現場の教師は見抜くことができる。

 学校現場というのは,表面的な対策と実質的な対策の2本を同時並行でこなさなければならない場所である。

 こういう変化が見抜けない自治体や学校もあるので,あとは「お上」だよりとなる。

 小学校から高校にいくにつれて,「お上」だよりの度合いは減っていくと一般的には解釈されているが,実際にはそうではない。

 小学校は「お上」の言われた通りにしているようにみえて,実際には「言われた通りにしてできないのは私のせいではない」という無責任の塊のようになっている。

 公立小学校から公立中学校へは,ストレートに進学できる。エスカレーター式に送り出していける。

 たとえ分数の計算ができなくても,小数の引き算ができなくても,数学を学習する現場に送り出してくる。

 こういう問題を棚上げして,真新しさばかり求める教育改革に力を入れることはおかしい。

 入試改革など,教育改革の後についてくるべきものだが,

 中学校や高校では「入試が変われば教育は変わる」と信じて疑わない。

 堂々と「入試のための教育をしている」と宣言しているような場所での「教育改革」など不可能である。

 教育現場で最も重要な立場とは,今,そこに教育の目標と内容がある。その達成度をいかに向上させるかを常に自己に問うていかなければならない。

 表面的な「教育改革」「入試改革」にふりまわされて,目の前の仕事がおろそかになることは許されない。

 今までだれも提言したことはないだろうが,農業の世界の「農協」を上回るような,「事務仕事」を増やしてあげることが,実は最も成果が上がる「教育改革」かもしれない。

 「野良仕事」に誇りをもてるような教師が,どこの国にも負けない競争力のある人間を育て上げることができるようになるためには,「事務仕事」にも誇りをもち,他人ごとにしないことである。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より