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2014年12月

結局,自分の考えがない人間を育ててきた日本の教育

 思えば今の文部科学大臣も,かつてはこのぶろぐ村の住民だった。

 それなりに自由な発言をしていたことを思い出すと,懐かしい。

 そして,ある程度,当時の発言の趣旨に沿った改革を進めているようでもある。

 しかし多くの人が感じていると思われるが,行政機関の長になってしまうことで,おそらくは本心ではないことも本心からのつもりで話すくせがついてきている。

 国務大臣は総理大臣に任命されているわけで,総理の意図に沿った政策を打ち出すことが,自分の地位を守ることでもあるからである。

 国がどのような趣旨で義務教育段階の教育を行っているかは,教育基本法,学校教育法,身近な?ところでは学習指導要領を読めばわかる。一般の方にとっても,また教員にとっても,学習指導要領というのは大きなガイドラインに過ぎないから,では具体的にはどのような点に留意して・・・ということになると,学習指導要領の解説というものが必要になる。

 1冊200円もしない価格で販売され,ネットでもダウンロードできるから,だれでも読める環境にあるわけだ。

 国が中学校での英語教育,小学校での英語の活動を実施させる目標なりは,これを読めばわかるようになっている。

 そして,一般の方が読んでから,学校現場に足を運んでもらうと驚かれるかもしれないのが,「先生はこれを読んで知った上で教育を行っているのか」と思わずにはいられないような授業の実態である。

 だから,授業参観をしても,「どうして英語が学校教育で必要とされているのか」がわからない。

 英語教師ではない教員ですら,そうかもしれない。

 学校で英語を教えている理由は,「受験があるから」ではないのである。

 「英語は必要か」という問いではなく,

 「英語ができるようになると人生がどう変わるか」という問いを子どもなり親なりに投げかけたり,実際の子どもたちのエピソードを語ったりすることができるのが,「教師」というものである。

 最近は,ALTをはじめ,日本語を母国語にしない外国人たちが公立の学校に訪れることも増えるようになっている。教師にとっても,廊下ですれ違ったときに挨拶をしたり,自分の教科に関する内容を英語で質問してみたりと,大切な時間を過ごす機会が増えていく。

 2020年のオリンピックが開催されると,東京に住んでいる子どもたちは,とても多くの国の人と接することができるようになる。何か突発的な事故があったときに,英語が話せるだけで命が救えたかもしれない,という事態が起こるかもしれない。

 よく,「使える英語」という表現があるが,英語教育の方向転換は,世間一般の人々にとってはとてもわかりやすい方向に行くように見える。

 生徒や保護者もそれを強く望むようになれば,本当に学校の英語教育も変わり,そもそも「英語は必要か」などという疑問を抱く人もいなくなるかもしれない。

 「英語は必要か」という疑問は,高齢者が語るのならば,一向にかまわない。

 「英語は必要か」という疑問を,子どもたちが抱くこともかまわないが,それは,「英語を習得してみないとわからない」というのが「正解」である。そして,習得の度合いが高い子どもほど,必要性というより語学の学習の意義を体感することができるようになる。

 なお,以上の記事の内容は,ほかのブログの記事とは一切無関係である。


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あなたが先生を自分で選べるなら,「優秀な非常勤講師」と能力未知数の「新規採用教員」のどちらを選びますか?

 私は多くの優秀な非常勤講師に出会ってきた。

 大学院生だったこともあるし,別の仕事もこなしながら,週2回程度,学校現場に来てくれる人もいる。

 公立学校の場合,ALTは非常勤講師である。

 優秀な講師たちは,「私の学校に来てほしい」と願う校長が多い。

 しかし,どこでどのような優秀な人材が活躍しているか,情報網がしっかりしていないとわからない。

 優秀な講師は他校にとられたくないから,わざわざ他の校長に宣伝してくれる人も少ない。

 特定のコネがないと,優秀な講師を確保することは難しいのである。

 ドラフト会議を想像してもらったらわかりやすいだろうか。

 非常勤講師の場合,先着順だから,「優秀な人から順番に決まっていく」仕組みはよくおわかりになるだろう。

 ここが英会話学校だと仮定しよう。

 大学を出たての,新規採用の人間が,2か月ほどで仕事に自信がなくなり,この穴を埋めるために,非常勤を雇うことになった。この非常勤はすでに退職したベテランで,難無く残りの10か月をこなしてくれた。

 こういうことは学校現場でも起こっている。

 教師としての力量が未知数の人間と,実践歴が長く,指導に定評のある講師と,どちらの方を管理職は「信頼」できるか。

 教師というのは,本来,長い目で「信頼」をしてあげることで成長していく。

 ただし,これを子どもや親の側の目線で見ると,非常に不安になることは想像できることだろう。

 私の授業を受けた子どもたちを比べてみて,それは今の子どもの方が,新採のころの子どもたちよりも幸運だろう。

 大量採用の時代の教員の大量退職が続く時期が訪れる。

 また大量の新規採用をしなければならない。

 今や,校長を退職した後,安い給料で再び雇用され,校長職に戻る人が増える時代となった。

 同じように,退職者のうち,学校の信頼のあつい人は,様々なかたちで学校にかかわり続ける時代になるだろう。

 そうでないと,公立学校は存続することが難しいと言われるほど,人材の確保は最重要の課題になっている。

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作文が上手でも出世できない理由

 「公務員に自分のブログで主義主張を述べさせることを義務づける」とは,ものすごい「改革」である。

 こういう「改革」を推進できる人を「出世」させられる国は,本当に「自由主義」が徹底したところなのだろう。

 毎日毎晩,公務員が上司への批判を世界に向けて発信できる国は,よほど「民主主義」「個人主義」の徹底したところである。

 残念ながら,日本では様々な法律がその障壁となってしまう。法改正が先に必要だろう。

 教員が職員室でそんな主張をするものなら,「出世」どころか「研修所送り」になる。


 さて,「作文が上手でも出世できない理由」なんてことをどうしてわざわざ書かなければならないかは,一般企業の人にはわからないだろう。

 理由を聞くまでもないことだからである。

 しかし,行政の世界では,これがあり得るのだ。行政の仕事は「作文」そのものであったりするから,「作文」ができれば出世も夢ではない。

 ただし,教員の評価は,「作文」だけで「出世」ができるわけではない。

 教員採用試験の場合は,どうしても「作文」にかかる比重が高くなってしまう。

 この違いはどこから生じるのか。

 単純な話である。

 教員は,子どもを相手に教育の仕事をしている。その仕事の達成度なり,課題なりがどうであったかを,管理職とともに確認する作業が必要である。そのために「作文」が必要である。

 できてもいないことを「作文」しても,「これはできていませんよね」で話は終わり。

 いくら「作文」が上手でも,実態としての成果がともなっていないと,意味はない。

 サッカーの指導者が,いくら「私はサッカーが上手です」といっても意味がないのと同じである。

 そもそも全く成果が出せていない教員については,「作文」も不要である。

 ある小学校では,12学級中の6学級が崩壊状態にあるという。

 どうして2分の1の確率になるかといえば,学年が崩壊しないように配置するからである。

 こういう学校では,「作文」よりも何よりも「対応」が先となる。

 「教師の評価」などと言っている場合ではない。学校や学級を教育の場として成立させることの方が大事である。

 教員の採用試験の場合は,どうして「作文」の比重が高くなってしまうか。

 言うまでもないだろう。教員として自分が優れているかどうかを証明するための具体的な材料がないからである。まだ教員ではないのだから。かろうじて,教育実習のときのことを書くという方法はある。

 採用試験の「作文」は,「教員としての資質があるか,適性があるかどうか」を判断するために書かされる。

 しかし,当然のことだが,作文は立派でも,実践がともなわない人などいくらでもいる。

 そのことはわかっていながら,判断できる材料は作文のほかにあまりないから,ダメもとで採用することにするしかない,というのが教員採用の実態である。

 話を教員の評価に戻すことにしよう。

 すべての教員にブログを書かせて,その評価をしてみたらどうか,というご提案がある。

 何でも,「教員を出世させないための方策」なのだそうだ。

 そんな必要はないことは,以上のご説明で十分に明らかだろう。

 匿名ではなく,個人名でつくらせる教員のブログで,何が「書ける」のだろう。私立の学校には,そういうブログが実際につくられ,更新されているが。

 ここぶろぐ村の教育ブログのなかには,塾の宣伝用のものが多いが,現役の教師や退職者による匿名のブログもある。匿名でないと,書きにくいことが多いのが教育の世界だ。

 やたらと子どもや親の悪口を書き連ねていたブログがあったが,本心からの言葉が中心だったと思う。だからこそ,教師への信頼を失う原因にもなっていたのだが。

 ここからは,匿名ブログの世界の話である。

 匿名ブログでは,実際になかった話をいくらでもでっち上げることができる。

 自分のつくっているブログに,他人を装って自分自身で自分を褒めちぎるコメントを入れることもできる。

 こんなブログの内容に何の信頼性,信憑性があろうか。

 だから,真面目に批評したり批判したりする方がおかしい。

 私が今,書いていることも,実はおかしいわけだ。そういうおかしいところだらけなのが「あり」なのがこの匿名ブログの世界である。

 すべてを信用せずに,自分のアタマで判断しながら読む,という情報リテラシーの基本中の基本が理解できていない人間の場合は,こういうブログなど読むことは危険である。

 文字づらだけ眺めて,それが良いことだ,悪いことだと言ってみても仕方がない。

 大切なのは,その発言の本当の趣旨や意図はどこにあるのかと考える自分自身の思考力である。

 どうしてこのような当たり前すぎることをわざわざ書かなければならないかは,教育現場に立ったことがある人ならわかるかもしれない。

 教師のなかには,「他人の意図を読む」ことができない人が紛れ込んでいる。

 「空気を読めない」くらいなら,それほど害はないのだが,「意図が伝わらない」人というのは本当にやっかいである。子どもだけでなく,親とも,同僚とも,管理職とも,さまざまなトラブルを引き起こす。

 どういうタイプの人がこれに該当するか,非常によくわかるブログがある。

 学校現場の本当のたいへんさは,学級崩壊以前のところにあることがご理解いただけるだろう。

 こういう人間が「作文」で見抜ける方法が開発され,教員に採用されないようになれば,教育現場はとても仕事がしやすくなる。

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教育の世界の「お膳立て」をしてくれる人たち

 教員はとても自由に仕事がこなせる職業であることは,さまざまな事件を通して明るみになる。

 ある小学校教師は,親にお金を出させて購入し,子どもに解かせたワークテストを家に持ち帰ったまま,採点もせずに放置していたことが報道されている。

 中学校現場の場合には,学級担任だけでなく,学年主任や同じ教科の教員など,教科指導に関する情報がかなり入ってくるから,教師は手が抜けない。何より,生徒が直接言ってきてくれるから,教員側の問題というのはすぐに見つかるのである。

 小学校ではどうやらこうはいかないようだ。

 そもそも,時間割通りに授業が行われているかどうかのチェックを「週案」できちんとできているかどうかも疑問である。

 私の娘が通っている小学校では,「連絡帳」に必ず次の日の時間割を書いてくるから,これを集計すれば,道徳を年間何時間行ったか,各教科ごとの時数はどうだったかなどがわかる。しかし,校長がそれを把握していたら,まずいことになるのだ。「虚偽の報告書」を教育委員会に提出していることがばれてしまう。

 小学校ではこんな例はいくらでもある。

 中学校のように,試験範囲が決まっている場合は,こういう勝手なことはできないのである。

 この記事で書きたかったことは,教員というのは,だれにどのような「感謝」をして仕事に臨むべきか,ということである。

 だれが,自分の仕事の「お膳立て」をしてくれているのか。

 ワークテストのような教材は,教材会社があり,販売店があり,運送業者がいるから学校に届く。そして,その代金は税金ではなく,親が負担している。

 こういう「お膳立て」を書き始めると,きりがないことがわかるだろう。

 毎日の給食にしろ,運動会にしろ,宿泊行事にしろ,自分一人ではできない「お膳立て」はいくらでもある。

 教員になると,実際には「お膳立て」の側にまわることもたくさんある。

 そして究極の「お膳立て」役は校長ということになる。

 教員は,4月1日に着任したら,まず教育現場を支えている「お膳立て」の数々を自分の目で見て,それをしてくれる人に感謝する習慣をつけるところから仕事を始めてほしい。

 そして,4月2日から,学校には朝一番に通勤し,職員室の机の上をふいたり,床のゴミを拾ったりすることから朝を始めるべきである・・・・という「しつけ」を教えてくれる校長はどのくらいいるだろうか。

 ちなみに,教育委員会というところでは,これは常識である。

 教師が授業で使用するチョーク1本の値段を知っている人はどのくらいいるだろうか。

 学校が年間に使用する紙の枚数と総額を言える人はどのくらいいるだろうか。

 学校の電気代と水道代は,年間いくらか。

 教員は,着任時だけでなく異動時にも,生徒数だけでなく,このような数字も知っておくべきである。

 そして,それが税金によってまかなわれていることを自覚するべきである。
 
 津波の被災地の学校のことを想像してみていただきたい。

 教師と子どもが教室で学んでいる環境というのは,偶然の賜ではない。

 多くの努力がその前提として存在しているのである。

 指導力不足の教員の多くに欠けているものとは,

 実は指導力そのものではなく,こういう「偶然には生まれないこと」への豊かな感性なのである。

 教員のなかに,このような感性が欠けている人が少なくないことが,
 
 実は「常識知らずの教員」「世間知らずの教員」イメージを増幅させている主な原因なのである。

 大切なのは,校長による「初期指導」である。

 と同時に,校長による「お膳立て」である。

 率先垂範のうち,最も重要なのは,「全体の奉仕者」としての公務員の姿である。


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教育の世界の常識を変える力~日本風英語の教育~

 英語教育の改善など,何十年も前から繰り返されているにもかかわらず,実効性のある「改革」はできなかった。

 多くの人は「テストのせい」という信仰をもっているが,実は,指導法を変えるだけで,いや,もっとわかりやすく言ってしまうと,教師が変わるだけで,その「テスト」の成績もよくなることは多くの人が経験していることである。

 小学校での英語の教科化を前に,小中連携は進めていかなければならない。

 しかし,この成功の秘訣は,小学校の教師の指導力の前に,まずは中学校での英語教育の質が問われなければならない。

 最近の研究に関する記事から,これからの英語教育が変わっていくかもしれないという期待をもつようになった。

 その研究とは,

>言語の習得は一定の順序に従って進む(音を聞き取る→単語の意味を理解する→複数の単語の連なりがわかる)と考えられてきたが,最近の実験では,最初からほぼすべての機能が同時進行で発達することがわかってきた

 とのことである。

 さらに,スピーカー音では言語能力の発達は促されないという結果もあるようだ。

 親の語りかけが,その子どもの言語能力の発達を左右する。

 しかも,その効果がある時期は限られている。

 日本ではいつも話題になる,経済的にゆとりがある家庭の子どもほど学力が高い,という話に説得力を持たせる仮説になっている。
 
 パチンコをしている間に猛烈な暑さの車内で子どもを死なせてしまうような親がいる家庭では,できない教育があるのだ。

 他者との関わりが,言語,認知,感情の発達の入り口となるソーシャルゲーティング仮説は,それが正しいことを前提として,子育てに生かしてほしいと願ってやまない。

 日本には,「三つ子の魂百まで」ということわざというより,教訓がある。

 ブログを見渡してみれば,他人の人格を汚すようなことを堂々と書き散らせる人がいるが,そういう人のなかには,なぜか自分の生い立ちまで公開している人もいる。これは免罪符のつもりだろうか。気の毒に思えるが,他人に向かって堂々と「バカ」と書き散らしている自分の子どもの姿を親はのぞんでいるだろうか。本人より親が気の毒になる。

 話がそれたが,言語の習得で,曖昧母音や聞き慣れない子音など,「正確に発音したり聞き取ったりすること」がそもそも困難な部分にこれからも労力を費やし続けるべきか,それとも同音異義語が多い日本語のように,誤解も生まれるかもしれないが,文脈から判断してもらえる程度の発音でよしとする,「日本風英語」の開発を進めた方がよいのか,発達や能力習得に関する心理学などの科学の成果をぜひとも教育現場に導入できるようにしていただきたい。

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教育の世界の「出世」とは何か?

 現場で教育にあたっている教員にとって,「出世」とは何か。

 校長になることか。

 教育委員会に入ることか。

 文部科学省の教科調査官になることか。

 職場にも,さまざまな慣習が生きているところがある。

 いまだに教務主任や生活指導主任,学年主任などが年功序列で決まるところもあるかもしれない。
 
 自らは望んでいないのに,「順番だから仕方なくつとめている人」がいるかもしれない。

 若いのに能力を見込まれて,すすめられる立場につく人もいるかもしれない。

 私が思うところ,教員になった人間というのは,子どもが好きでこの仕事を選んだはずである。

 だから,教員にとっての「出世」のイメージは,「子どもとの距離が離れていくもの」と捉えられているのが一般的だろう。

 ということは,「子どもの近くにいさせたくない人」ほど,「出世してほしい」と願うのは,あながち悪いことではない。

 教育現場に入った人は,どういうきっかけで教員を志したのだろう。

 なかには自分の子ども時代を振り返って,「あんな楽な仕事なら私でもできる」と思った人がいるかもしれない。

 最近は,教員の子どもが教員を目指すというケースが増えている気がする。何となく気になった教育実習生には「あなたの親は先生じゃない?」と聞く機会をもっているが,当たることが多くなっているからである。

 多くの教員志望の人には,「あの先生のようになりたい」と思うロールモデルがいるはずである。

 そのロールモデルが全人格的なモデルになっているタイプや,教科や部活動の指導力のモデルになっているタイプなど,多種にわたっている人ほど,今の自分に対する評価もしやすいのだろう。

 子ども時代にはわからないのが,どこかの研究会の代表になっているとか,学会で発表しているといった姿である。私も高校生までは,先生が部活動以外に休日をどう過ごしているかなど,想像もできない世界だった。まさか部活動の指導が少し楽になった分,ほかの仕事が増えようとは,思いもしなかった。これを志望の対象にする人はいないだろう。ましてや「指導主事」という存在など,知るよしもなかった。
 
 私は区市町村教育委員会を飛び越えていきなり都道府県教育委員会の指導主事になったので,わからない部分も多いかもしれないが,以前も書いたように,都道府県教育委員会の指導主事で,「俺は偉い」「俺は出世してここまできた」などというふんぞり返った態度やオーラを出している人は一人もいなかった。

 むしろ,どこまで腰が低いのかと思われる人ばかりであった。

 この「腰の低さ」が出世の武器になる,と考えている人ももちろんいるだろうが,残念ながら,普通の教員と,校長や指導主事の仕事は全く異なっている。

 校長はまだ児童生徒に直接話ができる立場だから,教員時代に培ったノウハウが継続的に生かせるが,指導主事という行政職になると,脳の使う部分が全く違ってくる。

 職業として全く別のものであると考えた方がよい。

 企業のように,命令系統がはっきりしている。

 地方公務員法という法律にもとづいて行動しているという実感がわく。

 なかには,自分が課長や部長という立場になって,命令ができるようになりたいと思う・・・「出世したい」と思う・・・人がいるかもしれないが,たとえ部長になっても,自由裁量で何でも提案し命令することができるわけでもない。教育長になったとしても同じである。
 
 ここが企業ではなく,行政機関の特徴といってよい。

 だから,教育の仕事にたずさわっている人にとって,企業で考えられるような「出世」というのはなかなかないのである。

 小学校の教員の場合は,たとえば「自分の名前で書いた本が出版される」ことを「出世」と考える人がいるようだ。

 小学校の教育書というのは一応,対象が多いために利益を見込んで出版できる世界のようで,かつ,一度名前が売れるとその名前で買い手がつく世界らしく,「どうして仕事をしながらこんなに原稿が書けるのか」と不思議になる人もいる。副収入も少なくない額になっていることが想像できる。

 しかし,私はこういう人たちの行動は理解できない。教育実践の紹介などは,HPで無料で公開すべきである。

 ICT環境が整ったこの時代に,本で流通させるというのはいかにも効率が悪い。

 この件はひとまず置いておこう。

 私が教員志望者に強く訴えたいことは,もしあなたが教育公務員になれたとしたら,その時点で「出世」は果たしたことになる。

 非常勤講師を経験している人は,その惨めな待遇から脱出できることが何よりである。 

 大量採用の時代はだれでも教員になれたが,冬の時代は長かった。

 1年契約でいつでも切られる立場では,子どもの教育に情熱を注ぐことはなかなか難しい。

 中学校なら,子どもたちの3年間の成長を見届けることができて,初めて「教師」としての喜びを体感できる。

 担任になった時点で,「大出世」である。

 40人の将来を担う,重要な立場になれたのである。

 1年間でクラス替えがあるかもしれないが,人の一生のなかで,特に子ども時代というかけがえのない時間のなかで,1年間,親よりも長い時間を過ごせる立場というのが,どんなにやりがいに満ちたものか。

 言うことを素直にきけないような子どもたちなど,どれだけ育て甲斐のあることか。

 勉強ができないと苦しんでいる子どもたちなど,どれだけ伸ばし甲斐のあることか。

 私は,一般社会では「出世」したと思われているかもしれない校長,指導主事,教科調査官の多くに接することができた。みんな寂しそうである。現場の教員を,みんな,うらやましがっている。

 私が指導主事試験のときに,想定していた質問だったが,答えるのが苦しかったものが1つあった。

 それは,「若いんだから,もっと子どもたちと戯れていた方が楽しいんじゃないの」という質問であった。

 もし,「若いんだから,子どもたちとの距離が離れるのはつらいんじゃないの」という質問だったら,心が揺らいでいることをすぐに見抜かれた返答になっていただろう。

 私の救いは,「子どもたちと戯れる」という聞き方をしてきた面接官のミスだった。

 あるいは怒りをわざと誘うための罠だったかもしれないが,かえって冷静になり,用意していた模範解答を整然の述べることができた。

 「出世」したことがない人には,わかりにくいことかもしれない。

 教員の「出世」先の孤独感は,埋めようがないブラックホールのようなものである。

 そこには決して「バカ」などいない。

 それで勤まるような場所はこの日本には存在しないと信じたい。

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「教育改革」の最前線に立つことの意味

 今,手元にある14年前の本を読み返してみて,現在の議論と何か変わっているところはないかと探してみたが,なかなか見つからない。

 14年前といえば,寺脇研という当時の文部省の課長がテレビへの露出度を高め,さかんに「教育改革」を「宣伝」していたころである。

 当時の彼は,2012年にはすべての高校が単位制になり,大学生と同じように,「5年で卒業した」という人がいても蔑視されることのない時代になっていてほしい,などという発言をしている。

 現在の立場で読み返してみると,「多様性が大事」という当時の言葉は,結局は「ならば文科省は必要ないだろう」と思わざるを得ないところまできている。

 14年後の今,どうなったかといえば,「学力低下」の声におされ,当時よりも状態は「逆行」傾向にあることがわかる。

 教育改革や入試改革の旗は,今までにどれだけ立てられたかわからない。

 そして,実際に「改革が成功した」という話を聞いたことがない。

 学習指導要領の改訂の趣旨を理解し,実践に生かすことができている学校が少ないからである。

 なぜ「教育改革」が前へと進まないかと言えば,それは「現場」の実践が改革についてこられていないからである。

 私が指導主事の立場に3年間いてよくわかったことは,学校現場では教育課程の管理ができていないということである。これを校長の責任にするのは企業的な発想で,そもそも自分の学校の教師を自分で採用できない校長に,教員の指導力不足の責任を負わせることは気の毒である。

 校長は,教員を守りに入る。校長経験者が教育委員会にうようよいるような地方の自治体では,教育委員会の事務局が学校を守りに入る。そして「日本的な経営」が幅をきかせており,そこに「改革」などを実践する能力などあるはずがない。

 そしてそれは,あながち「悪い」ことではないというのが私の実感である。

 農業の世界では「農協」がこれにあたるのだろう。

 学校はまだ,現場で働いている人間がそれなりの数を保っているが,現場ではない人間の数が上回っている世界の改革は困難だろう。

 自分で自分の首を絞める人間はいないのと同じで,

 自分で自分にとって利益のでる組織をなくすことはできない。

 「入試改革」など,今まで何度「かけ声」がかかったことか。

 中高一貫校の誕生とともに,結果として生まれたのは「競争の激化」である。

 「ゆとり」とは真逆のことが起こっているのが中高一貫校である。

 それが国民のニーズなのだから,仕方がない。

 小学校で英語教育がスタートすることで,次に何が始まるかを鈍感ではない現場の教師は見抜くことができる。

 学校現場というのは,表面的な対策と実質的な対策の2本を同時並行でこなさなければならない場所である。

 こういう変化が見抜けない自治体や学校もあるので,あとは「お上」だよりとなる。

 小学校から高校にいくにつれて,「お上」だよりの度合いは減っていくと一般的には解釈されているが,実際にはそうではない。

 小学校は「お上」の言われた通りにしているようにみえて,実際には「言われた通りにしてできないのは私のせいではない」という無責任の塊のようになっている。

 公立小学校から公立中学校へは,ストレートに進学できる。エスカレーター式に送り出していける。

 たとえ分数の計算ができなくても,小数の引き算ができなくても,数学を学習する現場に送り出してくる。

 こういう問題を棚上げして,真新しさばかり求める教育改革に力を入れることはおかしい。

 入試改革など,教育改革の後についてくるべきものだが,

 中学校や高校では「入試が変われば教育は変わる」と信じて疑わない。

 堂々と「入試のための教育をしている」と宣言しているような場所での「教育改革」など不可能である。

 教育現場で最も重要な立場とは,今,そこに教育の目標と内容がある。その達成度をいかに向上させるかを常に自己に問うていかなければならない。

 表面的な「教育改革」「入試改革」にふりまわされて,目の前の仕事がおろそかになることは許されない。

 今までだれも提言したことはないだろうが,農業の世界の「農協」を上回るような,「事務仕事」を増やしてあげることが,実は最も成果が上がる「教育改革」かもしれない。

 「野良仕事」に誇りをもてるような教師が,どこの国にも負けない競争力のある人間を育て上げることができるようになるためには,「事務仕事」にも誇りをもち,他人ごとにしないことである。

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中学校でできる中1ギャップ解消法

 ほとんどの子どもは,環境への順応性をもっているから,中1ギャップを感じずに立派な中学生になっていく。

 昨日まではいかにも「子ども」らしかったという「子ども」が,中学校の制服を身にまとったとたん,「中学生」らしくなっていく場面を教師や親は目にしてきた。

 子どもなりに,気合いを入れて「中学生」に変身しようとするのである。

 しかし,特に学力や基本的生活習慣に課題がある生徒は,中1ギャップが不登校の引き金になりやすい。

 不登校の理由を子どもに聞けば,「友達のせい」とか「先生のせい」と他人の責任にするが,そもそも机に座って学習する習慣ができていない子どもの場合は,授業そのものに不適応を起こしているのである。

 ではこのような子どもの中1ギャップはどう解消したらいいのか。

 結論から言えば,子どもに一切の甘えを許さないことが最善策である。

 子ども自身がそれを望んでいることが多いのに,入学当初は「カワイイから」と思いっきり甘やかして,あとで強烈なしっぺ返しを食らうのが,荒れた学校づくりの基本である。

 できれば,入学してから3日以内に中学校での行動パターンを体に染みこませる。

 アタマを使う必要はない。挨拶,返事,教室移動,整列,机や椅子の移動,清掃,号令,荷物の整理整頓・・・・多くの生徒は無意識にこれらを身につけていくが,できない子どもはすぐに発見できる。

 甘えを許さないとは言っても,怒鳴りつけたり,体を引っ張ったりしたら逆効果である。

 「全員ができるようにする」ことを合い言葉に,そろうまで繰り返し行う。

 「軍隊のよう」という形容がされるかもしれないが,戦闘訓練をするわけではない。

 整然とした集団行動ができるかどうかで,災害のときに一人でも多くの命が救われるかもしれないことをくどく語りかけるべきである。

 さて,問題は学力不振の子どもの対応である。

 小学校3年生くらいまでは,板書なしに先生の話を要約してノートに書くことはできない。

 だから,小学校の先生は,時間をかけて,ゆっくり,丁寧に,黒板に字を書いていく。

 子どもも,同じようにノートに字を写していく。

 これを悲しいことに小6まで続けてしまった子どもたちは,中1ギャップに苦しむことになる。

 ここでは「中学校でできる解消法」を語らなければならないのだが,話は簡単で,

 「遅れた分を取り戻す訓練」をする。

 1分程度の話をする。要約を3分以内に書かせる。4人班で回して読む。一番よい生徒の要約を2~3班に発表させる。これで10分くらいかかるが,10回くらい行うと,それなりに「聞いて書く力」が育つ。

 「聞いて書く力」が育っていないことは,中1を見ていると,とても強く実感することである。

 「黒板に先生が字を書くのを待つ」習慣がついている生徒には,

 「書写の時間ではない」と諭す。(国語の先生には失礼かもしれないが)

 最難関は,最初の定期考査である。

 まとまった範囲の試験勉強を,最低でも5教科行わなければならない。

 準備の仕方がわからない。だから最初は,「2週間の学習予定表」などをつくってあげる。

 毎朝提出させて,学習の進行度を担任がチェックする。たいした仕事ではない。

 最も大切なことは,最初の定期考査は,平均点が高めになるように難易度を下げて行うこと。

 これが効果的である。逆に,最初から難しい問題ばかり出題すると,「中1ギャップ人口」を増やすことになる。

 2学期制なら,自信を失わないうちに,夏休み明けを迎えられる。

 3学期制の場合には,あまり望ましくはないが,7月の1学期の期末考査も難易度を下げる。

 5教科合計で平均が最低でも350点以上(70点平均)になるようにする。

 最初の定期考査は,400点でもよい。ただし,平均点が80点の問題をつくってしまうと,100点満点がたくさん出過ぎるのが気になる。

 がくっと合計点が下がるのも子どもにとってはショックだが,「そういうもの」であることは知らせておく。

 社会科のテストの場合,大事なことは,「テストは暗記したことを書けばよい」という小学校時代に体に染みついた固定観念を捨て去るような問題を出すべきである。

 たとえば,地理は地図帳を見ながら解けるテストにして,北緯○度,東経○度に位置している都市名を書きなさい,とか,熱帯の地域とか,北アメリカ州などの地域をまず選び,自分が訪れたい3か所を巡るルートを略地図にして書きなさい,などのような出題にする。

 歴史では,聖徳太子(厩戸王)に政策の実施上の課題について,インタビューしたいことを箇条書きで3つ書きなさい,など,授業で学んだ知識を活用しつつ,さらに学習を深めていく動機付けになるような問題を工夫する。

 定期考査では,「アメリカ合衆国の首都はどこですか」とか,「聖徳太子は西暦何年に摂政になりましたか」などという問題は出題する必要はない。どうしてもやりたければ授業中にすればよい。

 社会的事象の意味や意義を考える問題を中心に,生徒自身が「どうして今,これを学んでいるのか」がわかるような出題にする。

 できるだけ生徒には,早い時期にいろいろな意味での「中学校での成功体験」を味わわせてあげたい。それがその後の中学校生活を生き抜くための自信になるからである。

 行事も含め,最も教師が知恵をしぼって中学校生活の軌道に乗せるように努力する時期が,「中1ギャップ克服期」であるとも言えるだろう。

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学習指導要領に示された目標や内容に準拠した教育を行わなければならない理由

 なぜ学校の教師は,学習指導要領に示された目標や内容に準拠した教育を行わなければならないのか。

 法的な理由等はここではふれずに,高校や大学の入試に関する話をしておきたい。

 公立高校を受験する場合,「調査書」には中学校での成績が記載される。

 この成績とは,学習指導要領に示された目標に準拠した評価・評定のことである。

 学習指導要領に示された目標とは無関係の指導を行うと,そもそも評価すらできないことになる。

 入試問題は,学習指導要領に示された目標や内容に則して出題される。

 教科書は検定でチェックを受けており,その内容を逸脱した入試問題は出されないことになっている。

 教育公務員なら知らないはずはないことである。

 しかし残念ながら,学習指導要領に示された目標や内容をよく理解しないまま,ただ教科書だけを使って授業をしている教師が多いのが現実である。それでも受験には対応できてしまうからだ。

 では,評価はどうしているのか。つじつまが一応合うようにしているだけである。

 

 学習指導要領には,どのような「目標」が示されているのか。

 中学校の社会科の場合,こうである。

>広い視野に立って,社会に対する関心を高め,諸資料に基づいて多面的・多角的に考察し,我が国の国土と歴史に対する理解と愛情を深め,公民としての基礎的教養を培い,国際社会に生きる平和で民主的な国家・社会の形成者として必要な公民的資質の基礎を養う。

 「広い視野に立って」という文言がある理由はおわかりになるだろうか。

 社会科では,そもそも多面性をもつ社会的事象という学習対象を,特定の政党の理想をもとに一面的に語ることができないようになっている。

 指導力不足教員か,特定の考えを押しつけようとしている教員かの判断は,そもそも教員自身が「広い視野に立って」いるか,また,授業で使用する「諸資料」が適切かどうかで判断することができる。

 いつも朝日新聞の記事だけを教材にするという教師は課題があると言わざるを得ない。

 残念ながら,すべての中学生が日本の国土や歴史に対する理解を深めているとは言えない現状にあるが,究極的には「平和で民主的な国家・社会の形成者」としての基礎を養うことが目標になっている。

 言い方をかえれば,社会科はこういう人間をつくろうとしている教科である。

 なお,社会科の目標については,「愛情を深める」という文言が議論になっている。

 学習を通して,結果として深まるのは「愛情」だけではないが,「愛情」も深めていくのは悪いことではないと考えている。

 「理解と愛情」だけを深めろ,と言っているわけではないことに注意が必要である。

 国民の多くは(もちろん中学生も含めて),社会科がこういう目標のもとで指導されていることをご存じなかったかもしれない。

 あるいは,自分を教えてくれた社会科の教師が,こういう目標のもとで指導をしていたとは思えない人が多いかも知れない。

 妄言が生まれないように,ぜひ知っておいてほしいことがらである。 

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偉そうな口のきき方に腹を立てる「心の小ささ」に気づくまで

 歳をとってくると,たいしたことには腹を立てなくなるものである。

 若い頃は,子どもたちの偉そうな態度にいちいちむかついていた教師たちも,

 「背伸びしたさ」がいじらしく見えるようになると,ついつい顔がほころんでしまう。

 「この私でさえ」という言葉を今ここで書いても,私を知らない人には何のことか想像つかないだろう・・・・・

 と書けば,想像してもらえるだろうか・・・。

 「上から目線が気になる」のは,精神面ではつねに「下っ端」の人間である。

 いい会社の社長が,部下をさして「あいつの上から目線が気になる」ということはない。

 逆に,新入社員が立場をわきまえず,「上司の上から目線が気に入らない」という愚痴をこぼすことはあるだろう。

 他人の立ち位置を自分で勝手に判断し,ああでもない,こうでもないと言えるほど世間から隔絶して生きていける「自由人」はうらやましい。でも,「自由」は「孤独」とセットなんですよね。

 人間によっては,精神的な成長が途中でストップしてしまうことがある。

 しかし,生涯学習が叫ばれた時代の教育を受けた人なら,

 自分の成長を信じてくれることだろう。

 今からでも遅くはない。

 60代になっても,人間は成長する。

 昨日のテレビでは,70代から漢字の勉強を初めて,90代後半になっても漢字を学び続けている女性が紹介されていた。ユーモアのセンスもある。

 見習いたいものである。

 しかし,子どもを傷つけたり,教育の世界を小馬鹿にしたりするような言葉には容赦なく怒りをぶつけたい。

 教育現場を守るのは,教師の仕事である。

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人生の登山に頂上はない。もちろん,学校にも。

 吉川英治の『宮本武蔵』では,人生を登山にたとえた次のような言葉が紹介されているようです。 

>登山の目標は山頂と決まっている。しかし,人生の面白さはその山頂にはなく,かえって逆境の,山の中腹にある


 山頂が全く見えない状態で長い道のりを歩いた経験がある人はわかるでしょうが,

 目標地点が見えない登山は,時に心が折れそうになるときがあります。

 登山には,「途中で下山する」選択肢が可能ですが,人生ではそうはいきません。

 教育にたずさわっている仕事をしている人で,

 「途中で下山した」経験を持っている人は少なくないでしょう。

 犯罪行為がもとで,「滑落」した人もいるでしょう。

 教員ならよくわかっているでしょうが,子どもたちが成長する場である学校という「山」も,決して楽に登れるところではありません。

 教師だけ登って,子どもが登山口に置き去りにされている学校もあれば,

 逆に,子どもだけ登らせて,教師は茶屋でゆっくりくつろいでいるという,修学旅行のような学校現場もあるでしょう。

 子どもにとって,小学校なら小学校の卒業式が「山頂」といえるかもしれませんが,

 みんな縦走しているんですよね。中学校や高校という「連山」が待っている。

 教師の方は,登山ガイドのように,同じ山をずっと登ったり下ったりしているようなイメージでしょうか。

 いいえ,そんなことではいけませんよね。

 子どもに「山」を用意するのは教師たちです。

 1日で乗り越えることができる「小山」もあれば,

 乗り越えることが不可能に見える「崖」もある。

 垂直な壁を目前にして,すぐにあきらめるような子どもに学校はしてはならないのです。

 人は,それぞれに目標を立てることができます。

 目標を達成することができた時点で,「山頂」らしき場に到達した気になるかもしれませんが,

 そこにいても人間にとっては孤独なだけですよね。

 どんなに偏差値が高い学校に入学しても,自分より優秀な人間が周りに増えただけ,ということです。

 学校に頂上も頂点もありません。

 人生の登山には,もちろんですが頂上はありません。

 死を迎えるときですら,高い嶺を遠くに臨みながら息を引きとりたいものです。

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校長への恨み節を読んでわかること

 教員採用が氷河期とよばれていたころに採用された私たちは,
 
 「いずれ全員が管理職候補となる」と言われていたが,それが誇張ではないことが実感できる時期に入った。

 大量採用の時期の教員には,いずれ「校長にならなければならない」というプレッシャーは無縁であったことだろう。

 校長になって最も心を痛めるのは「教員からの恨み」である。

 「一生懸命働いたのに,どうしてこんなところの小学校に異動させたのか?」

 「どうしてこんな荒れた中学校に異動させたのか?」

 「どうして私が不登校児ばかりを集めたチャレンジ校の教員にならなければならないのか?」

 「どうしてこんな指導力不足教員を私の学年で引き受けなければならないのか?」

 「なぜこんな教員にうちの子どもの担任をやらせるのか?すぐに担任を変えろ!」

 そういう「怨恨」が襲ってくるのは,人事部の人間でも,指導力不足教員本人でもない。

 その学校の校長である。

 異動してきたばかりの校長に「怨恨」が降ってくる場合もある。

 人の心が読める人がもし校長になったら,自分の心は1日ともたないだろう。

 たった数人の校長の「部下」になった経験しかないのに,「校長の多くはこうだ」と決めてつけている人間がいる。

 自分が「おかしい」と主張していることを,恥ずかしげもなく,堂々と自分ができてしまうような人間である。

 校長退職者が早く亡くなることを揶揄しているが,その原因が自分のような人間にあるとは,想像もできないようだ。

 こういう人間たちを相手にしなければならない校長という職は,

 心が弱い人間には決してつとまらない。

 自分の主張を教育委員会が聞いてくれるわけでもない。

 命令は教育長からどんどんふってくる。

 これからの時代の管理職は,ますます「仲間内で慰め合うこと」しかできない存在になっていくかもしれない。

 子どもの将来のことを本当の意味で真剣に考え抜ける存在が校長である,

 と堂々と言えない学校に,未来はあるだろうか。

 教師は変わらなければならない。

 校長を変える力を持っているのはだれか。

 校長しかできない仕事をつくれるのはだれか。

 日本の教育を変えることができるのはだれか。

 現場の教師がその可能性に絶望したとき,公的な教育の意義は消える。

 教師は,変わらなければならない。

 まず第一歩は,信念をもとに「校長を説得できる」人間になることである。

 100の失敗にめげずに,1の成功をめざして説得を続けることである。

 その「1の成功」が,やがて百万人のための成功になってかえってくる日をめざして。


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小学校でできる中1ギャップ解消方法

 小学校でも多くの出前授業をなさっている元中学校の教師が実感として語っていたことは,
 
 「テストに関する小中の文化の違い」が「中1ギャップ」の主因の一つになっているということでした。

 小学校では,業者がつくったカラーのプリントのテストが単元ごとにあって,基本的には多くの子どもが満点がとれるようになっています。ここ30年以上は変化のない仕組みではないでしょうか。

 中学校に入ると,テストの様相ががらっと変わります。

 範囲は長くなる。教員の自作になる。テストのためだけの日が2~3日設けられる。小学校のときは平均点など公開されない(ほとんどの子どもができるから,公開する意味もない)が,中学校では公開される。

 今までずっと「トップのうちの1人」という意識すらなかった子どもたちが,

 数十人から百人以上の単位の集団で,どのあたりにいる,という認識をもつようになる。

 小学校では,せいぜい4分の1程度の子どもが,塾に通い,このようなテストに慣れているにすぎず,半数くらいの子どもは中学校に入ってはじめて,

 「私は勉強が「人並み」とは言えない程度に苦手である」という意識を強くもつようになります。

 中学校で不登校になる子どもの多くは,学業不振という課題も抱えています。

 勉強がわからない,おもしろくない,という状況は,「学校に行きたくない」理由としては単純すぎるほど単純な原因です。だって中学校に通えば,8時間いるうちの6時間は授業なのですから。

 ここに「だれかに無視された」「ものを隠された」などという「いじめ」の状況が加われば,「学校に行かない」ことの理由で周囲の人たちを納得させることができるようになる。

 「他の人のせいで学校に行きたくなくなった」と訴えれば,その生徒自身は責められにくくなるのです。

 人間関係がうまくつくれない,学力が十分ではない,そういう生徒ほど,学校で学ぶことが求められているのに,学校からは離れていく・・・・だれか他人のせいにし続けていれば,休み続けることができる・・・・このような問題の解決は,決して容易ではありません。

 高校によっては,テストをやめたり,授業の時間を短くしたりして,「勉強が原因で学校に来ない」という理由が言えないようにしてあるところもありますが,実際にその高校で勤めている人に聞くと,

 「これで高校卒業の証明を出していることには,疑問だ」という素直な感想が帰ってきました。

 わずか数%の子どもですが,「問題を抱えている人」を見殺しにしない,という文化が残っている日本では,こういう高校も「あり」になるのです。

 「テスト不適応症状」が,中1ギャップなり,不登校なりの主因になっていることがいずれ証明されると,「テスト文化」への見直しにつながっていくかもしれません。

 そこが,最も「選択を誤ってはならない場所」であることを,私自身は強く感じています。

 私の主張を先に申し上げてしまうと,小学校における「定期考査」の導入を薦めます。

 問題は,その質です。中学校もセットで改革していかないと,無意味です。

 最も大事なのは,「だれでも100点がとれるような問題の廃止」です。

 全員ができることを確認するテストに意味はないのです。

 もちろん,小学校で今までやっていた,単元ごとのテストはそのまま残してかまいません。

 勉強してからすぐにやるテストは,みんなできるのです。記憶だけで解けてしまうから。

 本当に「理解しているかどうか」は,しばらくたってから確かめないとわかりません。

 中学校でも,これからの定期考査は,高校入試問題のうち,特に作問に時間がかけられているような良問を参考に,「文章で記述する」ことを中心にしたものにシフトしていくべきです。

 こういう問題によって「実力」をたしかめない限り,

 A(十分満足)とB(おおむね満足)の違いはわからないでしょうし,

 4(十分満足)と5(十分満足のうち,特に優れているもの)の違いはわからないでしょう。

 小学校の教師には,「テストは暗記物」という固定観念をもっているものも多いでしょう。

 それは,自分が卒業した中学校や高校や大学の定期考査や入試問題が「暗記」で答えられてしまう問題だったからでしょう。

 「テスト」は上からの改革を待つのではなく,下からの改革を進めるべきです。

 小学校においても,よい授業づくりは「教材研究」から始まります。

 そのある意味で究極なかたちが,「テストの良問作成」です。

 学校の規模が大きければ大きいほど,教師の負担が減るのはおわかりですね。

 学年が3クラスあれば,国語と社会はA先生,算数はB先生,理科はC先生と作問者を分担できるわけです。

 こういう研修が小学校で値付けば,授業がよりよくなることはもちろん,そういう授業で鍛えた力を,だれでも満点がとれるような単純なテストで確かめるだけでは満足できなくなるはずなのです。

 国語や算数は,すでに全国で実施されている調査の「B問題」が参考になります。

 よい問題がつくれる先生なら,きっとよい授業ができるようになり,

 子どもの学力は本当の意味で,「向上」します。

 テストでよい結果を残した子どもが,ほかの子どもたちに「教える」場を設けてあげるのです。

 「テストができる子,できない子」で子どもを差別するような教師には想像でもできないことでしょうが,子どもたちの「学び合い」とはこのような場でも可能になるのです。

 「わかる」子どもは「教える」経験で理解をさらに深めることができるようになりますし,

 「わからない」子どもは,子どもから「教えてもらう」経験で,教師が教えてもできなかったことができるようになる可能性を与えられるわけです。

 テストと聞くと,条件反射的に「嫌なもの」と感じる人は,そう感じていた自分を哀れに思えるような新しい学校をつくる努力をすべきです。


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本物の指揮者と同じ感動を教育者にも

 結局のところ,「俺はすごいんだぞ」と言いたいだけの人の文章によく使われる言葉がある。

 「自慢をするわけではないが」・・・・自慢したいだけである。それ以外のどんな理由があってわざわざ文章を公開する必要があるのか。

 3年前の記事だが,指揮者の内藤彰さんのオフィシャルブログに,横浜アリーナでの「感動」逸話が紹介されている。

>しかもちゃんと曲も伴奏も合いの手も皆頭に入っているのでしょう、2万人近い大観衆がぴったり合わせてリズム通り変化させて振っている。

>(水樹)奈々さんが動いていない時も観客同士でぴったり合った振付のように)動かしたりジャンプしたり、指揮者も振付師もいないのに、なぜあんなに揃って!? れいの棒の振り方もなぜあんなに合うのか!

>私としては自分のオケがやっているのだから、その責任者として顔を出さなくってはという、多少の義務感と、この種のコンサートのことも勉強しておかなくってはという向上心(笑)?もあって行ったのですが、イヤ~勉強させていただきました。
 
 だれも「統率している人間」はいない。

 しかし,「統率がとれている集団」。

 これが教育者が求めている人間集団の姿であろう。

 教師がいなければ始まらない「指示待ち人間」がどうやって生まれてきたのか。

 それは子どもの自主性を踏みにじってきた教員たちの傲慢さによるものである。

 自分たちが心の底から好きで楽しみたいと思っていることについては,自然と「統率がとれていく」のが人間の姿なのである。

 本物の指揮者は,こういう点に感動するのだが,教師も同じであることを望みたい。

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効率を優先すると必ず失われるものがある

 『どんな事務仕事でも「雑務」と呼ばない人を教員に』という記事の続編である。

 現在,通知表をパソコンで打ち出している学校はどのくらいになっただろうか。

 昔は,1~5やA~Cの評定・評価をはんこで押していたものである。

 そして,何人かの目で,原簿と照合し,誤りがないように確認したものである。

 「こういう事務仕事は雑務だ」「子どもと接する時間を減らす」「教材研究にさく時間を増やすべきだ」などという声のもとで,その「照合作業」すら怠るようになってきた。

 だからどこかの市のように,通知表の内容を事前に通知するようになった。

 これこそが「雑務」である。

 かつては,1つ1つのはんこを押しながら,

 「ああ,この生徒は美術が1つ上がったんだ」とか,

 「あれ,本当にこの生徒の数学の評定は3なのかな」などと,生徒一人一人の顔を思い浮かべながら,また,通知表を手渡すときに,どのようなやりとりをするかを考えながら,作業をしたものである。

 学級担任が,教科担任のつけた評価の誤りに気づき,保護者の手に渡る前に修正できたこともあった。

 私のコンピュータ活用歴は,「桐」に始まる。

 ソフトとの出会いは「桐」である。若い方は,何のソフトかご存じない方も多いだろう。

 成績や進路情報の処理のために,「一太郎」や表計算ソフトよりも早くに習得させられてしまったのである。

 コンピュータを使って,進路情報に関する受験する学校別一覧表,クラス別一覧表,男女別,成績別一覧表,進学先一覧表,合否一覧表などを即座に打ち出して,担任の先生方に渡すことができる。

 今ではアクセスを使うまでもなく,エクセルで十分に作業ができる。

 こういうことができる私が,「通知表は手書きがよい」と主張していることの意味をしってほしい。

 他のクラスの通知表を打ち出す作業をしたくないとは言っていない。

 そんなことは,ほんのわずかな操作で可能なのである。

 効率を優先すると,必ずたいせつな何かが失われる。

 そう,あなたの職が失われる日が来るかもしれないのである。

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授業規律を正す最善策とは何か

 授業規律の乱れで困っている先生に相談されたことがあります。

 授業が始まっても(始業のチャイムが鳴っても),席につかない生徒がいる。どうしたらよいか。

 まず,理想の状態というのは何かを考えてみて下さい。

 チャイムが鳴ったとき,教師はどこにいますか。

 基本は,教室にすでに教師が入っている状態で,始業のチャイムが鳴るのがベストです。

 ですから,大切なのは教師が教室に入ってから,始業のチャイムが鳴るまでに何をするかですね。

 教室に入ったら,黒板にいくつかの情報を書いておくといいでしょう。それは・・・・という

 お話をしたことがありました。内容は内緒です。

 黒板に書く情報の質によって,授業の準備が早まるかそうでないかが決まります。

 また,どうしてもなかなか席につかない生徒をどうしたらよいか。

 先生は,その生徒を好きですか。

 なかなか席につかないという理由で嫌いですか。

 もしそうなら,その生徒を席につかせるのは難しいでしょう。

 生徒はあなたが自分を嫌っていることを敏感に感じているからです。

 では,どうしたらよいか。

 授業の前に,生徒に話しかけて下さい。前時の内容。わかったこと,わかりにくかったこと。

 どんなノートをとったか。宿題はやってきたか。

 授業前に立ち歩いている生徒を中心に狙い撃ちにしてあげてみて下さい。

 他にもいろいろな方法があります。

 すべてに共通するのは,生徒と積極的に言葉をかわすこと,

 生徒に授業のおもしろさを予感させることの2つです。

 ただ席に座っていることだけが「すばらしい」という感覚でいるうちは,

 本来の教育のことなど何も語れません。

 動物の調教と人間の教育はどこが違うのか。

 そのあたりをよく考えてみましょう。

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教育者はなぜ「統率力」という言葉を使わないか

 私の3389件の記事の中で,「統率力」という言葉を用いたのは5回だけでした。

 そのうちの1件はゴレンジャーの話,1件は起業に関する話,あとの3件はおかしな指導に関する批評の記事で登場しています。

 なぜ教育に携わっている人間の間で「統率力」という言葉が使われないのでしょうか。

 最大の理由は言語に関する繊細な感覚に由来するものだと思われますが,もう一つはその語感から導かれるリーダー像が時代遅れのものだからでしょう。

 「リーダーに求められる資質」については多くの人が個人的見解をもっているでしょうが,

 リーダー自身が「私には統率力がある」とは決して言わないでしょうし,

 「私の統率力を示す事例がこれだ」なんていう話もしないでしょう。

 「統率されていた人たち」が言うのなら別として。

 そうです。

 お気づきかと思いますが,「統率する人」がいれば,「統率される人」がいるのです。

 この「統率される」という状態が,いかにも教育の世界の言葉にはなじまないのです。

 あえてリーダーの資質として「統率力」を挙げている人もいますが,その解説を読むと,「丁寧なコミュニケーションの結果として導かれるもの」とされています。

 リーダーとは,部下たちに奉仕する存在である,なんていう名言を残したのはだれだったでしょうか。

 「教師には統率力が必要だ」などというのは,戦時中ならともかく,今の時代にはそぐわない言い方です。

 これが部活動の主将レベルとか顧問レベルの話になっていくと,使えなくもないかなと思うのは大人の気まぐれでしょうか。

 ちなみに,合唱の練習中,指揮者の生徒に他の生徒が注目できなかった場面を見たことは,荒れた学校にいた期間を含む20年間で,一度もありません。

 教育は,人間の自己教育力を育てる営みです。

 いつまでも他人に「統率される存在」であってはなりません。

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古典的な「学習観」を変えない限り,日本の教育は変わらない

 私は別に,日本の教育制度を変えよう,という強い願いを持っているわけではないことをはじめにお断りしておきたい。

 今の制度のもとでの「目標の達成度を高める」ことが,教育現場で働く公務員としての責務である。
 
 変わらなければならないのは現場の教師であり,教員を養成している教員免許をもっていない人たちである。

 しかし,教師が変わろうとしても,その障害になるのは,意外なことに社会のニーズと固定観念である。

 将来に役立つ授業ではなく,受験に役立つ授業をしてほしい,という願いは,地方の公立高校では相当に強いらしい。だから,この先生の授業を受ければ,模擬試験の成績が良くなる,という先生の評判が上がる。

 教材研究も何もいらない。塾と同じように,広く,浅く,試験に出そうなことだけをやっていればよい。

 ということは,自分の受験勉強の時の知識が生きる。こうして,偏差値の高い大学の出身者が,いい先生の候補として迎えられる。

 しかし残念ながら,自分ができることと人に教えることは違うから,偏差値の高い大学を出ているのに,「教えることができない」教員が生まれてくる。最後には,「勉強は自分でするもの」などという逃げ口上が始まる。

 高校が抱えている様々な問題の根底には,「受験至上主義」があることは間違いない。

 受験などにしばられずに,ゆとりのなかで生きる力をつけるための学びができるようにとつくられたのが,「中高一貫校」である。しかし,それなりにレベルの高い高校が一貫校になったために,求められるのは「東大合格者」の数字になってしまった。本末転倒である。さらに悪いことに,中高一貫校に入るための塾の勉強や模擬試験が生まれ,受験競争が起こっている。悪影響である。要は,ただ「優秀な子どもがとりたい」「優秀な子どもに教育をしたい」と願う公立学校の教員の欲求が満たされているだけの話であった。

 もう一つの悪循環は,小学校から,中学校,高校,大学に進むにつれて,「難しいこと」をやるのだという古典的な「学習観」に由来する。

 「難しいことを教える人は偉い」という社会的な共通認識がある。

 私の目から見て,大学で使われるようなテキストには,「深さ」は感じるが「難しさ」は感じない。

 「問題が解ける,解けない」というテスト型の発想でしか「難しさ」を判断できない人間にはわからないことかもしれないが。

 最近,小学校で使われている社会科の教科書を読んでみたのだが,5年生では農業や工業などに関する知識を相当に習得できることがよくわかる。大人でも知らない知識が隠れていることもある。だからクイズ番組で出題されることもある。決して,「易しい」内容でもないし,「難しい社会の問題」を考えさせてくれる題材になっている。

 「難しいこと」と感じる内容は,人によって異なるし,人の能力によっても変わってくる。

 大学で学んでいることは,本当に「難しいこと」なのかどうか。

 「順をたどって考えて行けば,そうとしか言いようのないこと」を学ぶ機会が増えるのが大学であろうが,そのような内容に関しては,初めて考えた人は立派だが,後からそれを知った上で先に進む人には,それほど大きな負担があるわけではない。

 一番大事なのは,「さらにその先を自分の力で追究していこう」という意欲が起きるかどうかである。

 大学で講義を週に10個くらい受けて,その10個について自分で学んでいくことは時間的に不可能である。

 「受けて終わり」のタイプの学習を延々と続けても,何の抗議を受けないですんでいるのは,古典的な「学習観」が息づいているからである。

 「学習スタイル」は,小1から大学3年くらいまで,ほとんど変わらないか,人数が増えるという意味では最後には思い切り劣化して終わる。

 私が知っている大学では,能力の高い学生は大学を出て就職したり教員採用試験に合格して教師になったりしているが,全部だめだった行き場のない学生の多くが大学院に進んでいる。

 そして,大学院に進めばその学生の能力が高くなっているかといえば,私自身はそういう実感に出会ったことはない。

 専門的な内容を学ぶにつれ,どんどん視野が狭くなっていき,人間を相手にする仕事にはとうてい向かないのではないかと思われる人間が増えていく危惧の方を強くもっている。

 日本の教育に求められるのは,「自ら考え,自ら学ぶ力」の育成である。

 社会のニーズに合わせて,従来型の「学習観」では,効率的に思えるかもしれない一斉授業中心で授業を行っているのが今の教育スタイルであるが,

 それで未来が切り抜けられるのか,という危惧に対する対応を文部科学省は求められている。

 最も安易な対応は,「そうですね,じゃあ,変えます」という態度である。

 おかしな態度でもある。学習指導要領では,すでに「変えている」のである。

 しかし,なかなか現場は「変わらない」「変えられない」でいる。

 もう20年前に変わっていなければならない「学習観」自体が,未だに変えられないでいるからである。

 その根底には教師の指導力の問題もあるが,指導力はあっても,「古い学習観」の犠牲になって「自分を殺している」人がたくさんいる現状も打開しなければならない。

 穴埋め問題のようなくだらない入試の出題方法を禁止し,すべてを論文形式にするなどという「管理統制の強化」と,教育内容に関する大胆な「規制緩和」こそが文部科学省のすべき仕事である。

 
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教育の世界の真実

 他人になりすまして自分の匿名ブログに自分で自分をほめるコメントを入れることができるように,ブログのなかでいかに「本当のこと」を書いても,それは「本当らしいこと」にしかすぎない。なりすましコメントのように,「どう見ても嘘っぽい」ものがあるのはご愛嬌である。

 ときどき「教え子」の言葉を書いている人がいるが,それが「本心の言葉」であるかどうかはわからない。日本の教育では,教師に対する敬意を育てている。「お世辞」は日本の文化であり,「社交辞令」なのである。

 読んでいる人が「本当かどうか」を気にすることなく,その内容に引き込まれるような文章を書きたいが,そんな文章が書けるのなら,何も匿名ブログなどで気を紛らわせる必要はないだろう。

 教育の真実とは何か。

 それは,現場にしか存在しないと断言してよい。

 教師の指導力の問題は,現場に行けば手に取るようにわかる。

 林竹二にしろ,斎藤喜博にしろ,実践記録を読んで,その授業の素晴らしさに感動するのは自由だが,きっと現場にいれば,もっとたくさんの感動すること,気になること,疑問になること,なるほどと思うことなどに満たされることになるはずである。

 それが授業というものであり,教育というものである。

 その先生が,本当に心から意味があると思っていることを,

 熱意を込めて,

 上手に,わかりやすく子どもに語りかけることができれば,

 親も子どももすぐに先生が好きになる。

 子どもが自分から人に話したくてしかたがなくなるような経験をさせたり,

 発見をさせたり,知識を習得させたりすれば,子どもの学力はみるみる

 向上していく。

 これぞ理想の教師,とよべる先生に出会ったことがある人なら,わかるはずである。

 指導力の前に,教師になるために必要なものは,

 「子どものために本当に意味があるものとは何か」を探り続けようとする姿勢である。

 たった10年前に改訂したばかりの学習指導要領を,趣旨ごとひっくり返そうとする態度は,教育に対する冒涜であるとは言えないか。

 野党が主張するようなことを,安定感を増した与党が口にするというのは,

 千年単位で日本の歴史をながめたとき,本当の「終わりの始まり」のように思えてならない。

 教育現場の何がどうだめなのか,はっきりとした主張がほしい。

 もし変えるのなら,教員養成や教員採用のあり方自体について徹底的な検討をしてほしい。

 大学入試の質なり,教員採用試験の質を,先に変えるべきだろう。

 教育現場に向かう人間の質を高めない限り,学習指導要領をどういじったところで,何も変わらないと思う。

 ある外資系企業の面接試験は,8時間以上に及ぶと耳にした。

 よい人材が選ばれるわけである。

 教育の世界の真実を知りたければ,現場に行けばよい。

 全国学力調査については,「事前指導」と称して,過去の問題のコピーで練習させる行為が広がっている。

 それが真実である。日本人は,初めて出くわすような問題には弱いが,繰り返しやらされる問題には強い。

 その「法則」をよく知った人間は,学力調査の結果を向上させるために,「練習」させるのである。

 子どもを学校に通わせている親ならわかる何でもない情報で,一般の人が知らないことはいくらでもある。

 文部科学省が配布している道徳の本を,児童生徒に渡していない学級が全国にどのくらいあるか。

 調査は無意味である。調査と同時に学校は配布してしまう。このような調査は,学校を通すべきではない。

 保護者に直接,聞くべきである。なぜそれをしないかといえば,

 「真実を知りたくないから」である。

 教育の世界の真実は,こうして永遠に隠され続けるのだろうか。


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どんな事務仕事でも「雑務」と呼ばない人を教員に

 教員がある仕事を「雑務」と呼んだとする。

 それを子どもが耳にしたとする。

 その子どもの親は,そういう仕事を主要な責務として働いているとする。

 子どもは,教員の言葉をどのように受け止めるだろうか。

 「お前の親の仕事は雑務だけだ」という意味になる。


 どんなささいな書類づくりでも,公務員の仕事に「雑務」などない。

 ところが,教員は,たいせつな成績処理ですら,「雑務」だという。

 「オレの仕事は音楽のよさを子どもに伝えることだ」などと主張する。

 そういう勘違い人間を公務員にする必要など,どこにもない。

 今の日本では,子どもはいつでも自分の好きな音楽を聴くことができる。

 私も経験したが,教員の自己満足いっぱいの授業に出会うと,子どもは「嫌い」になるのである。

 部活動のように自らすすんで活動する場所を選んで参加している子どもに対する話と,授業の話が区別できないような人間がいるのは確かなことである。

 教員の「楽をしたい」病は,成績処理の話題になると,さらに熱が上がる。

 成績処理は,たしかにコンピュータを使うと便利である。

 今時,平均点を電卓で計算している教師はいないだろう(いや,いても全然かまわないのだが)。

 しかし,何でもかんでもコンピュータやソフトにたよるのは考えものである。

 たとえば指導要録などは,手書きでつくるべきである。

 それが,今や調査書さえ,パソコンで作成できる時代となった。

 コンピュータが使えると聞くと,それにたよろうとする人間が教師のなかでも増えていくが,

 これまでは起こらなかったタイプのミスが同時に増え始めている。

 入力ミスを筆頭に,成績の入ったUSBメモリを盗まれるとか,どこかでなくすとか。

 私も,仕事のやり方について,何度か主張したことがあるが,どちらかというと

 「楽をする」方向に先生方の意見は流れがちになる。

 どんな方法であれ,私の場合は「(時期を)早く,(行動を)速く,処理したい」のが第一理由で,

 一手間かかるが確実に終わる選択肢をとりたい。

 しかし,それが「大変そうな仕事」に思えると,突然反対する教師が出てくる。

 それをやるのは私なのに。

 この思考回路は,まだ私には解明できていない。

 それが同僚の私に対する「やさしさ」なのか。

 そんな配慮は結構である。こっちはすぐに終わるのだがら。

 今,すぐ,そこで,終えられる仕事が,終えられなくなるような,

 「まどろっこしさ」が今の学校には怨霊のように息づいている。

 「仕事は平等であるべきだ」という信仰がもとにあるのか。

 心からのお願いがある。できる人にやらせてほしい。

 能力は神様は平等に与えてくれていない。

 仕事に対するやる気も平等に授けられていない。

 だから能力とやる気がある人が,実力を発揮できるような職場であってほしい。

 教員は,仕事に対する姿勢を最も長く生徒に見せている存在である。

 仕事上で楽をしようとしか考えない教師に学んだ子どもが,今,親になってどうなっているのか。


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下村博文文部科学大臣は学習指導要領解説を読んだことがありますか?

 大学入試の抜本的な改革は,大いに進めるべきである。

 それは,決して不可能ではないはずである。

 東京大学や一橋大学などの入試問題を参考にすればよい。

 良問に限り,入試問題として認めるという措置を講じれば,高校の授業は変わっていく。

 問題に感じるのは,「高校以下の学習指導要領の抜本的な改革,改訂」という趣旨の発言をしていることである。

 大臣は,学習指導要領の解説をお読みになったことはあるだろうか。

 お読みになって,その内容を理解することは可能だろうか。

 今,教育現場で何が問題になっているかというと,

 学習指導要領に示された目標なり内容なりが,よく理解できていないで教育現場に立っている教師がいる(これまでもたくさんいた)ことである。

 教育現場に立つ前に,だれがその目標や内容の理解を促すことができるのか。

 大学の教員である。

 しかし,残念ながら,教員免許を持っていない大学の教員に,学習指導要領が示す目標や内容が理解できていない人間がいる。

 私が免許更新講習を受けた大学教員は,誤った説明をしていたから,学生にも指導できていない大学教員が多いことは間違いないだろう。

 やるべきことができていない現状で,「抜本的な改革をする」というのは,

 「もはや教員をめざす大学生に,学習指導要領の趣旨を理解するのは不可能で,大学の教員にもそれを教える資格がないから」という理由からだろうか。

 もちろんそうではないだろう。それでは「何をどう改革してもだめなものはだめ」なだけである。

 学習指導要領が求めているものは何か。

 なぜそれが,だめなのか。

 その説明責任を果たせないで,「変える」と発言する人は大臣として適格だろうか。

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「学ぶ=講義を聴く」の発想からの離陸

 講義を聴く,というスタイルの学習は,予備校でもはやっている。

 優れた講師の講義を録画して,それを見ながら勉強させるビジネスが,生の講義で受講させるより「利益率」が高いことは言うまでもない。あとは,「学力向上効果」の問題である。

 「学び方を学ぶ」教育を受けてない人は,

 放送大学の放送を見ることで「自ら学んだ」気分になっているようだが,

 20年前にできた「新しい学力観」から見れば,「時代遅れ」も甚だしい。

 身にはならない難しい話を「学問」だと思っている人がいるうちは,大学の淘汰も進まないだろう。

 「不特定多数に向けての講義を受けること」が「学習」で,これがとてもためになる,という発想が人々の間にあるうちは,公立小中学校の教育も変わっていかない。

 大学は今頃になって「インタラクティブ・ティーチング」などという名称で授業を工夫するようになったが,真面目な公立学校の現場は変わったのは今から20年も前の話である。

 もちろん,自治体によってはそのような動きが極端に遅いところもある。

 大阪では目標に準拠した評価=絶対評価が成立しなかったというのも,最近の話である。

 信頼性のない絶対評価より,相対評価の方が入試の材料としては最適である,あるいは,もう入試は試験だけで決めるのが公平である,というのは非常に多くの人が本音として抱いている。

 人は,どのような学び方をしたかで,その後の「学びの姿勢」が決まってしまうのだろうか。

 知識の習得の方法として最適なのは読書である。話し言葉や原稿の棒読みを聴くよりも,はるかに時間的な効率も良いし,「別の内容を調べにいく」という学びの可変性,可塑性にも優れている。

 しかし,本当の学力は,読書では身につかない。

 教え子たちが試しに受けてみた模擬テスト(業者テスト)について,こんな感想をもらしていた。

 「これでは学力はつかないし,学力は測れない」

 採点が容易なテスト・・・暗記だけで解けてしまうようなテストを「まとめの意味のテスト」として実施することを禁止する法令をつくれば,学力は向上するかもしれない。


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挙手しないことの評価をどうするか

 利他的な行動を大切にする教師が,忘れてはならない視点がある。

 それは,子どもによる「利他的な選択」である。

 「わかっているのに,挙手(発言)しない」子どもがいる。

 子どもにとって,

 「自分が完璧な(あるいは,それなりの)答えを今出してしまうよりは,そうではない答えで多くの子どもがあれこれ回り道をした方が,結果として深い理解に結びつく」

 などという発想はないかもしれないが,

 直感的にそのような判断が正しいことを認識している子どもはいるはずである。

 教師と子どもたちとの対話の最終段階になり,先に進まなくなったところで,おもむろに手を挙げる。

 あるいは,教師にまとめをさせるために,最後まで自分の考えは表に出さない。

 後者のような,まるで「風姿花伝」のような生き方は,

 グローバルな世界によじのぼっていくことが正しいと思える人から見れば,「愚かなもの」に見えるかもしれない。

 しかし,そうやって「他人を生かす」「他人を伸ばす」ことは,子どもの立場でも可能なのである。

 難しいのは,こういう子どもに対する評価である。

 良い面だけを評価すればよいのなら,「利他的な行為」として記録に残る。

 悪い面・・・観点によって,いくらでも「良い」「悪い」は変化するのだが・・・積極的「ではない」こと,自分の考えを表に「出さない」ことを記録しなければならないのなら,その子どもには低い評価が与えらえることになる。

 「正しさ」は,見方によって変化する。

 教育という営みは,「どんな評価をするか」によって,子どもを「優秀な人」にも「劣った人」にもできてしまうおそろしいものである。

 「良い面を積極的に評価すること」の意義を教師としてはしっかりと自覚しておきたい。


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表面的には科学的に思えないことに隠された「真理」

 アイヌの人々は,狩りを行う前,占いをして実施するかどうかを決めていたという。

 同じように,戦国時代の武将も,戦の前には占いを立てることが多かったらしい。

 (だから「戦の決定を占いによって行わない」という決定ができたのだろう。)

 表面的に考えると,占いで何かを決めることは「非科学的」であり,効率的でもなく,

 決定の方法としては「愚かなやり方」に見えるだろう。

 しかし,狩りにしろ戦にしろ,「自分たちが生きること」「自分たちが生き続けられること」を最終的な目標にしている。

 そう考えると,占いによって「今日は狩りをしない」「今日は(今年は)戦をしない」ことが決定される仕組みというのは,最終的な目標を達成する方法として,「愚かなもの」としては言い切れない面も見えてくる。

 もし,「いつでも狩りをしてよい」「気が向いたときに,狩りは行えばよい」ということになると,それは結果として乱獲を防げなくなる可能性がある。

 アメリカの捕鯨の話を例に出すまでもないだろう。

 もし戦が大好きな・・・大量殺戮が可能になった近代の戦争と比べると,指揮官の「知恵」で勝敗の行方を楽しむという娯楽性のために・・・主君がいて,その主君の気分次第であたりかまわず戦を始められると,兵たちはもたないし,むしろ滅亡を早めるという結果に陥る可能性が高まるのではないか。

 「占い」は「決める手段」というよりは,「頻度を減らす手段」として機能していると考えれば,目標を達成するためのよりよい方法になっているかもしれない。

 人類の科学の進歩は,生活を便利にした面はあるが,自分たち自身を滅ぼす方法も生み出してしまった。

 兵器で言えば,何十万人もの命を一瞬で奪うようなものまでできた。

 「科学的思考」というものは「自分たちが生きること」という目標の前には,決して万能ではないことを自覚すべきである。

 「迷信」「風習」と呼ばれるもののなかに,「隠された真理」が埋もれていないか,再検討することで,「今までできていたことを当然のようにこれからも続けられる社会」をつくっていけるかもしれない。

 グローバル化という世の中の変化に盲目的に「対応」することだけでなく,積極的に「対抗」する面も必要であることを心しておきたい。


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受験に成功させる秘訣

 今の時期に,子どもが受験で力を出し切り,結果が出た後も,気持ちを切らずに,目の前の当たり前のことを当たり前にできるようにするために,親や教師が心がけなければならないこと。

 それはイライラしないことに尽きます。

 表面上には見えなくても,子どもにふりかかっている受験のストレスは決して小さいものではありません。

 夫婦仲が悪くなければ,子どもにとって人生のなかで最初に訪れる大きなストレスだと考えてよいでしょう。

 子どもがイライラしている場合は心配いりません。

 それが自然なのですから。

 しかし,親がイライラすると,子どもが自分の心を表に出す機会が奪われます。よい子ほど。

 そういう環境で中学校に進学してきて,あとがたいへんになる子どもを何人も見てきました。

 親らしい親になれるかどうかは,

 子どもと同じように,イライラしている自分を「子ども」だと認識し,

 「大人らしくふるまうこと」に徹することができるかどうかで決まります。

 子どもレベルの親の子どもは,

 大きくなって余計な手間をたくさんとられる存在になる。

 「合格さえ手に入れればそんなことは・・・」なんていうことをちらっと思う人もいるでしょうが,

 脅しではなく,そういう浅はかさが子どもの一生分のキズになって残ることも考えられます。

 とにかく,イライラするのはやめましょう。

 受験に成功させる秘訣はありません。

 しかし,受験によって生じるストレスを拡大しないための秘訣はあります。

 親がイライラしないことです。


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成績のあがる勉強法

 勤務校の図書館には,私が生まれる前に出版された本がまだたくさん置かれている。

 昭和35年に出版された『成績のあがる勉強法』(牧書店)の初版本が手元にある。

 本の背に金色で印字されたタイトルが『成のあがる勉強法』となっているから,ある意味で「貴重本」と言えるかもしれない。

 しかし,本を開いたとたん,とにかく驚きを禁じ得なかった。これはまさしく貴重な本である。

 amazonで検索しても,見つけることはできない。

 著書は学習心理学等の研究者で,1960年代から70年代を中心に多くの本を著わしている小口忠彦さんという方である。

 大学の教職課程で教育心理学を学んだ人や,放送大学で学習心理学を学んだ人はご存じかもしれない。

 各章のタイトルは次の通りである。

1 能率のあがる勉強のしかた

2 グループを利用する勉強のしかた

3 きらいな科目の勉強のしかた

4 自信をつけよう

5 よい習慣をつけよう

6 応用する力をつけよう

7 明かるい(ママ)気持で勉強しよう

 50年以上前の本だが,どの章のどんな内容をとっても,今でも文句なく通用する。

 ここで紹介するのは一つだけにするが,これから継続的に取り上げていきたい。

 内容のうち,経験したことがない人は,そんなことに意味があるのか?と思われるかもしれないものもあるが,私自身がそうだったし,子どもたちにも話してきたものがある。

 「図や絵をつかっておぼえる・・・図式的記憶」

 現在では,大手企業のやり手たちがプレゼンに使っているような図式を,中学生でも書ける時代になっている。

 しかし,著書で紹介されているのは,次のようなものである。

>たとえば,Springという単語がなかなかおぼえられないばあいに,「あの本の左のページのまん中あたりにある単語だ。」といったぐあいにおぼえるとしたら,図式的に記憶することになるわけです。

 もし,初耳だった人は,試験のときに,「あの内容は,先生が黒板のこの辺の位置に書いたことだったかな」と思い出した経験がないか,ふりかえってみてほしい。

 「ヒノマルとダルマ」による記憶とは何だろう。

>このやりかたも,なかなか便利です。たとえば,どうしても忘れてはこまる重要なことがらや,忘れそうであぶなくてしかたがないようなことがらがあるばあい,そういうところへ,ヒノマルなりダルマなり,そこがほかのところから,くっきりと浮きでるようなしるしをつけておくのです。そうしたら,「あっ,ヒノマルだ。」「そら,ダルマだ。」といったぐあいに,アタマにとどまりやすくなるから,記憶するのに,大へんつごうがいいのです。

 中学生が読みやすいように,やさしい言葉で書かれていることも気づかれたかもしれないが,何よりも心理学で学んだ知識をもとにすれば,説明がつくような「記憶法」であることはたしかだろう。

 受験前に中学生に話したい内容もたくさんある。

 類書はいくらでもあるし,塾が出している雑誌にも特集されているが,内容はおそらく50年前のこの本とあまり変わっていないだろう。

 過去に当たり前だったことが,今,「真新しく感じる」ことは,エンターテイメントの世界では歓迎すべきことかもしれないが,学問や教育の分野ではいかがなものだろう。

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インタラクティブではない学びの場面しか想定できない人に「教師の指導力」は語れない

 教師は,子どもとの対話,教材との対話,自己との対話を充実させていくなかで,教師としての指導力を伸ばしていくものである。

 指導力に磨きをかけるためには,自分より指導力が優れていると実感できる教師との対話が必要である。

 若いときにそういう教師にたくさん出会えた私は本当に幸せな人間である。

 それ以上に幸せな機会だったのは,多くの優れた子どもに出会えたことである。 

 教師向きではない自分本位の人間が教育論を展開すると,どのようなパターンに陥っていくか,とてもわかりやすい例がある。

 その多くは,「私が,何をする」式の話法で表現される。

 「だれかといっしょに,何をする」式の表現も,小学生の日記と同じレベルである。

 どこを探してみても,「教師としての私」と「子ども」をつなぐ「教材」の価値が語られていない。

 何よりも,「子ども」の価値が語られていない。

 「子ども」とは「教師」よりもレベルの低い存在として語られるのが常である。

 「できない子ども」に,「できる教師」が「教えてあげる」式の話法は,醜悪以外の何物でもない。

 「何かをしてあげなければならない」という気持ちは,不必要ではないが,

 そういう動機だけでかかわりをもたれる子どもたちはとても不幸である。

 小学校低学年ですら,「自立」を目指そうとした行動を起こすことがある。

 「成長」の後押しをする教師像をイメージさせてくれるのが,

 インタラクティブ・ティーチングという,大昔からあったようでなかなか実現されてこなかった指導のあり方である。

 おそらく次の学習指導要領では前面に登場してくるのだろう。

 その最大の落とし穴は,

 「受けたことがない授業のスタイルで授業しなければならないこと」にある。

 数人程度なら大学のゼミなどで経験したかもしれないが,それを40人の子どもを相手にするのが学校教育の現場である。

 年齢が高い教師ほど,・・・あるいは,総合的な学習の時間の指導計画が上手くつくれないという実感があれば,若い教師であっても・・・「指導しにくい」と感じることだろう。

 なにしろ,多くの人は,そういう指導を受けたことがないのだから。

 人間性がどうとかいう問題は人間不信の激しい人の関心事としておいておき,指導力の高い教師と聞いて,「話が上手い」程度のことしか思い浮かばないようでは,道のりははるか遠い。

 道路すら見えていない場所にいることになる。

 一人ままごとを続けていても,何も始まらない。

 まず,「語れる子ども」に語らせるところから授業は変えていける。

 「語れる子ども」が「語らない」授業の問題を改善しなければならない。

 「語るべきこと」が「語れない」問題をどう解決していったらよいのかを考えなければならない。

 何がインタラクティブな学びを妨害しているのか。

 自分本位の教師である。

 休み時間に,教師は教室から離れてみるとよい。

 そして,だれでもよいから聞いてみるとよい。

 自分がいない教室で,伸び伸びしている子どもはいないか。

 そのように自分がいないときと同じような積極性を,

 「自分がいても」子どもから引き出すような力が「教師の指導力」の一つである。

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子どもを置き去りにした授業研究はやめよう

 小学校教師向けの「ノウハウ本」を読むと,これはあくまでも

 「教師のための本」であって,「子どもの教育のための本」ではないなという実感を強くもつものが多かった。

 板書をどのように構成し,いつどこでどの発問をするかを指南しているような本は,実際にどのくらい役に立っているのだろうか。

 こういう本の弊害を私は何度も目にしてきた。

 「指導案」どおりに無理に進めるという,「教師本位」の授業である。

 「指導案」はあくまでも「指導案」である。

 子どもの学習の進度によって,いくらでも授業は変えなければならない。

 しかし,「説明しきること」「終わらせること」を優先して,子どもが置き去りになっていく授業は少なくない。

 ごくごく薄い教科書で学ぶ小学校ですら,こういう事態が起こっている。

 さらに残念なことに,研究協議でも,どうでもいいことが議論されることがある。

 授業は,ぜひとも子どものためのものであってほしい。

 子どもがどう学んだかをもっと協議のテーマにしてほしい。

 授業で子どもが置き去りになり,研究協議でも子どもが忘れ去られてしまっていることはないか。

 教師の指導力を映す鏡はどこにあるか,考えてほしい。

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放送大学と東進ハイスクールの授業を比較してみよう

 放送大学の講師に,「指導力」を要求する人はいないだろう。

 ラーニング・ピラミッドという,教師なら一度は見たことがあるはずの

 「学習効果」別の学び方を示すものがある。

 1 講義を聞く(Lecture):5%

 2 読む(Reading):10%

 3 音声化・視覚化(Audio-Visual):20%

 4 実演する(Demonstration):30%

 5 討論する(Discussion Group):50%

 6 体験する(Practice by doing):75%

 7 他者に教える(Teaching others):90%
 
 教育の世界では「常識」となっているものである。ここで,定着率を示す数字に科学的な根拠があるかないかを議論しても意味はない。教師ならば経験でこれらの序列の意味を感じ取ることができるだろう。

 指導力の高い教師は,学習内容に応じて様々な学び方を用意し,目標の達成率を向上させようと努力している。

 教育現場をご存じない方でも,「学び合い」によって効果が出ている児童生徒がいる理由は,これを見ればなるほどと思われるだろう。 
 
 いくら教師の話し方が上手でも,「伝えてもらう」だけでは,ある程度の時間が経つと忘れてしまうのが人間なのである。

 だから,話し方が上手とか下手だけで指導力が高いか低いかを問題にするのはごくごく低レベルの話である。

 放送大学の授業と,YouTubeで視聴できる東進ハイスクールの授業を比較してみたりするだけで,「かなり違うな」という実感は得られるだろうが,「内容の理解」というだけの話だと,大差はない。

 もし教師の方で,「俺は教え方が上手いつもりだが,生徒の成績がなかなか伸びない」と悩んでいらっしゃるとしたら,

 5%の部分に全力をつぎ込むことのむなしさを自覚するところからスタートしてみたらどうだろうか。

 生徒に何をいつどれだけ読ませているか。

 映像や音声で伝える工夫をどの場面で行っているか。

 生徒が実際に演じたり発表したりする場面をどれくらい用意しているか。

 どのようなテーマで,生徒に討論させているか。そのための準備にどれくらいかけているか。

 実体験ができるチャンスはどこにあるか。そのことと教室での学習のつながりを上手につくるカリキュラムをつくっているか。

 生徒が他の生徒に教える場面をいつどのような内容をもとに用意しているか。

 「授業の工夫とは何か」と聞かれたとき,

 「教師自身の技」ばかりに目が行ってしまうと,子どもの学力向上は置き去りになってしまう可能性がある。

 教師の指導力とは,子どもにどのような学習をさせているかで判断できる面もあることを忘れてはならない。


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日本人のノーベル賞受賞が続いていることから感じること

 優秀な日本人が増えている,という漠然としたイメージではなく,

 私は教師であるために,「どういう教育を受けた人々がノーベル賞をとっているのか」と考えてしまう。

 気になるのは,それなりの年齢の人が多いことである。

 指導要領の改訂はおよそ10年ごとに行われているが,それぞれの指導要領による指導の成果は,すぐに判断できるものではないだろう。

 ある時期から,もし日本人のノーベル賞受賞者が減ってきたら,それが「教育政策の失敗」と結びつけられる時代となるかもしれない。

 私は,「内容」より「学習方法」を重視する教育は,決して悪いとは思っていないが,「内容」を「精選」という名で削りに削っているここしばらくの流れは,「学力低下」という呼び方ではすまないような「脳力低下」を招いているかもしれないという危惧を抱いている。

 「内容」と「方法」に関しては,その組み合わせの妙によって最大の教育効果を生むように設計するのが教師の役割である。

 もし教育政策に「大失敗」があるとしたら,それによって生じた問題を解決(回復)するのにいったいどれだけの時間がかかるのだろうか。

 杞憂であってほしい。

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【ノーベル平和賞】 マララさんの訴えにどう耳を傾けるか

 国が教育にかけるお金が少ないと憤る人たちに対して,

 マララさんの声はどのように響いていくのでしょうか。

 これだけ豊かな国にあって,「教育への公的資金の投下が不十分である」

 という怒りは,どのような「正当性」を保てるのでしょうか。

 国の予算の不足分・・・50兆円の無駄はどこにあるのでしょう。

 どうすれば50兆円の歳出を減らすことができるのでしょう。

 税収を増やそうとすれば,大反対が起きる。

 景気が悪くなるといって,方針はすぐに転換する。

 世界と日本を対比させると,「常識」と「非常識」の境目が

 全くわからなくなります。

 今,できることは何でしょう。

 今,何が問題なのでしょう。

 今の教育に,何が不足しているのでしょう。

 本やペンが必要だ,という訴えを,私たち自身にとっての意味に

 置き換えるとどうなのでしょう。

 ICT機器は,なくてはならないものでしょうか。

 小学校英語は,なくてはならないものでしょうか。

 今,学習指導要領に示されている目標は,どれだけ達成されているのでしょうか。

 何がどのように課題だから,変える必要があるのでしょうか。

 私にとっての最近のタイムリーな大発見は,

 大学教育が日本中のありとあらゆる「教育」の中で,

 最も遅れているものだということでした。

 環境もそうだし,人数もそうだし,教師の質もそう。

 「教え方を教える」教科書があるということ。

 大学教員に,よい教師を養成しろというのは無理というものです。

 現場の「積み重ね」を一切知らぬ大学教員たちが,

 現場に呼ばれないわけがよくわかりました。

 最も切実に自己の存在価値を問うべき存在からの

 メッセージが伝わるすべもありません。

 「保護者会」も開かれないのが大学ですからね。


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「空間的」視野と「時間的」視野を広げる社会科の使命

 「広い視野に立って」・・・中学校社会科の目標の冒頭にあるフレーズである。

 多面的・多角的な見方や考え方を身につけるのはそう簡単ではない。

 しかし,国際的な視野という空間的な広がりのもとで考えることは決して難しいことではない。

 単純な情報はいくらでも入ってくるからである。

 しかし,外国で起こっている出来事を,自分の都合のいいように一面的に見ているだけでは,「国際的な視野」を広げることが逆効果になる恐れがある。

 ヨーロッパ諸国が地球の5分の4を植民地にしていた100年前,ヨーロッパ人にとっての「国際的な視野」とは何だったのかを考えてみればよい。

 日本にも規模は大きくはないが,そういう意味での「国際的な視野」を持つ時代があった。

 ところが,「時代遅れ」の「国際的視野」はその稚拙さが際立つばかりか,「強さだけの正義」の生け贄となった。

 もし「経験値の低さ」がデメリットになるのだとしたら,その弱点は何で補えばよかったのか。

 それは「時間的な視野」である。

 世の中の変化のスピードは,加速度を増している。そのために見失いがちになっているのが,ごくわずかな期間の「積み重ね」である。

 せっかくの「積み重ね」がリセットされてしまうようなことが,数十年のスパンでよく起こる。

 世代間で「積み重ね」が受け継がれにくくなる長さであるとも言える。

 地理は,様々な規模の地域の特色をどう捉えたらよいかを学ぶ。

 歴史では,様々なスパンの歴史の特色を学ばせるようになっている。

 これからは,多様な時間感覚の「積み重ね」意識を高めることを重視したい。

 1時間という短い時間でも「積み重ね」はできる。

 しかし,たった5分の「遊び」で,30年の「積み重ね」を無にしてしまうこともできる。

 時間には,空間にはない「重さ」がある。

 空間には,時間にはない「置き場所」がある。

 「軽い」人間や「根無し草」ならないようにするために,

 社会科教育はなすべきことをなさなければならない。

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本心と謙遜の距離感

 教師が「うちの生徒はできが悪くて」というとき,多くは「本心」から語られている。

 親が「うちの子どもはできが悪くて」というとき,決して「本心」ではないことが多いことを,若い教師は知っておいてほしい。

 「本当にそうですよね」と相づちを打ちかねない教師がいる。

 私はこれまでにどれだけ「うちの生徒たちはできが悪い」という愚痴を耳にしてきただろう。

 そのうち,謙遜の気持ちを含んでいる場合は「続きの話」ができるが,

 本心からだと,どうにもならない。

 大学院の先生から耳にすることも多いが,この国の大学入試や大学院入試に何かの基準を設けるのは無理なのだろうか。

 教員免許も「国家資格」にする時代が来るかもしれない。

 もし国家試験をつくるとしたら,日常的な会話の中に穴埋めがあるような問題をつくってほしい。

 「世間知らず」を思われない程度の受け答えができるかどうかが,これでわかる。

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驚きのデータ・・・97分,38億円

 ある国に関する驚きのデータを2つ。

 週刊東洋経済の最新号に紹介されている。

 ある国の首都における平均通勤時間は国内でも最長の97分。

 不動産価格の高騰により,家賃が高額化して,若い世代は通勤に不便な郊外にしか住めないそうだ。

 日本もかつてたどった道だった。

 しかし同時に,汚職によって?38億円の蓄財をしていた幹部がいたとのこと。

 地方の役人でも19億円。

 さすがに日本ではこうはいかない。

 この国が,官僚の腐敗によって傾こうとしていることに,首脳は頭を痛めているという。

 民主化の波が襲い始めるのはいつだろうか。

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汚職と権力闘争が民主化運動の「火付け役」になるか?

 某国では「反腐敗」をテーマに掲げた権力基盤強化の動きが進んでいるようだが,

 その国のメディアが汚職に関するニュースを「体内の病原体は除去しなければならない」という趣旨のたとえを使って報道していることを知った。

 このたとえは,日本が明治期に近代国家を形成しようとするとき,国家を人体にたとえて,国民一人一人が細胞のような働きをするという「国家有機体説」に則ったような説明に似ている。

 明治期には衛生概念を教えることにも使われ,日本人の「公共」の観念は,衛生概念の習得とともに養われていったという考え方もあるらしい。

 国家を人体にたとえるタイプの「国家有機体説」は,ヨーロッパでは前近代的なものだが,明治時代の人々にはしっくりくるものだったらしい。

 日本語には,「一体化」「身につける」「体で覚える」といった表現があり,心(精神)と体を分離させたヨーロッパ風の人間観から見れば,やや時代錯誤的な捉え方が今でも息づいている。
 
 (なお,私自身は心と体を「一体」として捉える日本的な捉え方も,真理を反映しているという見解である)

 こうしたヨーロッパでの前近代的な「国家有機体説」で現在の某国を表現すれば,頭部は党の最高指導部ということになろう。

 そして,「癌は取り除かなければ人体を滅ぼす」という観念がそっくりそのまま国家に適用されることになる。

 犯罪者が法に基づいて処分を受けることは当然だが,こういうたとえは,「異物の処理」という形で人権が侵害される側面もあるから,注意しなければならない。

 日本が台湾や朝鮮を植民地にしたときの「国民化政策」にも,日本風の国家有機体説的理解が影響していたと考えることができる。

 さて,某国の今後の動きであるが,明治期の日本の国家有機体説が,「自由民権運動」や「大正デモクラシー」などのかたちで国民の権利意識を高める素地をもっていたとしたら,某国の国民の国家像にも影響を与え,民主化を求める動きの「きっかけ」になる可能性を持つと考えることもできよう。

 汚職をめぐる報道上の表現の一つが,国家を大きく揺るがすことになる,

 というのはあり得ないことではないと私は思う。

 内部の権力闘争以上に恐るべきことが何か,某国政府は十分にわかっているだろうが・・・。

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「学び合い」が信頼していない人間

 「学び合い」では,子どもの有能性への信頼感を高く持つことが必要なのだそうだが,

 逆に言えば教師の有能性への信頼感は低いということになる。

 どの教師にも,子どもの能力を最大限に発揮できる力を持っているはずである,

 という考え方はできないようである。

 「学び合い」を教育の柱にすることができない最大の理由がここにあると私は考える。

 今後,教師の絶対的な指導力の低下が,いずれは「学び合い」流行の追い風になることはあり得ると考えているが,それでは「公立離れ」を助長するという結果以上の打撃が学校を襲うことになると予想する。

 
 学校には,生活指導の場面でいくらでも子どもの「学び合い」の場は設定できる。

 しかし,学習指導の場面では,教師が果たすべき役割は山ほどある。

 その知識も技能も身についてない人間が,単なる信仰をもとに現場で「実践しています」などという話がまかり通るような事態だけは阻止すべきだろう。


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「よい授業」を受けたことがない人の不幸

 授業評価の基本は,子どもがその時間の目標をどれだけ達成できたかである。

 教師の話が上手であったかどうかではない。

 話の内容や話し方,その教師の魅力で「よい授業」が定義されてしまうのであれば,

 それは「授業をする前から決まってしまっている」ことになる。

 授業を教師の視点からしか見ることができない人間には,

 逆立ちしても「学び合い」の意味はわからないだろう。

 「学び合い」のどこが問題なのかも指摘できないだろう。

 「よい授業」を分析するときの視野狭窄がどこから生まれるかと言えば,

 「授業参観」「研究授業」を行うとき,どこに参観者が立つかを考えればよくわかる。

 私は教育実習生の授業を参観するときは,必ず教室の前方の隅にいる。

 子どもの表情を見るためである。

 授業を教室の後ろから見ると,教師の表情は見えるが,

 子どもの表情は見えない。それでは,子どもの動きや理解度がわからない。

 こういう単純なことがわからない人が,教育研究の場にはまだたくさんいる。

 「よい授業」をどこから見たいか。

 教室の後ろから見たいと思うような人は,「子ども」レベルである。

 そういうのを「お客さん」という。

 教師の中には,参観者が教室に入るとき,

 「お客さんが来た」という言い方をする人がいる。

 参観者をバカにした言い方である。「子ども」と同じ場所にいろ,ということだから。

 教師として,「よい授業」を見たいと思えば,それは「教師の目」で見える

 教室の前から見るべきである。

 「よい授業」・・・子どもの能力を最大限に引き出したと言える授業をしたことがある教師は,子どもたちの目を見てものを言う準備をする・・・はずである。

 そもそも「よい授業」をした経験はおろか,受けた経験もない人には起こりえない発想かもしれない。


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指導力不足教員は全教員でサポートを

 「指導力不足」の自覚がある指導力不足教員と,そうではない

 指導力不足教員がいる。

 前者は孤立させないように,管理職をはじめとした多くの

 教員のサポートによって最悪の結果を招かないように

 注意しなければならない。
 
 「最悪の結果」はそれぞれのご想像にお任せしたい。

 問題は,後者のケースである。

 自覚のない指導力不足教員に,「あなたの指導力には課題がある」

 と言っても無駄である。

 行政の立場ではそれを言わなければならないが,

 難しいのは管理職や同僚の場合である。

 私の場合は「何がどのように課題であるか」を具体的に示す

 コンピテンシーモデルを持っているが,一般的な管理職は

 具体的な評価規準を示すことはない。

 だから,具体的な対処方法は,とにかく「最低レベル」から

 少しでも引き上げるように努力することである。

 「研究授業をしてもらって,9褒めて1の課題を指摘する」

 ような取組みを,年間計画のなかで「張り巡らせなければ」

 ならない。

 ところが残念ながら,事態が悪化してしまう場合も

 少なくない。

 少しでも「俺は指導力不足教員の目で見られている」という

 実感をわかせてはならない。

 指導力不足教員の多くは,コミュニケーション能力に課題があり,

 人を信じることを忘れてしまっている人もいる。

 会話には細心の注意を必要とする。

 少しでも「攻撃された」という実感をもたせると,

 「過剰な防衛」に出る場合がある。その「防衛」の方法の多くは

 「攻撃」であるから,被害は教師や子どもに及ぶ。

 他人の誹謗中傷には何の抵抗もないから,過去のことも

 含めて,次から次へと「攻撃」を繰り返すのが

 無自覚型の指導力不足教員の始末に負えない特徴である。

 まわりの教師に余裕がなければ,当然のように「孤立」する。

 その「孤立」が,根をさらに深くはってしまう原因になり,

 やがて「手遅れ」となる。

 「自分は精神疾患を抱えているのではないか」という自覚は

 あり,やたらと詳しく知識を蓄えて,「俺はそうではない」

 と自分に言い聞かせるようになると,素人が対処できる範囲を

 超えてくる。

 問題行動を繰り返す子どもと,無自覚型指導力不足教員への

 対応の「大変さ」は,比較にならないほど後者が勝る。

 だから異動に際してもかなりの配慮が行われるから,今そこに

 対象がいる場合には,自分たちの力量が高いことを前提に,

 力を合わせて対応してもらうことを願うしかない。

 このような教員については,「ふれないでおく」ことが最悪の対処法である。

 先日の学会で,大学にもこのような教員がいることを知って,驚いた次第である。しかし,大学には対処する方法はないだろう。

 
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小学校にばかり出入りしている指導主事と大学教員の視野狭窄

 一般の人はあまりご存じないかもしれないが,元小学校の先生だった人が,大学の教員になっている例は少なくない。

 このこと自体,私はたいへんよいことだと思っている。現場経験がない・・・だけでなく,教員免許ももっていない大学の教員に,公立学校の教員になろうとしている大学生を果たして教育できるのか,疑問だからである。

 ただし,小学校の教員時代に培われた(?),中学校に対する憎悪に使い印象を引きずって仕事をしている人の様々な問題発言には,辟易とさせられる。

 指導主事時代も似たような経験をしたことがある。

 小学校籍の指導主事と,話がかみ合わないところがあるのは,主に学習指導や生活指導という,「指導」の根幹に関わる部分であった。

 余計な憶測だが,中学校教員のかみ合わない小学校籍の指導主事や小学校出身の大学教員自身の個人的な教育の環境が,「小学校時代は黄金時代」「暗黒の時代は中学・高校」だったことも影響しているのかもしれない。

 こうした大学教員が頻繁に出入りしている小学校の「教育熱心な教員」のイメージを,あたかも全小学校を代表するようなものとして文章を書いたり,優れた実践を残している中学校にはろくに入ったこともなく,中学校の授業はみんなだめだ,何とかするべきだというバランス感覚ゼロの文章を残したりすることが,大学というなんでもありの世界ではまかり通っていることは看過できない。

 ごくごく当たり前の話だが,誰が何を書こうが,すべての小学校やすべての中学校がそうである,というつもりで書いているわけではもちろんないだろう。

 「政治家は~なものだ」とか,「小学校の教師は~だ」という言い方は,多くの人がそのような経験をしたり,実感をもっていたりするときに共感を呼ぶものであり,いちいち「私の知っている政治家は~」などと断ることがない。

 残念ながら,バランス感覚に欠ける文章は,学会という場所で配られる紙には書いてあるのだ。

 将来,社会科教師になる学生も,このような大学で学んでいることは気の毒である。


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お母さん,あなたの話はゴミですよ

 特に大学院を卒業するような,世間の常識とかけはなれた人間との付き合いが長い経験をもつ人が教師になると,教師としてというより社会人としてそれは通用しない,という行動をとってしまうことがある。

 担任をもった子どもの保護者との会話で,そのような社会性に乏しい言動が表われ,問題化することがある。

 「俺は~の専門家だ」という自負は決して捨てる必要はないが,

 「その点について,お前は俺以下だ」という態度を全面に出すのはいけない。

 「~だというが,その根拠は何か」と問いただすまではぎりぎりセーフだが,

 「根拠もないのに~だと苦情を言ってくる,あんたの言葉はゴミなんだよ」と口にしてしまう教師がいる。

 これは指導力不足教員に見られる代表的な態度の一つである。

 指導力不足教員の指導力不足の露呈は,多くの場合,保護者対応から始まる。

 学級崩壊から始まるケースも多いが,

 問題に対する問い合わせを保護者から受けたときの対応から,

 「ああ,想像通り,この教師はとんでもない人間だな」と気づかれてしまうことが一般的である。

 人間関係力,対人関係力,コミュニケーション能力などと呼ばれる力は,直接子どもやその親と接している場面でしか評価できないところがある。

 だから採用試験の面接や模擬授業等では見抜けない問題なのである。

 どうしてわざわざ相手を怒らせる行動を教師はとってしまうのだろうか。

 大学での研究・教育のあり方が,「批判的精神を養う」「科学的・論理的合理性を追究する」点に偏っているために,「建設的な人間関係の形成や人格形成が苦手」な人を増やしているせいだろうか。

 私は,教師であると同時に,保護者である。

 教師も,親になってみないと,わからないことが多いのかもしれない。

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小中の社会科で子どもが大切にしていること

 中学校2年生を対象にして行ったアンケート調査の結果をご紹介したい。

 これは,「小学校6年生のときの社会科の学習で,あなたが最も大切にしていることは何でしたか」

 「中学校2年生の(現在の)社会科の学習で,あなたが最も大切にしていることは何ですか」

 を問うたもので,選択肢は,やや多いが

 1 楽しむ

 2 覚える

 3 考える

 4 調べる

 5 理解する

 6 つくる

 7 話し合う

 8 発表する

 9 まとめる

 10 地図を使う

 の10個である。

 グラフは,中学校の定期考査の成績別に比較できるようにしてみた。

 成績は上位から下位まで1:1:1の比になるように分けている。

6g

8g

 一目でわかることだが,小学校6年生の社会科の学習で最も子どもが大切にしていたのは「覚える」ことであると答えた生徒が,成績にかかわらず最も多い。

 成績下位者だけの特徴は,「楽しむ」ことを最も大切にしている子どもが多いことと,「理解する」ことが最も大切だと答えた子どもがいないことである。

 成績上位者の中には,「まとめる」ことだと答えた子どもが多かった。

 中学校2年生の結果を見てみると,「覚える」ことだと答える生徒がどの成績ランクでも減るが,下位にいくほどその数は多くなる(割合が同じなので数も同じように多いことを示す)。

 成績にかかわらずに多い回答として,「考える」こと,「理解する」ことが表われる。「考える」ことだと答えた生徒は,下位の生徒がやや少ない。

 なぜ「考える」ことや「理解する」ことが大切だと答える生徒が多かったかと言えば,授業もスタイルや定期考査の問題が,「考えた結果」を書かせたり,ただ覚えているだけではだめで,よく理解していないと答えられないものが多いことも影響しているだろう。

 興味深いのは,「楽しむ」ことと答えた生徒が,中学校では成績上位者に最も多くいたことである。

 このアンケートから,子どもが社会科の授業で大切にしていること(していた)ことがわかる。

 なぜ「楽しむ」という,他の選択肢とはやや異質のものを入れたかというと,小学校の教師がよく「社会科は楽しむことが大切だ」と言うからである。では,実際にはどうだったか。

 
 小学生の社会科は,「覚えること」を子どもに要求しているのだ,という指摘を,学会発表の質疑の場でしてくださった先生がいた。まさにその通りだろう。

 中学校の社会科のレベルになると,「覚えること」で対応できることは少なくなる。

 質の低い入試問題や指導力の低い教師がつくるテスト問題は「覚えること」で対応できるが,

 現在,観点別学習状況の評価を適正に行うことが求められているから,

 定期考査の問題においても,

 「関心・意欲」の程度がわかる問題,

 「思考・判断」の力量を「表現」された文章等で確かめる問題,

 「資料活用の技能」がわかるように様々な資料を使う問題,

 確かな「知識・理解」が定着していることが判断できる問題

 を現場の教師は作成し,出題しているはずである。

 時代は変わっている。

 変化の激しい時代を生き抜く子どもを育てるために,

 教師が果たすべき役割もますますその重要性を増している。

 小学校教師でも,あの薄っぺらな社会科教科書で満足している人は少ないだろう。

 アメリカの小学校で使われている歴史教科書の対訳本が出版されている。

 長い歴史をもつ日本の小学校の歴史学習の教科書は,

 果たしてあれでよいのか。

 「調べる学習」を主とした小学校の歴史学習なのだから,

 「調べられる教科書」が生まれなくてよいのか。

 それをはばむ最大の問題が,小学校教師の多くがもつ「学力観」である。

 上のアンケート結果を見て,ぜひその「学力観」を再考してほしい。

 小学生は,多くの知識を習得することを,中学生よりも「大切」に思っているのかもしれないのである。

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「建前」で満足する指導力・評価力不足の教師たち

 また「統合失調症」ネタが飛び出した。

 ブログを引っ越しても,中身は変わらないということだ。

 同じことの繰り返しである。

 子どものケンカと同じレベルの「口撃」しかできない

 ようでは,教育を語る資格などない。


 ある学会で,小学校の教師が,

 「社会科が好きですか」「授業は楽しいですか」

 などの児童へのアンケート結果を用いて,

 教科教育の実態や課題を発表していたことがあった。

 アンケートの結果というのは・・・・・

 特に,担任教師が受け持ちの児童生徒に行うアンケートの

 結果というものが,「事実」を示していると考えることには

 無理がある。

 学会の研究発表であれば,「好き」な内容とは何か。

 「楽しい」こととは何か,などをあわせて追究していかない

 と,子どもも教師の「感覚」だけに頼った「雰囲気」の予想

 にすぎない話をしているだけということになる。

 私の研究によれば,小学生が社会科を「楽しい」と考える

 最も大きな理由は,「話し合うこと」であった。

 つまり,「先生の話を聞いていることよりは,自分たちで

 話し合うことの方が楽しい」という意味である。

 教師が深い教材研究を行い,たくさんのしかけや実物を

 教室に持ち込んで,子どもの疑問を喚起し,追究の明確な

 視点を与え,ときに反論を引き出し,ときに奥深いところに
 
 ある社会問題に気づかせるような「一斉授業」は,

 世の中から消えてしまっているようである。

 毎日顔をつきあわせている担任の授業が「つまらない」と

 平気で答えられる児童が,どのような目で教師から見られる

 ことになるのか・・・・その担任教師の人間性や力量にも

 よるのだが・・・・想像できない日本人はいないだろう。

 帰国子女や外国籍の子どもたちの悲劇を紹介している

 本がたくさんあるから,日本社会の常識を知らない人は,

 一読しておくべきである。

 日本には,「本音」と「建前」を上手に使い分けるという文化

 がある。それは,「相手を思いやる」気持ちから生まれている

 場合もあるし,「ひどい相手から自分を守る」ために行う

 場合もある。

 小学校の教師に限らないが,教師が「わかりましたか」

 「わかった人は手をあげてください」と子どもにたずねて,

 「確認する」作業を行う場合がある。

 これには,生活指導の場で,「わかったと答えたんだから,

 二度と~はするんじゃないぞ」という恫喝に使うパターンもある。

 子どもは,学習指導の場でも,「わかったか」と答えたら

 「わかりました」と答えるのが「礼儀」であることを長い経験から

 知っているのである。なぜなら,「わかりません」と答えてしまったら,

 答えてしまった子どものために授業等が中断し,「余計な時間」

 を費やすことになる・・・・授業で終了10秒前に「わかったか」

 と聞かれて,「わからない」と答える勇気のある小学生は

 いないだろう・・・・し,最悪の場合には,「何を聞いていたんだ」

 などと教師に突っ込まれる恐れがある。

 だから,「わかりましたか」と子どもに確認する作業が,

 「子どもを見捨てていない」ことの確実な根拠になることはない。

 むしろその逆であることが多いのは,多くの大人が知っている

 通りである。

 もとは子どもで同じような経験をしたくせに,教師になった

 とたんにその「常識」を忘れてしまうのが,指導力不足教員の

 姿である。

 教育の評価というのは,選択肢つきのアンケートとか,

 わかった,わからないの2択とかで行うものではない。

 「わかっていることがわかる学習状況」から評価するのが,

 教育の世界の常識である。

 教育の世界の常識すらわかっていない人間が教員に採用されて

 しまうことは残念だが,もっと残念なのは,犯罪行為等で

 懲戒免職にならない限り,常識なしに教員が続けられて

 しまう今のしくみである。

 教員免許更新講習の制度も,ひとまわりしたら消えるべきだろう。

 確実になくすためには,

 講習を受ける前と受けた後で,どの程度の力量の違いが出たかを

 検証する制度をつくるべきかもしれない。


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お別れのご挨拶

 せっかく発表の機会をいただいた学会で,

 声をかけたいただいた先生の温厚なオーラで私の怒りの80%くらいは抑えられたのですが,

 とにかく「社会科教育」を語ってほしくない人たちのムードには耐えられませんでした。

 人口減少社会で最も大切だと感じるのは,「大人への教育」です。

 「大人自身の自覚の問題」です。

 荒れた学校を建て直したとき,子どもを利用するかたちになってしまったのですが,最も力を入れたのは「大人=教師の意識改革」でした。

 「子どもに~ができるようにさせる」と教師が言う前に,「お前がやれ」というだけのことで,学校は180度変わりました。
  
 無責任な大人たちが,無垢な子どもたちを「どんな存在にしたてあげようか」などと勝手に考えている醜悪な雰囲気が私は大嫌いで,特に教師の偽善的な姿に辟易とさせられています。

 子どもを変えたいと思うなら,自分が変わらなければなりません。

 グローバル人材をつくりたいというなら,まず自分がどうしたらそうなれるのか考え,そして実際にそうなりなさい。

 知識基盤社会を築きたいというなら,まず自分が知識を自分の力で獲得できるような強い意思をもちなさい,と言いたい。

  「どんなに年をとっても,いつでも人間は成長できる」という信念を子どもにもたせるには,60近くの人間が大改革・大成長を遂げる過程を子どもに見せるのが一番の教育です。

 研究会や発表会を開くと,特に若い教師の中に,何か「使えそうなものを持ち帰りたい」などという姑息な人間がいるものですが,果実だけをとって食べておいしい,といったところで,自分には何の力もつきません。

 どうやって土をつくったか,どのように太陽があたっていたのか,などという「過程」を無視した態度をとってしまうような人間に, 「人を育てる」ことは期待できないのです。

 社会科教師が生まれる直前で,あまりにも安易な態度をもった人間を「改造」する最後のチャンスは大学にあるのです。

 そこが機能することを切に願います。 

 もうあのような学会で,私にはお役に立てる力は全くないことがわかりましたので,残念ですが私の後輩たちの面倒だけに集中したいと思います。


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学会での質問の「大失敗」

 教師の力量は,「質問力」によっても測ることができる。

 教師は授業で多くの「質問」を子どもに投げかけるが,

 そのねらいは子どもから「良さ」を引き出すためにある。

 「理解していること」を理解させるための質問もあるが,

 私が意図的に発しているのは「隠された能力や意図」を引き出すものである。

 しかし,時として,「隠された無知」を引き出してしまう場合もある。

 相手をよく知らない場合に,この忌まわしい機会が訪れる。

 先日の学会でやってしまったのは,次の質問である。

 相手は小学校の先生だった。

 「あなたは,アジア・太平洋戦争に関連のある忠魂碑を教材化するために,多くのフィールドワークをされてきたと思う。そこでは,先生自身が疑問に思ったことや,小学生ではなく,中学生なら,このようなことを疑問に思うだろうと考えたことがあったはずである。そのような,小学生には期待できないような疑問は何でしたか。」

 と私は質問した。

 その答えが,「なぜ男性の名前ばかりが刻まれているのだろう」だった。

 実際,そのような疑問をあげる小学生はいなかったということである。

 当たり前だろう。

 質問はしない方がよかった。

 かなりの時間を要して,戦争の実態にせまるような「追究活動」をされたようなのだが,「肝心なところ」というか,「常識」にあたる部分が強烈に欠落しているのが小学校の社会科の特徴である。

 他の発表にもあったことだが,「小学生が疑問から疑問へ,次々に課題を発見し,解決していけたのでよかった」と述べ,無計画なようではあるが,そのように主体的に学習が進めたことを誇りにしているようなムードがひしひしと伝わってくる。

 ぜひ小学校には,バカロレア風の評価を導入してほしいと願う。

 「アジア・太平洋戦争」に何時間もかけられるなら,不可能ではあるまい。

 小学校の授業は,「みんな」で学習しているように見えて,実はリードするごく一部の児童のほかは,みんな「フリーライダー」である。あいづちを打ってさえすれば,「学びの一員」らしく感じてもらえるのだ。

 何かが「できる」ようになっているかどうかを,個人的に面談をして,語らせる時間は小学校ならいくらでもあるだろう。


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殻に閉じこもる大学教員の典型的な姿

 「逃げ道つき」の「理論」には,「怖いもの」はない。

 「いじめ」の構造を知り尽くしており,いつでも「部外者」を「笑顔」で仲間はずれにする技を体得しているからである。

 仲間内の「共通理解」に入り込めない人間を「笑顔」で侮蔑できる神経をもつ教員たちが増殖していることは不気味である。

 そのうち,大学を退職して「教祖」になる道もあるだろう。

 被害に遭いそうな大人はともなく,

 子どもを救うことが,手遅れにならないことを祈る。


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「卑怯者」への憤りが収まらない

 人生のなかでも最も意味のない2日間を地方で過ごした後には,怒濤のような仕事が待っていた。中学校3年生の担任なので,進路相談も本格化してくる。

 仕事に集中したいのだが,時間がいくらたっても,

 「背中から斬りつける」ような卑怯者の発言や,

 その発言時に見せつけられた醜悪な笑みや,

 へらへらしながらその発言を聞いていたシンポジウムの司会者への

 憤りが収まらず,社会科教育の学会の質の低さの原因がどこにあるのかを自校の研究の部会でも話題にしていた。

 純日本風の悪習なのであろうが,集まっていた多くの大学の教員たちは,面と向かっては別の教員を批判することはない。しかし陰口はやりたい放題である。

 そういう意味では小中学校の教員と変わりはない。

 いじめを繰り返す子どもと変わりはしない。

 「師匠と弟子」の関係があったりして,儒教の浸透したままの社会であるから,弟子は師匠に何も言えないのも同じである。

 どこかの研究者が進歩や前進することが,自分にはプラスにならないと考えるような「足の引っ張り合いこそが使命」の世界の空気には耐えられない。

 批判できない相手の悪口を言い合うようなシンポジウムが,

 「社会科教育」という名をつけた学会で行われていることの意味を「市民」はどう考えるのだろうか。

 陰口奨励学会で扱われていたテーマが,今となっては笑いを誘うものにしか感じられない。

 どうして「社会科」がここまで堕落しなければならなかったのか。

 日本の未来は危険である。

 当然のように,かつての日本人が誇りに「していたとされる」価値観

 ・・・・「武士道精神」などが再要請されるような時代になるだろう。

 ただでさえ,大学の人文系の学部は「切り捨て」の対象になっていく時代である。

 自分たちで自分たちの首を絞めているという自覚を,大学教員たちは

 もっているのだろうか。

 だれかの台詞を思い出した。

 「小学校までは,みんな社会科が好きだった。受験勉強のために,中学校,高校の社会科は嫌いになった。だから,大学でもいい社会科の教員は育てられない」

 そのような言い訳が通ってしまいような大学は,消えてもらった方がよいのではないか。


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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より