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子どもをタイプ別に分けて考えてはならない その2

 子どもを「タイプ」に分けるのは,大人の勝手だが,

 それが具体的な指導を左右するようになると話は別である。

 たとえ子どもの方が,「私はこういうタイプです」などと

 宣言したとしても,それが正しいという保証はどこにもない。

 教師が子どもに下す「タイプ」に関する判断は,

 主に教師の主観であり,どれだけ評価に精通している
 
 専門家でも,大事なところで教師の側の判断は

 的を外してしまうことが多い。

 むしろ,「~は~というタイプだから,こういう指導が適切だ」

 などと思い込んで,パターン化したことを注入される恐れが

 強くなる。

 私も若い頃は,マトリックスを使って子どもをいくつかの

 タイプに分けて考えようとしてみたが,

 指標が変わるだけで,子どもたちのグループは一変してしまう。

 「多面的・多角的な見方や考え方」がなぜ大事なのかが

 よくわかる事例である。

 一面的な「タイプ分け」によって,子どもの個性が見殺しに

 される可能性が高い。

 プロ野球選手でも,「おまえはこういうタイプだ」などと

 コーチに洗脳されて,才能をつぶされた人など山ほどいるだろう。

 「長距離砲」などと「タイプ分け」された選手は,常に長打を期待されるが,

 「長打はヒットの延長」という言い方もよくされる。

 「長打だけが多い」バッターの多くは,三振の数も多いはずである。

 球界からこうして姿を消した人は数知れないことだろう。

 まだ社会人は,そのような能力を期待されて雇用されているわけで,

 要求通りの能力が発揮できなければ,切られるという実力主義の住民

 だから仕方がない。

 成長途上の子どもは全く別の世界の人間であることを忘れてはならない。

 最も重要なことは何か。

 子どもがどんなタイプの子かは関係ない。

 指導すべき場面で,指導すべきことを指導するしかない。

 「積極的なタイプ」と「おとなしいタイプ」の子どもが,

 授業場面で消極的だったとき,

 「積極的なタイプ」の方だけに期待をかけて,「そんなはずではない」

 などと言ってはならない。

 この子は,将来伸びるタイプだ,などと判断した教師は,

 その場で子どもが実力を発揮できない責任を完全に放棄できる。

 しかし,教師が替わるだけで,子どもが急に伸び始める,ということも

 良く起こる。「大器晩成」などという判断は,後になってから

 するものであり,目の前の子どもに対して下すべきものではない。

 「まるで去年とは別人のようだ」

 当たり前だ。あなたと違って,子どもは日々成長するのだから。

 自分の主観で子どもを差別してはならないのである。

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より