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同一内容を教え合うことは真の「学び合い」ではない

 少人数指導にしろティームティーチングにしろ,

 同一学年で同一のカリキュラムで同一の内容を学習させるとき,

 そこでの「学び合い」はごく限られた幅で奥行きのないものとなる。

 あくまでも「共通体験」を行っているにすぎない。

 どうしたら幅を広く,奥行きのある「学び」にすることができるか

 といえば,そこでこそ,「教師の存在意義」が問われるという

 ものである。

 だから,子どもだけに「教え合わせて」も,「学び合い」には

 ならないことくらい,授業の質に幅と奥行きを実感しながら

 学んできた人間には容易に気づけることだった。

 そういう経験をもっていなかった方々は,お気の毒である。

 
 真の「学び合い」は,価値観の多様化が進むこれからの

 社会を生き抜くのに必要な資質・能力を高める方向性を

 もっていなければならない。

 それはたとえば,異質なものの価値に気づき,異分野だから,

 違和感があるから,といって差別・排除することなく,

 上手く自分の中に取り込んで,「ものにする」ことのできる

 ような力である。


 だから,子どもがある分野の内容を学び,それを

 経験したことがない子どもに教え,考えさせるような教育が

 必要なのである。

 
 校外に出かけて学ぶような学習で,全員が全く同じような

 ことを見て,聞いて,考えてくるようなスタイルのものがある。

 それを学校に戻ってきて発表会を開いたところで,

 「それ知ってるよ」で終わってしまう。

 
 だから,このような学習を行う場合には,生徒をコースに分け,

 別々のテーマで事前学習に取り組ませ,現地でも別々に

 行動し,追究させるべきなのである。

 だからこそ,事後学習での「合同発表会」に意味が出てくる。

 
 それぞれのコースでは,充実した学習を行わせなければ

 ならない。

 「つまらなかった」「充実感がなかった」ことを共有しあっても

 意味はない・・・・当然ながら,全くの逆効果となるわけである。

 
 充実した学習の内容を,「発表したくてしかたがない」

 「伝えたくてしかたない」生徒同士が情報交換を行うことが,

 「学び合い」として成立するのである。


 自分がもっていないものを,相手から得られるような学習。

 自分がもっているものを,相手に伝えつつ,自分の学習の

 意義を再確認する学習。

 これを「学び合い」という。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より