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すぐ「感動する」人がもつべき資質 その2

 今度は,真面目な教育の話です。

 2013年7月7日の記事を転載します。

 タイトルは,『「感動」や「個性」の意味を

 知らない人のために』でした。

 底の浅い,発展性のない「感動」や

 「個性」の捉え方を戒めた内容になっています。

 人は,ただ感動するだけではダメなのです。

 その感動が,「何を生むのか」が大事。

 教育に携わる人なら,最低限知っておくべき

 「歴史」の話もあります。

 「文学者」「音楽家」「詩人」・・・あらゆる人が,

 「戦争」の遂行のために利用されました。

******************

 戦争の時代を生き抜いた人でなければ,

 分からないことかもしれない。

 日本では,なぜ長期にわたる

 戦争の遂行が可能だったのか。

 それは,それが可能になるように,

 多くの人が知恵を絞り,

 それを実行してきた成果である。

 
 特に,どんなに戦局が悪化しようが,
 
 「戦争をやめよう」という声が出せないように,

 最大限の「工夫」がこらされてきた。


 新聞やラジオなどのメディア,

 そして「学校教育」が,

 その大きな役割を果たしてきたことは,

 今の中学生でも理解できる。


 人は,何に対してどのように「感動」するかを

 「植え付けられてしまう」存在なのである。

 「感動させるように語れ!」と命令されたら,

 そのように「語る」ことができる子どもや大人が

 どれだけたくさんいたか。

 (今も,どれだけいるか・・・・そもそも,

 そういうことを「職業」にしているのが

 「役者」であるし,教師にもそれができることが

 求められる場面が必ずある。)


 音楽家のなかに,「人を感動させたい」と

 思うのがいても不思議ではないのである。

 「感動したい」という聞き手の欲求と,

 「感動させたい」という「演奏者」の欲求が

 マッチしたときの「盛り上がり」を想像することは

 難しくないだろう。


 どんなに下手くそな演奏で,

 どんなに最悪な教師が指揮者をつとめていようが,

 親が子どもの演奏を聴くときは

 感動してしまうものである。


 「感動してもらえるように演奏しよう」などと

 いう「いやらしい言葉」を,

 少なくとも「教育者」は口にするべきではない。 


 人間の心は,自然に動かされてしまうものだし,

 容易に人からコントロールされてしまうものだ

 ということを知っていなければ,

 今後,「演説の技術」だけで騙されてしまう人が

 増えていくだろう。


 
 次に,「個性」である。

 教育の場で使う「個性」という言葉には,

 生物学的な「個体の性質」とは

 次元の異なる意味がある。

 人は姿や形が異なるが,

 もちろんこれだけが個性ではない。

 ただ,中学生は,姿や形にかかわる「個性」については,

 涙ぐましい努力をして,

 それを「自分や友達の気に入ったもの」

 にするために「変えたい」と願い,

 実際に「変えて」いく。

 「生まれつきのものだから何をしても無駄だ」

 という「冷たい教師」の言動が想像されるが,

 中学生レベルだと,最も分かりやすい「個性」とは

 「外見」のことである。


 ファッションの世界で「個性がない」という評価は

 何を意味するのだろう。


 どんなに「冷たい教師」でも,生まれつき

 「冷たい人間」だったわけではない。

 生育歴が子どもの「個性」に影響を与える

 ことなど,教師になる人間ならだれでも知っている。

 人には,それぞれ必ずその人固有のよさがある,

 というのが「教育」の世界の人間の考え方である。

 「学校教育」の世界のなかには,

 そういう考え方ができない人間がいるようだが。

 
 その「個性」は,生かされ,伸ばされる「場」を待っている。

 「学校」をそういう「場」にしようとするのが,

 教師の仕事である。

 生徒の「個性」は,様々な広がりをもって「伸びていく」。

 
 それを「生まれつきあったものだ」と語ることもいいが,

 「人と人との関係性のなかで,生まれる良さもある」

 というのが,教師の語るべき言葉である。

 「個性」とは,「人との違い」などという単純なものではない。

 「だれ一人もっていない,自分だけの良さ」だけを

 追求する人間を想像してみてほしい。

 おかしな話である。

 まずは,他の人にもある,「自分のいいところ」を

 見つけさせることが大切である。

 しかし,中学生には,「自分のいいところ」を

 「自分で見つける」ことが難しい。

 だから,生徒相互の信頼関係を深めさせ,

 互いに「いいところ」を指摘し合い,

 高め合う指導が求められる。

 クラスをもったことがない,つまり,

 35時間の道徳教育を実践したことがない人間の

 書くことは,こんな人間でも採用試験に

 合格してしまうことのおそろしさを

 物語っている。

 
 教員採用試験に大学生を合格させるための塾でも,

 これくらいのことは教えてくれているはずなのに。


 太平洋戦争中も,日本は法治国家であった。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より