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役に立たないどころではない「陰口学会」の嫌な雰囲気

 匿名ブログの世界では,実社会でトラブルが絶えず,それを他人のせいにして生きてきたことがよくわかる人の記事が見かけられる。

 教育の世界の場合,「役に立たない」だけなら「読まずにいればよい」のだが,問題点を指摘されるようになると,どうしても読まざるを得なくなるし,反論せざるを得なくなる。

 しかし,そういう「論争の場」となることは「ぶろぐ村」の趣旨ではないそうで,具体的なやりとりは行わないようになった。

 勝手に自分の書きたいことを書く,読みたい人だけが読む,そういう気楽な場である方がいいのかもしれない。

 ただし,私は教育の仕事にたずさわっている身として,また,子どもを公立小学校にあずけている身として,やはりだまっていられなくなるときがある。

 批判を受けると「おまえの頭がおかしい」と平気でこたえてくるような人間は,昔から公立学校の教員の中にもたくさんいた。私の父はそのような直接体験をつねに聞かされるPTAの立場にいたので,父の「教員ぎらい」は頑ななものになり,だから私が教師になりたいと言った時も反対されたものである。

 さて,今日の話は,私が発表のために参加しているある学会の話である。

 泊りがけで参加している学会だが,参加人数は大学生を含めても,

 私の中学校の研究発表に参加する人数よりも少ない。

 たかだか数百人規模の学会ではあるが,そのシンポジウムで味わった嫌な感触は,

 すさんだ公立学校の教員たちに味わわされたものとそっくり同じで,

 そんな場にいなければならない自分を呪いたくなってしまった。

 シンポジウムでは,議論の場にいない人間に対しての批判が繰り返された。

 「三流官庁」などという嫌味だけでなく,自分の実績を振りかざしながら,教育の世界をばかにしているとしか思えないような態度に,会場からは同意するような笑い声が聞こえてきた。

 こんな人間たちが集まる場で,教育の議論が行われていることは,日本にとって最大の恥である。

 人によっては,「ああいう人間もいる」と「大目に見る」態度でいられるかもしれないが,司会者がたしなめることもなく,批判的な空気が漂うわけでもないあの場のムードは,いじめが起こっている教室のムードによく似ている。

 会場には,韓国からわざわざお見えになった先生もいたが,おそらく韓国の学会では

 最低限の「礼儀」なり「議論のルール」なりは徹底できているはずで,「自由」とは「無責任の代名詞」ともいえるような有様に,心底がっかりさせられた。

 私のような現場の教師から見て,このような「学会」という場で発言する大学の教師たちの「社会性のなさ」にはがっかりさせられるばかりである。

 議論の場に参加していない他人に対する「役に立っていない」という批判は,そっくりそのまま,「自分が役に立ってない」ことを証明しているにすぎない。

 どのような学生を社会科教員として現場に送り出しているのか,個人的に聞き出したいくらいである。

 他人への文句を聞くためだけの「シンポジウム」など,参加する価値はゼロである。

 私は発表された内容について,真剣な批判をしたかった。

 特に,小学校の社会科は頑張っていて,中学校社会科では硬直化していてダメだ,というわけのわからない印象を平気で文字にしている人間にその真意をお聞きしたかった。

 しかし,シンポジウムの場は,そんなことができるムードではない。

 「俺様たちは頑張っているんだぞ」という司会者の態度にも辟易とさせられた。

 とても「建設的な議論」など,できる場ではない。

 どうしても断れない人から頼まれたから参加して,試験の採点も終わっていないのにホテルで4時に起きて発表の準備をしながら,いたたまれなくなり,記事を書いている。

 現場に社会科教師を送り込んでくる大学や大学院の教育の質の低さを痛感させられた。

 他の学会に頻繁に参加しているわけではないから,比較してものを言えるわけではないが,現場教師にとっては何の役にも立たない一日であった。

 二度と参加することはないだろうが,ここでも陰口を言われる存在になるかと思うと,気が重い。


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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
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  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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