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「読み書き」と「話す聞く」を別物扱いする悪癖が学力向上を阻む

 『英会話不要論』(行方昭夫著,文春新書)では,

英語教育の課題について,次のような指摘を

しています。

>現在,英語教育は「読む・書く」から「話す・聞く」

へ軸足を移しています。しかし,この章でも見た

ように,英語の四つの技能は分かちがたく絡み,

影響しあっています。基礎力をつける段階では,

四つとも,分け隔てなく身につけるのが肝心です。

 この話を聞いて,私の場合はすぐに

「観点別学習状況の評価」の課題を思い浮かべて

しまいました。「観点別」に評価できるということは,

「別々」の学習状況がある,「別々」の学習があり,

「それぞれが」大事,という感覚になってしまいます。

 しかし,本来は,すべてが一体化してこそ,本物

の「学力」となるのです。ですから,

 「思考・判断・表現」の力を伸ばす教育をしようと

したら,「関心・意欲」も高める必要があるし,

基礎的な「知識・理解」がないとだめだし,

「資料活用の技能」もないと,成立しないのです。

 英語教育や国語教育のように「言語」の習得

に関してはすべてが「技能」と受け止められる

面もあるようですが,やはり「思考を経た理解」

があって,自分が活用できる「知識」になるはず

なので,そういう関連性を軽視して,

「話したり聞いたりする力が弱いから,そっちに

重点を移す」というのは愚の骨頂と呼ぶべき

ことなのです。実は,「話したり聞いたりする力

がない」と自覚している人のうち,多くは

「読んだり書いたりする力もない」ことが

この本では指摘されています。

 次の文章は,読書編からの転載です。

*******************

 小学校英語の導入は,日本人の言語能力を
 
 損なう結果になる・・・・科学的に証明されても,

 国の政策は変わらないかもしれません。

 英語の意味を解釈するのに,日本語で何というか,

 その候補は何で,どの日本語が最も適しているか

 がわからない人に,英語でのコミュニケーション

 がとれるとは言えない,ということです。

 私が強い印象で覚えているのは,大学1年の

 英語の授業で,講師だった人が誤訳をしたこと。

 その講師は英語は話せるのかもしれないけれど,

 日本語の語彙が乏しく,正しい解釈ができていない

 ことに,いらだちを感じました。

 英語に堪能だから英語の講師ができているのでしょうが,

 日本語の部分がひどい,という人が「英語の教師」

 でいられるというのが当然の世の中になりそうなのが,

 小学校英語必修の流れです。

 I am a Cat. という英語で,夏目漱石の小説の意味は

 理解してもらえるのか?

 そういう心配ができるような人が,

 「英会話が苦手」「英語が苦手」という感覚をもてる

 わけです。

 異文化の人々の言語を,抵抗なく受け入れて

 話せる人を増やすことは大切なことかもしれませんが,

 それを自国の文化の理解~その最も重要なことが

 日本語の理解であるわけですが~を犠牲にして,

 異文化の言語を学ばせるという教育政策は,

 宗主国に媚びる植民地の現地経営者根性のようだ

 と言わざるを得ません。

 この I がさしている日本語と,『ガリヴァ旅行記』の

  I は同じようなものであるはずだ,

 という感覚をもてる人ではないと,

 英語というのは実に薄っぺら・・・それでいいのですが

 ・・・な言葉という印象が強くなります。

 薄っぺらだからこそ,英語を母語としない多くの人々が

 使えるのだなあと思うわけです。

  つまり,英語を話せるようになることは,それほど

 難しいことではないわけです。しかし,母国語への

 感性が高い人ほど, 「英語をぺらぺら話す危険性」

 を肌で感じられるのです。

 では,日本人は英語を学習しなくてもよいのか。

 もちろんそうではありません。

 日本の文化を学ぶのに最も有効な方法の一つが

 日本語を学ぶことであるように,異文化を学ぶ方法の

 一つがその国の言語を学ぶことです。

 「使えることが大切」な会社に入るときに,最低限の

 語学力がついていれば,あとは会社にいるときに

 必死に学べばいいのではないでしょうか。

 それが給料や昇進に反映されるとなれば,

 必死で習得できるようにがんばるでしょう。

 ほとんど入試のためだけに学ぶ英語で,モチベーションが

 持てる人は少数です。
  
 楽天やユニクロの「大実験」が,

 「実は英語を話せるようになることよりも,

 日本人に不足しているという懸念があった

 思考力・判断力・表現力・・・もちろん自国の言葉の

 ・・・が身についていることの方が大事だった」

 ことを証明してくれるようになれば,

 学校英語の動静にも影響を与えることに

 なるのでしょうが・・・・。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より