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2014年11月

役に立たないどころではない「陰口学会」の嫌な雰囲気

 匿名ブログの世界では,実社会でトラブルが絶えず,それを他人のせいにして生きてきたことがよくわかる人の記事が見かけられる。

 教育の世界の場合,「役に立たない」だけなら「読まずにいればよい」のだが,問題点を指摘されるようになると,どうしても読まざるを得なくなるし,反論せざるを得なくなる。

 しかし,そういう「論争の場」となることは「ぶろぐ村」の趣旨ではないそうで,具体的なやりとりは行わないようになった。

 勝手に自分の書きたいことを書く,読みたい人だけが読む,そういう気楽な場である方がいいのかもしれない。

 ただし,私は教育の仕事にたずさわっている身として,また,子どもを公立小学校にあずけている身として,やはりだまっていられなくなるときがある。

 批判を受けると「おまえの頭がおかしい」と平気でこたえてくるような人間は,昔から公立学校の教員の中にもたくさんいた。私の父はそのような直接体験をつねに聞かされるPTAの立場にいたので,父の「教員ぎらい」は頑ななものになり,だから私が教師になりたいと言った時も反対されたものである。

 さて,今日の話は,私が発表のために参加しているある学会の話である。

 泊りがけで参加している学会だが,参加人数は大学生を含めても,

 私の中学校の研究発表に参加する人数よりも少ない。

 たかだか数百人規模の学会ではあるが,そのシンポジウムで味わった嫌な感触は,

 すさんだ公立学校の教員たちに味わわされたものとそっくり同じで,

 そんな場にいなければならない自分を呪いたくなってしまった。

 シンポジウムでは,議論の場にいない人間に対しての批判が繰り返された。

 「三流官庁」などという嫌味だけでなく,自分の実績を振りかざしながら,教育の世界をばかにしているとしか思えないような態度に,会場からは同意するような笑い声が聞こえてきた。

 こんな人間たちが集まる場で,教育の議論が行われていることは,日本にとって最大の恥である。

 人によっては,「ああいう人間もいる」と「大目に見る」態度でいられるかもしれないが,司会者がたしなめることもなく,批判的な空気が漂うわけでもないあの場のムードは,いじめが起こっている教室のムードによく似ている。

 会場には,韓国からわざわざお見えになった先生もいたが,おそらく韓国の学会では

 最低限の「礼儀」なり「議論のルール」なりは徹底できているはずで,「自由」とは「無責任の代名詞」ともいえるような有様に,心底がっかりさせられた。

 私のような現場の教師から見て,このような「学会」という場で発言する大学の教師たちの「社会性のなさ」にはがっかりさせられるばかりである。

 議論の場に参加していない他人に対する「役に立っていない」という批判は,そっくりそのまま,「自分が役に立ってない」ことを証明しているにすぎない。

 どのような学生を社会科教員として現場に送り出しているのか,個人的に聞き出したいくらいである。

 他人への文句を聞くためだけの「シンポジウム」など,参加する価値はゼロである。

 私は発表された内容について,真剣な批判をしたかった。

 特に,小学校の社会科は頑張っていて,中学校社会科では硬直化していてダメだ,というわけのわからない印象を平気で文字にしている人間にその真意をお聞きしたかった。

 しかし,シンポジウムの場は,そんなことができるムードではない。

 「俺様たちは頑張っているんだぞ」という司会者の態度にも辟易とさせられた。

 とても「建設的な議論」など,できる場ではない。

 どうしても断れない人から頼まれたから参加して,試験の採点も終わっていないのにホテルで4時に起きて発表の準備をしながら,いたたまれなくなり,記事を書いている。

 現場に社会科教師を送り込んでくる大学や大学院の教育の質の低さを痛感させられた。

 他の学会に頻繁に参加しているわけではないから,比較してものを言えるわけではないが,現場教師にとっては何の役にも立たない一日であった。

 二度と参加することはないだろうが,ここでも陰口を言われる存在になるかと思うと,気が重い。


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iPadが使えない大学

 私がしかたなく参加している学会の会場となっている大学の悪口を一言。

 地方の(元)国立大学である。

 教室にプロジェクターはあるのだが,HDMI端子がない。

 パソコンを持っていくのは重いから,iPadに動画などを落として持参した。

 しかし,端子がないから使えない。

 学会の自由研究のグループには,ICT教育関連のものもあった。

 いまどき,HDMI端子のない機器しかない教室は小中学校でも

 どのくらいあるのか。

 大学のレベルがよくわかった。


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CAと教育委員会の指導主事の共通点

 総合学習で,元CA(客室乗務員)の方への職業インタビューを行う

 機会があり,興味深いお話をたくさんうかがうことができました。

 ネットでもCAの世界の裏話を公開するブログなどもありますから,

 もしCAになりたいと思っている方は,その「現実」を知ってさらに

 熟考されることをおすすめします。

 お話の中で私がなるほどと思ったのは,

 「CAはマニュアル通りに話さなければならない」ということで,

 記憶しておかなければならない「返答のパターン」が紙の厚さで

 10㎝くらいあるとのこと。これは,議会や記者会見などで

 指導主事が用意しておく「想定問答集」と同じような量になります。

 (もちろん一言一句暗記できないので,その場に持参します

 ・・・・が,質問ゼロ,という場合もよくあることです)

 裏話ブログの方では,CAは「英語が話せる」という印象をもって

 いる人が多いようだが,その「英語」もマニュアル通りで,

 かつ,やりとりのパターンは決まっているので,

 CA自身も「英語を話すのは苦手」とこぼしているのが印象的でした。

 インタビューでは,「同じようなニュアンスの言葉」でもダメだ,

 「一言一句,同じでないと」ということでした。

 私が指導主事になったとき,

 「指導主事が話したことは教育委員会の見解そのままになる」

 という忠告をまずいただいたのですが,

 「それなら何も話さない方がよいだろう」・・・・と考えるレベルの

 人なら,昔なら指導主事になど任用されないわけでしょう・・・。

 「責任感」という単純な言葉では表しきれないプレッシャーを

 感じていました。私のように,文部科学省の方針自体に

 大きな課題を感じている身としては特に・・・・。

 「個」ではなく「組織」そのものの一部として行動しなければ

 ならない職業はたくさんあるのでしょうが,

 「組織」より「個」のよさに浸りたい人は,私のように「天職」

 に「転職」する方がよいのでしょう。

 インタビューした方は,元CAと書いたように,今では他の

 職で活躍されています。CAと同じように「立ったままでいる」

 ことが多いのと,「どんな苦情でも笑顔で対応しなければならない」

 仕事に就かれているのは何かの因縁でしょうか。

 ただ,「個」が最重視されるという点では,CAとは全く異なる。

 もちろん職業ですから「組織」のチームワークも重要ですが,

 あくまでも「個」が人々の支持を集めて国をよい方向に

 もっていけるように努力されているという点で・・・そして,

 「個」の支持も「組織」の支持と同じように大切にしている

 という点で,やりがいのある仕事だろうと私も感じることができました。

 子どもたちの質問に対して適格なお話を,豊富なエピソードを

 添えながら語っていただき,何時間でも対話を続けていたい

 授業となりました。

 生徒の心に「強い信念で働く,しなやかで美しい人」のイメージが

 しっかりとできあがったことが私自身の何よりの喜びです。

 講師の先生に,改めてお礼を申し上げます。

 ありがとうございました!

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子どもを「見捨てない」とは,「授業内容がわかっていることをその都度確認する」こととは違う

 理論にはなっていない教育論や教育方法には,誤解がつきまとう。

 授業内容を100%理解させることが「子どもを見捨てない」ことではない。

 もし「授業内容がわかっているかどうかを確認し,

 わかっていない子どもにはわかるまで教えること」が

 「子どもを見捨てないこと」だと定義すると,それは授業時間内では

 不可能であることになる。

 だから「教え合い」という発想が生まれてきたのだろうが,

 このような考え方はスタートラインから間違っているわけである。

 あるいは,「全員に理解させる」という前提だから,

 授業で教えるレベルが現在の小学校のような内容に

 とどまってしまう。

 長い歴史のある日本の,小学校6年生の教科書と,

 1776年に独立したアメリカ合衆国の小学生の歴史の教科書を

 比べてみるとよい。


 同じことを一斉のかたちであれ,グループ別のかたちであれ,

 学ぶ場が与えられていることが,「見捨てられていない」ことである。


 中学校段階になると,「ブロック経済に移行した理由」を説明できる

 生徒が100%になるとは限らない。

 しかし,「ブロック」するものが何であるかを理解させることは可能

 である。説明を十分に達成できないと思われる子どもはわかって

 いるから,説明の前提となる内容のうち,その子どもなら答えられそう

 だと思う内容を発表させるなどして,授業は進んでいく。

 理解できたり,理解したことを説明できたりするレベルは,

 生徒によって異なる。それぞれのレベルで達成できる課題を

 やりとりするようなかたちが,「子どもを見捨てない」という

 最も現実的な姿である。

 「ブロック経済に移行した理由」をすらすらと述べられてしまった

 ような生徒には,「ブロック経済政策の有効性はどの程度あったか」

 とふってみてもよい。学説的にも考えは分かれている問題である。

 当然,いくつかの学説を示して,それぞれの長所・短所を比較し,

 根拠を示しながら自分はこう考える,と説明できる生徒はほとんど

 いないだろう。しかし,課題に気づかせるという教師の行為は

 重要である。

 これが,「上位の子どもを見捨てない」指導の工夫である。

 多くの小学校では,「上位の子どもは見捨てられる」のが

 一般的である。その理由はあえて書かないが。


 学校では,授業とは関係なく,やさしい言葉をかけられるだけで,

 「見守られている」という実感をもってくれる子どもは多い。

 授業に入って教師に「見捨てられている」という思いを

 抱かせるような人間は,教壇に立つべきではない。

 子どもに丸投げして「子どもを信じている」と言えてしまう
 
 人は,一度,塾の人気講師の講義を聴いてみてほしい。

 ある人は,テキストの内容をほとんど教えない。

 でも,人気は高く,受講生の成績もよい。

 破格の給料をもらっている。

 「教育観」の柱がない人間が「学び合い」に寄りかかると,

 どうなるかは多くの人が気づき始めているはずである。

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「わからない」ことの受け入れ方を教えられない人間は教師には向かない

 どんな人間にも,解決できない問題がある。

 知らないこともたくさんある。

 理解できないこともある。

 「田を耕す」という行為が,土に住んでいる微生物にとって何を意味しているか,説明できる小学生はどのくらいいるだろうか。

 人間は,「わかったつもり」になっていることが非常にたくさんある。

 「わかったつもり」でいることが,生き延びる技の一つであると誤解させる場所が小学校である。

 どうして小学校では,「わかる」ことを重視するのか。

 どうして小学校の教師は,「わからない」と言われることを怖がるのか。

 「わかった」といういい加減な態度が,どれだけ知の発達を遅らせてしまうかを「わかって」ほしい。

 生活指導の甘やかしももちろんだが,

 学習指導での「甘やかし」は,子どもの一生に決して小さくないマイナス効果を植え付ける。

 「わかる」ことは,実は,非常に難しいことなのである。

 簡単に「わかる」ことが心地よいのは,裏を返せば,

 「わからない」状態でいることを受け入れらない感覚を生むことになる。

 「わからない状態」との付き合い方が日本人は苦手である。

 それが「英語が話せない」要因の一つであると私は考えている。
 
 「間違い」のが恥ずかしいというか,「悪」だから,と受け止めてしまい,

 なかなか話し出せない人は多いだろう。

 中学生の段階では,「失敗することの価値」を思う存分味わってもらう。

 そして,小学校時代の自分がいかに「知的に幼かったか」を噛みしめてもらう。

 大人びた中学生というのは,小学校時代にそういう知性に出会えた子どもたちである。

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小学校で子どもにやらせてはならない「わかったか」「わかっていないか」の自己評価

 日本の教育では,「疑問をもたせない」ことに重点がおかれてきた。

 たとえば,授業内容を「理解できたか」「できなかったか」をその都度

 確かめようとする教師がいる。

 中学校ならば,「理解できたか」「できていないか」がわかる問題を

 解かせる(そのときは解けても数日後に解けなくなっているのでは

 意味がないから,中学校や高校では「定期考査」という場で判断

 する)ことで学習状況を把握するが,小学校では「グー」が理解できた,

 「チョキ」が少し理解できた,「パー」がパーです,というように

 子どもに自己評価させて把握できたことにする教師がいる。

 評価方法としては,愚の骨頂と言える。

 「理解できない」と訴える子どもに個別指導を行うための時間を

 確保して,他の子どもには応用問題を解かせてお互いに

 解き方を発表させ合うなどの指導の工夫こそが大事なのであって,

 アンケートのバリエーションを考えることに意味はない。

 

 料理がおいしかったか,そうでなかったかというレストランの評価や

 部屋が過ごしやすかったか,接客態度がどうだったかというホテルの

 評価と,教科の学習状況に関する評価を同じレベルで考えてしまう

 恐ろしさがまかり通っているところがある。

 子どもの評価能力に対して全信頼をゆだねる信仰は小学校ならでは

 の文化かもしれないが,だからこそあの薄い教科書でもろくに

 内容を習得できない現状があることを,多くの親は気づいている。

 子どもも親も,自ら認めたくないことが,「学ぶべきことが学べていない」

 自分や自分の子どもの現状である。

 たった2分でよい。「この授業でわかったことは何か」・・・・これを

 書かせて分析すれば,どの子どもがどれだけ習得できているかが

 わかる。自己評価能力の程度もわかる。

 さらに,「応用問題」を解かせるクセをつければ,「学力定着」も

 可能になるし,「学力向上」も可能になる。

 ちまたで使われている一般的な用語としての「学力向上」の意味は,

 「平均点の向上」であり,「基礎的な学力の定着」に過ぎない。

 本来は全員が100点を取れなければおかしいようなレベルの

 問題でも,それに達しない子どもが大勢いる。

 つまり,基礎学力が定着していない状況が,定着するようになる

 状況をめざすことが「学力向上」になってしまっているが,

 本当の意味の「学力向上」は,さらにその上をいくものと考えたい。

 特に受験問題の質と教科教育の質の乖離が著しい小学校での

 本当の意味での「学力向上」は大きな課題である。

 理解できたか,できなかったか,を判断するために「練習問題」があり,

 その理解度の質が高いかどうか,思考力を駆使できるかを判断する

 ために「応用問題」がある。日本の小学校には「応用問題」に

 取り組ませる文化がないのが,中学校に入ってそれが求められる

 ようになる「ギャップ」に戸惑う原因の一つでもある。

 同じメンバーに様々な教科の指導を行えるのだから,

 個に対する評価の方法をいくらでも工夫できるのが小学校

 であるはずだが,「わかりましたか?」「はーい」の文化が

 捨て切れないのであれば,小学校教育は4年間で終わりにして,

 中学校教育を5年間にすべきという議論がもっと高まることを

 期待したい。


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親と子に苦しめられるのが教師の仕事

 いつ頃からか,子どもの指導に親も「参画」させようとすることの方が,

 子どもを立ち直らせることよりも何倍もの労力を必要とするようになった。

 「親より子どもの方がまし」であるケースが増えてきている。

 「親抜き指導」の方がどれだけ楽か,わからない。

 しかし,教師の仕事は,「子どもだけ」に限るわけではない。

 家庭教育の意味についても学校で教えなければならない時代になっている。

 子どもだけでなく,どのような親も「見捨ててはならない」のが教師の使命である。

 これは,個人的な決意とかそういうレベルのものではなく,

 「教師としての使命」である。

 本来であれば,免許を取得するときにその「使命感」を試したいくらいであるが,

 現実的には任用時に「使命感の有無」を確認するしかない。

 中学校では子どもとその親とは3年間のつきあいである。

 兄弟姉妹がいれば,もう少しつきあいは長くなる。

 教師は親からどのくらいの時間があれば信頼を得られるのか。

 1回の電話で不信感100%から信頼感100%に変わる親もいるが,

 本当に心からの信頼関係を得るには,最低でも5年はかかるのが

 力不足である私自身の実感である。

 つまり,在学中に「親から信頼される教師」になるのはほとんど無理に等しい。

 それでも,義務教育にたずさわっている教師は,

 どのような子も・・・つまり,学習が苦手とかそういうレベルの子だけではなく,

 いじめや犯罪に手を染める子どもも,その親も,見捨ててはならないのである。

 機械的な規定をつくり,「他の生徒に迷惑がかかるから」という理由で

 いくらでも生徒を切り捨てられる高校の教師には,こういう「使命感」はいらない。

 そのせいだろうか,高校の教師を志望する大学生が多いのは,うなずけなくもない。

 小中学校の教師とは,親と子どもに苦しめられるのが仕事だと思ってよい。

 もちろんそれしかなくて教師が続けられるほど強い人間はいないだろうが。

 私のブログには,「教員 辞める」という検索語で入ってくる人がときどきいる。

 教育への覚悟がなくて「公務員」という「安定した職業」に就職してしまった公立学校の教員ほど,始末に困るものはこの世にない。


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教師は苦しい環境の中だからこそ育つ

 教師は,厳しい環境の中だからこそ,成長できる。

 そういう信念がある人事の担当者は,優秀な人材を

 惜しむことなく荒れた環境の学校に送り込んできた。

 荻生徂徠の『政談』では,人材登用がトップの最大の役割

 だと強調している。

>国を治める道は,人を知る事が一番肝要なことだ。ではいかにして人を知るかといえば,その人を一日観察すればその人の器量がわかる訳ではない。

 人を知るというのは,使ってみてはじめてわかるのである。そうでなく自分の眼識で人を見分けようとすれば,所詮自分好みに合った人を,器量ある人だと思うことになる。愚の至極である。

>太平久しくなれば,能力のある人は下から出て,上の人は愚かになっていく。というのも,すべての人の才智というのは様々な難儀や困窮をするところから生まれるものだからである。

 耳の痛い話である。

 異動先の学校が荒れていると嘆く教師が情けないのは仕方がないとして,

 落ち着いた学校に異動して喜んでいる教師には,その環境がどれだけの落とし穴になっているか,想像できるだろうか。

 「その教師たちが学校の荒れを招いた」と評価される日が想像できるだろうか。

 「どうせ数年で異動だからどうでもいい」と無関心でいられるのだろうか。

 教師は,どのような環境にあったときに最も成長できたと思える存在なのだろうか。

 このプロセスを経験したことがない「大学」という閉鎖空間で長い年月を過ごしている「教員」たちには,わかるはずもない問いである。

 「学生のレベルが低くてやりがいがない」と思っているような教員に,「教師」が育てられるわけがない。

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りんご農家訪問

 久しぶりに日曜・祝日の両日がフリーになったので,

 東北地方のある都市のフィールドワークに出かけてきた。

 25000分の1の地形図のいくつかの箇所を拡大コピーして,

 事前に選んだポイントからの景観写真を撮影するなどした。

 自然堤防上を実際に歩いて確認しようと計画していたが,

 車を止められそうな場所がなかったので断念した。

 予定外の収穫は,りんご農家の方にお話がうかがえた

 ことである。

 たまたま作業中に通りかかった2カ所で写真を撮ったり

 インタビューをさせてもらったりしたが,どちらでもお土産に

 りんごをいただいてしまった。

 一方では長くお話をうかがえたが,方言のかなりの部分が

 意味をとれず,残念ながら大事な箇所を聞き落としてしまった

 ように思えるが,今年でりんごの方はやめにするとの

 ことだった。後継ぎがいないからだそうだ。稲作は続けるという。

 かなりの広さの畑のりんごを手で収穫するのは

 相当の重労働というか,気が遠くなるほどの時間を要する。

 「人を雇ったらどうか」とも聞いてみたが,「それはできない」

 とのことだった。

 空港の近くのりんご農園の木は,低い高さで収穫できる
 
 ようになっていた。

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261123_pb230330

 バイパスに近いりんご園では,高い位置でないといいりんごに

 ならないようで,はしごや重機を用いて収穫していた。

2611240_pb240405

 りんご農家は,中学校時代の修学旅行で

 訪問したことがあり,当時のインタビューの内容も

 思い出してきた。

 今回は,映画「奇跡のリンゴ」を鑑賞した後だったので,

 後から考えれば聞きたいことは山ほどあった。

 また暖かくなってから,訪問したいと思う。

 東京からのお土産を何にしようか思案しているところである。

 りんごの木を見ながら,育ての親は

 どういう気持ちで「産業」を打ち切っていくのか,

 いたたまれない思いも募ってくる。

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【中学生の保護者必見】 「内申点」への防衛術

 あるサイトで,「モンスターティーチャー」の事例が

 紹介されていました。

 多くの「教育問題」関連記事では,生徒だけでなく

 保護者も,学校の教育活動,教師の指示に

 疑問があっても,

 「内申点に影響するおそれがある」

 と及び腰になり,

 結局「泣き寝入り」になっていることがたびたび

 取り上げられています。

 
 常識的な要求でも「クレーマー扱い」「モンスター扱い」

 してくるような強気な学校なら,なおさら

 「言いたいことが言えない」状況なのでしょう。


 「余計ないざこざは決して子どものプラスにはならない」

 「公立学校にまともさを要求すること自体,あきらめるべきだ」

 なんていう声も現実に聞こえてきます。


 しかし,せっかく「正当な言い分」があるのに

 黙っていて,もしそれが子どもの進路を左右するような

 ものであったとしたら・・・・。

 たった一つの知識が,子どもを救えるとしたら・・・・。

 学校が,信頼できる内申書を作成しているかどうかを

 確かめる方法があるので,できたら参考にしてください。


 内申書とは通称で,公立高校が主に必要にしているのは,

 各教科の評定と観点別評価の2つです。

 観点別評価は,A~Cの3段階ですが,たとえば

 東京都立高校の推薦入試では,これが点数化されて

 合否判定につかわれます。

 高校によって,教科・観点のA~C別の点数が公開されて

 いますが,すぐに気がつくのが,Aの点数が高いこと,

 高校によっては,観点の中でも「関心・意欲・態度」の

 Aが非常に高いことがわかります。要は,この観点の

 評価がAでないと,非常に不利なわけです。

 
 この関心・意欲・態度の評価は,よほど熟達した指導を

 行っている教師でも,判定が難しいものとされています。

 
 文部科学省が作成している資料でも念が押されていますが,

 「授業中にたくさん手を挙げている」とか,

 「ノートをしっかり提出している」という「授業態度」が

 評価されているのではなく,あくまでも単元の目標に

 照らしてその内容を意欲的に追究していることなどが

 評価対象となります。

 内申書(調査書)というのは,3年生の12月までの

 評価ですから,ある単元で評価が高くても,ほかの

 単元で低いと,「高い方に合わせる」というわけには

 いかない評価です。

 
 あるサイトで紹介されているひどい宿題プリントには,

 欄外の余白を字で埋め尽くさせることだけがねらいの
 
 ようで,こんな学習をさせても,決して「関心・意欲・態度」

 の評価をAとする根拠にはならないのです。

 でももし,こういうプリントで

 「文字をどれくらいたくさん書いたか」で

 評価が決まっていたとしたら・・・・。

 
 最低限,親として知っておくべくことは,

 「関心・意欲・態度」の評価の根拠になった内容です。

 その説明次第によっては,その学校のあらゆる教科の

 評価をつけなおすことになるか,それともそもそもその

 観点の評価など不可能であることがわかってしまう

 かもしれない大きな問題となります。


 「そんな騒ぎになるなら・・・・」と思われたかもしれませんが,

 子どもは卒業させたら,その学校とは縁が切れると

 思って,堂々と確かめてもらいたいと思います。

 
 大阪などは,ごく最近まで相対評価をしていたくらいですから,

 目標に準拠した評価が果たしてどのくらいの

 信頼性と妥当性とをもって出されているのか,

 教師は明確な説明責任を果たせるのか,正直なところ疑問です。


 なぜなら,それはたった一つの授業を参観するだけで

 わかってしまうことだからです。指導案の通りに学習させても,

 その観点の評価を行うことは不可能であることがわかってしまう

 授業があるのです。

 多くの先生が集まって行われるような公開授業でさえも

 そうである場合があります。

 
 お子さんの未来のためであることはもちろん,

 公立学校の教師を鍛える意味でも,疑問があれば

 その解決のための行動を起こして下さい。


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内田樹が「いじめ」の先に見ているもの

 AERAに掲載された6年半分の内田樹のコラムを

 まとめた本が出版されている。

 グローバリストへの痛烈な批判は,今読んでも

 新鮮である。ただ,世の中はほとんど変化していない。

 マスメディアの宿命に対するコメントも辛辣である。

>「広い射程」でとらえると,「新しい」と見える出来事の多くは「過去の亡霊」「借り物の言葉」「古い衣装」の再使用であることが知れるからである。

 マルクスの引用らしいが。

 さて,ここでは読書編で紹介した「いじめ」に関する内容を

 転載しておきたい。

 「いじめ」は学校だけで起こる特殊な問題行動

 ではないことは,多くの人が知っているはずである。

********************

 内田樹による「いじめ」の定義は広いものです。

 マスコミによる「学校たたき」も,「いじめ」の一種となります。

>「いじめ」は精神的に未熟な人に固有の現象である。

 (『内田樹の大市民講座』朝日新聞出版より)

 それはその通りかもしれませんが,精神的に未熟とは

言えない人の中にも,「それらしい立場」になってしまった

そのときに,「成熟」ではなく「未熟」に逆戻りしてしまう

傾向があることは多くの方がご存じでしょう。

>反論も反撃もすることのできない人間を,猫がネズミをいたぶるように,じりじり追い詰めることから嗜虐的な快感を引き出している人間の顔を私たちはよく見知っている。それは「級友をいじめている子供」の顔である。私自身は「管理責任はどうなっているんだ」と大学に怒鳴り込んできた「クレーマー親」たちの表情のうちに繰り返し同じものを見た。

 私の場合は,ごく一部ですが,教育委員会の事務局の

「偉い人たち」からこの臭いを嗅いだことがありました。

 「それらしい立場」の人たちには,「組織の存続のため」という

大きな使命があったからかもしれないのですが,その「組織」

のメンバーに自分が入っているか,そうでないかを考えれば,

 「いじめ」とは「仲間はずし」という明確な目的をもった行動

であると定義することもできそうです。

 共同体の内部でお互いに「仲間はずし」をし合っているような

人間が,最後にどのような立場になっていくのか。

 共同体はどうなっていくのか。

 「いじめ」はいじめられた個人の救済が最優先となってしまう

ので,その先に見るべきものが何かを忘れないようにしたいものです。

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内田樹による「東大の評価」~それはひがみか?強力な自虐か?

 大学教育は・・・特に独立行政法人となった,国立大学は・・・・

 今,「文部科学省附属大学」になろうとしています。

 その「最優等生」の定義もさまざまあるでしょうが,

 一般的な国民が思い浮かべられるのは「東京大学」でしょう。

 その東大に関する内田樹風の嫌味が,以下のようなものです。

>たしかに東大は「他の誰かがルールを決めてしまったゲーム

 に後から参加して,そこで高いスコアを取る」ための知的技術

 の教育機関としてはすぐれた戦績を残してきた。けれども

 「誰もそこでゲームができると思っていなかったフィールド

 でゲームを始める」タイプの知性を生み出すことについては

 ほとんど見るべき成果を残していない。

 (『内田樹の市民大学講座』朝日新聞出版より)

 「前者すらできない大学はどうなるのか」というより,

 「後者ができるからどうなるか」はだれにもわからない

 わけですが,もともと引用した箇所は,「世界標準」を追い

 求めようとする人間を批判しているコラムの一部ですから,

 本当に言いたいことは別にあると考える必要はあります。

 秋入学という「世界標準」を考え出した東大に,他大学が

 「迷惑な話だ」と本音で思っていることは,別に大学関係者

 ではなくてもわかります。

 グローバル化に「順応しよう」という意識ではなく,

 グローバル化の「新しい波をつくろう」という意識をもって

 ほしいのは,ほかでもない,大学という「知の頂点」にある

 教育・研究機関です。

 できるだけはやく,「省の附属物」の地位から抜け出て

 ほしいと思います。

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ダメ教師の情報と必ずセットになる「教師は追い詰められている」のコメントはいらない

 世間の常識は学校の非常識というが,

 学校の非常識さ加減をよく理解できていないような記事が

 教育関係で散見される。

 とんでもない教師の実例が紹介される。

 その締めくくりに,「教師も追い詰められている」とくる。

 現場を見ればよくわかる。

 本当に「追い詰められている」教師は,ほかの教師が

 必ず助ける。

 ダメ教師には,「追い詰められている」という実感が

 ないからこそ,ダメっぷりを存分に発揮できるのである。

 教師たちは,多くの場合はこのダメ教師をかばう側に

 まわってしまう。

 なぜかといえば,ほとんどの教師にはどこかに

 ダメな要素をもっているからで,いつか自分も

 「救われる立場になる」可能性を捨てきれない

 からである。

 親御さんたちには,くれぐれも私の忠告に耳を

 傾けてほしい。

 ダメ教師のなかには,クレーム相手を追い詰める

 ような強力な個性の持ち主が多いこと。

 保護者の側が追い詰められる危険性があること。

 最悪なのは,子どもが追い詰められるケースも多いこと。

 そのとき,救ってくれるのは,その学校の教師

 では無理だということ。救おうとした教師も被害者になる

 おそれがある。

 管理職でも無理。特に経験が浅い管理職は

 精神的にギブアップするおそれがある。

 経験がありすぎる管理職には,ごまかされて

 終わりになるおそれがある。

 相談相手は,教育委員会の指導主事にすること。

 学校へのクレーム対応のプロがいる。

 電話の応対で,もし自分の方がクレーマー扱い

 されそうな場合には,「議員あてに嘆願を行う」
 
 と宣言すること。

 情報公開請求が議員から出されると,教育委員会

 の事務局はおそろしい量の追加仕事を課せられる

 ことになるので,真剣に対応してくれる。

 さらに言えば,市町村ではなく,都道府県の

 教育委員会の人事部にあてて連絡をするのもよい。

 教職員の不祥事の情報をすべて握っている

 部署である。そこに直接情報を流すという方法も

 効果的である。

 PTAの組織がしっかりしているところなら,

 ダメ教師の情報はいくらでも入ってくる。

 「事前にできる範囲の予防策」を練ることもできる。

 子どもを守るための最低限の知識である。


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アクティヴ・ラーニングは一歩間違えば・・・

 NHKニュースで紹介されていた「アクティブ・ラーニング」とは何か。

 これまで,学習指導要領では「学習方法」について踏み込んでいないと報道されていましたが,決してそのようなことはありません。このブログのサイドバーにある内容をご覧いただけると,NHKニュースの誤りがよくわかります。

 さて,中央教育審議会が平成24年8月28日の第82回総会において取りまとめた答申が,

 「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け,主体的に考える力を育成する大学へ~」

 ・・・・すでに小中学校では「ゆとりの中で生きる力を育む」教育として実施されてきているような内容です。

 この答申の「用語集」に掲載されている「アクティブ・ラーニング」の定義は次の通り。

>教員による一方向的な講義形式の教育とは異なり,学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって,認知的,倫理的,社会的能力,教養,知識,経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習,問題解決学習,体験学習,調査学習等が含まれるが,教室内でのグループ・ディスカッション,ディベート,グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。

 
 ニュースでは,埼玉県の私立高校の授業の様子が紹介されていました。

 単に教科書に掲げられている「問い」の「答え」を導くだけの「学び合い」ではなく,広範な知識や技能を活用した「考える活動」「課題を発見して,その解決をめざそうとする活動」のことを指すわけですが,塾や予備校では採用されていない学習方法です。

 つまり「ゆとり教育」の代表的な授業風景が,再び求められていくという様相なのですが,習得すべき知識も多い,そして思考力や判断力,表現力の育成までもが求められるとしたら,本当に時間がいくらあっても足りません。

 結局,学校では試験に対応できる「学力」が身につかず,塾や予備校の存在感がますます高まるという,これまで何度も繰り返されてきた「問題」に気づかされるだけ,となる可能性もあります。

 アクティブ・ラーニングが

 「アクティブ」に実施されるための条件,

 「ラーニング」になるための条件を,

 しっかりと練っておいてほしいと思います。

 私立高校は私立高校なりの方針で教育がなされていてかまわないわけですが,

 男子は男子,女子は女子で4人グループをつくる,という方法は,公立学校では「やってはいけない」学習方法になります。

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ヨーグルトで自閉症が治る!?

 脳には,約1㎏の神経細胞があるそうですが,

 腸にも同じくらいの重さの微生物が生息しているのだそうです。

 まだ今すぐに効果がでるような大発見ではないようなのですが,

 腸と脳に大きな結びつきがあることは,

 学校の教師のある認識に科学的な根拠があったことを

 期待させる情報になります。

 「多くの不登校児が,休み始めに『お腹が痛い』と言う」

 という単純な話です。

 腸内細菌が脳を左右するなんて,

 「頭でっかち」な人間には想像できなかったかもしれない

 ことです。

 頭が主で体が従とか,単純な発想では

 教育もままならないことは常々実感していますが,

 いい事例が入手できました。

 レジリエンス(ストレスからの回復力)も脳科学の

 分野から解明されてくるかもしれませんが,

 近道は腸の良い細菌を増やすことになって

 くるのかもしれません。

 このニュースのおかげで,ナショナルジオグラフィック

 の公式日本版HPがあることを知りました。

 今まで,有用な情報へのアクセスも限られていた

 ことは残念でしたが,まずは1歩また前進できそうです。

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日本野球の「人づくり」

 どこかのサイトで,MLBのベンチの汚さと,

 侍ジャパンのベンチのきれいさがわかる写真

 が公開されていました。

 侍ジャパンの選手の多くは,高校球児でした。

 プロになる前のしつけが,こういうところに

 生かされていることに気づかされます。

 アメリカから学べるものは何か,

 お金で動く人たちには

 改めて考えてほしいことです。


 教師の机のまわりはどうなっているか,

 ご存じですか。

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「読み書き」と「話す聞く」を別物扱いする悪癖が学力向上を阻む

 『英会話不要論』(行方昭夫著,文春新書)では,

英語教育の課題について,次のような指摘を

しています。

>現在,英語教育は「読む・書く」から「話す・聞く」

へ軸足を移しています。しかし,この章でも見た

ように,英語の四つの技能は分かちがたく絡み,

影響しあっています。基礎力をつける段階では,

四つとも,分け隔てなく身につけるのが肝心です。

 この話を聞いて,私の場合はすぐに

「観点別学習状況の評価」の課題を思い浮かべて

しまいました。「観点別」に評価できるということは,

「別々」の学習状況がある,「別々」の学習があり,

「それぞれが」大事,という感覚になってしまいます。

 しかし,本来は,すべてが一体化してこそ,本物

の「学力」となるのです。ですから,

 「思考・判断・表現」の力を伸ばす教育をしようと

したら,「関心・意欲」も高める必要があるし,

基礎的な「知識・理解」がないとだめだし,

「資料活用の技能」もないと,成立しないのです。

 英語教育や国語教育のように「言語」の習得

に関してはすべてが「技能」と受け止められる

面もあるようですが,やはり「思考を経た理解」

があって,自分が活用できる「知識」になるはず

なので,そういう関連性を軽視して,

「話したり聞いたりする力が弱いから,そっちに

重点を移す」というのは愚の骨頂と呼ぶべき

ことなのです。実は,「話したり聞いたりする力

がない」と自覚している人のうち,多くは

「読んだり書いたりする力もない」ことが

この本では指摘されています。

 次の文章は,読書編からの転載です。

*******************

 小学校英語の導入は,日本人の言語能力を
 
 損なう結果になる・・・・科学的に証明されても,

 国の政策は変わらないかもしれません。

 英語の意味を解釈するのに,日本語で何というか,

 その候補は何で,どの日本語が最も適しているか

 がわからない人に,英語でのコミュニケーション

 がとれるとは言えない,ということです。

 私が強い印象で覚えているのは,大学1年の

 英語の授業で,講師だった人が誤訳をしたこと。

 その講師は英語は話せるのかもしれないけれど,

 日本語の語彙が乏しく,正しい解釈ができていない

 ことに,いらだちを感じました。

 英語に堪能だから英語の講師ができているのでしょうが,

 日本語の部分がひどい,という人が「英語の教師」

 でいられるというのが当然の世の中になりそうなのが,

 小学校英語必修の流れです。

 I am a Cat. という英語で,夏目漱石の小説の意味は

 理解してもらえるのか?

 そういう心配ができるような人が,

 「英会話が苦手」「英語が苦手」という感覚をもてる

 わけです。

 異文化の人々の言語を,抵抗なく受け入れて

 話せる人を増やすことは大切なことかもしれませんが,

 それを自国の文化の理解~その最も重要なことが

 日本語の理解であるわけですが~を犠牲にして,

 異文化の言語を学ばせるという教育政策は,

 宗主国に媚びる植民地の現地経営者根性のようだ

 と言わざるを得ません。

 この I がさしている日本語と,『ガリヴァ旅行記』の

  I は同じようなものであるはずだ,

 という感覚をもてる人ではないと,

 英語というのは実に薄っぺら・・・それでいいのですが

 ・・・な言葉という印象が強くなります。

 薄っぺらだからこそ,英語を母語としない多くの人々が

 使えるのだなあと思うわけです。

  つまり,英語を話せるようになることは,それほど

 難しいことではないわけです。しかし,母国語への

 感性が高い人ほど, 「英語をぺらぺら話す危険性」

 を肌で感じられるのです。

 では,日本人は英語を学習しなくてもよいのか。

 もちろんそうではありません。

 日本の文化を学ぶのに最も有効な方法の一つが

 日本語を学ぶことであるように,異文化を学ぶ方法の

 一つがその国の言語を学ぶことです。

 「使えることが大切」な会社に入るときに,最低限の

 語学力がついていれば,あとは会社にいるときに

 必死に学べばいいのではないでしょうか。

 それが給料や昇進に反映されるとなれば,

 必死で習得できるようにがんばるでしょう。

 ほとんど入試のためだけに学ぶ英語で,モチベーションが

 持てる人は少数です。
  
 楽天やユニクロの「大実験」が,

 「実は英語を話せるようになることよりも,

 日本人に不足しているという懸念があった

 思考力・判断力・表現力・・・もちろん自国の言葉の

 ・・・が身についていることの方が大事だった」

 ことを証明してくれるようになれば,

 学校英語の動静にも影響を与えることに

 なるのでしょうが・・・・。

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日本語がわからないALTと英語がわからない日本の教師のTT

 ALTというのは,英語の授業で英語を話す指導助手,

 TTとはティームティーチングのことです。

 『英会話不要論』(行方昭夫著,文春文庫)でも

 ふれられていますが,コミュニケーションが

 十分にできていない2人の「先生」に,

 コミュニケーション能力を高める指導が

 できるのは,疑問が残るところです。

 とりあえずALTは自分の役割を

 「生の英語を聞かせること」

 「生の英語を母国語とする人と

 話す機会を設けること」などと

 把握しているので,よほどヘンな人で

 なければ自分の役割はそれなりに

 果たしてくれるのです。

 問題は,授業を担当しているその学校の

 教師にある。

 その教師は,自分の役割が何だと

 思って授業に臨んでいるのでしょうか。

 コミュニケーション能力を高めようと

 している子どもの目の前で,大人二人が

 コミュニケーションが成立していないことを

 見せつけてしまうことほど,教育的に

 逆効果なものはありません。

 英語教育の迷走はしばらく続きそうですが,

 教師はなぜ自分がその姿をしているのか,

 自分が生徒だったときのことを思い出せば

 納得がいくかもしれません。

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「流星群」と「いじめ」

 発想のクイズです。

 「流星群」と「いじめ」の「つながり」とは何でしょうか。

 流れ星→願い事→「どうせ叶わない」→

 「のび太はスネ夫やジャイアンには勝てない」→

 「のび太はいつもいじめられている」→

 「私がいじめられている」

 こういう「経路」で「いじめ」が発覚しました。

 担任は新採二年目の若い教師。

 問題行動を起こす子どもが複数いる学級の担任。

 いじめの対象となった子どもの座席は,

 その子どもたちに「囲まれた」位置にある小2の女子。

 「毎時間のように,消しゴムを隠される」

 「えんぴつをとられる」

 「防災ずきんを落とされる」

 「ランドセルを隠される」

 「おなかを殴られる」

 「給食袋で叩かれる」

 実際の被害は,

 「メガネのフレームが曲がる」など。

 約3週間にわたって

 「いじめ」が継続しているとのこと。

 「大人が見ている前ではやらない」

 とのこと。

 成り行きを見守りたいと思います。

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不便な時代だからこそ必要とされたもの

 教育現場では,自分の主張を堂々と管理職に伝えられる人は少ない。
 
 そもそも自分の主張がある教師が少なくなっているという問題もあるが。

 企業でもそれは変わらないことだろう。

 受験勉強を悪役にしたい人たちは,それを

 「出された問題に対する最適な答えを出す人間が競争に勝つ」

 クセがついてしまったからだと批判するかもしれないが,

 その問題が今回のテーマではない。

 思い通りにコトが運ばないとき,それを

 「分からず屋の上司のせい」にするのは簡単だが,

 それはただの「逃げ」にすぎない。

 現代よりももっと「不便な時代」を生きた人々・・・・・・

 門地がモノを言う時代に生きた江戸時代の人々は,

 その「不便」をどう克服してきたのか。

 その事例が週刊東洋経済11月22日号のコラム

 「生涯現役の人生学~童門冬二」で紹介されている。

 「不便」に対処する手段は,
 
 「知恵」である。

 歴史を学ぶ意味とは,

 今より諸活動の条件が悪い社会の中で,

 人々はどのように生き抜いてきたかを知ることにある,

 という見方もできる。

 便利な世の中になると,どんどん「知恵」が

 不必要になっていく。「工夫」もいらなくなる。

 そう考えれば,「金がない」ことは,不利な条件では

 あるものの,「知恵」「工夫」が必要な状況であり,

 人間の真価を問うことができるという好条件である

 と考えることもできる。

 「人がいない」ことへの対処も同様である。

 問題は,「知恵をしぼろうとする人がいない」ことである。

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あなたは「優秀な生徒」に囲まれて仕事がしたいですか?

 「優秀な生徒が集まる学校」で研究発表を

 行うような場合,多くの人が,

 「それは優秀な生徒だからできる」

 という感じ方をするものです。

 では,自分自身がここにいて,その

 「優秀な生徒」たちを指導すれば,

 目の前で起こっていることを

 再現できるか?という問いをする

 ことができるでしょうか。

 「私なら,もっと優れた発表を

 させることができた」と思えたら,

 それは有望な先生です。

 ただし,あくまでも「有望」ということ。

 「優秀な生徒」たちに見限られた教師

 の末路を想像することができますか?

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受験を「悪役」にする「責任逃れ」は許されない

 読書編「受験前は親が自分を

 見失わないことが大切」の記事からの

 転載です。

******************

 人間はときとして,「自分を見失う」

 ことがあります。

 中学受験を間近に控えた親,

 高校受験でまだ志望校が決まらない子
 
 どもにやきもきしている親,

 今年こそ大学合格してほしいと願う

 浪人生の親,・・・・受験関係者にも,

 いろいろな人がいます。

 一番頭を使い,神経をすりへらして

 いるのは問題作成者ですよと

 言いたい気にもなりますが,

 ここは受験生の親向けの言葉です。

 受験生の親の中には,すべてを

 塾と子どもに任せ,成り行きを見ている

 だけ,という腹の据わった人もいる

 でしょうが,私の肌感覚では,受験前に

 自分を見失ってしまう親が多いように

 思います。

 その最大の真の原因は,子どもの努力と
 
 か能力とか態度ではなく,親自身が自分

 自身の能力のことを分かっていないことに

 あると思っています。

 「私は一生懸命受験勉強し,難関校に

 合格して・・・」なんていう話ではありません。

 「私と子どもは違う人間」という根本的な

 事実を無視している愚かな人間の話は

 置いておきます。

 受験生の親が,受験期にできることは

 何ですか。

 おいしい手作りのご飯をつくって,

 肌触りや香りのよい,きれいな洋服を

 用意して,寝具にも気を遣って,

 風邪をひかず,インフルエンザにも

 かからないように,「健康な体」を維持

 させることはもちろんですが,

 子どもが「自分を見失っていないか」

 子どもが「自分とは何者か」を自覚できる

 ように教育することが親の使命です。

 そのために,「自分を知る技術」を親も

 身につけておき,「自分を知る」こととは

 こういうことだという態度を子どもに

 対してできるようにしておくことです。

 受験会場では,他の受験生に迷惑を

 かけるような子どもがたまにいます。

 他の受験生の親に嫌な思いをさせる

 ような親がいます。

 「受験がこんな人間をつくった」などと

 いうのは,人間の能力を軽視した,

 ただの屁理屈にすぎません。

 ですからある意味では,「受験勉強」を

 特別視せず,「いつもの勉強の延長」

 くらいでもかまわないのではないですか。

 「合格したら,何時間でもゲームして

 いいから」なんて言い方で励ました親の

 子どもが,親を超える人間であってほしい

 と心の底から願いたいです。 

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自分を知ることが最も難しい

 自分の能力を知る技術を,「教師のコンピテンシー」として

 別のHPでまとめてあるが,なかなか現実の自分の能力を

 直視しようとする心のゆとりのある人は少ない。

 欧米圏では,自分の能力を知る「技術」として,それなりに

 体系化しようとする発想があるが,日本はあくまでも

 人間を「総体」として・・・「総合評価」としてとらえようとする

 傾向がある。だから私も「観点別学習状況の評価」は

 使い方を間違えると,学力低下の原因になる「問題の評価

 方法」として反対している。

 これを真の意味で使いこなす暇は,

 少なくとも中等教育の現場にはない。

 「自分を知る技術」に関する本はいくつかあるが,

 『ハーバードの自分を知る技術

  悩めるエリートたちの人生戦略マップ』

 (CCCメディアハウス)は参考になる。

 切り口が明確である。

 たとえば教師の中に,「自分の机を整理しない」という

 「主義」の人がいる。「整理しない」という「選択」をして

 いるわけだから,「整理できない」という「能力の低さ」は

 認めない。これに類する事例が,山ほどある。

 人間は,自分の能力を直視して,きちんと分析して,

 それをもとに行動することが難しい。

 しかし,それができる人が集まる組織はすばらしい

 成果を発揮する。

 優れた企業の現場では,会社が求めている能力と,

 社員が発揮しようとしている能力が一致している。

 問題山積の公立学校の現場では,国が求めている

 能力と,都道府県が求めている能力と,市町村が

 求めている能力と,文部科学省が求めている能力と,

 都道府県教育委員会が求めている能力と,

 市町村教育委員会が求めている能力と,

 保護者が求めている能力と,地域が求めている能力と,

 子どもが求めている能力が,教師が発揮しようと

 している能力と一致していないことと,

 そういう能力が持てていない現状にある。

 「多くを教師に求めすぎだ」という教師の意見と,

 「もっとできるはずだ」というその他の意見が

 対立している。

 「自分を知る」ことは,教師だけでなく,行政も,

 首長も,住民も,保護者も,子どもも,すべての

 人や組織に求められる重要な技能となる。

 だれか他の人だけに求める筋合いのものでは

 ない。

 それを教えられるのは,教育現場しかない。

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逆立ちしても「学び合い」が分からない人

 「学び合い」とは,単なる「教え合い」ではないはずだ,

 という趣旨のことを指摘した。

 中学校の教師の多くが,「学び合い」の理念は

 いいものだと感じつつも,なかなか実践できないで

 いることだろう。

 たとえばあなたが教師だとして,年間にどのくらい,

 自分の授業を他の教師に見てもらっていると

 思うだろうか。見てもらいたいと願うだろうか。

 「できれば授業は見られたくない」と思うだろうか。

 教師の「学び合い」といえば,たとえば

 他教科の教師から,その教科の特性との比較から,

 自分の教科への批判なりアドバイスなりを

 もらったりして,参考とするケースを想像してみて

 ほしい。

 こういう経験を多く持っている人は,

 「学び合い」とは何かを何分でも語れるだろう。

 しかし,そもそも「学び合い」を経験したことが

 ない人に,「学び合い」とは何かを考えてもらう

 のは難しい。

 だれでも真似ができそうなことに飛びつくと,

 痛い目に遭う。

 大切な道より,容易き道を選びがちなのが

 人間というものである。

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「就職」ではなく「就社」,「就校」意識の重要性

 ものごとにはメリットとデメリットが必ずある。

 サイバーエージェント社長の藤田晋は,ベンチャー企業

 にはめずらしく,終身雇用を掲げている。

 起業前は実力主義が大切で,終身雇用は終わったと

 考えていたそうだが,経営者の立場になってみると,

 社員の会社への帰属意識,一体感が重要だという

 ことがわかったらしい。

 企業の業績は,絶対に右肩上がりが続くとは限らない。

 厳しい時期も迎える。

 そういうタイミングで,社内でスキルを磨いて能力向上

 を重ねた人材が,簡単に他社へ流出してしまうようだと,

 企業の存続自体が危うくなる。

 もちろん,安定性にあぐらをかく人間もいるかも

 しれないが,安定性があってこそのすばらしいアイデア

 が生まれるかもしれない。

 変化の激しい社会を生き抜くため,企業には

 柔軟な対応が求められる。「これは私の仕事じゃない」

 「この仕事は専門じゃないからやらない」

 などという社員が多ければ,大規模なリストラと

 新採用をその都度行わなければならなくなる。

 日本の国民性に合った経営は,実は

 グローバル化が進む社会だからこそ,

 「生き残る」ために欠かせないものなのかも

 しれない。

 

 こうした企業があることを視野に入れて,

 公教育の現場を見てみよう。

 数年で異動のある,公立学校の教師のどれだけが,

 「就校」意識をもっているだろう。

 安定性はある。しかし,異動がある。

 もちろん異動には,非常に大きなメリットもある。

 「良い経営が拡大しやすい」というものである。

 しかし,その長所を生かす経営がなされているか

 どうか。

 「どうせあと○年でいなくなるのだから・・・」

 という意識で,学校の課題に着手しようとしない

 教員はいないだろうか。

 「どうせ公立の子どもだから・・・」

 といって,十分な学習指導を行わない教員は

 いないだろうか。

 公務員になっている教員たちの中には,

 公務員でいる資格が本当にあるのだろうかと

 疑問符がつく人間が少なくない。

 自分の子どもに生徒の成績データを見せている

 「バカ親」教師は,いったいいくつの「罪」を

 犯していると言えるのだろうか。

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すぐ「感動する」人がもつべき資質 その2

 今度は,真面目な教育の話です。

 2013年7月7日の記事を転載します。

 タイトルは,『「感動」や「個性」の意味を

 知らない人のために』でした。

 底の浅い,発展性のない「感動」や

 「個性」の捉え方を戒めた内容になっています。

 人は,ただ感動するだけではダメなのです。

 その感動が,「何を生むのか」が大事。

 教育に携わる人なら,最低限知っておくべき

 「歴史」の話もあります。

 「文学者」「音楽家」「詩人」・・・あらゆる人が,

 「戦争」の遂行のために利用されました。

******************

 戦争の時代を生き抜いた人でなければ,

 分からないことかもしれない。

 日本では,なぜ長期にわたる

 戦争の遂行が可能だったのか。

 それは,それが可能になるように,

 多くの人が知恵を絞り,

 それを実行してきた成果である。

 
 特に,どんなに戦局が悪化しようが,
 
 「戦争をやめよう」という声が出せないように,

 最大限の「工夫」がこらされてきた。


 新聞やラジオなどのメディア,

 そして「学校教育」が,

 その大きな役割を果たしてきたことは,

 今の中学生でも理解できる。


 人は,何に対してどのように「感動」するかを

 「植え付けられてしまう」存在なのである。

 「感動させるように語れ!」と命令されたら,

 そのように「語る」ことができる子どもや大人が

 どれだけたくさんいたか。

 (今も,どれだけいるか・・・・そもそも,

 そういうことを「職業」にしているのが

 「役者」であるし,教師にもそれができることが

 求められる場面が必ずある。)


 音楽家のなかに,「人を感動させたい」と

 思うのがいても不思議ではないのである。

 「感動したい」という聞き手の欲求と,

 「感動させたい」という「演奏者」の欲求が

 マッチしたときの「盛り上がり」を想像することは

 難しくないだろう。


 どんなに下手くそな演奏で,

 どんなに最悪な教師が指揮者をつとめていようが,

 親が子どもの演奏を聴くときは

 感動してしまうものである。


 「感動してもらえるように演奏しよう」などと

 いう「いやらしい言葉」を,

 少なくとも「教育者」は口にするべきではない。 


 人間の心は,自然に動かされてしまうものだし,

 容易に人からコントロールされてしまうものだ

 ということを知っていなければ,

 今後,「演説の技術」だけで騙されてしまう人が

 増えていくだろう。


 
 次に,「個性」である。

 教育の場で使う「個性」という言葉には,

 生物学的な「個体の性質」とは

 次元の異なる意味がある。

 人は姿や形が異なるが,

 もちろんこれだけが個性ではない。

 ただ,中学生は,姿や形にかかわる「個性」については,

 涙ぐましい努力をして,

 それを「自分や友達の気に入ったもの」

 にするために「変えたい」と願い,

 実際に「変えて」いく。

 「生まれつきのものだから何をしても無駄だ」

 という「冷たい教師」の言動が想像されるが,

 中学生レベルだと,最も分かりやすい「個性」とは

 「外見」のことである。


 ファッションの世界で「個性がない」という評価は

 何を意味するのだろう。


 どんなに「冷たい教師」でも,生まれつき

 「冷たい人間」だったわけではない。

 生育歴が子どもの「個性」に影響を与える

 ことなど,教師になる人間ならだれでも知っている。

 人には,それぞれ必ずその人固有のよさがある,

 というのが「教育」の世界の人間の考え方である。

 「学校教育」の世界のなかには,

 そういう考え方ができない人間がいるようだが。

 
 その「個性」は,生かされ,伸ばされる「場」を待っている。

 「学校」をそういう「場」にしようとするのが,

 教師の仕事である。

 生徒の「個性」は,様々な広がりをもって「伸びていく」。

 
 それを「生まれつきあったものだ」と語ることもいいが,

 「人と人との関係性のなかで,生まれる良さもある」

 というのが,教師の語るべき言葉である。

 「個性」とは,「人との違い」などという単純なものではない。

 「だれ一人もっていない,自分だけの良さ」だけを

 追求する人間を想像してみてほしい。

 おかしな話である。

 まずは,他の人にもある,「自分のいいところ」を

 見つけさせることが大切である。

 しかし,中学生には,「自分のいいところ」を

 「自分で見つける」ことが難しい。

 だから,生徒相互の信頼関係を深めさせ,

 互いに「いいところ」を指摘し合い,

 高め合う指導が求められる。

 クラスをもったことがない,つまり,

 35時間の道徳教育を実践したことがない人間の

 書くことは,こんな人間でも採用試験に

 合格してしまうことのおそろしさを

 物語っている。

 
 教員採用試験に大学生を合格させるための塾でも,

 これくらいのことは教えてくれているはずなのに。


 太平洋戦争中も,日本は法治国家であった。

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同一内容を教え合うことは真の「学び合い」ではない

 少人数指導にしろティームティーチングにしろ,

 同一学年で同一のカリキュラムで同一の内容を学習させるとき,

 そこでの「学び合い」はごく限られた幅で奥行きのないものとなる。

 あくまでも「共通体験」を行っているにすぎない。

 どうしたら幅を広く,奥行きのある「学び」にすることができるか

 といえば,そこでこそ,「教師の存在意義」が問われるという

 ものである。

 だから,子どもだけに「教え合わせて」も,「学び合い」には

 ならないことくらい,授業の質に幅と奥行きを実感しながら

 学んできた人間には容易に気づけることだった。

 そういう経験をもっていなかった方々は,お気の毒である。

 
 真の「学び合い」は,価値観の多様化が進むこれからの

 社会を生き抜くのに必要な資質・能力を高める方向性を

 もっていなければならない。

 それはたとえば,異質なものの価値に気づき,異分野だから,

 違和感があるから,といって差別・排除することなく,

 上手く自分の中に取り込んで,「ものにする」ことのできる

 ような力である。


 だから,子どもがある分野の内容を学び,それを

 経験したことがない子どもに教え,考えさせるような教育が

 必要なのである。

 
 校外に出かけて学ぶような学習で,全員が全く同じような

 ことを見て,聞いて,考えてくるようなスタイルのものがある。

 それを学校に戻ってきて発表会を開いたところで,

 「それ知ってるよ」で終わってしまう。

 
 だから,このような学習を行う場合には,生徒をコースに分け,

 別々のテーマで事前学習に取り組ませ,現地でも別々に

 行動し,追究させるべきなのである。

 だからこそ,事後学習での「合同発表会」に意味が出てくる。

 
 それぞれのコースでは,充実した学習を行わせなければ

 ならない。

 「つまらなかった」「充実感がなかった」ことを共有しあっても

 意味はない・・・・当然ながら,全くの逆効果となるわけである。

 
 充実した学習の内容を,「発表したくてしかたがない」

 「伝えたくてしかたない」生徒同士が情報交換を行うことが,

 「学び合い」として成立するのである。


 自分がもっていないものを,相手から得られるような学習。

 自分がもっているものを,相手に伝えつつ,自分の学習の

 意義を再確認する学習。

 これを「学び合い」という。

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ブログでの泥仕合と炎上商法

 泥仕合には,「本当の勝利」はない。

 結局,失う物をたくさん持っていた方が負ける。

 失う物がない者だからこそ,

 泥仕合に持ち込むメリットがあるのである。

 双方とも泥仕合で狙っているメリットが

 あるとすれば,「知名度が上がる」という

 ことである。

 ブログでは,「アクセス数が増える」ということ

 である。

 10月20日に行われた橋下市長と在特会会長の

 「公開討論」は,結局,多くのメディアによって

 黙殺されたために,「注目を集める」という

 ねらいは十分に達成されなかったことになる。

 小田嶋隆のコラム(日経ビジネス)では,

 「橋下市長の失敗」の原因が書かれている。

>話を聞かない人間を論破することは不可能

 罵倒合戦に終わった「公開討論」について,

 子どもたちの多くは「民主主義の危うさ」を

 感じてしまったのではなかろうか,

 というのが私の不安である。

 
 炎上商法というものがあるようだが,

 ごくわずかな期間の注目やもうけを最大化

 するために,多くの犠牲を払うのは,

 長期的に考えれば最も非効率的な方法

 ではなかろうか。

 
 しかし,時代は,「今だけが大事」といった

 価値観を肯定する方向にどんどん流れて

 しまっている気がしないでもない。

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「今」は「過去」と「未来」によって成り立つ

 タイトルは,

 中島岳志・若松英輔著『現代の超克 本当の「読み」を取り戻す』(ミシマ社)

 に紹介されている言葉です。

 ヒンディー語では,「昨日」という単語と,

 「明日」という単語が同じだそうですね。

 「おととい」と「あさって」も同じ単語。

 つまり,「今」からの距離が等しいという

 意味で,過去と未来は「同じ」だという感覚。

 両者の違いは,

 動詞が過去形か未来形かで判断するとのこと。

 歴史とつながらないと,

 未来の他者ともつながれない・・・・・

 このような「今」の感覚をもてるようにするのは,

 どうしたらよいのでしょうか。

 「死者のデモクラシー」の話も大切です。

 自分一人の,そのときの考えだけで投票してはならない。

 自分の投票のなかには,死者が含まれていなければならない。

 死者と語らうこと,歴史を引き受けようとする態度が,

 未来の他者とつながることにつながる。

 歴史を語っている者は,死者を感じながら語っているということ。

 『苦海浄土 わが水俣病』を著わした石牟礼道子さんの

 講演が終わった後,事務局代表の方が,こんな挨拶を

 されたとのことです。

>後日同じ会場で水俣展をやる。(中略)

 その会場では,水俣で亡くなった人たちの遺影を飾る,

 みなさん,ぜひその方々に会いに来てほしいと言うのです。

 彼は本気で言っている。みなさんの来場を死者たちが

 待っている,どうか来ていただきたいと言う。

 彼は,みなさんがそこで写真を見るということは,

 本当に世の中をつくっていくことそのものなのだ,

 と言うのです。(中略)

 実際にそこに行けば,行く前には考えも及ばないような

 出来事が内心で起こる。そうした経験だけが世の中を

 変えていくというのです。

 言葉にはされていないようですが,

 こういう経験と,

 「読む」ことがいかに「近い」ものであるか,

 実感することができました。

 歴史教育に必要なものが何だか,

 なぜ私が歴史教育にかかわって

 いるのか,

 少しわかったような気がします。

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すぐ「感動する」人がもつべき資質

 2013年5月9日の「感動することはすぐに忘れた方がいい」

を再掲させてもらいますが,ここで言いたいことは,

「おいしい生き方」の話です。

 「教育論」になっていない無駄話が「教育論・教育問題」

カテゴリに紛れ込んでしまうのがこれからの「教育問題」

でもあります。

******************


 亡くなった父は,感動のドラマを

 見ながらよく涙を流していた。

 再放送されたものでも。

 見るのが2回目のドラマでも。

 前回の感動はあまりよく覚えていないし,

 ドラマの筋も忘れていたりする。

 そういう方が,感動も大きいだろう。

 記憶させるために感動させる,

 という教師がいたとしたら,

 本当に気色悪い。

 吐き気がする。

 感動できることは,

 何度でもその体験ができるように,

 すぐに忘れてしまう習慣がついている人は

 幸せである。

 たいして出来がよいわけでも,

 役者の演技が上手いわけでもなく,

 感動してしまう映画がある。

 なぜか。

 音楽がいいからである。

 音楽は,人の理性を失わせ,

 豊かな感性にひたらせてくれる道具なのか。

 話を戻すと,

 「記憶」などをゴールにするような教育は,

 学校には全く必要がない。

 「生きる力」の「い」の字も理解していない

 人間がまた意味のないことを書いている。

 教える人間が悪かったか,

 教わる人間が勝手な解釈をしてしまってか,

 その両方が原因か,

 判断はできないが,

 せっかくの「学問」も台無しである。

 「記憶」だけではいかに「だめか」,

 教科書的なお手本にも使える事例である。

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すぐ「感動する」人の注意点

 2013年3月25日の記事の再掲です。

 タイトルは,「道徳の授業の原動力は感動?」

 でした。

 道徳教育を軌道に乗せるために,

 留意すべきことを書きました。

******************


 道徳が教科になれば,

 子どもたちが「副教材」を購入しなくてすむ。

 「検定教科書」が誕生する。

 そこには,かつての偉人から

 有名スポーツ選手,

 ハンディキャップを克服した人などが

 登場し,

 子どもたちの「感動」をよびおこす教材が

 おさめられるはずである。

 道徳の授業における「感動」が,

 子どもに「実践する気」をおこさせ,

 実践力をつけさせていく。

 ・・・・・・

 というシナリオがなんとなく思い浮かぶだろう。

 ここでネックになるのは,

 たよりない教師の存在である。

 教科書を使う授業というのは,

 教師の指導力が如実にあらわれる。

 教材に登場した人たちの苦労は子どもたちに伝わるが,

 教師の苦労は,伝わらない。

 道徳の教材づくりは,

 教師が本当に「苦労」してつくり出すものである。

 教科書ができてしまうと,

 それだけで教材研究をしなくなる教師が

 大量に生まれてしまうだろう。

 道徳の教科書の「指導書」を読む教師なら,

 まだまともか,というくらいの話である。

 教育の原動力は,

 教師たちが苦心の末に生み出す,

 子どもたちにとって最良の
 
 「教材」である。

 道徳の授業をしたことがない・・・・つまり,

 担任をもったことがない人間が,

 道徳を揶揄する・・・・

 これこそが,道徳教育の「成果」である。

 

 「感動」は原動力になっても,

 推進力として維持することは難しい。

 教育の推進力は,教師の「苦労」「苦心」である。

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再掲 「感動させる」ことを目的にしたとき,「音楽」の「魂」は消える

 2013年7月5日の記事の再掲です。

 「心にうったえる授業」のねらいは,

 「心にうったえる」ことそのものではなくて,

 「子どもの心や考え方が変わる」ことに

 あります。

 目標と手段を区別できるような

 教育者であってほしいと思います。

****************

 太平洋戦争時,戦局が悪化すると,

 最後の頼みの綱は,「魂」のみとなった。

 人間も,物資も,すべてが欠乏していた。

 技術も,すでに追い抜かれていた。

 「玉砕戦」で亡くなった方々の魂を

 慰めるために,私たちがしなければならない

 ことは何か。

 野球でも,「魂を込めて投げろ」なんていう

 「精神論」は,過去のものとなった。

 音楽の世界では,最悪の時代の

 「亡霊」が,まださまよい歩いているようである。

 「音楽家」は,人を「感動させる」のが仕事だろうか。

 そんな「必死さ」が伝わってきたら,それこそ「興ざめ」である。

 「音楽家」が「音楽」に酔っている場面を見て,

 「興ざめ」になる人はどのくらいいるだろうか。

 私はそれで「興ざめ」はしない。

 いい演奏をして,自分で満足をしている姿を見て,

 「すばらしいです」と讃えたい気持ちになる。

 私には,人を感動させようと必死になっている中学生の姿は,

 想像しにくい。

 自分なりに満足がいくことをやる,それだけで精一杯でも,

 よいのではないか。

 「聴衆を感動させる演奏を心がけなさい」という指導は,

 音楽の人間なら一般的なのだろうか。

 私はここに,小学校の教師の醜い典型を見る。

 「参観者を子どもの発言で感動させることが,よい教師と子どもの姿である」・・・

 こういう盲信を抱いている大会参加者が多い場に出ると,

 本当に辟易とさせられる。

 名人とやらの「道具」にさせられている子どもたちが気の毒でならない。

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教育の目標は「感動させること」ではなく,その先にあること

 世の中には,

 「心がまえ」=「自分ができないこと」と

 認識している大人がいるようである。

 教育の目標は,「感動させること」

 ではない。「感動し,~するようになる」

 の「~する」内容が大切なのである。

 以下の内容は,2013年5月10日の記事

 「感動の押し売りが好きな教師に

 道徳教育をさせてはならない」の

 再掲である。

*****

 道徳の時間は,子どもが

 最も「好きではない時間」

 の一つである。

 それは,

 「価値観の押し付け」
 
 「感動の押し売り」

 が常態化していることを如実に

 物語っている。

 水は低い方へ流れる。

 教育の世界も,

 簡単にできる指導法に,教師は飛びつく。

 簡単にできる指導法で,

 本当に導きたい方へ子どもを連れて

 行くようなことはできない。

 できると誤解している教師は,

 すでに「導く方向」を誤っているのである。


 専門教科の指導とは異なる

 道徳の時間の指導に,

 真面目な教師は四苦八苦している。

 その「四苦八苦」している姿を見せること

 こそが教育の価値に結びつくのに,

 「これでどうだ」

 とばかりの指導案を見ることがある。

 教育の仕事は,本当に長時間労働だし,

 内容は緊張をしいられるし,

 専門的な知識も必要だし,

 じっくりと時間をかけた子どもとの

 コミュニケーションも必要で,

 それだけ充実感が得られやすいとともに,

 教師の方が勝手に「感動」して喜べる

 仕事でもある。

 「心」の問題というのは,そうやって

 「勝手に感動している」ことが大切

 なのであって,

 「ここで相手を感動させよう」なんて

 思って指導するものではない。

 しかし,教師の中には,

 根っこから広告業や娯楽業の人間に

 変わってしまった人が出てくる。
 
 「上手くいったことに味をしめる」

 教師がすることは,

 外部から見れば,

 「感動の押し売り」である。

 そして,「感動しない方が悪い」

 「感動できる心が育っていない」などとくる。

 広告業や娯楽業のように,

 感情のコントロールの方法が

 洗練されていないために,

 「くささ」が際立つ。

 目標は,「感動させること」ではない。

 「感動」は,その先にある目標を見えなくする

 教育の世界の「悪魔」であることの

 自覚が教師にはほしい。

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宮崎監督のプロ根性と教員が「教師」と自称できる資格

 「町工場の親父」としての宮崎監督。

 アニメーターに必要な資質は,

 1に忍耐,2に忍耐,3,4がなくて・・・

 全部忍耐と語る。

 光のさしかた,水の描き方ひとつが

 うまくいったというだけで,2~3日は

 幸せになれるという仕事。
 
 3分に1回は笑わせなければならない

 といった固定観念を打ち破ろうとする

 本物のクリエイター。

 「監督になってよかったと思ったことはない」

 と語る,根っからの職人。

 私たち教師が,教員ではなく,

 「教師」と自称できる資格はどこにあるのか。

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羽生選手の闘志

 今週の道徳の時間に,羽生選手の不倒の精神を語ろうと

 考えている教師が多いと思われる。

 あらゆる格闘技選手に引けを取らない羽生選手の闘志は,

 スポーツの精神はもちろん,子どもにあきらめないことの

 大切さ,いじけない強い意思,困難に立ち向かう勇気を

 教えてくれる。

 世界を舞台に活躍する羽生選手の勇姿が子どもたちの

 心に訴えかける「力」は計り知れないものがある。

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超近視眼的な学力向上騒ぎを恥ずかしいと思える保護者はいませんか?

 成績のよい子どもの生活習慣や行動パターンを真似させる。

 コンピテンシーを活用させる事例の一つです。

 しかし,これは生活習慣が整っているから,学力が高くなる,

 という前提での話です。

 学力というのは,それほど簡単なものではありません。

 残念ながら,今,国が行っている問題は,たとえB問題でも,

 決して「頭を使わないとできない」というレベルではありません。

 おそらく子どもも問題を解きながら,「自分はすごく頭を使っている」

 という実感はもてていないでしょう。

 ただのマス目に計算結果を埋めていくような学習方法でも,
 
 「頭を使っている」と思わせてしまったのが日本の小学校です。

 「頭を使う」ことの意味がわかっていない子どもに,
 
 「頭を使って考えろ」という言葉で通じるものはないでしょう。

 学力調査の結果を受けて,各自治体が発表している内容は,
 
 誠に近視眼的なものばかりです。すこしばかり授業が上手な

 人の話を聞いても,簡単に授業が改善できるとは思いません。

 行政にしろ,学校にしろ,異動のサイクルが早い人間は,

 すぐに結果をほしがります。

 文科省のカネの配分方法も,それを助長しています。

 教育はインスタント食品とは少し違います。

 私の娘の小学校では,毎学年,クラス替えがあり,担任も替わります。

 だれの責任で学力が不振になったか明確にならないような

 しくみになっています。

 まずは,こういうしくみから変えることが一番でしょう。

 小学校は,基本的に6年間のもちあがり。

 子どもと一緒に6年サイクルで異動していく。

 親と子どもが見限ったら,転校を認めます。

 どんどん少人数になっていきますが,

 少人数で成果が上がるなら,指導力不足と

 相殺されて問題はなくなるのでしょう。

 教師のレベルでも「責任」を感じないですむような

 しくみになってしまっていることが問題です。

 6年間,離れられないと知ったら,

 親も必死になりますよ。

 当然,教師もまじめに仕事をせざるを得ません。

 「前の担任が・・・」という言い訳ができないからです。

 人間の質がよほど違っていれば別ですが,

 行政や管理職には真の「責任」の意識はもちにくいでしょうね。

 短いサイクルで異動を繰り返しているような教員たちに,

 「責任感をもて」「使命感をもて」というのは無理な話かもしれません。

 そんなことを思ってしまうほど,今の

 近視眼的な騒ぎというのは教育の本質がわかっていないとしか

 考えられません。

 まずは授業がまともにできない人間の教員への採用を

 即刻中止にすることです。行政にできるのは,それしかありません。

 負の遺産を増やさないこと。長期的には,それに尽きます。
 
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ポジティブな人間が熱心に探すもの

 あなたの身近に,一人でも「ポジティブ思考」の人はいますか。

 おそらくその人は,周囲に本当によい影響を与えてくれていることでしょう。

 後ろ向きの人間は,「言い訳」を探す。

 前向きの人間は,いつでも「手段」を探しています。

 どのようにしたら,子どもの学力を向上させることができるか,その手段とは何か。

 単に「振り返りの時間を設ける」なんてことを考えていては,ダメです。

 「振り返りができる子ども」は,そもそも「振り返る必要のない子ども」です。

 学習がよく身につかなかった子どもは,何がどこまでわかっていないかも

 わからないから,振り返りができないのです。

 単にテストをしただけだと,できないことはわかっても, 

 どうしてできないかはわかりません。

 何を教師は教える存在なのかを,考え直してもらう必要があります。

 どのようにしたら,会議の時間を短くすることができるか,その手段とは何か。

 いつも長い質問をしてくる人はいませんか。

 その人には,事前に説明をしてあげたらどうでしょう。

 長い会議は,ただでさえ人間の思考力を奪っていきます。

 心のゆとりのあるうちに,苦手な人とはやりとりをしておくべきです。

 ポジティブな人間は,よい方法,よい手段を常に探ります。

 よい方向に自分が向かおうとしていると自覚のある人間には,

 「言い訳」などを探している暇はないのです。

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ネガティブな人間が熱心に探すもの

 さぼりたい人間,何もしたくない人間,

 ネガティブな人間が一生懸命になることがある。

 それは,「言い訳」を探すこと。

 アラブ世界に伝わる言葉だそうです。

 世界共通ではないでしょうか。

 近くにいませんか。

 真面目な人から見ると,

 本当に「余計なこと」=「言い訳」

 に多くの時間を費やしている人間が。

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全国学力調査でばれてきている情報

 道徳の授業時間数など,学校は実際には行ってない授業を行った

 ものとして教育委員会に報告するのが常識になっていると,

 一般の人は考えている。私の娘の学校では,6月くらいまで道徳の

 時間がなかったから,今後,週2時間の道徳の授業をしないと,

 35時間が確保できない。しかし,本当の報告をすることはないだろう。

 高校の未履修問題のように,時間割にも入っていないとさすがに

 ばれてしまうが,「やったことにする」のが可能であるのが道徳である。

 これは教科化されたところで,たいした変化はないだろう。
 
 こうした「やったことにしている」ことが,実際にそうではないことが

 ばれ始めていることを一般の方はご存じだろうか。

 あまり注目はされていないが,全国学力調査と同時に,

 質問紙調査,簡単に言えばアンケート調査を子どもに実施している。

 何時ころ寝ますか,1年に本を何冊読みますか,という質問から,

 授業が始まるときに,その時間の目標を先生は示してくれていますか,?

 授業の終わりに,ふりかえりを行っていますか?

 という細かいものまである。

 神奈川県が発表したことによると,これらの質問に対する答えが,

 教師のものと生徒のものが食い違っている。

 もちろん,生徒の方が正しい認識を示している。

 教育とは,教師が何を話したかではなく,子どもが何を学んだかが

 重要なのだから。

 「やったつもり」が通用する時代はすぐに終わるだろう。

 音声認識技術の発達によって,今後,教師の授業の実態は,

 コンピュータによって解析され,一定の信頼性の高い情報が

 収集されることになるだろう。

 具体的な内容は,また後ほど提案したい。

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データを処理するように,子どもの能力を考えてはいけない

 愚かな思考法,誤った思考法をご開陳されている方が

 いるが,生の人間を相手にした教育をしていないのなら,

 仕方がないかもしれない。

 個人情報など,雑多な情報というのは,

 データの内容や性質から階層を分けて整理した方が

 活用しやすい。

 たとえば自宅の電話番号と勤務先の電話番号が同じ階層に

 入っていると不便である。

 こうした人格を持たないただの情報は,

 ツリー構造でまとめるのが便利だろう。

 頭を使わなければならないのは,階層をどの程度まで深く

 するか,浅くしておくか,といった「分け方」の問題である。

 無機質な「単なる数字」「単なるデータ」は,これですむ。

 しかし,人間の能力のように,そもそも1つが

 他の多くの能力と関連し合っているものを考える場合には,

 階層化することが難しいし,そもそも「分けることができない」

 「分けるべきではない」ものを無理に分けて整理すべきでは

 ない。

 これは,教育観というより,

 人間観の根本にかかわる問題である。

 階層は,どんな能力がどんな能力より上位などといった

 「上下関係」を生む。そのように常に「上下関係」を考えたい

 人間にはぴったりの思考法かもしれないが,たとえ

 自分が勝手に「上位だ」「階層がこっちが上だ」と思い込んでも,

 実質的には全く逆だったりすることがある。

 ただ年齢が上であるだけで,偉そうにできる時代ではない。

 ツリー構造で整理するのが便利な情報と,

 様々な指標を組み合わせて,多様なマトリックスで考えるべき

 人間の能力こそ,「分けて」考えるべきである。

 どうしてもツリー構造で人間の能力のタイプを分けたいので

 あれば,まずは最初の「子要素」を示してごらん。

 学習の評価は,「関心・意欲・態度」「思考・判断・表現」

 「資料活用の技能」「知識・理解」となっている。

 この下の「孫要素」すら示せないのに,「子要素」が

 「分けられる」と考えることはまずいのである。

 こういう発想を持てる人間が国立政策研究所に1人でも

 いてくれたら,教育の景色は一変するのだが。

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子どもをタイプ別に分けて考えてはならない その2

 子どもを「タイプ」に分けるのは,大人の勝手だが,

 それが具体的な指導を左右するようになると話は別である。

 たとえ子どもの方が,「私はこういうタイプです」などと

 宣言したとしても,それが正しいという保証はどこにもない。

 教師が子どもに下す「タイプ」に関する判断は,

 主に教師の主観であり,どれだけ評価に精通している
 
 専門家でも,大事なところで教師の側の判断は

 的を外してしまうことが多い。

 むしろ,「~は~というタイプだから,こういう指導が適切だ」

 などと思い込んで,パターン化したことを注入される恐れが

 強くなる。

 私も若い頃は,マトリックスを使って子どもをいくつかの

 タイプに分けて考えようとしてみたが,

 指標が変わるだけで,子どもたちのグループは一変してしまう。

 「多面的・多角的な見方や考え方」がなぜ大事なのかが

 よくわかる事例である。

 一面的な「タイプ分け」によって,子どもの個性が見殺しに

 される可能性が高い。

 プロ野球選手でも,「おまえはこういうタイプだ」などと

 コーチに洗脳されて,才能をつぶされた人など山ほどいるだろう。

 「長距離砲」などと「タイプ分け」された選手は,常に長打を期待されるが,

 「長打はヒットの延長」という言い方もよくされる。

 「長打だけが多い」バッターの多くは,三振の数も多いはずである。

 球界からこうして姿を消した人は数知れないことだろう。

 まだ社会人は,そのような能力を期待されて雇用されているわけで,

 要求通りの能力が発揮できなければ,切られるという実力主義の住民

 だから仕方がない。

 成長途上の子どもは全く別の世界の人間であることを忘れてはならない。

 最も重要なことは何か。

 子どもがどんなタイプの子かは関係ない。

 指導すべき場面で,指導すべきことを指導するしかない。

 「積極的なタイプ」と「おとなしいタイプ」の子どもが,

 授業場面で消極的だったとき,

 「積極的なタイプ」の方だけに期待をかけて,「そんなはずではない」

 などと言ってはならない。

 この子は,将来伸びるタイプだ,などと判断した教師は,

 その場で子どもが実力を発揮できない責任を完全に放棄できる。

 しかし,教師が替わるだけで,子どもが急に伸び始める,ということも

 良く起こる。「大器晩成」などという判断は,後になってから

 するものであり,目の前の子どもに対して下すべきものではない。

 「まるで去年とは別人のようだ」

 当たり前だ。あなたと違って,子どもは日々成長するのだから。

 自分の主観で子どもを差別してはならないのである。

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学校の「体育」の授業が大きく変わる?

 武道にダンスと,体育には「新顔」が登場している。

 体育の教師の実技に関する評価は,本当に難しいものだと思う。

 ある生徒がAで別の生徒がBになる,その線引きはどこでできるのか。

 分かりやすい話が,誰が見ても優れている者だけをAにするのが

 当然なのだが,今の評価ではAはごろごろいる。

 Bは「おおむね満足」のレベルなのに,「どちらかというと不得意そう」

 な子どもの評価はBになる。

 さて,本題は,体育の実技の授業はどうあるべきか,

 という話である。

 集団競技や球技が大好きな私にとって,水泳や器械体操の時間は

 本当につまらなかった。

 ここに,ダンスなどが入ってきたら,学校が嫌いになるくらいだと

 思っていた。

 ところが,今の小中学生の多くは,ダンスに何の抵抗感もない。

 アニメやアイドルの踊りに慣れたせいからか,自然に体が動くだけ

 でなく,複雑な振り付けをすぐに体得してしまう。

 すばらしい技能である。

 とても,経験したことがない体育会系の体育教師には,

 ダンス指導もつらいところではないかと思ってしまう。

 ある国では,音楽が耳に入ると勝手に体が動き出し,踊り出してしまう

 人が多い。日本もそういう国の文化を吸収していくのかもしれない。

 グローバル化が進むことで,単純に言って,学ぶ対象が非常に

 多様化する。種類も量も増えていく。

 これらをすべて,学校が引き受けることは不可能である。

 かといって,選択制にしてしまっては,一人の子どもの視野もせまく

 なるおそれがある。

 運動に関しては,様々なスポーツについて,バーチャルで

 身体運用を見させて(体験させて),それぞれの動きのコツなどを

 習得させるようなICT関連機器やソフトが登場してくるのを待ちたい。

 自分の顔がはめ込まれ,似たような身長の人が動き回る様子を,

 各生徒が見て,自分が動いているかのように感じながら,「体験」

 する。

 英語教育にしろ,書道にしろ,このようなバーチャルな体験が

 すぐにできるのがICTのよさである。

 総合的な学習の時間が,本当に総合的な学習になっているのか

 どうか,そして本当に子どもたいが主体的に学んでいるのかどうか,

 改めて見直してみたい。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より