ウェブページ

最近のトラックバック

本の検索・注文


  • サーチする:
    Amazon.co.jp のロゴ

« 今世紀初の親睦会 | トップページ | 道徳教育の真の恐ろしさ-2 »

道徳教育の真の恐ろしさ

 多くの小中学生は,「道徳の時間」が苦手というか,嫌いです。

 多くの教師も,その時間の指導には苦労しています。

 真の価値は言葉ではなく,体験を通して学ぶ,という当たり前すぎることが,

 限られた1週間のうちの50分の「道徳の授業」ではできないわけですから,

 当然,「ふりかえり」や「見通し」のための50分になりがちです。

 私が今日,道徳教育の「恐ろしさ」について簡単にふれておきたいのは,

 「子どもは教師の誘導にのりやすい。当然,素直な子どもほど。」

 という,これも当たり前すぎることを前提にした話です。

 教師がもっている価値観なり社会観なりは,

 それなりに生徒に「転移」します。

 しかも始末に負えないのは,教師が一時的に強い感情を込めて

 語るような内容が,・・・・実は教師にとっては一時的な感情なのですが・・・・

 子どもにしっかりと刷り込まれることがあるのです。

 ある人が,

 「土地の私有はおかしい」という感想を述べたものとします。

 「資本主義の国なんだから,おかしいもんか」と

 だれでも反論したくなる話でしょう(日本などでは)。

 しかし,ある一定の長さのストーリーのなかでふれられた言葉だとしたら,

 そういうわけにもいかなくなるのです。

 私が知っているのは,「福島」や「水俣」の問題を考える際のことです。

 そもそも,この地球表面の一定の範囲を,一人の個人が独占できるという傲慢さが,

 信じられないことである・・・・なんていう話に中学生なら乗ってきてしまう

 危険性のあるストーリーがあるのです。

 人間の傲慢さを戒めようとする題材が,本来あってよい価値観を破壊するおそれがあるのが,

 道徳教育の恐ろしい一面です。

 私有財産制はいかがなものか,などという思いに導くストーリーに

 日本人を浸らせないための占領政策がどのようなものであったか,

 戦後の歴史に詳しくない人でもご存じでしょう。
 
 このような例は,道徳教育の場合,いくらでもあるのです。

 国は,だからこそ,「検定済教科書」が出せる方向性に進もうとしているのでしょう。

 もちろん,そういう教科書によって,

 「いざというときは,国のために命を投げだそう」

 と思う子どもが増えるかどうかはわかりません。

 「道徳教育」に反対がある人はいないのです。

 しかし,「道徳教育」に危険性があることを感じている人はたくさんいるのです。

 現在の道徳の時間も同じなのですが,

 何がこういう問題を解決してくれるのでしょうか。

 一番よいのは,「記録ノート」をつくることです。

 固く言えば,「議事録」のようなものです。

 ただし,発言した生徒名や,発言に出てきた生徒の個人名はふせておきます。

 教師の話が多くなる場合もあるでしょうが,そのポイントを生徒がメモしたものを,

 学級日誌のような形で残しておくことを義務づけるのがよいでしょう。

 基本的に,この内容を自由に閲覧できる仕組みをつくることが,

 「道徳教育」への不信感,不安感を払拭してくれることになるでしょう。

 「道徳の指導記録」をしっかりと持ち続けている教師はどのくらいいるでしょう。

 他人がつくった計画だけが,ただファイルに綴じ込まれている,

 なんていう仕事術では,きっと指導要録の内容も信頼性に欠けるものになってしまいます。


にほんブログ村 教育ブログ 教育論・教育問題へにほんブログ村 教育ブログ 教師教育・教員養成へにほんブログ村 教育ブログ 社会科教育へ

« 今世紀初の親睦会 | トップページ | 道徳教育の真の恐ろしさ-2 »

教育」カテゴリの記事

教育改革」カテゴリの記事

リーダーシップ」カテゴリの記事

歴史学習」カテゴリの記事

社会科」カテゴリの記事

教職教育」カテゴリの記事

仕事術」カテゴリの記事

教師の逆コンピテンシー」カテゴリの記事

道徳」カテゴリの記事

教育実習」カテゴリの記事

教員の評価」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 道徳教育の真の恐ろしさ:

« 今世紀初の親睦会 | トップページ | 道徳教育の真の恐ろしさ-2 »

2021年11月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30        
無料ブログはココログ

宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より