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道徳教育の真の恐ろしさ-3

 そもそも日本の学校教育には儒教的な道徳が色濃く残っている面があって,

 「教師を敬え」「仰げば尊し」を子どもにオーラで迫る教師が

 生活指導の一端を担っているところが多い。

 授業でも儒教的な道徳のスタイルが援用される。

 自分が行っている一斉授業は,放送大学の講師とテレビ番組での池上彰

 の授業を比較したら,どちらのタイプに近いと感じるだろうか。

 教育学者が論文などで書いている「一斉授業」のイメージは前者が圧倒的に多いが,

 優れた教師に習ってきた優れた生徒たちとは共有できない価値観である。

 もし道徳教育が,「儒教的な精神」を植え付けるのが目的ならば,

 学校という場所はとてもやりやすい面がある。

 特に中学校の場合,進学に使う資料で道徳の評価が加味される

 となれば,子どもは教師に従わないと損になる。

 今回も道徳教育だけではなく,他の教科の評価にもあてはまることだが,

 「評価」という取り組みがあることによって,本来の目的が破壊される

 というのが教育の「真の恐ろしさ」である。

 評価規準というか,目標となる「行動にうつすべき確かな価値観」は
 
 はっきりしている。

 それに向けて努力する姿だけを見れば,「教育は素晴らしい」ように思える。

 しかし,それが「評価のため」だけである可能性があることを教師は知っている。

 ボランティア活動への参加が高校入試に有利になるなら,喜んで参加するという生徒もいる。

 「その方が得だから。」

 つまり,「自分にとっての利益がある」ことが行動を起こす原則になっており,
 
 「奉仕の精神が養われた」とは言えない可能性があるということである。

 子どもは「大人が求めている姿を演じる」という「生きる力」をもっている。

 「演じる力」と「真実の力」が区別しにくいのが教育とその評価の難しさである。

 だから,逆に,「強制だ」と言い切ってしまって何でもやらせることの方が,

 「正直な人間」を育てるのには向いているかもしれない。

 ただひたすらつらいことだけをさせて,「耐える力を育てる」というのも,

 保護者などからすれば「喜んでどうぞ。どんどん鍛えて下さい」「かわいい子には旅をです」

 などという声が殺到するかもしれない。

 自発的な力が,自発的なものとしてしっかり発揮できているかどうかは,

 「評価しない」ことが大前提になっているのが真の道徳教育である。 

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  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
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  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
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    「楽毅」第二巻より
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  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
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  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
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