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子どもと ICT に見捨てられていく教師

 今までは,ICTなんて利用しなくても教師の「馬力」でどんどんできたことが,

 ICTに頼らないとできない時代になってきている。

 仕事が楽になるからなどという不遜な動機でICTに向き合う者も

 あとをたたない。

 ICTの導入を図る前に,ぜひ試してほしいことは,

 ICTを授業で駆使できる教師に,自分の姿を見てもらうことである。

 何がICTによって補完でき,何がより学習の質を高められるのか。

 正直な話を聞いてみるのがよい。

 ICTにふれる前に,自分がなすべきことをすべきである。

 現代は,子どもだけの力で,学校で教師が展開する授業よりも

 よほど魅力のある学習をICT機器で実現できてしまうような時代である。

 ICT教育の看板を上げたり下げたりしているうちに,

 やがて「あなたみたいな教師は必要ありません」と突きつけられる

 時代がやってくることも想定に入っているだろうか。

 予備校につとめている講師たちの厳しい環境を記事で読んだ。

 学校の教師は,「公務員」という立場にあぐらをかいていられるため,

 たとえば・・・・文句をたれているだけでも,定額の給料がしっかりと

 振り込まれる存在である。

 やがて自分にかかっている看板が,あって当たり前ではなくなった

 とき,どう仕事に立ち向かえるのか。

 自己満足ではなく,第三者にどうやって自分の授業の質の高さを理解

 してもらえるようにするのか。

 大事なのは,看板ではない。

 単純な話。自分が受け持つ子どもたちが,学ぶ意欲をもてるようにすることである。

 ICTが意欲を高めるのは,単純な話,子どもが教師よりも期待しているからである。

 学ぶ意欲は,文科省の学力観では,「学力」の範囲に入っている。

 それは,ICTによって高めることも不可能ではないが,持続性はない。

 持続できる学ぶ意欲は,どうしたら持たせることができるのか。

 だれでも答えられる質問だろう。

 基礎・基本となる知識や技能をしっかりと定着させることである。

 土台がないと,単なる気分でやりたい,やりたくないが

 決定する気まぐれな人間になってしまう。

 「基礎・基本の重視」・・・あまりにも当たり前すぎて,そんなこと,

 みんなわかっているだろう,なんて言っている人間が,最もわかっていないこと。

 同じ内容の繰り返しばかりしている教師からは,

 学ばない意欲?をもつ人間が育ったり,

 意欲が持続しない子どもが育ったりしていく。

 「基礎的・基本的な知識・技能」が活用できる環境をつくること。

 これも,ICTではなく,教師が整える。

 その環境に,ICT機器が選択肢として入ってくる場合はある。

 ただ文句を垂れ流してばかりいる教師は,

 何も学べない人間はせっせと育てていってくれていることでしょう。

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宮城谷昌光の言葉

  • 雲のうえに頂をもつ高山を登ろうとするのに、その山相のすさまじさに圧倒され、おじけづいていては何もはじまらない。最初の一歩を踏み出さねば、山頂は近づいてこない。
    「楽毅」第四巻より
  • みごとなものだ。斂(おさ)めるところは斂め、棄てるところは棄てている。楽氏が棄てたところに、われわれの生きる道がある。
    「楽毅」第四巻より
  • 去ってゆく千里の馬を追っても、とても追いつかぬぞ。千里の馬の尾をつかむには、その脚が停まったときしかない
    「楽毅」第四巻より
  • ・・・つくづく人のふしぎさを感じた。道を歩く者は、足もとの石をたしかめようとしないということである。千里のかなたを照らす宝石がころがっていても、気がつかない。それほどの名宝は深山幽谷に踏みこまなければ得られないとおもいこんでいる。
    「楽毅」第三巻より
  • この城をもっとたやすく落とすべきであった。たやすく得たものは、たやすく手放せる。
    「楽毅」第二巻より
  • なにかを信じつづけることはむずかしい。それより、信じつづけたことをやめるほうが、さらにむずかしい。
    「楽毅」第二巻より
  • からだで、皮膚で、感じるところに自身をおくことをせず、頭で判断したことに自身を縛りつけておくのは、賢明ではなく、むしろ怠慢なのではないか
    「楽毅」第二巻より
  • こうする、ああする、といちいち目的と行動とを配下におしえつづけてゆけば、配下はただ命令を待つだけで、思考をしなくなる。この四人はいつなんどき多数の兵を指揮することになるかもしれず、そのときにそなえて自立した思考力をもつ必要がある。
    「楽毅」第二巻より
  • 人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる
    「楽毅」第三巻より
  • 勇と智とをあわせもっている者は、攻めるときよりも退くときに、なにかをなすときより、なにもなさないときに、その良質をあらわす
    「楽毅」第二巻より